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主題 10: 黙示録

[第22章-2] 喜び、栄光への希望をもって強くありなさい (黙示録 22:1-21)

喜び、栄光への希望をもって強くありなさい
(黙示録 22:1-21)
 
黙示録第 22 章 6-21 節は天国への希望を示しています。黙示録の最終章である第 22 章は、聖書の預言と神の新エルサレムへのお招きとが真実であることを確認しています。この章では、新エルサレムを、水と御霊の福音を信じて新たに生まれた聖徒への、神からの贈り物であるとしています。
神は新たに生まれた聖徒が神の家でご自分をたたえるようになさいました。このことを、深く主に感謝いたします。水と御霊の福音を信じることによって、主の前にすべての罪を赦された聖徒とされたことをどんなに感謝しているかは、言葉では言い表わせません。かつてこの地上の誰が、私たちが受けた以上の恵みを受けたでしょう? 誰もいません。
今日お話しする部分は、黙示録の最終章です。創世記では、神は人類のためにすべての計画をお立てになり、黙示録では、主がこうした計画を成就なさいます。黙示のみことばは、ご計画に基づいた人類のための神のわざをすべて完了するための、この世界の破壊過程であるということができます。黙示のみことばによって、神があかされた天の御国を事前に知ることができます。
 
 
神の都の形と庭園
 
第 21 章では、神の都について述べています。第 17-21節:また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
この黙示のみことばは、神が新たに生まれた民にくださる新エルサレムを描写しています。天のエルサレムの都は十二種類の宝石で築かれ、真珠でできた十二の門があります。
第22章は次に、エルサレムの都にある庭園のようすを述べています。第 1 節には、「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て」とあります。神の都では、神が初めにエデンの園に四つの川が投げれるようになさったように、水晶のように光る川が庭園を流れています。これが、義人が将来楽しむ庭園であると神はおっしゃいます。
ここではまた、いのちの木が庭園にあるとしています。この木は十二種類の実をつけ、毎月実がなります。そして、その葉は諸国の民を癒すのです。葉に薬効があるのですから、天国の自然とは、その実が食べられるばかりではなく、その葉もまた食べられるようなもののようです。
 
 
義人の受ける恵み
 
聖書は、神の都では「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中央にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている」としています。ここから、罪を赦された者たちは、お救いくださった神とともに永遠に支配することがわかります。
この地上にいる間に水と御霊の福音を信じて罪をぬぐい消された者は、すべての罪が消える恵みを受けるばかりではなく、神の御国に行くと、神の子どもとして大勢の御使いに仕えられ、主とともに永遠に支配するのです。ここから、義人はいのちの川の岸辺に立っていのちの木の実を食べる恵みを神から受け、またその恵みには、もはや病がなくなることも含まれるということがわかります。
ここではまた、神の栄光ある御国では、光であられる神とともに永遠に暮らすのですから、この地上の灯火や陽光は必要ないとしています。つまり、水と御霊の福音によって罪の赦しを受けた神の子どもは、神のように生きるのです。これが義人の受ける恵みです。
イエスの十二使徒の一人で、黙示録を書いた使徒ヨハネはまた、新約のヨハネの福音書と三つの手紙、ヨハネの手紙第一、第二、第三を著しています。彼はローマ皇帝を神と認めることを拒んだためにパトモス島に流されました。この流刑中、神は御使いをヨハネに使わされ、この地上に起こることを示され、世界が破壊されることと、聖徒がやがて入って生きる場所とをあかされました。
創世記が創造の青写真であるとしたら、黙示録は青写真の完成模型であると言えるでしょう。四千年間、主は人類に、イエス・キリストによってすべての罪を消されるとおっしゃってきました。そして、新約の時代、時が来ると、神はすべてのお約束をまっとうなさり、救い主イエスをこの地上に遣わされ、イエスがヨハネからバプテスマを授けられるようになさり、十字架上で流されたキリストの血によって世の罪を消し去られたのです。
人類が悪魔の欺きにだまされ、罪のために滅びに定められると、主は人類を罪からお救いになると約束なさいました。それからイエス・キリストを遣わされ、バプテスマを受けさせ、血を流させ、それによって人類をその罪から完全に救われたのです。
神は黙示のみことばによって、どのような栄光が罪の赦しを受けた者を待ち受けているか、また、罪人にはどのような裁きが待ち受けているかを詳細に記されました。つまり神は、心から神を信じていると言っていながら地獄に行くことになる人々が大勢いると告げておられるのです。
主は罪人を罪から救われ、義人のために用意なさった恵みのみことばを封印しないようにと命じられました。
 
