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Bài giảng

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 4-2] 信仰により天の恵みを受けた者 (ローマ 4:1-8)

(ローマ 4:1-8)
「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。』とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神に義と認められる人の幸いを、こう言っています。
『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」
 
 

罪を消された人たちは幸いである

 
今日、数多くの魂を救われておられることを主に感謝いたします。聖書のローマ書第 4 章は、幸いな人々について述べています。そこで、幸いな人々についてお話しましょう。
「ダビデもまた、行ないとは別の道で神に義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」」(ローマ 4:6-8)聖書は、神の前に幸いな人々について述べています。真に幸いな人とは、神の前で罪が消され、主が罪ありとしない人々です。
聖書について先に進む前に、現在の状態を調べておきましょう。聖書は、罪の赦しを受けている幸いな人について述べています。では、私たちもまた恵まれる資格があるのかどうか考えてみましょう。
この世には罪を犯さない者は一人もいません。イザヤ書 44:22 に記されているように、人間というものは雲のように多くの罪を犯すのです。イエス・キリストの恵みなしには、誰ひとり神の裁きを免れません。
聖徒はイエスのバプテスマと十字架上の血とによって罪と神の裁きから救われました。それによって主が罪の赦しをくださったのです。また、イエス・キリストのささげられた犠牲によって、聖徒は生きることができます。生涯けっして罪を犯さない人がこの世にいるでしょうか。罪の赦しを受けた人であろうとなかろうと、人は生涯罪を犯し続けます。人間はそれと気づきもしないで、いつでも罪を犯しているのですから、罪の裁きを受ける定めにあります。
ごくわずかの罪のある者でも必ず地獄に行くはずです。なぜでしょうか。聖書は、罪から来る報酬は死(ローマ 6:23)であるとしているためです。どんな罪であろうと、罪の報いは受けなければなりません。そして罪は代償を払ってはじめて赦されるのです。罪は裁きだけをもたらします。
人間は無知からくる罪、それと知って犯す罪、弱さから犯す罪など、深刻な罪も些細な罪も含め、あらゆる罪の中で生きています。厳密にいえば、たとえ立派な言い訳があったとしても、人間は神の前で罪を認めるしかありません。この考え方に同意しますか? 罪がすべて赦されていても、自身の罪を認めることを拒むのは正しいことではありません。誰でも認めるべきことは認めるべきです。
 
 

義人だけが主をたたえる

 
罪と不正がすでに赦されて覆われている義人には、罪がありません。そこで、神に感謝をささげます。聖徒は四六時中、神の前に行くたびに感謝をささげずにはいられません。主は罪をすべて取り除いてくださったのです。人間の罪は分厚い雲のようであるというのに。ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって罪をすべて取り除いてくださり、身代わりとして十字架上で裁きを受けられた主に感謝いたします。
主がバプテスマで罪を被られず、罪を贖われるために十字架につけられて死なれることもなかったなら、人間はあつかましくも神を父と呼べたでしょうか。どうして主をたたえられたでしょう。どうして神の名をたたえ、救済の賜物に感謝をささげ、栄光をささげることができたでしょう。これらすべては、神の恵みの賜物です。
私たちは聖徒として、今この時に主をたたえ、感謝をささげることができます。罪がすでに消されているためです。
キリストの犠牲と、主がごく些細な罪までもすべて取り除かれたことをたたえます。
聖徒は罪を赦されてはいても、この世に生きている間は行ないによって完全になることはできません。人間はみな弱いのです。しかし、恵みによって罪人の罪をすべて贖ってくださった主を義人はたたえます。みなさんは闇の中にいるのですか? どんな暗闇があろうと、神の前でごくわずかの罪でも認めるなら、神の前で罪を犯したと告白するなら、また、そうした罪をすべて主が取り除かれたと信じるなら、主の真実のおかげで主をたたえ、感謝することができます。イエス・キリストをたたえずにはいられない聖徒になったのは、神の恵みと罪の赦しのためです。また、罪の赦しの恵みを心に受けて神を崇めるようになったのです。
 
