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布道

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 2-1] ローマ書第 2 章について

この世界では、二つのグループ、ユダヤ人とキリスト教徒が神を信じています。そして、その中にはイエスを信じる人とそうでない人がいます。神は、イエスを信じない人々の信仰を無益であるとみなされます。しかしながら、キリスト教徒にとって最も深刻な問題は、イエスをともかくも信じていながら、まだ罪を赦されていないということです。使徒パウロはローマ書第 2 章でこの問題を取り上げていますが、これはユダヤ人やギリシャ人ばかりではなく、今日のキリスト教徒にも向けられているのです。
 
 

ユダヤ人は他人を裁きがちである

 
使徒パウロは、同じような信仰をもつユダヤ人とキリスト教徒の両方を非難しました。ローマ 2:1 でパウロは、「すべて他人をさばく人よ」と言って、ユダヤ人やキリスト教徒であるということで優越感に酔っていた人々を非難しました。神を信じるようになって新たに生まれていない人々でも、良心に照らして何が悪いことであるかを知っています。ですから、盗んではいけないと他の人々に言うのです。しかしながら、自分では姦淫を行ない、主のみことばを守らないのに、神を信じているふりをして他人に神の戒めを教えています。そういう人々が、ユダヤ人やキリスト教徒の中で新たに生まれていない人々なのです。
神を信じる者は、他人に偶像を拝んだり姦淫をしたりしてはいけないと言って、自分は神の律法を守っていると自慢します。そこで、律法を破って神を侮るのです。
神の義を知らないけれどイエスを信じている人々もまた、イエスが救い主であると言います。しかし、その人たちの信仰は神の義に基づいたものではないので、すでに人間の罪をすべて消し去っている真の神の義に敵対します。彼ら自身は自分が真の神の信者に敵対していることを知りません。自分はキリスト教徒だと言いながらイエスの愛を知らず、霊的割礼も知らず、神の義を伝えている福音を拒んでいる人は大勢いるのです。そうした人々は、神のみこころに従っているとは言いますが、実際はイエスを受け入れておらず、イエスが神の御子であると名乗ったために瀆神罪で磔刑に処したのです。
使徒パウロは、外見がユダヤ人である人がユダヤ人なのではなく、内面がユダヤ人である人がほんとうのユダヤ人であると言いました。ユダヤ人は、自分たちは神の民であり、神の御国に属しているのだと言います。しかし、イエスを救い主と認めなかった彼らが、どうして神を信じられるのでしょう。
使徒パウロは「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ローマ 2:29)と言っています。霊的割礼を信じる者こそが真に神を信じている者なのです。そういう人々が信仰による義人です。
神の信者は誰に認められ、たたえられるのでしょう。神からそれを受けます。パウロはまた、「その誉れは、人からではなく、神から来るものです」と述べました。神の義を信じるなら神から誉れを受け、報酬を与えられます。形だけはイエスを信じても、心に罪があるのならその人は実際には神を信じていません。ただ神を侮っているのです。ですから、不信者として裁きを受けます。
神の真理を無視する者とは誰でしょう。みことばより人間の言葉を重視して従う人々です。そうした人々は、キリスト教の中でさまざまな教派をつくり、神に敵対します。結束して神の義による救済を拒み、敵対します。そうした人々にはどのような罰が下るのでしょう。
 
 

