( マルコ 2:1-12 )
「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。
ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。『この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。』
彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』 こう言ってから、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた。」
神以外の誰にも語れない力強いみことば
今日の聖書朗読として、マルコの福音書第 2 章を読みましたが、ここにはイエスが中風の人になさったことに人々が驚いたことが書かれています。イエスはカペナウムの家に滞在しておられましたが、イエスがそこにおられることが知れ渡ると、多くの人が集まり、家の中は人で溢れかえっていました。そしてそこでは、別のことも起こっていました。イエスが滞在されていた家の屋根の上では、理解しがたい奇妙な出来事が繰り広げられていました。四人の人が、寝床で寝ている中風の人を家の中につり降ろすために、家の屋根を一生懸命に剥がしていたのです。この光景を見ていた人々は、他人の家の屋根を壊して、中風の人をイエスのもとに降ろすことに意味を見いだせなかったのですが、同時に興味を惹かれたに違いありません。好奇心が湧いてくると、みんなの視線はすべてイエスに集中しました。
中風の人が床のまま屋根からイエスのもとに連れてこられ、第 5 節にあるように、「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた」(マルコ 2:5)。中風の人が屋根から降ろされたとき、イエスは彼を連れてきた四人の信仰を見て、「あなたがたの信仰はすばらしい。」とおっしゃったのです。イエスは、中風の人を屋根からつり降ろした四人の信仰をご覧になって、お褒めになりました。そして、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と、罪の赦しの力強いみことばを語られました。このイエスがおっしゃったことを聞いて、そこに集まっていた多くの人々は、「イエスはずいぶんと傲慢だ。」と思い始めました。彼らの関心は、イエスが中風の人を癒すことができるかどうかにありましたが、イエスは、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と意外なことをおっしゃいました。そこで、彼らの心の奥底にある邪悪な思いが掻き立てられ、イエスに喧嘩を吹っかけようとしたのです。
イエスが中風の人に、「あなたの罪は赦されました。」とおっしゃったのを聞いて、彼らはとてもショックを受けました。彼らは、「え?今、『あなたの罪は赦された』と言ったのか。神だけが人の罪を赦すことができるのに、ただの人間であるイエスが、どうして他の人の罪を赦すことができるのだろうか。」と思いました。このように、彼らの心はかき乱されて、イエスに対して立ち向かいました。なぜなら、彼らはイエスが神であることを信じていなかったので、イエスがこれをおっしゃったのを聞いた瞬間に、イエスに対して立ち向かおうとする邪悪な気持ちが彼らの心に芽生えたからです。
古代のユダヤ人はみな、ヤハウェの神を信じていましたが、いくつかの異なる宗派がありました。ある宗派は神のみことばを文字通りに信じ、別の宗派は神を信じていても、理性で理解できるかどうかで神のみことばを受け入れたり、拒否したりしていました。この後者の宗派の人たちは、現場にいて、イエスが中風の人におっしゃったことを聞いて、「うわー、全く意味のないことを言っている。」と思ったそうです。それは、彼らが今までヤハウェの神は唯一であると理解し、信じていたのに、現場では別の神を認めなければならないということを突きつけられたからです。
これと同じように、今日でも、イエスが神であることを部分的にしか認めない人や、完全に否定する人が大勢います。最近では神学者でさえ、神のみことばを頭と心で理解できる場合にのみ信じ、そうでない場合には否定しています。全世界で、神学者はもちろん、イエスを救い主として信じると告白している牧師たちでさえ、このイエスの神性の問題で悩んでいます。なぜなら、最近の人々は、イエスが父と同じ神であることを把握していないからです。
根本的には、イエス・キリストは、すべての罪人をその罪からお救いくださるために、人の肉に受肉してこの地上に来られた、創造主である神ご自身です。御父と同じ全知全能の神であり、御父のみこころに従ってこの地上に来られ、罪人の罪をすべて洗い流してくださったふさわしい神です。私たちはこのことをきちんと把握しなければなりません。