 
働きなしに義人となったのは神の賜物
 
「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ 4:1-5)
人間の罪は、代償が支払われてはじめて消えました。自分の良心がきよめられたと確信がもてるでしょうか。どのような罪であれ、罪の代償が支払われなければ良心はきよめられません。私たち罪人は死ぬしかありませんでした。しかし、主が人類の罪のために死なれたのです。ですから、罪人は救われて義人になったのです。
ローマ書第 4 章でパウロは、神のみことばを信じた信仰の祖アブラハムを例として、ヨルダン川で世の罪を被られ、人類の罪を裁かれて十字架につけられたイエス・キリストによって罪人が救われたと述べています。聖書では、アブラハムは神を信じたために義人になったとしています。自分の行ないによって救われたのではありません。神のみことばへの信仰によって救われたのです。ですから、神はアブラハムを義人となさいました。アブラハムは神のみことばを信じて救済を受け、信じる者すべての祖となりました。彼は神の契約を信じて義人になりました。
罪人に与えられた罪からの救済と神の恵みとは、何でしょう。この点をはっきりさせるために、考えてみましょう。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」(ローマ 4:4)これは、人類を罪のすべてから救った、神による救済について述べています。これは、罪の赦しについて述べています。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」労働の報酬を受けた人は、その報酬を恵みや負債とみなすでしょうか。使徒パウロは、アブラハムを例にして救済を説明しています。働いた者が労働の報酬を受けるのは当然のことです。ところが、聖徒のように、たとえ完全な生を生きなくとも義とされるのは、自身の努力によるのではなく、神の恵みによるのです。
「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」(ローマ 4:4)罪の赦しによる救済は、主のバプテスマと犠牲の流血のおかげです。救済は罪の赦しの恵みと賜物によって可能になりました。人類は罪を犯さないでいることができません。ですから、自分は罪人であると認めざるを得ないのです。どんな教義を信じようと、罪のためにどんなに祈ろうと、罪を洗い流すことはできません。
罪人が罪を洗い流す唯一の道は、主がヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を被られ、十字架につけられて身代わりとして罪の裁きを受けられたとする救済を信じることなのです。罪人には、自分ではどんな犠牲によっても罪を贖う資格がありません。罪人にできるのはただ、罪の赦しによる救済を信じることだけです。唯一頼れるのは神の恵みです。
イエスがヨルダン川でバプテスマをお受けになって人類の罪をみな最もふさわしい方法で取り除かれ、十字架上で犠牲となられたために、罪人はすべての罪から救われているのです。罪には、サタンに欺かれて弱さのために犯すささやかな罪も、高い山のような大きな罪も含まれます。ですから、罪人はイエス・キリストのバプテスマと血とへの信仰によって救済を受けます。神から価なく与えられた救済の賜物によって、罪人であった聖徒は今、義人になっています。
 
 
恵みと賜物としてのみ与えられる罪の赦し
 
使徒パウロは、罪人がいかにして罪のすべてから救われるかについて述べています。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」パウロは救済の恵みをこの世の労働と比較して述べています。罪人が神の前で働いて罪からの救済を得たと言うのなら、それは神の賜物によるのではなく、自分の働きによるものです。罪の赦しはただ恵みにより、賜物として与えられるのです。人間の行ないのどれ一つも神の恵みには含まれません。聖徒の受けた罪からの救済は、神からの賜物として受けたのですか、どうですか?──はい、そうです。──人間は罪のために滅びるしかありませんでした。しかしながら、救い主イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をみな被られました。
イエス・キリストが死によって罪を贖ってくださったのだと信じて、聖徒は救われました。イエスはバプテスマによって罪をすべて取り除いて聖化してくださり、罪を十字架まで運ばれて罪のすべてから救ってくださったのです。これはみなイエスの救済の恵みです。聖徒が救われているのは、神の恵みによって可能になったことです。これは賜物です。これは価なき賜物です。神の罪人に対する愛によって罪人は救われました。イエスはバプテスマによって罪をすべて取り除かれ、十字架につけられて世の罪全部と神の裁きのすべてとから罪人をお救いくださいました。
「何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ 4:5)先に、働く人についてお話しました。「何の働きもしない者」とは、義人になるために何らの徳行もしない者をいいます。パウロはさらに続けます。「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」パウロは神の義を説明するために「不敬虔」を取り上げています。「不敬虔」とは、どういうことでしょう。「不敬虔」な者とは、神を崇めず、ただ死ぬまでだらしのない生活をする者です。これは敬虔な者とは正反対です。死ぬまで神の前で罪を犯す者をいうのです。人間は確かに罪に満ちて生まれます。また、罪のために神の裁きを受けなければならないのも人間の本質です。
しかしながら、「何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」と記されています。ここで「何の働きもしない者」とは、「不敬虔な者ではあるが」ということです。私たちは、神の前で敬虔でしょうか。──いいえ。──
主は、私たち不敬虔な者に「あなたには罪がありません。あなたは義人です」とおっしゃいます。主は罪の代償を代わって支払ってくださいました。みなさんは、イエスがすでに罪の代償をすべて払われたと信じていますか?信じる者は、その信仰は義であると認められます。
「あなたは正しい。あなたはほんとうに信じている。あなたは私の正しい民です。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに罪を消し、十字架上で身代わりとなってあなたたちの罪の裁きを受けたので、あなたには罪がないのです。」
人間はみな不敬虔なのですが、神はイエスのバプテスマによって不敬虔な世の罪をすべて取り除かれました。神はひとり子を遣わされ、バプテスマによって罪を被らせ、不敬虔な者に代わって十字架につけられるようになさいました。神は、罪から来る報酬は死であると定めた律法と神の愛の律法とを同時に満たされました。神は罪人全員を罪から救われました。
神は、イエスがヨルダン川で罪人のための義である行ないによってこの世の罪をすべて取り除かれたと信じる者に、「そうです、あなたたちには罪がありません。息子が救ったのです。あなたは救われたのです」と、おっしゃいます。ですから、たとえ不敬虔であっても義人にされているのです。神は、たとえ不敬虔な人々であっても救済への信仰があるのをご覧になると、その人たちがご自分の罪のない民であるとおっしゃいます。
主が罪ありとなさらない者は幸いです。「神は敬虔かどうかとお尋ねになります。何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」人間は善を行なうでしょうか。善は行なえず、罪を犯すだけです。それなのに、神は救済の賜物によってお救いくださいました。主の救済、つまり、イエスの血とバプテスマを信じます。
 