 
不正を行なう者と汚れた者とは誰か
 
第 11 節には、「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい」とあります。この「不正を行なう者」とは、誰でしょう?「不正を行なう者」とは、主がお与えくださった水と御霊の福音の愛を信じない人々にほかなりません。人間はいつでも罪を犯していますから、主がお与えくださった水と御霊の福音を信じ、神に栄光をささげて生きなければならないのです。神だけが人類から栄光をお受けになる方なのですから、また、神だけが人類を救済の恵みに包んでくださる方なのですから、誰もが神に栄光をささげる人生を生きなければなりません。神に従わない者は汚れています。彼らはいつでもみことばを信じはしないからです。
マタイの福音書第 7 章 23 節で、主は、口先だけでご自分を信じると主張する似非信心家におっしゃいます。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。」主は彼らを「不法をなす者ども」と呼ばれます。こうした人々が水と御霊の福音を心のすべてで信じることをせず、行ないによってのみイエスを信じているために、責められたのです。「不法」とは罪であり、これは、神のみことばを心で信じないことをいいます。ですから、人が神の前で不法を働くというのは、神がお与えになった水と御霊の救済の愛を信じないということなのです。「不法」とは、神のみことばを勝手に変え、それをどのようにでも好きなように、恣意的に信じることにほかなりません。
イエスをほんとうに信じる人々は、神が定められたことをありのままに受け入れるのです。私たちはイエスを信じますが、だからといって、神のご計画や救済の完了を変更することができるということではないのです。本文のいわんとするところは、神は救済をありのままに信じる者に永遠のいのちをお与えになるが、神の律法を変更し、自分の好みに合うことを信じるような者たちを地獄に送られるということです。
「不正を行なう者はますます不正を行ない」から、そうした人々は強情であるために、神の定められた救済を信じないことがわかります。彼らは不正を行なう者です。罪人が常に不正を行なうのは、このためです。
本文はさらに続けます。「汚れた者はますます汚れを行ないなさい。」これは、罪深い者でありながら、イエスが水と御霊によって罪を消されたのに、信仰によって罪を清めるつもりが全くない人々を指します。ですから、神はこうした汚れた人々を捨て置かれ、それから裁かれるのです。人間に良心をお与えになることによって、神は人が心の中の罪をはっきり認識できるようになさいました。それなのに、彼らは心の中の罪を清めようとは思わず、水と御霊の福音を知りもしないのです。神はこうした人々をそのままにしておくとおっしゃいます。
箴言第 30 章 12 節には、「自分をきよいと見、汚れを洗わない世代」とあります。今日の似非キリスト教徒は、罪を清められたいとも思わないような人々なのです。しかしながら、神であられるイエスは、この地上に罪人を救いにおいでになり、バプテスマによって人類の罪を被られ、一度で罪のすべてを清められ、十字架につけられてそうした罪の裁きをただ一度受けられ、そうして、信じる者をほんとうに罪から救われたのです。
イエス・キリストが罪人をお救いになった水と御霊の福音を知り信じる者は誰でも、たとえどのような罪人であろうとも、主はすべての罪を赦されるのです。それなのに、信仰によってこの罪の赦しを受けていない人々がいるのです。そうした人々は、罪を清められようともしないことに決めた人々です。神は、彼らをそのままにして置かれます。
これは、神の正義を全うなさるためです。これは、神が正義の神であることを示されるためです。こうした人々は、永遠に燃える火と硫黄の中に投げ込まれるのです。そうなってはじめて、彼らは正義の神がほんとうは誰であるかを知るのです。彼らはイエスが救い主であると言いますが、自分の良心を欺いているばかりではなく、また他人の良心をも汚しているのです。彼らは水と御霊の福音を拒絶したのですから、神はその行ないに従って報いられます。その時が来れば、神はその怒りを受けるにふさわしい者たちの上に怒りを下されます。
 
