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主題 11: 幕屋

[11-2] 身代わりとなって苦しみを受けられた主 (イザヤ 52:13-53:9)

身代わりとなって苦しみを受けられた主
(イザヤ 52:13-53:9)
見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。── そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
 
 
福音は今、全世界に広まっている
 
この時代は、ほんとうに終末に向かっています。政治から経済まで、すべてが終わりに向かっています。とりわけ、超大国がまだ世界の他の国々に勢力を広めようとしているので、戦争の風が吹き寄せています。身近なところでは、最近北朝鮮が核兵器を開発していると発表し、国際世界に衝撃を与えました。このような危機の多発する世界にあって、望めることはただ、そうした争いに関わっている人がみな、愚かさによってではなく、知恵によって問題を解決し、和解して共に栄えるようになることです。
聖徒は、福音をより遠くまで広めるための時間を神がお与えくださるよう、毎日祈らなければなりません。別に死を恐れているわけではありません。真の福音がまだ説かれていない国々や、本物の福音がようやく花開こうとしている国々があるためです。福音はまだより遠くまで広めなければならないので、本来の福音をこれまで以上に広めたいのです。
もちろん、神はうまくいくようにすべてを計らってくださいますが、私が心配しているのは、人間があまりに愚かしいことです。実際、自分がどのような死を迎えるかを知らないのに他人の生命を脅かす人々がいます。中には、すべての人々を虐殺しようとする者もいます。
神は世界の指導者たちの心を支配なさっているはずです。また、神は平和をくださるはずです。
この時代にあって、イスラエル人は、まだ約束された救世主を待っています。彼らの救世主とはイエスにほかならないというのに。イエスを待ち望んだ救世主と認め、そのように信じるべきなのです。そう遠くない未来に、主の喜ばれる福音が、福音の戸がまだ開いていない他の国々と同様にイスラエルにも入るでしょう。実際、福音は全世界に急速に広まり、この終わりの時に花開いているのです。
バングラデシュの神学校では、この宣教会の英語出版物を単位取得のための必読書に指定していると聞いています。初めて水と御霊の福音に接して、神学校の生徒はみな、驚く前にすでに罪の赦しを受けることになるでしょう。
私は何よりも、世の神学者のすべてが同じように水と御霊の福音を知り、信じて罪の赦しを受けることを願っています。そして、先に罪の赦しを受けた者は、それが実現するように絶えることなく祈るのです。祈るばかりではなく、信仰をもって生きるのです。
 
 
救世主はイザヤの予言の約七百年後にこの世に来られた
 
イザヤは、イエス・キリストがこの世にお生まれになる七百年ほど前の預言者です。イエス・キリスト誕生の七百年前の人でありながら、救世主について多くを知っていたので、イザヤは救世主がどのように来られ、どのように救済のみわざをなさるかを自分の目で見たかのように予言しました。イザヤ書の第 52 章 13 節から第 53・54 章まで、イザヤは救世主がどのようにして人類を罪からお救いになるかを詳細に予言してます。イエス・キリストがほんとうにこの世に来られ、バプテスマによってすべての罪を被られ、十字架上で血を流され、すべての人間に救済もたらされることをイザヤがあれほど正確に予言したことには、ただ驚くばかりです。イザヤが予言して七百年が過ぎてから、イエス・キリストがほんとうにこの世に来られ、予言どおりにみわざを実現なさったのです。
イザヤは、救世主がこの世に来られ、知恵によって働かれると予言しました。イザヤ書第 52 章 13 節は、「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」と予言しています。イエス・キリストは、この世に人間の肉の形で来られ、バプテスマで世の罪をすべて被られたので、十字架上で命をささげて全人類の罪のすべての裁きをお受けになったのです。イザヤが予言したとおり、すべては賢明に行なわれました。イエス・キリストのおかげで人類の罪はみなほんとうに消え去り、賢明に処理され、かつて予言されたとおりにイエスの名は高まり、称えられました。イザヤがキリストについて予言したことは実現しました。
しかしながら、主がこの世に来られたとき、イスラエル人はイエスを正しく認めませんでした。主がこの地上に来られ、イスラエル人のものも含めて世の罪を被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられたのに、イスラエル人は救世主のバプテスマもその血をも信じませんでした。実際、イスラエル人は、救世主がすでに自分たちの国に誕生なさったことを認めず、バプテスマと十字架によってイスラエル人の罪ばかりではなく全人類の罪もまた処理なさったことを認めませんでした。彼らはイエス・キリストがほんとうは神の御子、イスラエル人の真の救世主であることを認めませんでした。イスラエル人は、イエスがほんとうに長く待ち望んできた救世主であることを認めなければなりません。
 