群衆に囲まれていたイエスは、ご自分を探しにこの地上に来られた神ご自身であられることを信じられない反対者からの霊的な攻撃を受けていました。彼らが心の中でこのように理屈を言っているのをご覧になり、イエスは第 8 節で彼らにおっしゃいました。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。」 目の前で繰り広げられていることに驚いた律法学者たちは、頭の中で理屈をこねて、「こんなことがまかり通るのか。」と考えていました。彼らは、次のように考えました。「この人の言っていることは、まったく意味がない。どうして人間が罪を赦すと言えるのか。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
彼らは心の中でイエスに対して立ち向かい、イエスが傲慢だと思っていました。彼らは心の中で、イエスに激しく反発していました。彼らは、自分自身が心の中で提起している問題に対して、自分なりの答えを見つけようとしていたのです。信仰の問題でも、ある人は理屈をこねて、意味のないことは、「うわ、これは意味がない。」と言って信じようとしません。しかし、「うわー、これは非常に理にかなっている。」と言って信じる人もいるのです。このように、ほとんどの人は思考や心の中で自分自身と会話をしていることが多いです。少なくとも、律法学者の心の中を見抜いた上で、イエスは彼らにおっしゃいました。「『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』 こう言ってから、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた」(マルコ 2:8-12)。
「子よ、あなたの罪は赦されました」
イエスは中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」とおっしゃいました。イエスはこのようにおっしゃっただけでなく、何年も中風だった人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」とおっしゃったのです。この節は、神を信じる今日の私たち全員に、イエス・キリストの御力を非常によく示しています。イエス・キリストは、この地上に来られた神の御子です。この節は、イエス・キリストが人類の罪とその呪いを解決するための正義の使者として、この地上に来られたことを明確に示しています。イエス・キリストは、サタンの力を追い出し、悪魔に食い物にされていた私たち人間を救うために、正義の使者としてこの地上に来られたのであり、私たちは今、このイエス・キリストのみわざを信じることによって、救いの祝福を受けなければならない時期に来ているのです。イエスは神の御子ではありますが、私たちにとっては根本的に神ご自身であることを悟り、信じなければなりません。イエスが中風の人に語り、今、私たち全員に語っておられる力のみことば――「あなたの罪は赦されました」――は、イエス・キリストがすべての人間を祝福してくださった水と御霊の福音のみことばを示しています。
神がこの世で与えてくださった祝福されたみことばは、水と御霊の福音のみことばです。みなさんが誰であろうと、どんな罪を犯していようと、神ご自身であるイエス・キリストが、バプテスマと裁かれることを通してみなさんの罪を負われることによって、みなさんを救ってくださったことを信じなければなりません。「子よ。あなたの罪は赦されました。」とおっしゃる全能の神のみことばを信じなければならないのです。そうすれば、神から与えられた罪の赦しという祝福がみなさんの心に入ってきます。父なる神は、水と御霊の福音のみことばを信じている私たちに、御子を通してこれらの祝福を与えてくださいました。今、水と御霊の福音を信じている私たちは、神の御子が人類をすべての罪と呪いからただ一度でお救いくださるためにこの地上に来られてなさったことは、神のわざであると信じています。
仮に、中風の人が「治してください」と近づいてきても、肉体的には不可能に近いでしょう。しかしながら、罪に染まったこの世の人々が私たちに近づいてきたとしたら、私たちは、神の強力な救いのみことばを信じているので、水と御霊の福音のみことばを説くことによって、彼らを救い、罪の牢獄から解放することができます。私たちは、水と御霊の福音の強力なみことばを彼らに説くことによって、神の祝福をもたらす信仰を彼らと分かち合うことができます。明らかに、私たち義人は、主が私たちに与えてくださった水と御霊の福音のみことばによって、この世で苦しんでいるすべての罪人を救い出すことができ、私たちは、罪の赦しという祝福されたみことばを彼らに権威を持って説くことができる使者です。
人々は神に対して立ち向かう反抗的な気持ちを持って生まれてくる
マルコの福音書 第 2 章でイエスが中風の人に授けられた力強い祝福は、今日、神がみなさんと私に注いでくださっている祝福された救いのみことばです。私たちの祖先であるアダムは、サタンの惑わしに陥り、悪魔とともに神に敵対する者となったため、すべての人間は罪人となりました。その結果、アダムに始まり、その子孫である私たち全員が罪の心を持って生まれ、呪いを受けました。肉の親が私たちを生んだのですから、私たちはみなアダムの子孫です。今、この世に生きているすべての人間は、生まれた時からすでに罪という病にかかっていたのです。そのため、この世に生きている間、誰もが様々な罪を犯します。人は罪を犯したくなくても、思い通りに罪を犯さないことができません。それは、人間として生まれた日に、みんな罪の奴隷として生まれたからです。