神に敵対する者への罰

 
第 8・9 節には、「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り」とあります。
悪を行なう人間の魂には患難と苦悩が下るのです。ここで「苦悩」とは、地獄に送られる罰です。悪を行なう者は患難と苦悩を受けるのです。
神を拒む者は、どのような呪いを受けるのでしょう。神は、ご自分の愛を拒む者の上に恐ろしい裁きを下されます。霊的割礼によって来る神の愛に敵対する者が、どうして心身ともに安らかに生きることができるでしょう。この世でも死後でも落ちた生を生きる人々がいますが、そうした人々は神の怒りを受けてもしかたがないのです。その人たちは神の義に敵対し、ほんとうに満足することができません。霊的割礼から来る愛を知りません。イエスを信じると告白して教会に行きますが、それでも罪を赦されていないために苦しみます。イエスを信じているだけでは、その奥義を知ることができません。神の義を知る者だけがそれを知るのです。誤って神を信じている人々に申し上げますが、みなさんは神の義である水と御霊の福音を理解し、信じなければなりません。そうすれば呪いを受けずにすむのです。
イエスを信じていながら心に罪があるというのなら、それは、その人が誤った信じ方をしているのであって、神の義を与える真の福音を信じなければならないということなのです。どの宗派でイエスを信じていようと、ともかくイエスを信じていると言いながら、それでも心に罪があるのなら、神の義を無視するという罪を犯しています。神を信じた正しい結果とは、何でしょう。ほんとうにイエスを救い主であると信じるなら、その人には罪がないはずです。しかしながら、イエスを信じるようになっても心に罪があるのなら、それは神の義を完全には理解していないということです。
主はすべての罪人を罪から救われました。すでに肉の形で来られ、罪人を救われ、信者全員の救い主となられています。では、水と御霊をほんとうに信じている者に罪があるものでしょうか。ほんとうに神の義を信じているなら、最初にイエスを信じた瞬間からその人には罪はないはずです。しかし、ともかくイエスを信じていても神の義を無視しているなら、心には罪があるようになります。
ですから、今すぐ頑なさを捨てなさい。「私はイエスを誤り信じていました。では、どのようにイエスを知り、信じるべきなのでしょう。十字架がイエスを信じるうえで重要だと思っていましたが、バプテスマもまた不可欠なのです。イエスが十字架につけられ、身代わりとして裁きをお受けになったのは、バプテスマによって世の罪を被っておられたからだとわかりました。」
こうしたことを認め、信じるのです。主に対して頑ななままでいる人々は、神からその行ないの報復を受けます。結果は、地獄の炎の中に入れられるのです。マタイ 7:22 に「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか』」とあるのは、このためです。主が再臨されると、形だけイエスを信じているふりをしていた、神の義を信じない人々・心に罪がある人々は、神の前で裁かれます。その人たちは主に向かって「私はちゃんと信じてきたではありませんか。主の名によって悪魔を払い、異言を話したではありませんか。私は主にお仕えしてきたのですよ」と申し立てるでしょう。
しかしながら、主はおっしゃいます。「不正を行なう者ども──これは、神の義を信じない人々ということです──わたしから離れなさい。わたしがバプテスマであなたたちの罪をみな消し去り、十字架上で死んだということを信じないで、どうしてわたしを信じていると言えるのです。嘘つきめ。永遠に燃える火に入りなさい。あなたたちの罪は、偽預言者であり、また、大勢の人々を地獄に導いたことです。」神の義を信じず、頑なさを捨てない人々は、神の恐ろしい怒りを受けます。
こうした信仰の最たる例はユダヤ人です。彼らはいまだに神に対して頑ななままでいます。今日でも、彼らはイエス・キリストによる神の義を信じていません。ペンテコステ派の中にも実に大勢の頑ななキリスト教徒がいて、日々の罪は悔い改めの祈りをささげるたびごとに赦されるのだと主張します。こうした人々は神の義を信じない頑なさを捨て、神の怒りを免れなければなりません。
イエスは、人々が毎日犯した罪を悔い改めて祈るたびにそれを赦されるのでしょうか。そうはなさいません。旧約の最後の祭司であり、また全人類の代表であったバプテスマのヨハネは、二千年前にイエスにバプテスマを授け、イエスは十字架上で血を流されました。こうして、イエスは神の義を全うされ、人類の罪全部をただ一度で消されたのです。
イエスはどこで人類の罪を被られたのでしょう。ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったときに、人類の罪全部をただ一度で被られたのです。イエスはまた、負われた罪を身代わりとなって贖われるためにゴルゴタに行かれ、十字架上で血を流され、信者を永遠に罪からお救いくださいました。しかし、罪人であるキリスト教徒はみな、いまだに頑なで、神の義を信じていません。心にある罪がみなすでに十字架上の血によってきよめられているのであれば、なぜ死ぬまで罪の赦しを求めていなければならないのでしょう。彼らは頑ななのです。イエスが十字架上で流された血は重要です。しかし、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマもまた、重要なのですから、神の義を受けるためには信じて一度で罪を赦されなければなりません。
誰にも頑なさはあります。しかし、神の前では、その義を拒むような頑なさは捨てなければなりません。神を信じる者はみことばに従い、信じるのです。私もまた頑固な人間です。しかし、神の前で頑なさを捨て、御恵みにより義人になりました。
真の悔い改めとは、自らの頑なさを捨てて神の義を心に受け、罪の赦しを受けるということです。赦されて後、誤ったやり方は改め、過ちを認め、神の前で霊的によりよく生きようとしなければなりません。それが新たに生まれた聖徒の実生活における悔い改めなのです。
イエスを信じていても神の義を信じていない人々は、滅ぼされます。そうした人々は頑なさを捨て、悔い改め、イエスのバプテスマと十字架とを信じて罪の赦しを受けなければなりません(使徒 3:19)。主は、人間が神の義を信じて一度で罪の赦しを受けるよう、そうせよとお命じになったのです。人間は、イエスがバプテスマと磔刑とによって罪をすべて贖ってくださったことを信じて完全な義人になり、罪を全部ただ一度で赦されるよう神に従い、みことばに耳を傾けなければなりません。神の義を信じると、その人は罪をすべて赦され、賜物として御霊を受けます。イエスの使徒と弟子はみな神の義を信じ、一度で罪の赦しを受けました。みなさんもまた、真理の前で頑なであってはなりません。頑なであるべき時というものがあるのです。霊的割礼をよく理解できないなら、学び、信じなさい。頑なでいてはいけません。悔い改めて信じるのです。
人々は真理を拒み、霊的割礼の真理を知らずに侮ります。「それはおかしい。人間は毎日罪を犯しているのに、どうして義人になれるのです。いいですか、まだ罪深いままでもイエスを信じているなら、神はその人を義人だとおっしゃるのです。これが義認の教義です。心に一つも罪がないから義人とされるわけではないのです。」
しかしながら、これはひどく誤った教えなのです。
聖書で、罪の赦しを与える霊的割礼の福音によって神は、「わたしはあなたの罪をみな消しました。もう罪はありません。わたしがあなたの罪をみな被ったのですから、あなたは義人なのです」とおっしゃいました。「わたしの義を信じますか。わたしの霊的割礼のことばを信じるなら、あなたはわたしの民の一人であり、罪がないのです。」神は完全な救済について語られていますが、名前だけのキリスト教徒は、霊的割礼を信じる新たに生まれたキリスト教徒をけなし、嘲ります。彼らは言います。「やむことなく罪を犯しているのに、どうして人間が義人になれるのです。罪がないといと言えるのは、義認の教義によってだけです。どうして人に本当に罪がないとみなすことができるのです。人間は毎日罪を犯さずにはいられないのです。」人々は神の義を信じていないので、このように非難して頑ななままでいます。
しかし、忍耐強く善を行なう者に神は永遠のいのちをお与えになるのです。忍耐強く善を行ない、栄光と誉れと不死を求める人々は神の子供になりますが、そうしない人々は罰を受けます。誰もが神の子供になって永遠に生きたいと思っています。心から永遠に生きたいと願って罪のない生を行きる者にイエスは永遠のいのちをお与えになります。
「私がほんとうに願っていることは、霊的割礼による罪の赦しを信じて良心に恥じることなく生きることです。主の子供になりたいのです。主の義を信じ、お喜ばせしたいのです。罪のない人間になりたいのです。どうか罪のすべてからお救いください。」神の正しい救済を求め、罪をすべて赦されたいと願っている人々には、神がその願いを聞かれ、神の義の福音をお与えになり、罪をすべて赦されます。永遠に生きることを求める人々に、神は永遠のいのちをお与えになります。
 