 

イエスの苦しみが世の罪を消した

 
イエスがこの世に来られたとき、ほんとうに言いようもない、はなはだしい侮辱をお受けになりました。イザヤ書第 53 章にあるように、救世主はほんとうに悲しみの人であるようです。人類の膨大な罪を負われ、主ははなはだしく苦しまれました。聖書は、人は彼から顔をそむけさえしたほどだと告げています。
しかし、イエスを救世主と認めた者はほとんどいませんでした。イエスが同時代の人々からはなはだしい苦しみを受けられたので、多くの人々は救世主イエス・キリストを救い主と認めることができませんでした。主はほんとうに、父なる神のみことばに従って人類を世の罪を救うみわざを全うなさるためにこの地上に来られ、このみわざをなさるために、実際にはなはだしい苦しみを受けられたのです。ご自分の作られた世界に、ご自分の形に似せてお造りになった人間の肉の形で来られることだけでは十分ではありませんでした。聖書に、人々は耐えられずに顔をそむけたほどであったと記されるほどに嫌われ、あざけられ、打たれ、苦しめられさえしたのです。この世で救世主と崇められるどころか、主は狂人であるかのように虐げられました。主の謙虚さは、とうてい言葉では表わせません。救世主がご自分の被造物から虐げられたので、誰かがはなはだしく侮辱されているのを見ると顔をそむけるように、当時のイスラエル人はイエスから顔をそむけたのです。
イエスがこの世に来られたとき、どのような姿だったのでしょう? 救世主がこの世に来られたとき、実際は苗木、乾いた地の根のようでした。つまり、主の外見は取り立てて言うほどのものではなかったのです。実際、自分たちと比べてみても、救世主には容貌の美しさや魅力はほとんどありませんでした。救世主の外見がそのようだったので、誇るようなものは、ほんとうに何もなかったのです。
救世主がこの世に来られたとき、人々が尊ぶような外見の美は何もなかったのです。しかし、そうした外見ではありましたが、救世主として、主は賢明に事を行なわれ、いけにえの制度にしたがって罪をその身に受けるためにヨハネから手を置く儀式を受けられ、十字架につけられて血を流され、死者の中からよみがえられ、そうして人類をすべての罪から救ってくださったのです。救世主はヨハネから実際にバプテスマを授けられて人類の罪をすべて被られたので、人類のために十字架につけられて血を流すことがおできになったのです。
イザヤ書第 53 章 3 節に、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」とあります。救世主はこの地上に来られ、手を置く儀式を受けて世の罪をすべて消し、血を流さなければならなかったので、実際にイスラエル人とローマ兵からそのように苦しみを受けられたのです。
 