ですから、すべての人間は、神に敵対する者であるサタンに最も近い存在です。この地上に生まれた人々は、神の敵であるサタンと心で交わりを持っているといっても過言ではありません。なぜなら、人はこの世に生まれてきたときに罪深い心を持っていて、その罪深い心は神のみこころに対して立ち向かうことを望んでいるからなのです。神の前でそのような人間であり、サタンの奴隷として生活の中で様々な罪を犯しているのが、私たち人間です。すべての人間――つまりアダムの子孫である人間――は、神に敵対する者と心を一つにして生きています。心だけでなく、思考や行動までもがサタンと密接に関わっているのです。したがって、すべての人間は、サタンと交わり、生まれてから死ぬまでの間に無数の罪を犯し、最後には地獄に落とされて罪の代価を払う運命にあるのです。ですから、イエス・キリストの愛とその救いのみわざである水と御霊の福音の真理に心を合わせ、信じていただきたいのです。そうすれば、力強く祝福された神のみことばが、みなさんの祝福として降りてきます。
堕天使に心を許して以来、人間は――神でも、親でも、配偶者でも、子供でも、愛する人でもなく――神の敵に最も近い存在となってしまいました。それが人間の姿です。意図しなくても、人間の心、行動、思考はすべて神の敵であるサタンの影響を受けています。すべての人間が神に敵対する者の影響を受けて生きているからこそ、後悔に満ちた人生を送っているのです。全人類がそのような状態でこの世に生まれてきたので、人々の生活はサタンに支配され、サタンの恐怖の中で生きているのです。私たちはみな、心と思いで神の敵と交わりを持つ運命で生まれてきたことを忘れてはなりません。この宿命から逃れる唯一の方法は、「信仰」です。この信仰とは、救い主である神に立ち返り、イエス・キリストの義のわざを救いとして信じることです。それ以外の道はありません。この信仰がなければ、すべての人生は、「信じて立ち返ればよかった」という後悔だけで終わってしまいます。多くの人は正しい生き方をしようとして、罪を犯すたびに自分に向かって、「罪を犯してはいけない。このような生き方をしてはいけない。正しく生きるべきだ。」と自分に言い聞かせます。しかしながら、すでに神の敵の支配下に生まれる運命にあるため、自分の思い通りには生きられないのです。
脳卒中の被害者は、脳が機能不全に陥っているため、しばしば麻痺を起こします。腕や足、顔が麻痺し、自分の意思で体を動かすことができません。例えば、脳卒中患者の中には、目と手の協調性が失われ、スプーンを口に運ぶための手の動きをコントロールできないため、自分で食事をすることができない人もいます。これは、中風の人が直面する様々な問題の一例です。霊的な中風である人も同じような問題を抱えています。みんな自分の意志で「ちゃんとしなきゃ」と思っていても、実際には自分の考えとは全く違う行動をしてしまうということです。
先ほど、この世に生まれた日に、神に対して立ち向かう気持ちを持って生まれてきたという話をしました。だからこそ、自分の行動にも理由があるのです。天の下で罪のない生活を送りたいと思っていても、実際には誰もが、神が望んでいることとはかけ離れた、無意味な人生を送っているのです。
イギリス人はジェントルマンだとよく言われます。しかし、神の御目から見て、本当の意味でのジェントルマンは誰なのでしょうか。真のジェントルマンとは、誰も見ていないところでも、マナーや常識を守る人のことです。誰もが人前では紳士でありたいと思っていますが、実際にそのような生き方ができる人はいません。聖書によると、すべての人間はこの世に生まれたときから悪を行なう者どもの子孫として生まれてきたので、生活の中でさまざまな罪を犯さずにはいられないのです。私たちは、神のみことばから自分自身を見出し、神の御許に立ち返らなければなりません。イエス・キリストが私たちのためにしてくださった救いのみわざを信じ、神の御許に帰るとき、私たちの救いは手の届くところにあります。
すべての人間は、この世に次のような罪を持って生まれてきます。両親を卑しめるという罪や、兄弟姉妹を憎み、人を欺くという心の底からの欲望を持って生まれてきます。そういうわけで、罪を犯してしまうのです。このような人が、ある宗教に入ると、人前ではとても立派な生活をしているように見せようとします。とても礼儀正しく、親しみやすいのです。しかしながら、一人になると、その人の本当の姿である「罪」が溢れ出てくるのがわかります。
救い主の力強いみことばに耳を傾けよう
