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Bài giảng

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 4-1] ローマ書第 4 章について

ローマ 4:6-8 でパウロは、神の前で幸いな人々について述べています。神の前に真に幸いな人とは、不法の行ないが赦され、罪が覆われている人です。そこで、パウロは言いました「主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ 4:8) 
それから、幸いな人としてアブラハムを紹介します。アブラハムを聖書の典型的な人物として、パウロは真に幸いな信仰とは何かを説明します。アブラハムが自身の働きによって義人となったのなら誇るべきものがあったでしょうが、そうではありませんでした。彼が得た神の義は、みことばを信じてはじめて得ることができたのです。
聖書は、人が義人になって恵まれる信仰とは、アブラハムの信仰のような、みことばに対するひたすらな信仰であることを示しています。この章で使徒パウロは、みことばを信じて神の義を心に受けることができることについて述べています。
この世で生きている間にけっして罪を犯さない者は、一人もいません。また、人間は空を覆う厚い雲のように多くの罪を犯しています。イザヤ書では、人間の罪と咎とを雲にたとえています(イザヤ 44:22)。ですから、イエス・キリストの義を信じることなしに神の裁きを免れることのできる者は全人類に一人もいないのです。
イエスがお受けになったバプテスマと十字架上の血とが神の義を満たしました。すでに罪の赦しを受けた者もそうでない者も、肉で罪を犯します。また、人間はそれと知らずに罪を犯します。ですから、人間は罪のために裁かれる定めにあったのです。
ごくわずかでも罪があれば、神の裁きの前に死ななければならないのですから。聖書には罪から来る報酬は死である(ローマ 6:23)と記されています。ですから、神の律法を理解し、信じなければなりません。心や行ないにおいて犯した罪は贖わなければなりません。罪をすべて贖ってはじめて罪の問題は解決されるのです。他方、罪を贖っていなければ、どんなに努力しても、最後には罪の罰を受けます。知っておくべきことは、イエスを信じている人であっても罪があれば裁かれることになるということです。
私たちは、あらゆる罪──大きな罪・小さな罪、意識するもの・しないもの、意図的・不可避的罪──のあふれているこの世界に生きています。「罪から来る報酬は死」という神の律法にしたがって死に定められなければならないことを認めるしかありません。
罪をすべて覆われたいのなら、水と血と御霊によって来る神の義を信じて罪の赦しを受けなければなりません。神の義を信じて罪の赦しを受けた者は、神へのたたえのささげ物をささげていくにふさわしい資格があり、また、ささげることができます。神がバプテスマと血とによって罪をすべて被られているからです。主がすでに雲のような私の罪をも含めて、バプテスマと血とよみがえりによって世の罪をすべて取り除かれたのですから、聖徒は永遠のいのちをくださった神の前で感謝をささげるのです。
イエス・キリストがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになって罪をすべて被られ、十字架上で死なれなければ、人間は地獄に行って罪を贖わなければならなかったでしょう。主が罪を全部完全に消してくださらなかったのなら、主をたたえることはないでしょう。心が罪で満ちていたなら、聖なる神の前に行くたびに神の御名をたたえることができるでしょうか。まだ心に罪をもっていて、ほんとうに「神は罪をみな赦してくださった」と言って神の義にたたえをささげることができるでしょうか。いいえ。
しかし今、聖徒は神の義をたたえることができます。これはすべて、身を包んでいる神の義の賜物を信じているためです。
 
 

神のしてくださったことを信じて神の義を得よとパウロは言う

 
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ 4:1-5)
ここでパウロは、アブラハムを例に、いかにして義人とされるかを説明してます。働きに対して適正な報酬を受けるのは当然のことです。しかしながら、神の前で善を何も行なわず、完全に生きることもなく新たに生まれた義人になることは神の賜物であって、働きの報酬ではありません。
使徒パウロは、「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます」と記しました。これは、罪人がイエス・キリストのバプテスマと血の犠牲とによって罪からの救済を得たことについて述べているのです。この救済は、神の義を信じる者全員に罪の赦しの幸いな賜物として与えられています。
罪人の救済は、神の義によって与えられる無条件の賜物です。罪人として生まれた者には罪を犯すことしかできません。そして、自分は罪人であることを免れない者なのですと神に告白するしかないのです。そのような罪人の罪は、キリスト教の主流となっているある種の教義を信じてまじめに悔い改めの祈りをささげただけでは消せません。
罪人は神の前で自身の義を誇ることができません。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ 64:6)ですから、罪人にはヨルダン川での主のバプテスマと十字架上の死による贖いによって満たされた神の義を信じるほかないのです。そうしてはじめて、人は神の義への信仰によって罪をみな赦されます。神の義を得るために罪人にできることは、他に何もありません。罪の赦しは神の義を信じることによってのみ得られるのです。
罪人はみな、イエス・キリストのバプテスマと十字架上の血の贖いとに神の義を見出すことができます。すなわち、神の義への信仰が罪人が罪からの救済を得ることを可能にするのです。これが真理です。これが神の義の賜物です。
 