 
七百年ほど前に予言されていた救世主の苦難
 
救世主がほんとうにこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で血を流され、死者の中からよみがえられることは、キリスト生誕の七百年前に預言者イザヤがすでに予言していました。預言者イザヤがやがて来る救世主について予言したとおり、イエス・キリストがほんとうにこの世に来られました。つまり、救世主イエスが処女から生まれて粗末な飼葉桶に入れられ、バプテスマのヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪を負われ、十字架に行かれ、人類救済のために血を流して死なれ、三日後によみがえられたのです。
すべて預言のみことばにあるとおりに、贖いの日に一年の罪を贖った際に、いけにえのささげ物の頭に手が置かれ、その血が流された  (レビ記 16) ように、イエスはほんとうにヨハネからお受けになったバプテスマで人類の罪をすべて被られ、十字架上で血を流して死なれました。バプテスマで世の罪をすべて被られてから、イエスは教えを説かれた三年間にほんとうに苦しまれました。救世主イエスが十字架につけられたのは、バプテスマのヨハネによるバプテスマで世の罪がすべてその上に移されたためであり、また、このために、主はすべての人から嫌われ、苦しめられ、虐げられたのです。
実際、人々はイエスが救世主であることを否定したばかりではなく、ユダヤ人とローマ人の中には、言いようもなく憎み、苦しめた人々がいました。イエスははなはだしく憎まれ、拒まれました。
イエスはほんとうにヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をすべてただ一度で被られ、それから十字架上で血を流されました。救世主は父なる神のみこころを実現なさるためにヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で血を流されました。イエスは十字架上で裸にされ、つばを吐きかけられました。そのときイエスの周りにいた人々はみなイエスをからかい、ののしりました。「ほんとうに神の御子だというのなら、降りてきて自分を救ったらどうなんだ。」
バプテスマをお受けになって教えを説き始められたとき、イエスは人間がもたらす数多くの苦しみを体験なさらなければなりませんでした。イエス・キリストはすでにバプテスマで人類のために世の罪を負っておられたのですが、当時の人々はそのことを理解できず、自分たちの救世主として来られたイエスを憎み、やむことなく迫害し、はなはだしく苦しめ、非難し、侮辱しました。実際、救世主イエスが激しく憎まれたために、聖書は、この地上で虫のように扱われたと告げています。
実際、パリサイ人がどれほどイエスを憎んだかは、とうてい想像できないでしょう。パリサイ人は、指導者の地位と人気を脅かすように見えた救世主をほうっておきませんでした。そこで、救世主を憎み、常に過ちを見出そうとし、たくらみが失敗したときはいつでも、あらゆる個人攻撃をすることをためらいませんでした。救世主はありとあらゆる侮辱を受け、憎しみと邪悪さのこもった非難を受けました。そこで、イザヤは、救世主がどのように迫害されるかを予言したのです。ですから、救世主が現われる七百年以上前に預言者イザヤの行なった詳細な予言から、イエスがこの世でどんな扱いを受けたかがわかるのです。
 
 

水と血によって来られた救世主イエス・キリストを人々は信じたか

 
しかしながら、苦難にもかかわらず、救世主イエスは静かにみわざを行なわれ、完了なさいました。イスラエル人と全世界のすべての人は、この救世主がイエス・キリストであると知り、信じなければなりません。イスラエル人と全世界のすべての人の罪を消すために、救世主はほんとうに手を置く形でバプテスマをお受けになり、本当に十字架につけられ、そうしてすべてのはなはだしい苦しみを受けられたのです。そして、それによって、ご自分のみわざを信じる者を完全に罪からお救いくださり、そうした信者の信仰を完全に認められたのです。救世主がこの世に卑しい姿で来られたにもかかわらず、また、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられてすべての人間の罪をすべて消されたのに、主を信じた者はごく少数でした。人が生きるためには、イエスがほんとうに真の救い主・救世主であられ、ただイスラエル人だけの救世主ではなく、全人類の救世主であると信じなければなりません。
イエスは実際にバプテスマで人類の罪を被られ、人類の悲しみと病と呪いを負われたというのに、「それほどの苦難を受ける何をイエスはしたのだろう」と考える人がいるでしょう。しかし、イエスは実際は罪のない、神の御子であられます。人類の罪を全部被られ、救世主は身代わりとなって人類の罪のすべての呪いと悲しみと虐げを受けられたのです。この世に来られて三十三年間に受けられたあらゆる虐げによって、イエスは人類を罪のすべてから救ってくださったのです。
その昔、預言者イザヤが語った神のみことばを聞いて、当時の人々は、水と御霊によって来られた救世主イエス・キリストを信じたでしょうか? 誰が、私たちが今宣べ広めている水と御霊の福音を信じたでしょう? 現在でも、イエスを信じると言いながら水と御霊の福音に何の関心ももたない人々が大勢います。
聖書のこの部分では、預言者イザヤが、神の御子がこの世に来られ、賢明に振舞われ、人類の罪をすべて被られ、負われた罪のために裁かれ、そうして人類を救われると予言しています。しかし、イエスの成就した真理を受け入れた人は、ほとんどいませんでした。しかしながら、今からはあらゆる国々のすべての人がイエス・キリストを救世主と認め、崇めることでしょう。救世主イエスがイスラエル人の罪のために、みなさんや私の罪のために、全人類の罪のために苦難されたということがわかりましたか? 預言者イザヤは、恐らくはみなさんがこれを知り信じることを願って、このように救世主のみわざを予言したのです。
 