 
それぞれのしわざに応じて報いる
 
この地上には二種類の人間がいます。主に会った者とそうでない者です。主はすべての人に、その行ないに応じて報われます。
誰ひとり、自分で義認できません。義認はイエスがなさるのです。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて一度にその身に被られ、世界の罪をすべて負って十字架に運ばれ、人類が受けるはずであった裁きのすべてを十字架上で受けられたのです。人類は、この真理を信じることによって義となることができるのです。この真理を信じる者が主に会った者なのです。
神は、この真理を知り信じる罪のない者たちに、この地上で福音を説き、生活の中でみことばを守るようにとおっしゃいます。神は、「聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい」とおっしゃいます。このご命令を心に抱き、聖なる信仰を守り、常に完全な福音を説きましょう。なぜでしょう? この世界のあまりに多くの人々がこの真の福音について何も知らず、そのために信仰がすべて誤っているためです。
この地上には、無条件に漸進的聖化の説を支持する人々がいます。主はすでに人類の罪を消されているのに、そうした人々は、いまだに毎日罪の赦しを願って祈るのです。彼らは毎日悔い改めの祈りをささげることによって罪を清め、徐々に聖化され、ついにはもはやどんな罪も犯さない義人となり、そうしてイエスと向き合えるようになろうとするのです。しかし、御子イエス・キリストは王、預言者そして大祭司です。
神の真のしもべは、誰もがほんとうに罪を赦されるようにするばかりではなく、神の働き手としてすべての人を真理へと導くのです。神のしもべとは、書き記されたみことばを通して、やがて起こることについて正確な知識を得ている人々です。
第 12-13 節は「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」とあります。主はほんとうにアルファであり、オメガであり、初めであり、終わりであり、最初であり、最後なのです。主がおっしゃったことのすべてを恐れをもって信じなければなりません。
主は聖徒に、その働きよりはるかに大きなめぐみによって報われます。主は栄光に満ち、慈悲深いためです。主は人類をその罪のすべてからお救いくださった、慈悲深く情けある方であり、黙示のみことばにあるように、主は救済のみわざを完了なさる、力と正義の神なのです。そしてこの、すぐに訪れる救済の完了とは、働きに対する主からの寛大で十分な報酬として新エルサレムの都に入る栄光を聖徒にお与えになることです。
 
 