中風の人が四人の友人の助けを借りてイエスに近づいたとき、イエスは、「子よ。あなたの罪は赦されました。」とおっしゃいました。これは、私たちの神であるイエス・キリストが、今日、みなさんも私も含めた私たち全員におっしゃっていることです。主は、バプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによって、私たちの罪――すなわち、世の罪――を負われ、十字架にかけられて罪のさばきを受けられ、それによって私たちの罪をただ一度で消し去られるために、この地上に来られました。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をただ一度で受け入れられたので、この世の罪を背負われて十字架につけられ、血を流して死なれ、死人の中からよみがえり、今、父なる神の右に着座しておられます。そして今、イエスは、ご自分の正しいバプテスマと十字架の血を信じるすべての人の救いの主になろうとされています。ですから、今この瞬間にも、イエスは水と御霊の福音の真理を信じる人たちの救いの神であり、そのようなすべての信者に救いの恵みを与えてくださっています。
人は、十二種類の根本的な罪を持ってこの世に生まれてきたので、罪人なのです。人類にとって、イエス・キリストは、すべての罪から解放するための救いのわざを行なわれた神です。イエス・キリストは、私たちにとって根本的に創造主である神です。イエス・キリストは宇宙の創造主であり、すべての罪人をこの世の罪からただ一度で救ってくださった救い主です。イエス・キリストは天の御国の大祭司であり、水と御霊の福音を信じるこの世に生きる私たち全員にとって、まことの神であり、まことの救い主なのです。
イエス・キリストはすべての造られたものにとって神ご自身であり、すべての王であられます。そしてこの神は、すべての造られたものにとっての真の羊飼いです。イエス・キリストはまた、すべてのものの上に君臨する支配者でもあります。この方は、みなさんと私をこの世の罪からただ一度で救い出してくださった救い主です。この世には、イエス・キリストというただ一人の救い主がおられ、みなさんを罪から救ってくださいました。イエス・キリストがすべての人間に救いのあわれみを与えてくださったからこそ、誰もがこの世のすべての罪から解放されることができるのです。私たちをこの世の罪から救ってくださったのは、イエス・キリストであり、イエス・キリスト以外の誰にも成し遂げられないことです。イエス・キリストは、私たちの信仰のゆえに、このような輝かしい救いを与えてくださったのです。イエス・キリストは、水と御霊の福音の真理によって、個人的に人類の救いを完成なさいました。
この世の誰もが自分の罪を洗い流すことができるでしょうか。いいえ、誰にもできません。誰が自分で自分の罪を清めることができるでしょうか。誰が自分の罪を消し去ることができるでしょうか。この世の宗教に従っている人たちは、自分で罪を洗い流そうとしますが、イエス・キリストが私たちのためにしてくださった救いのわざを信じない限り、私たちは自分の罪をみじんも清めることはできません。イエス・キリストがこの地上に来られて完成された救いの真理を信じることによってのみ、私たちはただ一度で罪から洗われるのです。人間は、自分の罪を消し去る真理――すなわち、水と御霊の福音の真理――を自分では把握できないので、イエス・キリストの義を見出してすでに罪から救われた人たちと出会って初めて救われるのです。救いは、すでに水と御霊の福音を見つけてそれを信じている人から真の信仰を聞いて初めて手が届くのです。
列王記第二第 5 章に目を向けると、らい病を患っていたアラムの王の将軍ナアマンが、病気を癒すためにイスラエルにいる神のしもべエリシャのもとを訪れています。エリシャに会うために、ナアマンはまずイスラエルの王に会い、自分のらい病を癒してくれるように頼みました。イスラエルの王はこれに戸惑いました。神のしもべエリシャを探す前に、ナアマン将軍はアラムで数え切れないほどの医者に診てもらい、らい病を治してもらおうとしたはずです。しかし、彼の状態は一向に改善されませんでした。ここで気づかなければならないのは、人間を苦しめる罪の病は、神の敵と心を一つにしてしまったという事実に起因するということです。病気や死は、神の敵と一緒に神に対して立ち向かった結果なのです。
すべての呪いは神の敵と結ばれることから始まる
最初の人間がエデンの園で神と暮らしていたとき、神はみことばで命じられました。「園の中央にある、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 しかし、最初の人間であるアダムは蛇に誘惑され、神の厳禁に反して善悪の知識の木の実を食べてしまい、神の敵となってしまったのです。その結果、神が造られたエデンの園から追い出されることになったのです。つまり、人間は創造主である神に立ち返ることで初めて罪を洗い流すことができるのです。人間の創造主であるこの神に立ち返らなければ、誰も自分の罪を洗い流すことはできません。世俗的な宗教に頼って罪を洗い流そうとすると、瞬間的には罪が洗い流されたと言えるかもしれません。