 
砂漠の地から出る根のような救世主
 
預言者は、救世主イエス・キリストの訪れを予言して、この世に来られるときにはとてもつましい姿で来られると言っています。イザヤは、救世主は「若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育つ」(イザヤ 53:2)と言いました。イエス・キリストがこの世に人間の肉の形で来られたとき、人々が見て魅力的だと思うような姿ではありませんでした。アーノルド・シュワルツネガーやシルベスター・スタローンのようにたくましく、背が高い人ではありませんでした。実際、あまりに小柄なので、見たときに気の毒に思い、哀れみと同情を覚えるほどなのです。それでも、そのみことばは鋭い両刃の剣のようでした。
救世主イエスは、外見が貧弱だったばかりではなく、物質的にもまた、貧しい人でした。肉の父であるヨセフは一介の大工でした。大工が家計を支えている家庭は今も昔もそれほど豊かではなく、安楽な暮らしはできませんでした。懸命に働いてようやく日々の糧を得ることができたのです。
また、救世主はこの地上に来られたとき学校に通われませんでした。ですから、パリサイ人はそのことでイエスをからかおうとしたのですが、できませんでした。それは、救世主イエス・キリストがほんとうに神の御子であることを明らかにするだけだったためです。当時最も有名なユダヤ教の学校はガマリエルの学校で、偉大な律法学者の一人ガマリエルが律法を教えていたのですが、イエスはそこに一度も足を踏み入れておられません。この学校では、生徒は偉大な律法の教師から学び、一般的な教科だけではなく、律法自体も学んでいました。しかし、イエスはそのような学校で教えを受けてはおられません。イエスが学校に行かれたという記録はありません。それなのに、救世主は旧約の律法をすべてご存じで、旧約が救世主について教えることについては、誰よりも深く広く知っておいででした。主のおっしゃったことには、非論理的であったり、神の律法に適わないことは一つもありませんでした。
 