自分の着物を洗う者は幸いである

 
次に第 14 節には、「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は幸いである」とあります。この節に基づいて、救済は行ないによって、つまり、神の戒めに従うことで得られるのだと主張する人々が大勢います。
しかし、実際は「自分の着物を洗」うとは、書き記された神のみことばを信仰をもって信じ守るという意味なのです。使徒ヨハネは、次のように記しました。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(ヨハネI。3:23) ですから、水と御霊の真の福音を信じ、世界中の迷える魂をすべて救うために福音を宣べ伝えることに身をささげるとき、私たちは主の前で主の命じられたことをしているのです。
ほんとうのところ、人間が生涯を通じて犯す罪のすべては、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになたバプテスマによって、すでにぬぐい消されているのです。このバプテスマの後、主の十字架上の血、よみがえり、そして昇天によって、私たちは新たに生まれ、真理の中で新たな生を生きることができるようになったのです。
新たに生まれた後で罪を犯したときはいつも、すべての罪を清めた真理のみことばに戻らなければなりません。人間は根本的に罪を犯さないではいられない存在であることを認識し、主が人類の弱さと欠点、罪をその身に負われたヨルダン川に戻り、イエスのバプテスマとともにバプテスマを受け、十字架上で死なれたキリストとともに埋葬されるのです。そうすると、新たに生まれた後で犯した罪からついに解放され、洗い清められるのです。永遠の贖いの救済を再確認し、神の永遠の完全の救済に感謝し、神の義にすがるのです。
イエスはすでにこの世の罪のすべてを洗い流してくださいました。問題は、人間の意識にあるのです。主はすでにバプテスマによって世の罪を処理してくださいましたが、人間は主がそのようにバプテスマと磔刑とによって人類の罪をすべて清められたことを知らず、罪人の意識をもって悩み続けるのです。すなわち、人間は、実際はすべての罪がすでに水と御霊の福音によって洗い流されているということを信じさえすればよいのに、まだ罪が内に残っていると感じがちです。
心が自分の罪によって傷ついたなら、では、どの真理によってこうした罪の傷をいやすことができるのでしょう? 
こうした傷もまた、水と御霊の福音を信じることによって、つまり、主がヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪のすべてを被られ、それをカルバリーの十字架まで運ばれ、そこで血を流すことによって消されたのだと信じることによって、癒されます。つまり、罪の赦しを受けた後で犯した人間の行ないの罪もまた、イエス・キリストが行ないの罪をも含めて、すでにすべての罪を清められたという福音への信仰を再度確認することによって、洗い清められるのです。
世の罪は、イエス・キリストがバプテスマをお受けになり、十字架につけられたときに一度で洗い流されたのです。ですから、世の罪も個人的な罪も、何度も清めなければならないかのように二度も三度も洗い流す必要はないのです。罪の赦しは徐々に受けられるものだと教える人がいるとしたら、その人の説く福音は誤っています。
神は世の罪を一度で消されました。ヘブル人への手紙第 9 章 27 節には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。人間は一度罪のために死にますが、罪の赦しを一度で受けることもまた、神のみこころなのです。イエス・キリストは地上においでになり、人類の罪をすべて一度で被られ、一度死なれ、人類に代わってやはり一度裁かれたのです。イエスはこうしたことを何度にもわたってなさったのではないのです。
ですから、イエス・キリストを心で信じて罪の赦しを受けると、ただ一度で信じて永遠の罪の赦しを受けるということもまた正しいのです。それ以後に犯す罪のために心は何度も傷つきますが、主が人類の罪を一度で洗い流されたというこの救済のみことばの前へ行き、信仰によって汚れた心を清め、癒せばよいのです。「主よ、私は欠点だらけです。また罪を犯しました。御心に従って全き生を生きることができません。でも、あなたがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で血を流されたときに、私の罪もみな清めてくださったのですね。ハレルヤ!。主にたたえあれ!」
こうした信仰によって、罪の赦しを再確認し、常に主に感謝することができるのです。黙示録のこの最終章は、いのちの木であるイエス・キリストの前に行くことによって、また、主がすでに世の罪をすべて洗い流されたと信じることによって、信仰によって罪の赦しを受けた者は、神の御国、聖なる都に入る権利を得たのだと告げています。
神の都に入りたい者は誰でも、イエス・キリストがバプテスマと血を流されることとによって人類の罪を永遠に贖われたと信じなければなりません。人間はみな、完全を欠く行ないをするのですが、救い主イエス・キリストのバプテスマと血とを信じることによって、神に信仰を真実であると認められ、いのちの木の前に行くことができるのです。
キリストのバプテスマと血とを信じることによってのみ、人は新エルサレムを流れるいのちの水を飲み、いのちの木の実を食べる権利を得るのです。誰にも奪うことの許されていない、新たな天と地に入る資格は、水と御霊の福音によってのみ得られるのですから、信仰を守り、また大勢の人々に広めなければなりません。同様に、「自分の着物を洗」うとは、信仰によって世に打ち勝つことです。すなわち、水と御霊の福音を信じ守り、真の福音を世界中に広めるために身をささげるということなのです。
マタイの福音書第 22 章で、イエスは「宴会の招きを断った人々のたとえ」を語られています。このたとえの結末では、婚礼の礼服を着ていない者は外の暗闇に放り出されています (マタイ22:11-13)。子羊の結婚の祝宴に出るために、どのように婚礼の礼服を着るのでしょう、また、婚礼の礼服とは、何でしょう? 子羊の結婚の祝宴に出るために必要な婚礼の礼服とは、水と御霊の福音によって与えられた神の義です。みなさんは、水と御霊の福音を信じていますか? それならば、神の義の美しい衣を着ているのですから、御子の罪のない花嫁として天国に入ることができるのです。
私たち新たに生まれた者もまた、毎日罪を犯します。しかしながら、神の前に罪を赦された義人だけが、信仰によって毎日の罪を義の衣から洗い流す資格があるのです。その罪を赦されていない人々には罪を洗い流す資格がないのですから、彼れは決して毎日の祈りや悔い改めによって自分で罪を清めることができません。主を信じて世の罪から救われることができたのは、すべて主がこの地上においでになり、バプテスマをお受けになり、血を流されて世の罪のすべてを洗い流してくださったと知り信じているためです。
つまり、主の真の福音によってのみ、毎日の罪はすでに洗い流されていると確認できるのです。水と血のみことばによって主から罪の赦しを受けた者はまた、生きていくうちに犯す罪からの救済にも確信をもてます。
主がただ一度で人類の罪を消されたので、この永遠の贖いの救済を信じることによって、私たちもまた自らの行ないにおいて犯した罪を洗い流すのです。そうでなければ、つまり、主が人類の罪をすべて一度に洗い流してくださらなかったのなら、どうして人間は罪のない者になれるでしょう? 
どうしたら天の聖なる都に入ることができるでしょう? どうしたらいのちの木、イエス・キリストの前に行くことができるでしょう? 人類の罪をすべて消された主を信じることによって、人は清い一点の汚れもない民として天の御国に入ることができます。そして、生活の中で罪を犯したときにはいつでも主の前に行き、主がこうした罪もまた消してくださったと確認することによって、そうした罪のすべてから解放されるのです。新たに生まれた者だけが、信仰によって毎日の罪を赦される権利をもつというのは、このためです。
ダビデ王は神のしもべでありながら、神の前にはなはだしい罪を犯しました。彼は既婚女性と姦淫し、自分の忠実な臣下であったその夫を殺しました。それにもかかわらず、神が慈悲深く赦してくださったことを、彼は次のようにたたえました。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、
罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、
心に欺きのないその人は。」(詩篇 32:1-2)
この世で神の前に最も幸いな人は誰でしょう? 幸いな者とは、救われ、生活の中で罪を犯したときにはいつでも、主がすべての罪を消してくださった事実を見、毎日いのち水の泉に行き、毎日汚れた心を洗い流す、私たち新たに生まれた者にほかなりません。救済と主の偉大な救済の恵みには、深く考えさせられることです。
義人だけが罪の赦しを受け、その欠点のすべてを覆われているのです。彼らの行ないも、またその心も完全なのです。こうして汚れのない義人となって、神が用意してくださった天の御国に入ることができるのです。イエス・キリスト、救済の門、いのちの木がしてくださったことを受け入れさえすれば、その力が明かされ、誰もが罪の赦しを受け、天国に入るのです。
 