 
主の救済への信仰をもって生きる
 
聖徒は、不敬虔な人類の罪を主がすすんで全部贖ってくださったことを知り、主をたたえ、罪からの救済の愛と恵みの賜物に感謝するようになりました。自分は神の前で不敬虔であることを認めると、バプテスマと十字架によって罪を贖ってくださったことには、とても感謝しきれないのです。しかしながら、自分が敬虔であると思っていたのなら、神の恵みに感謝できません。
不敬虔な者を義人になさるイエス・キリストを信じる者は、その信仰を義とみなされます。人間を義人にしたイエスの贖いと裁きとを信じる者は、神の賜物を受けます。神の前では誰ひとり敬虔ではありません。人間は敬虔であろうとして数多くの過ちを犯すためです。
人間が罪を犯さずにはいられないことが、不敬虔さの表われです。ですから、私は不敬虔ではありますが、神の救済への信仰をもって生きています。信仰によって生きるとは、好きなように生きるということではありません。信仰によって義人となった者には、信仰による生き方というものがあります。
新たに生まれた聖徒には、イエスによる救済の福音が日々に必要です。なぜでしょうか。人間の地上での行ないは不敬虔なのですから、生涯罪を犯さないではいられないためです。イエスがバプテスマによって世の罪をすべて取り除かれたと告げている福音を誰もが聞かなければなりません。義人は毎日福音を聞き、思い起こすのです。そうすると霊が生き、繰り返し力を与えられるのです。「何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」これは、誰に向けられたものでしょう。これは、みなさんや私を含め、この世のすべての人のためのものです。
聖書は、アブラハムがどのようにして義人とされたかについて、詳細に述べています。働く者には神の救済はありがたいものではありません。そこで、拒絶します。そうした人は福音に感謝しません。第一に、第 4 節が描いているのは働く者、つまり、天の御国に入るために善行をしようとする人です。こうした人は、けっしてイエスの犠牲に感謝しません。なぜでしょうか。その人は努力し、日々の罪の赦しを求めて悔い改めの祈りをささげ、数多くの善行をします。そこで、罪の赦しを受けるために自分の努力が何らかの役割を果たしているのだと考えます。そうした人は神の絶対的な恵み、福音に感謝しません。ですから、神の救済の賜物をほんとうに受けることができないのです。
聖書には、「何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ 4:5)とあります。これは、不敬虔で行ないによっては罪を赦されることのできない者を、主が完全にお救いくださったことを示してます。これはまた、罪の赦しを受けて救われた義人に神の恵みが明かされていることをも示しています。
 