 
救世主があれほどの苦難を受け、侮辱され疎まれた理由
 
イスラエル人の真の救世主となられてすべての罪から救い、神の民となさるために救世主がこの世に来られ、苦しみと侮辱とからかいと嘲りのすべてをすすんでお受けになりました。救世主がイスラエル人のために受けられた苦しみと侮辱とは、じつに過酷なものでした。救世主が人類のために受けられた苦難があまりにはなはだしかったので、人が面をそむけるほどのものでした。イエスは人類を罪と裁きとからお救いになる救世主であられたので、あらゆる人々の前で言語に絶するほどに苦しめられ、嫌われて、ほんとうに罪からお救いくださったのです。ですから、イエスはこの世で苦難を受けられたのです。
救世主イエスは、それほどにはなはだしい苦難を受けられ、憎まれたので、当時の人々はイエスを見るに忍びませんでした。イエスはほんとうにみなさんや私の救世主、全人類の救世主として救世主の役割とみわざとを全うなさるために来られたのですが、はなはだしい苦難を受けられて人類を罪と罪の罰とから救ってくださったということをけっして忘れてはなりません。
救世主が十字架につけられても、人々は嘲るのをやめませんでした。「そこから降りてきたらどうです? ほんとうに神の御子なら、十字架から降りてきなさい。どうしてそれで神の御子だといえるのです? ほんとうに神の御子なら、降りてきて、隣に吊られている盗賊を助けなさい。それとも、降りて自分を助けたらどうです?」 人々はからかい続けました。「そうとも、この石をパンにしてみなさいよ。神の御子なら、証拠を見せなさい。信じられるような証拠を見せなさい。それもできないのなら、いったいどんな救世主なんです? なんと情けない。」 
人々はこのように救世主を侮辱し、非難し、果てしなくからかったのです。人々はイエスを裸にし、顔をぶち、つばを吐きかけました。キリストは、かつてなく、これからも見られないほどの嘲りと屈辱、侮辱を受けたのです。また、当時は最悪の罪人が受けることになっていた磔刑を受けました。救世主は兵士に鞭打たれ、両手両足を十字架に釘で打ち付けられ、体の血を流されました。
イエスは救世主として人類のためのみわざを成就なさるために、ほんとうにそのような侮蔑と苦痛、苦難を受けられたのです。十字架につけられて人類のすべての罪、すべての呪い、すべての病と罪の罰のすべてを受けられたのです。身代わりとして、みなさんや私が受けるはずであった残酷なしうちを受け、命を捨てさえなさったのです。この救世主は今、イエスがほんとうに救い主であると信じる者の救い主となっておられます。イエスは、すすんで救世主となられました。父なる神のみこころに従ってこの世に来られ、人類の罪を被られ、身代わりとして十字架上で人類の罪の罰を受けられ、死者の中からよみがえられました。ただ人類をお救いくださるために。
みなさん、イエスにとって、大勢の人々の前でこうした苦しみや侮辱をお受けになるのが容易なことだったと思いますか? 私たちがイエスの立場であったなら、家族や妻や夫、大切な人だけではなく、敵の前でそうして嘲られを受け、裸にされ、侮辱され、苦しめられて十字架につけられたなら、死ぬ前に気が狂ってしまったでしょう。キリストは、誰にでも屈辱が見えるように、人目につかない片隅ではなく、高く、誰でも指差してつばを吐きかけられるように十字架につけられました。
キリストの磔刑の前には、それ以上の苦しみと悲しみと苦難がありました。イエスを十字架に釘で打ちつける前に、人々は、イエスがあらゆる苦しみを経験するようにしました。群衆の前に連れ出され、人々の前で裁かれ、つばを吐きかけられ、大祭司のしもべに激しく顔を打たれさえしました。つばを吐きかけられたのです。人々はイエスの顔を打ち、鞭打ち、石を投げつけました。救世主イエスがこれらすべての苦難を受けられたのは、ほかでもない私たちのためだったのです。
聖書は、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53:5)として、イエスが人類のためにこのような苦難を受けたとしています。救世主がこのような苦しみを受けられたのは、イスラエル人を含めてすべての人を罪と罪の罰とからお救いになるためでした。救世主は、ヨハネからバプテスマをお受けになり、同胞とローマ兵とその他のいくつもの国の人々から苦しみを受けられて救世主としての務めを果たされ、世の罪と罪の罰とを処理なさいました。
神は、救世主が敵対する者すべてを罪から、実際、全人類がこれまでに犯した罪のすべてからお救いになると預言なさいました。そして、預言されたとおりにイエス・キリストがほんとうにこの世に救世主として来られ、先にあげた苦しみをすべて受けられ、尊い血を流されて、みなさんや私を罪とその罰からお救いくださったのです。
聖徒が救世主を信じて罪と罪の罰とから救われているのは、ほんとうは犠牲を払わずに得られたものではありません。イエス・キリストがこの世に来られ、先に述べた苦難のすべてを受けられたために、人間は罪のない者となることができるのであり、救世主が人類の罪すべての裁きを受けられたために、人間は心で信じるだけで救済の賜物と罪の赦しを受け、神の子供となることができるのです。救世主のおかげで、聖徒はこのような幸いな者となれるのです。
この幸いをくださったことと恵みをお与えくださったことを救世主に感謝しなければなりません。救世主がくださった救済は、信仰によってのみ与えられます。人間は何もささげ物をしていないのですが、主が自ら、父なる神の前でこの上なく尊いささげ物をなさったのです。神ご自身がほんとうにあらゆる苦難を受けられてお救いくださったのだと信じ、そのことを感謝しましょう。
 