 

いのちの木の前に行く者

 
罪の赦しを受けた者が常に主の前に行く理由は、御国に入る十分な資格を得られるよう、主がすべての罪を消してくださったことを確認し、再び救済の恵みについて黙考し、思いを致し、神をたたえるためです。私たちが福音を説くのは、このためです。
無数のキリスト教徒が、聖書について正しく教え導くことのできる神のしもべに会うことができず、みことばを誤解し、誤り信じたままでいるのです。今でも、自分の行いに専念し、毎朝、あるいは一晩中悔い改めの祈りをささげている人々がいます。彼らはなぜ、こうしたことを行なうのでしょう? そうすることによって罪が赦されると考えているためです。また、彼らがそう信じるのは、誤った教義を教えられているためです。しかし、そうしたことは、神の前に不正な行ないなのです。そうした人々は、神の義も無条件の愛も知らない気の毒な人々です。
聖書は、自分の好きなようにどのようにでも解釈できるものであるかのように軽々しく扱えるものではありません。それなのに、人々は自分なりの考えに基づいて解釈し、教え、信じて、その結果、先に述べたように、神の義と愛について知らずにいるのです。聖書の各句にはそれぞれ固有の意味がありますが、それは、罪の赦しを受けた神の預言者だけが正しく解釈できるのです。
いのちの木の前に行くには、この地上で主を信じ、毎日主が罪を消してくださったことを思い出し、主をたたえ、この福音を説くことです。私たち新たに生まれた者はまた、イエスが人類の罪を被られたことを思い出し、この真理を毎日確認し、感謝の喜びをもって主を崇め、主の御前に行くのです。
しかしながら、全世界のキリスト教徒がこの部分の解釈を誤り、罪を毎日の悔い改めの祈りによって洗い流せば神の御国に入ることができると誤り信じています。しかし、この部分の意味はそうではないのです。
罪の赦しを受けた後、私たちが行ないによって犯した罪を主がすべて消してくださったと確認して、心は安らかになります。すべての罪の赦しを確認することで、もはや罪に縛られなくなるのです。これが、天国のいのちの木の前に行く道なのです。
聖書は、人間の考えとは全く異なった次元のものです。ですから、真実を知るには、まず神の新たに生まれたしもべから真理を学び聞かなければなりません。
 