 
働く者は神の恵みを恵みと思わない
 
ローマ 4:5 は、アブラハムがしたように神を認め、みことばを信じる者についていえることです。不敬虔な者をお救いくださった神を聖徒は信じています。キリスト教徒には二種類あります。罪を赦されようと努力する者と、完全に罪から救われている者です。第 4・5 節に記されているように、報酬は恵みではなく、当然支払うべきものだと考える「働く者」は、罪の赦しの恵みを拒みます。イエスを信じるようになってから、自身の働きによって神に近づこうとするためです。
自身の行ないを神にささげていては、罪人でいるしかありません。義認の教義は、信者は死ぬまで徐々に聖化されていくのだから努力せよと教え、罪の赦しの賜物を拒んで神に敵対するように仕向けます。聖書は、人が徐々に義人になるとは告げていません。罪の祈りを求めて祈り、善行をし、自らの汚れを清めて徐々に聖化されようとする人々が「働く者」です。そうした人々は、サタンのしもべとして地獄に行くのがふさわしいのです。主の恵みを拒んでいるのですから、義人とは認められません。
人間は誰ひとり敬虔ではありません。しかしながら、実に大勢の人が今、誤った方向に向かい、信じているのです。その人たちはイエスが過去の罪を赦してくださったと考え、行ないによる罪は毎日悔い改めて赦されるのだと信じています。そうするのは、自分が少しは敬虔であると思っているためです。彼らはイエスの前で自身の善良さと清さを誇ります。結局、神の賜物、罪の赦しを得ることはできません。
 
 
幸いな者
 
罪のすべてから救われている聖徒は、イエスへの信仰をもって義人になりました。どのような人が義人になるのでしょう。それは次のような人です。大勢の人々の中で、自身の弱さをよく知り、罪のための悔い改めの祈りをささげることのできない人は、信仰によって義人になることが多いのです。善行をしたり、祈りをささげたり、敬虔に振舞ったりすることができず、霊的に貧しい人がイエスから罪の赦しの賜物を受けるのです。そうした人々は義人にされます。その人たちが神の前で善行をしたのではありません。
その人たちのしたことはただ、自分の罪を率直に認めることでした。「私は罪を犯しました。私は死んだら地獄に行くしかない罪人です。」すると、イエス・キリストは、ご自分の成就なさった完全な救済の賜物をその人にくださるのです。主が罪のすべてを取り除くためにヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられたと信じて、罪人は心の中にある罪全部から救われるのです。その人たちは、神の子どもになる恵みに包まれます。神の前ですべての罪から救われることは、神から罪人への賜物です。死ぬことからお救いくださったことを主、イエス・キリストに感謝いたします。
第 6 節で使徒パウロは、「何の働きもな」く神の恵みを受けた者について述べています。「働く」ことについて、パウロは次の三つの点を指摘しています。第一に、「働く者」、次に「何の働きもない者」、そして最後に、「働きもない」です。
聖書には、「ダビデもまた、行ないとは別の道で神に義と認められる人の幸いを、こう言っています。不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである」とあります。
主に認められるということは、罪のある人であっても神が罪なしとお認めになるということではなく、ほんとうにその人には罪がないということなのです。
神は人類の幸いについて語られます。罪をすべて赦されている者は、幸福なのではありませんか。聖徒以上に幸福な者はいません。罪の赦しを受けた者以上に幸福な者はいません。誰でも罪があれば、ごくわずかなものであろうと、神に裁かれ、けっして幸福ではいられないということです。しかしながら、義人は罪の赦しを受けているので幸福です。神は、「主が罪ありとなさらない者は幸いです」(ローマ 4:8)とおっしゃいます。
「罪をおおわれた人」とあるのは、主が全人類の罪をすべて消されたことを意味します。ダビデもまた、「不法を赦され……た人たちは幸いである」と述べています。毎日この世で罪を犯していても、罪を赦されている者は幸いです。罪の赦しを受けた義人は、イエス・キリストによって生涯の罪から救われています。義人は真に幸福です。
 
 
罪を覆われた人たちは幸いである
 
第二に、どのような人が幸福なのでしょう。「罪をおおわれた人たちは、幸いである。」人間はいつでも罪を犯します。ここでは、イエスがバプテスマと磔刑とによって罪を覆ってくださったことを意味しています。では、父なる神は私たちを裁かれるのでしょうか。罪人の罪はみな覆われたでしょうか。聖徒は主の内にいたので、イエスが罪をみな取り除かれ、十字架上で血を流され、身代わりとして死なれたため、裁かれることがありません。
罪を覆われた人たちは幸いです。罪の報いである死は、聖徒には起こりません。イエスがバプテスマによって罪を全部取り除いてくださったためです。ハレルヤ。聖徒は幸福です。私たちに罪はあるでしょうか。いいえ。たとえ熱心にイエスを信じていたとしても、水と血によって来られたイエス・キリストを知らず、また、ヨルダン川でバプテスマをお受けになったときに世の罪がみなその上に移されたことも知らない人々には、いつも罪があります。
しかしながら、救済の真理を知り、それを信じる者には罪がありません。罪を覆われた人たちは幸いです。イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに罪をすべてその上に移した者は幸いです。この世で誰がほんとうに幸福なのでしょう。欠点のある人間ではあっても、救い主をもつ者は幸いです。最も小さな罪までもすべて取り除いてくださった救い主、イエスを信じる者は幸いです。
 