しかしながら、すべての罪をただ一度で完全に洗い流すためには、イエス・キリストの義を構成する水と御霊の福音に立ち返り、信仰をもって罪を洗い流さなければなりません。そうでなければ、イエス・キリストの義なしに罪を洗い流そうとしても、いくら努力しても無駄になってしまいます。では、誰のところに行って罪を洗い流せばいいのでしょうか。もちろん、人類の救い主であるイエス・キリストのもとに行き、その義を信じなければなりません。誰であっても、イエス・キリストの義を信じることによって、自分の罪を洗い流さなければなりません。ここにいる中風の人がイエスのもとに連れてこられたとき、その人の罪を赦すイエスの力強いみことばによって、その人の罪は洗い流されました。同じように、今日の私たちも、イエス・キリストが与えてくださった罪の赦しのみことばを信じて、罪を洗い流さなければなりません。
イエスは中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」とおっしゃった後、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」とおっしゃいました。今日の聖句で、イエスが中風の人に罪の赦しのみことばを語られたように、私やみなさん、そして罪の赦しのみことばを信じるすべての人に、罪の赦しの恵みを授けてくださっているのです。私たち人間をこの地上に生まれさせたのは、神です。私たちの先祖が弱さゆえに罪を犯したとしても、最終的には、この世のすべての罪から私たちを救い、ご自身の民となさり、天の御国に入れるように祝福なさるために、神は私たちをお造りになったのです。このようにして、私たち罪人をすべての罪から救ってくださったイエスの私たちに対する目的は、最後に神の救いの義を伝えて、神の御国に入ることです。つまり、神の目的は、私たちを神の子どもとし、神の御国の正当な所有者として神の御国に住むことを祝福することなのです。
中風の人は寝床をたたんで、家に帰りました。しかし、私たちは、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けた以上、最終的に神の御国に入るまで、神の義を広めるのが私たちの義務です。これは、神が私たちのために蓄えてくださった栄光の祝福にほかなりません。この栄光の祝福は、イエス・キリスト、その父なる神、そして聖霊によってご計画され、成就されました。この驚嘆すべき祝福のわざは、人間の誰もが達成できるものではありません。みなさんと私のための神の栄光のご計画は、イエス・キリストがこの地上に来られたときに成就された水と御霊の福音の救いの中にあります。神の目的は、神が備えてくださった栄光の人生をすべて享受できるように私たちを祝福なさることです。神ご自身であるキリストがこの地上に来られたのは、人類をサタンから救い出し、永遠のいのちをお与えになるためです。
私たちの主は今、神の栄光への信仰によって生きなさいと語っておられる
主は、私たちがこの世で生きるために一つの戒めを与えてくださいました。それは、神の栄光ある福音を全世界に広めるという目的を忠実に果たすことです。イエス・キリストは、私たちをこの世の罪からただ一度で救ってくださり、救われた私たちが信仰によって神の栄光のために生きるようにしてくださいました。そして、主の摂理とは、時が来たら私たちを御国に連れて行き、永遠に幸せに暮らせるようにすることです。神の目的は、水と御霊の福音を信じる私たちを御国に連れて行き、栄光を享受させ、永遠に神とともに暮らせるようにすることです。その時、私たちは、神が創造なさった御使いたちに仕えられます。同僚の聖徒たちよ。これが、みなさんと私に対する神の愛と目的です。私に対する神の目的は、みなさんにとってもそうですが、私たちにとっても栄光の祝福だと信じています。神は私たちのためだけに、これらすべてのことをしてくださいました。
私は好奇心旺盛な子供として育ち、人生の様々なことに疑問を感じていました。ある日、私は、「なぜ私は生まれてきたのか。何のために生きているのだろう。」と自分に言い聞かせました。小学校に入学した頃、近所に私を可愛がってくれるおじいさんがいました。私を溺愛してくれていたのですが、ある日亡くなってしまいました。お葬式の行列を見て、棺桶を持った人たちが亡くなったことを惜しんでいました。私は彼のすぐ近くにいたので、彼がどこに行ったのか気になり、行列に続いて墓地に行きました。そこにはお墓が掘られていて、棺はそこに降ろされました。翌日、再び彼の墓に行ってみました。墓は韓国の伝統的な埋葬方法に則って作られており、土を盛って草で覆ってありました。私は墓に登り、自分に言い聞かせました。「あの人は私を溺愛していたのに、こんなところに埋もれてしまった。ついこの間まで、私と一緒に遊んでいたのに。どうしてこんなところに埋まっているのだろう。」 私はまだ幼かったので、死を理解することはできませんでしたが、この経験から死と埋葬を結びつけるようになりました。それで自分に言い聞かせました。「これはどういうことなのだろう。学校を卒業して年をとったら、私はどうなるのだろう。どこに行くのだろう。私もお墓に入ってしまうのでは?そうだ。私もお墓に入ることになるだろうな。それは時間の問題。みんな死ぬのだから、タイミングが違うだけだよ。」 最終的に、すべての罪人の終わりは同じで、それは死です。私を慕ってくれていた隣人の死と埋葬から、私も最後には死を迎えるのだと悟りました。