 
都の外に残される者
 
第 15 節には、「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される」とあります。このみことばは、終わりの時の新たに生まれていない者たちについて述べているのです。主がこのように正確にこれらの人々を名指されるのは、実に驚くべきことです。
犬の特徴の一つは、彼らが反芻することです。つまり、食べてものを吐き出し、もう一度食べ、それからまた吐き、それからたった今吐いたものをまた食べるのです。ここで主は、「犬」は都に入ることができないとおっしゃっています。
この「犬」とは、誰のことを指しているのでしょう? 世の中には、「主よ、私は罪人です。どうか私の罪を洗い流してください」と叫び、それから神をたたえて「私は赦された、あなたも赦された。私たちはみな赦された」と歌う人々がいます。しかし、次の瞬間には、これらの人々はまた「主よ、私は罪人です。もう一度だけ赦してくだされば、二度と罪を犯しません」と叫ぶのです。それから、また歌います。「私はカルバリーの血によって赦された。」
こうした人々はあまりに何度も行ったり来たりするので、彼らがほんとうに赦されたのかどうか、誰にもわかりません。聖書が「犬」というのは、こうした人々のことにほかなりません。犬は毎日吠えます。午前に吠え、午後に吠え、夜明けに吠えます。こうした人々は、実際に犬のように吠えるわけではありませんが、罪を赦されていながら、自分は罪人だと叫ぶのです。彼らは今義人になったと思うと、次の瞬間には罪人になっています。
このようにして、彼らは内にあるものを吐き出し、また食べ、それから再度吐き出してはまた食べる犬のようなものなのです。つまり、まだ心に罪をもつキリスト教徒を聖書では「犬」と呼んでいるのです。こうした犬は決して天国に入れず、都の外にとどまらなければなりません。
では、「魔術を行なう者」とは、誰のことでしょう。これは、何も知らない会衆の感情を利用して、甘言を弄して金を奪う人々、病気を治すといってにせのしるしや奇蹟で人々を欺く者たちです。神の名をみだりにとなえるので、彼らはみな聖なる都に入ることができません。
また、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者は都に入ることができません。終わりの時が来ると、犬と魔術を使う者は人々を欺き、反キリストが現われます。多くの人々をにせの奇蹟やしるしで欺き、人々の魂を盗み、神に敵対し、自らを神より上に置いて崇められようとする反キリストと、それに従う者たちは、決して都に入ることができません。
ですから、人にはまだ罪があると言う人々に欺かれたなら、あるいは、感情を掻き立てるしるしや奇蹟に欺かれたなら、みことばが警告しているように、みな反キリストとサタンとともに都の外にとり残され、嘆き、歯噛みすることになるのです。
第 16-17 節には、次のようにあります。「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
みなさんは、罪の赦しをただで受けましたか? 御霊と教会を通して、主はいのちの水を飲むことを可能にする水と御霊の福音をくださいました。神の義に飢える者、真理のみことばに飢える者、そして罪の赦しを受けたいと切に願う者は誰でも、そうした人々を神はご自分の慈悲に包まれ、みことば、救済のいのちの水へと招かれます。罪の赦しを受けることが、いのちの水の流れる新たな天と地へのこのお招きに答える唯一の道なのです。
 