使徒パウロは、罪人がいかにして罪全部からの救済を得られるかを語っている

 
パウロはアブラハムを典型的な例として説明しています。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」使徒パウロは、何かしら律法にかなった行ないをすることによっては神の義を受けることはできないと言っているのです。神の義を得る唯一の道は、霊的割礼についての神の義のみことばを信じることです。
神の義は人間の努力や行ないによって得られるものではありません。神の義の賜物は、次のようなものです。みなさんも私も、永遠の滅びに向かうよう定めらた民でした。しかし、救い主イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから授けられたバプテスマによって罪をみな被られました。それからイエスは罪をみな負われて十字架に行かれ、ご自分の血で罪をすべて贖われたのです。イエスはこうして神の義をすべて満たされました。イエスの義のみわざが罪人を永遠の死から救う神の義を成就したのです。
 
 
神のみことばを信じる者は神の義を得る
 
第 5 節には、「何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」とあります。
ここで使徒パウロは、「不敬虔な者」を例として神の義がどのようなものかを説明しています。「不敬虔な者」とは、神を恐れないばかりか、生涯を通じて自堕落に罪を犯す者です。すべての人は「罪の塊」として生まれてくるという神のみことばは、実にそのとおりです。また、人類の本質が神の恐ろしい裁きを受けるまで罪を犯すしかできないものであるというのも、ほんとうのことです。しかしながら、不敬虔な人間を義への信仰によって罪のない者として神が召されるなら、神の義以外の何によって可能なのでしょう。
主は私たち不敬虔な者に話しかけられます。主ご自身がヨルダン川で旧約最後の大祭司バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、世の罪をすべて被られました。主はまた、「罪から来る報酬は死」というみことばを全うなさるために十字架上で血を流して人類の罪を贖われなければなりませんでした。みなさんは、イエス・キリストが神の義によりバプテスマと十字架上の血とで罪をみな贖われたと信じていますか? 神は、神の義を信じる者をその信仰によって義人と認められます。これは、頑なに主張していることではなく、神の公正な義によって定められたことなのです。
ですから、父なる神は、その義を信じる者におっしゃいます。「そう、あなたはわたしの民です。あなたはわたしの義を信じています。今は私の子になりました。あなたには罪がありません。なぜでしょうか。わたしの子のバプテスマと血とによって罪をすべて取り除き、罪のない者にしたためです。また、『罪から来る報酬は死』という掟にしたがって血を流して罪を贖ったのです。わが子はあなたのためによみがえりました。ですから、わが子はあなたの救い主の神なのです。これを信じていますか。」
「はい。信じています。」すると、神はさらにおっしゃいます。「わたしはあなたに、わが子の正しい行ないによって全うされたわたしの義を与えました。あなたはわたしの子供になりました。わたしはわが子の水と血によってあなたを子にしたのです。」
人類はみな神の前では不敬虔です。しかしながら、主イエスは不敬虔な者の罪を、ヨハネのお授けしたバプテスマによって、すでに犯したものも将来犯すものも、ただ一度でみな被られました。また、神は神の義を信じる者全員にご自分の義をまとわせ、そうして罪のすべてからお救いになりました。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ 3:26-27)さて、問題は、ほんとうに心でみことばを信じているかどうかです。信じているなら義人になりますが、信じないのなら神の義を失うのです。
 