 
イスラエル人よ、聞け。心を改め、イエス・キリストを信じよ
 
イスラエル人は、悔い改めて救世主イエスを救い主と信じるべきです。今この瞬間にも、イスラエル人は、いまだに救世主がすでに来られたことを認めずにいます。預言者イザヤが予言して、救世主、神のしもべがこの世に来られ、予言のみことばが、この救世主がこの地上に来られ、バプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架につけられて人類全員を救われると告げたように、ほんとうにイエス・キリストが救済のみわざを完了なさったのです。イスラエル人は今こそ心を改め、この真理を知り、信じなければなりません。彼らは同朋がイエスを十字架につけた罪を認めなければなりません。そして、本来の自己は生まれた時から罪の塊であると認め、救世主を信じ、すべての罪とその罰とから救われなければなりません。
他に救世主はいません。イエス・キリストがすでに救世主として来られたのですから、他に救世主はいません。どうして他の救世主が存在し得るでしょう? どうして別の救い主があり得るでしょう? イスラエル人が将来、これまで以上の苦難を受けるとき、ハリウッドのアクション映画のヒーロー、スーパーマンのような人が現われて救世主となることを願っているのでしょうか?
今からでもイスラエル人はイエス・キリストを救世主と認めなければなりません。イエス・キリストがほんとうに真の救世主であると信じるのです。救世主はすでに二千年前にこの世に来られ、人間をアブラハムの真の子供となさるために人類の罪を被られ、イスラエル人が割礼を受けなければならなかったのと同じようにバプテスマを授けられ、十字架につけられたのです。すべては人々が霊的割礼を受けることができるようにするために。救世主は、ヨハネからお受けになったバプテスマによって人々の罪を被られ、十字架を運ばれ、血を流して苦しみを受けられ、死者の中からよみがえられてイスラエル人の真の救い主となられました。
イスラエル人は、悔い改めて救世主を信じなければなりません。イエス・キリストを救世主と信じるのです。今残っているのは、イスラエル人がイエス・キリストを救い主と信じることだけです。イザヤの予言した救世主がほかならぬイエス・キリストであることに気づくべきです。予言された方は、イエスにほかならないと知り、信じるべきです。旧約の予言はみな、一字一句イエス・キリストによって成就されました。聖書のこの部分では、多くの国々が驚かされるとしています。
イザヤ書第 52 章 14-15 節は、次のようにあります。「多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。──そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」 
この世に来られて、イエス・キリストは、死罪となったこの世のどんな犯罪人の受けたよりもはなはだしい苦しみに臨まれます。イエスは、ただ全人類をご自分の民となさるために、この世のどの犯罪者よりも多くの苦難をお受けになりました。イエスは民をお救いになりました。彼らはイエス・キリストを信じて罪の赦しを受けるのです。イエスはこのように人々を救われたのです。
人々は、それまで見たことも聞いたこともなかった救済のすばらしい知らせを聞くでしょう。救世主がイエス・キリストであったことをまだ知らない人々はみな、やがて聞いて信じることでしょう。
 
 

イエスは一度来られ、再び来られる救世主

 
現在、世界は終わりの時に向かいつつあります。それは死と艱難の時です。しかしながら、救世主を信じる人々は、少しも死を恐れてはいません。かえって、死の後に来るよみがえりと天国の幸福とを待ち望んでいるのです。世界に闇が降りようとしているということは、義人もまた闇に包まれるということではありません。この福音が完全に広まったなら、救世主がほんとうに戻られます。
救世主イエス・キリストは、神の子羊、いけにえのささげ物としてこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で身をささげられました。毛を刈る者の前の羊のように、救世主イエスは黙って罪を被られ、十字架上で人類の罪の裁きを受けられてはなはだしい苦しみを経、三日後に死者の中からよみがえられて、信じる者すべての完全な救い主となられたのです。