私は子供の頃、この世での人生に憧れを抱いていました。空を見上げたときに、天の下で恥じることのないような、罪のない生き方をしたいと思っていました。しかしながら、十代になって、少しずつ自分が変わっていくのがわかりました。本当の自分がだんだん見えてくると、自分はダメな人間だということがわかりました。私は子供の頃、女の子はトイレにも行かないと思っていました。なぜこのように思っていたのか、自分でもわかりません。みんな同じようなものだと思っていましたが、それでも勘違いしていました。女の子はみんなしっかりしていて、悪いことはしないと思っていましたが、私はいたずら好きな人で悪いことばかりしていました。ですから、「自分だけが悪い子なのだ。」と思っていました。時が経ち、大人になるにつれ、さらに多くの罪を犯している自分が見えてきました。
誰もが自分の本当の姿を見ることができないのは当然のことです。私たちが自分の罪深さに気づくためには、記された神のみことばに入り、そこで初めて自分の本当の姿を見ることができるのです。神は、すべての人間と罪人に対して、「中風の人のように、善いことをしたいと思っていても、善いことができない罪人です。だから、わたしはあなたがた全員に罪の赦しという救いを授けたのです。」とおっしゃいます。神ご自身であるイエス・キリストは、人の肉に受肉してこの地上に来られ、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」とおっしゃいました。このように、多くの人々に罪の赦しをもたらすためには、彼らに水と御霊の福音を宣べ伝えていかなければなりません。今もイエス・キリストは、水と御霊の福音を信じる者を神の御国に連れて行くために、あらゆる備えをしてくださっています。神の御国を備えてくださった神は、水と御霊の福音を信じる者とともに暮らしたいと思っておられます。しかし、この地球上にはまだ罪の赦しを受けていない人が大勢いるので、神は私たちが天の御国に行く前に、まだ信じていないすべての人にこの福音を広めることを望んでおられます。神は、水と御霊の福音のみことばを信じるみなさんと私のために、すでに住まいを備えてくださっています。
神は、私たちにとって、実に栄光ある神であられます。イエス・キリストは、私たち全員に救いという素晴らしい祝福を授けてくださいました。私たちは、この地上に生まれた以上、誰もが無意味な人生を送り、肉体が死んだら終わりだと思っていました。正しいことはわかっていても、自分には欠点が多すぎるために実践できなかったのです。私たちは、一生の間に数え切れないほどの罪を犯さずにはいられませんでした。すでに犯した罪は、地獄に落ちるには十分すぎるほどで、これから犯すであろう罪も、地獄に投げ込まれるには十分すぎるほどでした。
したがって、この世のどんな宗教を信じても罪の赦しを受けることはできず、神の正しい愛を信じることによってのみ、罪が消し去られることを悟ったのです。そうでなければ、私たちは罪の赦しを心に受けることはできませんでした。しかしながら、私たちの神は、人の肉に受肉してこの地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになってこの世のすべての罪をただ一度で受け入れられ、これらの罪を背負われて十字架で死なれ、死人の中からよみがえられて、それによって私たち信者を救ってくださいました。今この瞬間にも、主は水と御霊の福音を通して、「子よ。あなたの罪は赦されました。」とおっしゃってくださり、真の救いの確信を与えてくださっています。主の目的は、水と御霊の福音を信じている私たちを御国に連れて行くことであり、それは神の栄光のためです。
このように、イエス・キリストは、みなさんと私のために、ほんとうに驚くべき救いのわざを行なってくださった神です。水と御霊の福音の真理によって人類のところに来られたイエス・キリストほど、みなさんと私を祝福してくださった方は、この世界にはいません。私たち罪人をこの世のすべての罪から救い出され、神の子どもとしてくださった方はいません。みなさんと私をこのように救われ、このように祝福なさり、このように多くの恵みを授けてくださった方は、イエス・キリストにほかなりません。本来、私たちは生まれながらにして、その罪のために地獄に投げ込まれる悲惨な運命を背負っていました。それにもかかわらず、神が私たちをご自分の被造物とされるずっと前から、私たちが罪を犯すずっと前から、私たちのこの世での人生が罪のために悲しみ、苦しめられるずっと前から、神は私たちが直面するであろうことをすでにすべてご存じでした。ですから、神は私たちを深く愛しておられるので、水と御霊の福音を通して私たちを探しに来てくださり、私たちに会われ、「子よ。あなたの罪は赦されました。わたしは、水と御霊の福音のことばによって、あなたがたの罪をただ一度で消し去ったのです。」とおっしゃいました。そして、主は私たち主の信者を「わたしは、あなたがたをわたしの家に連れて行こう。あなたがたがこの地上で人生を歩むとき、わたしとわたしのことばへの信仰によって生きるなら、わたしはあなたがたの希望と夢をすべてかなえてあげよう。」とおっしゃって、祝福してくださっています。