 
主イエスよ、来てください。アーメン。
 
第 19 節には、「もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受け取る分を取り除かれる」とあります。神の前にあって、人間は自分なりの考えに基づいて好きなように信じることはできません。神のみことばには、人が言えるのは、ただ「はい」だけであると記されています。誰でもみことばに「いいえ」と言うならば、主は「あなたはわたしの子ではない」とおっしゃって、その人を取り除かれるからです。みことばに則って神を信じなければならないのは、このためです。神のみことばは、加えも除きもせず、記されているままに信じなければなりません。
神のしもべを頼みとし、御霊が教会を通しておっしゃることを信じることが、真の信仰というものなのです。しかしながら、大勢の人が水と御霊の福音を信仰に含めていないために、いまだに心に罪をもっているのです。みことばが、罪のない者だけが神の聖なる都に入ることができると繰り返し告げているのに、そうした人々はイエスのバプテスマを信仰に含めず、代わりに悔い改めの祈りと物質的なささげものをするといった行ないに意を注ぐのです。
イエスを救い主と信じる者は、人類の罪のすべては、ヨルダン川でイエスがバプテスマのヨハネに授けられたバプテスマによってイエスの上に移されたのだと、信仰をもって告白できなければなりません。イエスのバプテスマを除外するのなら、それは、つまるところ信仰を放棄しているのです。つまり、水と御霊の福音を信じないのなら、十字架上の血さえも無意味であり、キリストのよみがえりもまた、その人とは関わりのないことになるのです。神がすべての罪を価なくして消してくださったと信じる者だけがイエスのよみがえりに与ることができるのであり、そうした者だけが、使徒ヨハネが第 20 節でそうしているように、主イエスの再臨を求めて大声で叫ぶことができるのです。
第 20 節は、「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』 主イエスよ、来てください。」とあります。義人だけがこう言うことができるのです。主は義人の祈りに答えられて、すぐにこの地上に戻られます。水と御霊の福音を信じて完全な罪の赦しを受けた義人だけが、主の速やかな来臨を喜び、切に待つのです。これは、主をお迎えする用意のできているのが水と御霊の福音の衣をまとっている者、つまり罪のない者だけであるためです。
主は義人の願いに応えられてこの地上においでになる日を待っておいでです。主は千年王国によって報いてくださり、義である者たちをいのちの水の流れる新たな天と地に入るというすばらしい恵みに包んでくださいます。こうして主をお待ちするのは、そう長いことではありません。ですから、聖徒にできることはただ、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と言うことだけなのです。そして、聖徒は信仰と感謝をもって主の再臨を切に待ち望んでいます。
最後に第 21 節は、「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように」とあります。使徒ヨハネは、黙示録を最後の祈りとすべての人への祝福で結びました。彼は、すべての人がイエスを信じ、救われ、神の都に入るようにと心から願い、祝福の祈りを捧げています。
親愛なる聖徒のみなさん、神に救われているということは、神が私たちを愛され、すべての罪から救ってくださり、ご自分の民としてくださったということです。ですから、神が義としてくださって天の御国に入れるようになさったことは、ただすばらしく、ありがたいことです。
これが、聖書が伝えていることの核心なのです。人間が御国で永遠に生きるようになさるために、神はみなさんや私が真の福音を聞いて新たに生まれるようになさり、すべての罪と裁きとからお救いくださったのです。救済してくださった主をたたえ、感謝します。
罪の赦しを無事に受けられたことは、実に運のよいことです。私たちはみな、神に大いに恵まれた民です。また、私たちは預言者です。ですから、罪の赦しの福音を、まだこの福音を聞いていない人々に広め、また、福音の完了である黙示のみことばを説かなければなりません。
すべての人が、造り主・救い主・裁き手であられるイエスを信じ、終わりの時が訪れたときには、主がお与えくださる聖なる新たな天と地に入ることができるよう願い、祈ります。主イエスの恵みがみなさんとともにありますように。