当時、イエス・キリストが救世主であることを知る者はほとんどいませんでした。イエスが約二千年前に静かにこの世にお生まれになり、バプテスマの後で三年間、御国の福音をあかしされ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられて救世主となられたことを知る人は、ほとんどいませんでした。神を求め信じた少数の者は、主が黙ってすべてのみわざを完了なさった真の救世主であるとあかししました。
そうした神のしもべたちは、救世主がこの世に来られ、苦難を受けられて人類を罪からお救いくださったという知らせを全世界に広めました。実際、印刷技術が発展するようになさり、歴史を動かされ、国々がこの福音を強く豊かに宣べ広めるようになさって、神ご自身が水と御霊の福音を広めておいでなのです。
「イエスは救世主です。イエスが救世主です。イエスが救世主です。イエスを救世主と信じるのなら、救われます。イエスは神の御子です。イエスは全宇宙を創られた創り主です。イエスは神です。イエスは救い主、救世主です。」 神のしもべは、イエスが救世主であられること、バプテスマと十字架上の死、よみがえりについて宣べ広め続けました。
二千年前、イエスという名の男がこの世に現われ、三十歳になったときにヨハネからバプテスマを受けて人類の罪をすべて被ったと知るイスラエル人の若者は、ほとんどいませんでした。当時、イエスの弟子たちだけが、イエスが救世主であることを知り、このことはほんとうに神を恐れる一握りの人々だけに伝えられました。それ以外の人々はみな、この真理を知りませんでした。結局のところ、イスラエル人の間には、救世主が世の罪を十字架まで運ばれ、そこで死なれ、死者の中からよみがえられたと知る聖徒は五百人ほどしかいませんでした(コリントI 15:6)。その他の人々は、何も知りませんでした。
イエス・キリストの死とよみがえりの五日後、聖霊が弟子たちの上に降りました。キリストの弟子たちが上の部屋で祈っていると、聖霊が彼らの上に降り、異言でイエス・キリストが救世主であるとあかしするようにさせました。それから、弟子たちは死を恐れずに大胆にあかししました。「イエスは救世主です。救世主は救い主です。よみがえられたイエスは救世主です。」 そこで、当時大勢の人々が信じるようになりました。
救世主イエスによって、神はみなさんや私をほんとうに罪と罪の罰のすべてからお救いくださったのです。人類を罪と裁きとからお救いになるために、あのようなはなはだしい苦難を受けられたのですから、人間は絶対に主を信じるべきなのです。信じていない人々は悔い改め、信じなければなりません。そして、みな信仰をもってこの真理を広めるのです。
実際、イスラエル人はひどく緊迫した状況にあって、恐れています。ですから、神が実際に彼らに告げられた幕屋のみことばに耳を傾けるでしょう。また、私たちは今、終わりの時に入ろうとしています。幕屋のいけにえの制度として表わされた水と御霊の福音は、必ずやイスラエル人に届くことでしょう。彼らもまた、イエス・キリストがほんとうに神が話された救世主であると信じるようになります。
神はすでに、イスラエル人にいけにえの制度について話され、彼らはそれを信じました。実際、今でもこの幕屋のいけにえの制度にしたがってささげ物をささげたいと願っているのです。イスラエル人の中には、今なお荒野に住んでいる原理主義者がいます。今でも、そうした人々は荒野に住み、かつてのようにささげ物をささげています。つまり、彼らはかつて幕屋でささげられたようなささげ物をささげているのです。たぶん、彼らはアロンの子孫でしょう。一族の伝統を守るために、彼らは町ではなく荒野に住みます。イスラエル人ではありますが、通常の人々からは分離した、閉鎖的な部族として生きています。実際、その人たちにもまた、救世主がすでに来られて信仰によってお救いくださっているという幕屋のみことばを宣べ広めなければなりません。
救い主として、罪とその罰とからみなさんや私をお救いくださるためにこの世に来られたこと、苦難を受けられ、身代わりとなって裁かれたことをイエスに感謝しましょう。
 