    
不敬虔な者でさえ神の前では
 
神の前で不敬虔な者であっても、イエスがヨルダン川でのバプテスマによって世の罪をただ一度で被られたと信じさえすれば、ご自分の義をお与えになると、神は約束なさいました。神は、ほんとうに信じる者すべてに義をお与えになりました。神の義を信じる者は誰でも世の罪のすべてからの救済を受けます。父なる神は、ご自分の義を信じる者に、彼らは自分の子どもだとおっしゃいました。「もうあなたたちには罪がありません。わが子イエスがあなたたちをすべての罪から救ったのです。あなたたちは義人です。あなたたちは罪のすべてから救われています。」
たとえ不敬虔でなくとも、義人であることのあかしとして、神はその義をお与えになります。神の義は永遠です。主イエスは、ほんとうに全人類のために正しいみわざをなさったのです。この世の人間は、神の義によって世の罪のすべてから救われています。神は、ご自分の義への信仰をご覧になって、不敬虔な者の魂に罪がないとなさいます。「主が罪を認めない人は幸いである。」なぜなら、その人は信仰によって神の義を得ているからです。
神は、「あなたは敬虔ですか」とお尋ねになります。
そこで、自分は神の目には不敬虔であると認めます。これを認めると、イエスが罪人のためにバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されたこと、世の罪を取り除いたのは神の義であって、人間の努力ではないことに感謝するようになります。しかしながら、自分は律法をよく守ることができると思っているなら、神の義にこれほどに感謝することも信仰をもつこともないでしょう。
「不敬虔な者を義と認めてくださる」神の義を信じる者は、賜物として神の義を受けるのです。神の義は、イエス・キリストの贖いと裁きとを信じる者に賜物として与えられます。神の義を信じない者には、神の祝福と恵みは閉ざされたままなのです。
新たに生まれた義人にとっても、イエスの立てられた神の義は日々に重要なのです。というのは、神の義を信じる者であっても、この世に生きていると、毎日罪を犯さずにはいられないためです。ですから、イエスがバプテスマと十字架上の血とによって罪をすべて被られたという神の義のうれしい知らせを毎日思い起こさなければなりません。喜ばしい知らせを聞くたびに、それは魂を新たにし、みなぎる力で心を強くするのです。
「何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」の部分は、もうわかりますか? 聖書は、この世のすべての人に語りかけています。
聖書はアブラハムの例によって、神の義を受けることについて詳細に述べています。しかしながら、「働く者」は神による救済に感謝しないで神に敵対するとされています。「働く者」は神の義を信じませんから、感謝の気持ちがありません。第 4 節の言わんとしていることは、善行をして天国に行こうとする者には神の義は必要ないということなのです。
なぜでしょうか。そうした人は、善行をし、毎日自分のために悔い改めの祈りをささげて罪を洗おうとするために、神の義がないのです。そうした人は神の義を完全に受け入れようとしません。一見立派な行ないを捨てることができないためです。かえって、泣いたり断食したりしながら、悔い改めの祈りをささげて魂に救済を得ようとします。ですから、神の義は、心から神の義のみことばを信じる者にだけ与えられるのです。
 

働く者のばあいに、その報酬は恵みとはされない 
 
「何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ 4:5)
みなさん、この部分は、アブラハムと同じように神を認め、みことばを信じる者に関わることなのです。聖徒は、不敬虔な者をお救いくださった救済の主を信じています。この世には二種類のキリスト教信者がいます。第 4 節には「働く者」が挙げられていますが、そのような人は神による救済を賜物とはみなさず、当然の報酬と考えます。また、イエスを信じるようになってから自身の高潔な行ないを神の前で認められたいと考えるため、神の義による救済を拒みがちです。神の義を受けるためには、どのような犠牲が必要だと思いますか。
自身の善行を抱えて神の前へ進むなら、神の義を得ないために罪人になるだけです。聖化の教義をご存じですか。これは大方のキリスト教徒が支持し、極端に高潔な行いをするように促し、神の義に対立して神の敵にしているものです。聖書は、神の義は徐々に得られるものではないと告げています。また、神の義は自身の働きによって得られるとされていません。
人間の働きを支持する人々は、悔い改めの祈りによって聖くなることができると教えます。イエス・キリストが罪を除いてくださっているというのに、清らかに高潔に生きるならより正しくなるのであり、死ぬまで敬虔に生きれば救われると言います。
しかしながら、神の義は人間の行ないとは相容れません。神の義に対立する人々は、悪魔の仲間になります。そうした人々は主の義を拒みますから、主の前で罪の赦しを受けることができません。
みなさん、人間は 100% 不敬虔なのです。しかしながら、現実には大勢の人々が神の義を誤解し、誤った信仰の道を歩んでいるのです。自分は多少は敬虔だと思っている人が大勢いますが、その人たちは神の義を信じません。自分で悔い改めの祈りをささげれば日々の罪と未来の罪を赦されると信じているのです。そうした人々は、自分には少なくとも幾分かの敬虔さがあると思っていますから、神の義を求めも信じもしないで、善行を第一とするのです。
どんな人が義人になるのでしょう。悔い改めの祈りをささげるのが上手でない人が義人になります。これは、告白の祈りをささげる必要がないということではありません。この点を誤解しないでください。義人の生き方の問題については、後で述べます。神の義に対立する人々は、断食祈祷をするとか、敬虔に生きるといった、何らかの善行をすることを重視します。
しかしながら、自身の行ないが不十分であることを知っている者だけが、イエスの罪の赦しを心に受けて罪人の状態から義人になれるのです。するべきことはただ神の義を信じ、自身の義には何一つ誇るべきものがないことを認識することです。神の前でこう認めるのです。
「神様。私たちは、このように罪を犯しています。私たちは罪人で、死ぬまで罪を犯します。」正直に告白できるのは、これだけです。そして、もう一つするべきことは、イエス・キリストが完全に義を満たされたことを信じることだけなのです。
神の義を信じて罪人はみな、すべての罪からの完全な救済を受けることができます。イエス・キリストの義への信仰をもってたたえます。罪の只中にあって滅びるはずであったのが、すべての罪からの救済を受けたためです。
 