 
主が罪を認めない人は幸いである
 
救済の真理を信じ、内に羊飼いをもつ者は幸いです。第三に、ダビデは、「主が罪を認めない人は幸いである」と述べました。罪の赦しを受けている者は、たとえ弱くとも、義人です。信仰によって義人になっても、肉はまだ弱いのです。主は、バプテスマによって人類の罪をみな取り除かれたでしょうか。主は人間を裁かれるべき者となさるでしょうか。いいえ。主は、人間が不完全で弱い存在であっても裁かれるべきだとはおっしゃいません。なぜ主は人間を罪ありとなさらないのでしょう。すでに罪を贖われ、身代わりとなって裁きをお受けになったためです。主は信仰によって義人にされた者の罪を覚えておられませんし、また、その人が裁かれるべきだともおっしゃいません。
信仰によって義人にされた者は幸いです。水と御霊によって新たに生まれた者は幸いです(ヨハネ 3:5)。人間は通常、世俗の物事を求め、神がお救いくださり、祝福してくださったことを忘れて神の恵みを失います。神の恵みを失った者は神に敵対します。神の恵みを心しておきましょう。神による救済は、信者の内にあります。
神の御霊が罪を消された者の内に宿られます。義人だけが神に裁かれることを免れます。この世と天の御国で神に裁かれない者は幸いです。なぜでしょうか。その人たちは神に義人と認められ、愛を受け、子供になるためです。
 
 
聖徒は信仰によって恵まれている
 
信仰によって義人となった者は幸いです。新たに生まれた者は、神に恵まれているのでしょうか。──はい。──使徒パウロは、信仰の祖アブラハムの子孫として、信仰によって恵まれていたため、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケI 5:16-18)と言いました。聖徒もまた、アブラハムの子孫です。アブラハムは聖徒と同じように、神のみことばへの信仰によって救われました。神はアブラハムにおっしゃいました。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記 15:1) 
しかし、アブラムは言いました。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」彼はさらに続けます。「ご覧ください。あなたが子孫を私にくださらないので、私の家の奴隷が、私の跡取になるでしょう。」すると、主がおっしゃいました。「その者があなたの跡を継いではならない。あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出しておっしゃいました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」またおっしゃいました。「あなたの子孫はこのようになる。」「主よ、信じます。」このように、アブラハムは神のみことばを信じました。みなさんは、この世でアブラハムのように神のみことばを信じられるでしょうか。人間がそのようにすることは不可能のように思われないでしょうか。アブラハムの妻は、子供を産むには年を取りすぎていました。しかしながら、ほとんど希望がなかったときに、アブラハムは神のみことばを信じたのです。そこで、アブラハムは神の前に義人と認められました。
イエスは人類の罪を全部消されました。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、身代わりとして裁きをお受けになり、血を流されました。聖徒は不敬虔であったので、罪の赦しと神の救済とを受けてアブラハムの子孫になりました。しかし、信じない人々もいます。聖書には、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(コリントI 1:25)とあります。神は、神の福音を信じる者をイエスのバプテスマ(水)と十字架(血)への信仰によってご自分の子供になさいます。人間には、これがばかげて聞こえるでしょうが、神による救済と罪の赦しの知恵とは、そうしたものなのです。また、人間の観点からしてばかげているように思えても、神は価なしの賜物によって罪人を罪のすべてからお救いになったのです。
イエスは世界の四隅から、一万人から一人を召され、祝福され、お救いになって、彼らからたたえをお受けになります。聖徒は恵みを受けていますか、いませんか?──受けています。それは自分の働きによるのではないことを忘れないでください。聖徒が恵まれているのは、神がくださった恵みを信じているからであり、また、神がみことばによって信仰をくださったためなのです。神は水と血と御霊によって来られ(ヨハネI 5:4-8)、また、愛のために人間を神の子供になさいました。
聖徒はこの世で数多くの欠点をもちながら恵まれています。心から主に感謝いたします。私たち不敬虔な者は聖化のための働きができなかったのに、主は尊い恵みをくださり、罪ありとなさらず、不正をすべて赦し、覆ってくださいました。聖徒はただ信仰によって恵まれているのです。