この世に生きている間、私たちは神の義だけを考えなければなりません。神だけが、世の罪から私たちを救ってくださったのです。私たちの神はどのような神でしょうか。私たちは、神が私たちにすばらしい祝福を与えてくださった神であることを忘れてはなりません。私たちは、神の正しい愛を信じなければなりません。私たちの神は、私たちに天の驚くべき祝福を与えてくださった神であることを悟らなければなりません。イエスは、次のようにおっしゃいました。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ 8:32)。同僚の聖徒たちよ。神は、私たちの罪の問題を含めて、私たちの人生のすべての問題を解決してくださいました。この神は、みなさんと私に、「寝床をたたんで、家に帰りなさい。」とおっしゃいました。みなさんと私が、イエス・キリストの正しいみことばを信じるならば、私たちの心の夢はすべて実現します。そのためには、イエス・キリストが全人類にとっての神ご自身であることを信じなければなりません。みなさんはこのことに同意なさいませんか。もちろん、そうでしょう。
罪から救われているなら神と心を一つにして生きよ
私たちは、神の教会によって説かれた水と御霊の福音を心から信じることによって、罪から解放されています。私たちは世界中に散らばっていますが、福音の使役を支援し、生活の中で忠実に福音を広めていくならば、全員が神の祝福を受けることができます。水と御霊の福音は、イエス・キリストが私たちのために作ってくださった救いの衣です。誰であろうと、この福音を心から信じる人さえいれば、その人は罪から救われ、神の祝福を受けて、神ご自身の子ども、神の働き手となるのです。神は、特定の人を愛し、他の人を憎むような差別をされません。私たちが神を認め、心が神のほうにあることを確認し、信仰によって神の教会と結びつくなら、神は必ず私たちの心の希望や夢を一歩一歩かなえてくださいます。私たちの神であるイエス・キリストは、私たちが人生で直面しているすべての問題を一つ一つ解きほぐして解決してくださり、一歩一歩、私たちを祝福してくださいます。私たちの神は、神のほうで働く者を祝福してくださいます。
神の義を信じたからには、神に喜ばれることをしなければなりません。みなさんは、「水と御霊の福音を信じるのは簡単だったけれど、今度は信仰生活をしなければならないと言うのか。」と思っているかもしれません。確かに、その通りですね。この地上での生活が疲れているからこそ、私たちは信仰によって生きなければならないのではないでしょうか。神は、「義人は信仰によって生きる。」(ローマ 1:17)とおっしゃいました。義人は、信仰だけによって生きるべきなのです。みなさんが望んでいるものは何でしょうか。水と御霊の福音を信仰によって受け入れて救いに達するだけで満足しているのか、それとも罪から解放された今、神のみことばへの信仰によって残りの人生を生きていきたいと思っているのか。この地上で暮らしながら神の祝福を受けることも、神のわざを行なうことも、神のみことばを信じることによってのみ可能になるのです。
信仰によってこの世の罪から救われ、信仰によって天国に入るというだけで、すべてが終わったわけではありません。義人になった人も、天の国に入る前に、この世で神のわざに仕えなければなりません。義人には、福音を伝える義務と召命があります。もし義人がこの神のみこころに従わなければ、彼らに地上の祝福はありません。それどころか、彼らの不従順には、神の呪いがつきまといます。義人は、喜びをもって神のみこころに従わなければなりません。そうしてこそ、その信仰と従順に対して祝福の油が注がれるのです。罪から救われたからといって、この世の幸せを自分で探すべきでしょうか。いいえ、もちろんそうではありません。私たちの幸せは、信仰の領域にもあり、神とそのみことばを信じるときに得られます。神が義人に授けようとしているすべての祝福は、信仰によって、神の福音とみこころに従うときにのみ受けられるのです。
私を見てください。説教の時間は別として、私はみなさんと一緒に外に出て、福音を広め、福音の使役を支えるために一生懸命働いています。私は毎日の生活の中で、信仰によって神のみこころを行ない、信仰によって神の祝福の器を準備しています。祝福の器を用意して、「主よ。この器を満たすために豊かな祝福をお与えください。」と神に求めます。信仰の祝福された器を用意するときはいつでも、大きなものを用意したいと思います。小さな器を用意するのは好きではありません。どうせ働いているのだから、神が豊かな祝福を与えてくださるように、大きなものを用意した方がいいと思うのです。何の関係もない人でも助けてあげられるように、心の中に大きな信仰の器を用意します。私が大きな信仰の器を用意すると、神は必ずその器を祝福で満たしてくださいます。そして、その神から与えられた祝福を、神のみことばとともに多くの人に伝えていきます。これが、神への信仰を持ち、神のみこころに従うことの意味です。神の祝福は必ずついてきます。