 
真に幸いな者
 
神の前で幸いな者とは誰でしょう。聖書は幸いな人を次のように定義しています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。」人間は神の目に何ら善行を行なえず、不完全さや弱さがあり、あるいは、律法全部または特定の部分を守ることができずにいても、イエスのバプテスマと十字架上の血とによって罪をすべて取り除いた神の義への信仰をもつ信者の生のために、神は罪の赦しの恵みをお与えになります。こうした人は神の義を信じており、神の前で最も幸いな人です。その人は無数の人々の中で特別な恵みを受けているためです。聖徒は神の義を信じて罪のすべてからの救済を受けました。神は確かにそうおっしゃったのです。神がおっしゃったとしても、何かみことばに加えることがあるでしょうか。いいえ。
この世には、イエスを救い主と告白していながら、善行によって救済を得ようとする人が大勢います。
イエスがヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流され、死んでからよみがえられたと告げている、神による罪からの救済の真理に、何かこれ以上補うべきものがあるでしょうか。いいえ、ありません。
しかしながら、今日のキリスト教徒は、神の義を信じるという点でひどく混乱しています。人々は、イエスを信じて救済を得られるということは知っています。しかし、イエスを信じるようになったなら救済のためには徐々に聖化されるように高潔に生き、神のみことばと律法を守らなければならないと考えています。人々はこのように誤解しているのです。
その人たちの言うことが義人の言うこととよく似ているように思われても、神の義を知り信じる信仰にはほど遠いのです。どうしたら人は主を深く信じることができるのでしょう。それは、神の義を含んでいる水と御霊のみことばに純粋な信仰をもってはじめて可能であり、そうして罪のすべてからの救済を受けるのです。神の真理によって、神の義が純粋に示されている主のバプテスマと十字架上の血とへの信仰によって、罪のすべてからの救済を得ることができてます。
漸進的聖化や無条件の選び、名目だけの義認といったキリスト教の教義、あるいは、豚肉を食べないことや安息日を守ることによって救済されるとしている誤った信仰は捨てましょう。このようなたわごとを言う人からは遠ざかっていましょう。その人たちの言うことには、結論も正しい答えもありません。
みなさん、何も善行をせずに神の義を信じて罪からの救済を得るのは正しい信仰ですか? ──はい。──それは、真の信仰です。神の義を得るような、どんな働きをしたのでしょう。神の前で何か善い行ないをしましたか?──いいえ。──私たちは、たとえ考えにおいてでも、完全なのでしょうか。──いいえ。──では、どんなふうにでも好きなように生きればいいということでしょうか。──いいえ。──神の子供になるためには、律法にしたがって高潔に生きなければならないのですか?──いいえ。──これは、神の義を信じ、罪の赦しを受け、正しい信仰によって賜物として御霊を受けて、神の真の子供にならなければならないということです。
人間が善良に生きることはまったく不可能です。しかしながら、働きをしなくとも、イエスのくださった義を信じるなら、その人は罪のすべてから救われた幸いな人なのです。誰もが本来、善良に生きることはできません。ですから、神は憐れまれ、イエスをこの世に遣わされ、世の罪を被られるためにバプテスマのヨハネからバプテスマを授かるようになさったのです。それからイエスは罪を十字架まで運ばれ、罪の問題を解決なさいました。
東洋のことわざに、「一人は万人のため」というのがあります。他人が溺れるのを助けた後で溺死すると、人々はその犠牲の精神をほめたたえます。みなさん、これは、溺れる人を救うことは自然なことであるけれど、あまりに高く評価しすぎているのです。
「因果応報」という古いことわざがあります。これは、善良に生きればその人は将来恵まれるが、悪いことをすれば罰されるという意味です。みなさん、他人のためにすすんで自分の命を捨てる人がほんとうにいるでしょうか。異性間の愛の場合であっても男と女はお互いが自分の好みに合うから愛し、慈しみ合うのです。このように、人はみな基本的には利己的です。
ですから、神は、人間には美徳はないとおっしゃいます。人間はどんな善もまったく行なえないというのに、最も邪悪な罪までも除いた神の義をほんとうに頼り、信じているか注意深く調べなければなりません。神がくださった神の義を信じてすべての罪からの救済を得るのです。     
 