 
愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しい
 
私たちが罪のすべてと罪の裁きとから救われているのは、誤って配達された郵便物のように偶然のものではありません。救済は、二十人に転送しなければ死ぬことになると告げる不幸の手紙のようなものではありません。また、罪の赦しの救済は、一枚分の値段でピザ二枚と宣伝しているチラシのように、ただ電話すれば腹いっぱい食べることができるようなものでもありません。
実際、救済は、神が人間の間に御子を遣わされ、人類の罪をすべて御子の上に移し、そうした罪のために苦しみを受けるようになさったために与えられたものなのです。みなさんや私が心から主を信じて感謝しなければならないのは、このためです。救済がどのように与えられたかを知って、どうして磨り減った靴のように投げ捨てたり、屋根裏の役に立たない壊れた道具のように取り除いたり、ほかの誰かの物であるかのように無視したりできるでしょう。
みなさんの中に、教会に出席してはいても、まだ罪の赦しを受けていない人はいますか? まだ水と御霊の福音を信じていない人が誰かいますか? そのような人がいるのなら、手遅れにならないうちに悔い改め、救世主を信じるのです。迷ってどちらの道へ行ったらいいかわからないときには、真理のみことばを心から信じなさい。信じない人は、神の御子の愛、ほかならぬその人たちのために主が苦しみを受けられ、救ってくださった愛を拒んでいるのです。
主の愛を過小評価して拒む人は、やがて呪われます。聖書には、「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しい」(雅歌 8:6)とあります。神の愛は強く激しいので、最後まで拒んだ者には残酷極まりない罰が与えられるのです。つまり、これは、罪深いまま死んだならば、その人は黄泉のように無慈悲な地獄の苦しみを受けることになると告げているのです。憎しみは黄泉のように残酷です。救世主がこれほど愛してくださり、ただその人をお救いになるためにあのようにバプテスマを受けられ、ご自分の血を流され、あらゆる苦しみを受けられたというのに、この愛を信じずに拒んだなら、はなはだしい苦しみを受けることになります。それが地獄にほかなりません。
ですから、神は「そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル 9:27) とおっしゃったのです。人が死ぬと肉体はそれきりですが、神にはそれが終わりではありません。神の愛を拒んだ者を激しく踏みしだくために、神はその人たちが永遠に生き、けっして死なないようになさり、無慈悲に苦しみをお与えになるのです。つまり、神は、そうした者を実際に永遠に燃えている火の中に投げ込まれるのです。そして、絶えることなく永遠に苦しむようになさるのです。この恐ろしい苦しみが、神の激しい憎しみにほかなりません。神にはそのようなことはけっしておできにならないと思いますか? 神には不可能なことは何もないのですよ。
神の人間に対する大いなる至高の愛は、ご自分が身代わりとなって苦しまれることによって人類をあらゆる呪い、あらゆる罪、あらゆる罰から救ってくださいました。人間の問題をすべて解決したのは、救世主のこの愛なのです。実際、救世主の愛以上に偉大なものはありません。この救世主を信仰することなくして神の愛を受けることはできません。この愛は、この神、救世主となられたお方だけがくださるものであり、この方を遣わされたのは父なる神なのです。万物の支配者であられる三位一体の神は、このように人類を愛され、罪と罰とから救ってくださいました。救世主を信じ、感謝し、栄光をささげ、救世主への信仰に満足しなければならないのは、このためです。
救世主が水と御霊の福音をくださったのは、なんとありがたいことでしょう。この愛がどんなに尊いものであり、いかにこの世の何物にも代えがたいものであるかを知らないのなら、その人は最も無知で愚かな人ということになるでしょう。主は人類のためにどんなに恐ろしい苦しみをうけられたのでしょう。聖徒は主の愛に深く感謝しているので、不完全な存在ではあっても、それでも残っている力をすべて、この愛をまだ知らない人々に広めるためにささげるのです。
そのような神の働きをするためには、聖徒もまた苦難に臨まなければなりません。自分だけが豊かになることを求めることはできません。主の犠牲の愛を受けて救われ、それをまとっているのなら、聖徒もまた、この愛をほかの人々と分かち合わなければなりません。イエス・キリストが、肉の愛ではなく真の愛によって人類の罪を消し去るために苦しみを受けられたように、それによってほかの人々もまた罪の赦しを受けるのなら、聖徒もまた信仰をもって、すすんで苦難に耐え、苦しめられ、憎まれ、苦しみ、疎まれて、主のために働かなければなりません。そうした憎しみを愛の名において耐えるのです。みなさんや私がほんとうに罪の赦しを受けているのなら、そうした愛が心の中にあるはずです。
そして、自分がかつてはどうだったのか、イエスの救済の愛がいかに大きく強いかをほんとうに知っている新たに生まれた者は、実を結びます。救われた者は、救済の実を結ぶ木です。「木のよしあしはその実によって知られるからです。」(マタイ 12:33)救われる前、人は完全に罪に浸っていて、実際に地獄に投げ込まれても文句を言うことはできませんでした。それでも、みなさんは、神がこの世に人間の肉の形で来られて身代わりとなって苦しみを受けられ、そうして代わりに苦しまれることによって罪と裁きとから救ってくださって救い主となられたと信じました。こう信じて、救われました。ほんとうにこの愛を受けたのなら、みなさんと私には、他人のために生きようと願う心があるはずです。
そのような気持ちがないなら、その人は罪の赦しを受けていません。厳密に言えば、その人は罪の赦しを受けたふりをしているだけなのです。
キリストが人間を愛されたために苦難を受けられて人類を罪のすべてと裁きとから救ってくださったように、この愛を信じてほんとうに救われているのなら、この愛もまた、その人の心の中にあるはずなのです。なぜでしょうか。キリストが心の中に宿っておられるからです。主が人類のために苦しまれ、愛されたように、私たちもまた、他人のために生き、その人たちのために苦しむ心がなければなりません。罪の赦しを受けた者は、もはや心に罪が何も残っていませんから、心は変化し、イエス・キリストの心のようになっています。
この世に来られ、人類のためにバプテスマを受けられ、十字架上で血を流され、あらゆる苦しみを受けられ、そうして人類を罪から救う救世主となられたことをイエス・キリストに感謝いたします。