しかしながら、そこに至るまでには、多くの迫害や苦難を乗り越え、神への信仰によって乗り越えていかなければなりません。神の祝福が私たちに届くまでには、多大な痛みや苦しみが必要です。神とそのみことばを信じて生きていこうと思うなら、信仰のきれいな器を備えなければなりません。それは、神ご自身がみなさんや私に働きかけてくださるからです。神は驚異的な神です。もし私たちが、罪から救われただけで満足し、信仰ではなく自分の手段や方法で生きていくのであれば、神の祝福を蹴散らしてしまうことになります。神は、この世の罪から救われたすべての人に、信仰を生き抜くことを求めておられます。私たちの人生を祝福し、さらに信仰の実を結ばせるために、私たちに信仰生活を求めておられるのです。
私は一人で故郷を離れました。そして、水と御霊の福音を広めるために人生をささげてきました。私の神は、この地上に私のために場所を用意してくださり、私を導かれ、神のみこころに従った人生を送らせてくださいました。私を罪から救ってくださった私の神は、いつも私とともにいてくださることをよく知っています。私の目的は、私一人がこの世で良い信仰生活を送ることではありません。それどころか、私の霊的な家族も繁栄しなければならないと信じています。また、私が神の教会で信仰によって生きること、聖徒たちが同じく信仰によって生きること、そして私たち全員がこうして神の栄光にふさわしい生活を送ることが正しいことだと信じています。私の神は、私に信仰の祝福を与えてくださいましたが、その祝福を、私を含めた世界のすべての霊的家族にも与えたいと思っておられます。そういうわけで、みなさんには、神に喜ばれる大きな信仰の器を用意してもらうために、様々な仕事を任せています。託された仕事を信仰によってこなし、信仰を深め、神に祝福を祈るならば、神はそれを叶えてくださると信じています。私たち全員に仕事を託した神は、私たちの生活のあらゆる面で、そして周りの人たちを祝福してくださることを、心から喜んでおられます。
神は現在も継続して私たちの生活に働きかけてくださいます。救われたからといって、それで終わりなのでしょうか。いいえ。アブラハムのように、全世界の無数の人々が私たちを通して豊かな祝福を受けるのです。私は、世界中の協力者たちに、信仰生活について説きたいと思います。アブラハムは、神とそのみことばを信じて神に従いました。つまり、アブラハムは自分の考えを否定していたのです。彼は、神が行くように言われたところには行き、神が止めるように言われたところには止まったのです。アブラハムの信仰によって、神は全人類、全民族を祝福なさいました。また、アブラハムが神への信仰を持っていたので、神はアブラハムの人生が彼の多くの従者にとって祝福となるようにされたのです。
神のみこころに従って生きることは、決して損ではありません。「なんでこんなことをしなければならないのだ。私はここで損をしていないだろうか。」と自分勝手に考える人がいます。しかし、みなさんが神を信じ、心に聖霊がおられれば、そのような肉の思いは簡単に捨てることができます。そして、自分の肉ではなく、神への信仰の利益のために、神に喜ばれる生活を送ることができるのです。福音の使役を支えるために、私たちの中には屋上の高いところで仕事をしている人もいます。偶発的な落下のリスクは常に存在しており、このリスクを引き受けるのは公平ではないと考えることもあります。ですから、高所作業の際には必ずハーネスを装着し、細心の注意を払わなければならないのです。しかしながら、自分のやっている仕事が神のわざだと信じているのであれば、信仰によって神に助けを求め、任された仕事をこなしていくべきです。そうすれば、神は私たちのすることをすべて見守ってくださり、祝福してくださいます。そして、私たちが自分の受けた祝福を他の人に伝えると、神は喜んでくださいます。そのような生活をしている私たちをご覧になって、神は喜んでくださいます。私たちは今、この地上で生きていますが、やがてこの地上を離れ、神の御国に入って生きることになります。
イエスは中風の人に、「寝床をたたんで、家に帰りなさい。」とおっしゃいました。中風の人が起き上がれただけでも驚きなのに、どうやって寝床をたたんで、家に帰ることができたのでしょうか。中風の人の体に十分な筋肉が残っていたのでしょうか。いいえ。ずっと横になっていたのですから、筋肉はほとんど残っていなかったはずです。それにもかかわらず、この中風の人が寝床をたたんで、家に帰ることができたのは、神から与えられたみことばの力のおかげです。このように、神はみことばを通してみなさんに愛を授けてくださっているのです。みなさんは、今でも神が私たちのためにみことばで素晴らしいことをしてくださっていることを悟り、神を信じて生きてください。神のみことばへの信仰によって、私たちは神から命じられた仕事を遂行し、信仰の祝福を受けて生きているのです。では、みなさんはどうでしょうか。みなさんは信仰によって神の祝福を受けていますか。私も、信仰によって神の祝福を受けています。私は永遠に祝福されています。私たちの神は、義人を永遠に祝福してくださいました。私はすべての感謝を神にささげます。ハレルヤ!