 
不法な行ないによる罪全部の赦しを受けよ
 
神の前で不法な行ないとは、何でしょう。神の前で行なった悪いことは、みな不法な行ないです。
どうしたら神の前で罪を覆われることができるのでしょう。分厚い防弾チョッキが罪を覆うでしょうか。それとも、最も強い金属で作られた鉄の装甲が神の前で罪を覆うでしょうか。みなさん、良い行ないをするたびに、それは神の前で行なった悪いことや過ちを覆うでしょうか。いいえ。人間の良い行ないは、自己満足に過ぎません。善行をして自分の良心をなだめることによっては神の正しい裁きを免れることはできません。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。」聖書には、このようにあります。みなさん、神の前で罪を覆われたければ、唯一の道は神の義を信じることです。それによって神はお救いくださったのです。この神の義には、イエス・キリストがバプテスマをお受けになるためにこの世に来られたこと、人類の罪を被られたこと、身代わりとしての十字架上の死が含まれます。イエスはバプテスマをお受けになって世の罪を被られたために、裁きをお受けになって十字架上で死なれたためです。これが神の義です。罪はみな、神の義を信じたときに覆われます。
善行によって罪を覆おうとしても、神の前では無益です。イエスのバプテスマと血との義の行ないだけがみなさんや私の罪を覆うのです。私たちは、罪のために神の激しい怒りを受け、裁かれ、滅ぼされ、地獄に行くはずだったのですが、イエスがこの世に来られてバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれて神の義を満たしてくださったのです。これを信じなさい。神の義への信仰をもって罪を覆われるのです。なぜでしょうか。神の義がすでにバプテスマと流血とによってすでに世の罪をみな正しく贖っているためです。みなさんと私は、これを信じて罪を覆われるのです。
どのようの人が幸いな人なのでしょう。このような信仰をもつ人が幸いな人です。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」このような信仰をもつのは幸いな人です。みなさんには、このような信仰がありますか。真に幸いな人は、イエス・キリストが水と御霊によって救ってくださったという神のみことばを心に受け入れた人です。イエス・キリストをその水と血とともに心に受け、イエス・キリストの内に住まう人は、真に幸いな人です。
神の義を信じる私たちは、信仰によってすばらしい救済を受けました。そこには、ごくわずかも人間の考えや徳は含まれていません。真に恵まれた者だけがこの信仰をもち、それを心に保って真の福音を説くことができるのです。
みなさん、何らかの善行を神の恵みに加えて神の子供になろうとしたり、あるいは罪から救われようとは、けっしてしてはいけません。みなさんは高潔ですか? ほんとうにそうでなくて、そうなれると思っていたとしても、高潔であろうとすることは高慢です。貧しい人が大金持ちから大きなダイヤをもらったら、ただ「ありがとう」と言うだけでいいのです。同じことが神の義についてもいえます。
ローマ書第 4 章は、神に恵まれた人々について語っています。そうした人々は、神の義を伝える福音のことばを信じてすべての罪から救われました。
みなさんにも、その恵みがありますように。