 

霊的割礼とは

 
罪の赦しは、イエスのバプテスマと十字架上の血とによって成就されました。小羊の血は、身代わりとして裁きを受けられたしるしであり、ヨハネからお受けになったイエスのバプテスマは、世の罪がイエスの上に移されたことを示しています。今日でも、キリスト教社会は旧約を無視できません。それは、新約を信じることができないためです。聖書を読むと、霊的割礼と過越しの子羊の血とが密接に関係していることがわかります。
ヨハネ I 5:6 には、イエスが「ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです」と記されています。イエスは水だけによってでも血だけによってでもなく、水と血の両方によって来られたのです。すべての罪から救われるには、水と血と御霊のみことばに含まれた霊的割礼を信じなければなりません。
私は出エジプト記第 12 章を読んでいて、霊的割礼について疑問をもちました。出エジプト記第 12 章はどういう意味なのだろう。章全体と聖書の関連した部分を何度も注意深く読みました。そして、イスラエル人が過越しの祭りの肉を食べることができたのは、割礼を受けていたためであり、新約では、イエスはただ十字架上で血を流されただけではなく、ヨハネからバプテスマを授けられていたために血を流されたとされていることに気づきました。
神は正しい過越の祭りについて、イスラエル人に二つの掟をお与えになりました。事前に割礼を受けることと、過越しの小羊の肉を食べることです。これが旧約での霊的割礼でした。新約では、人間の罪はヨハネの授けたバプテスマによってイエスの上に移され、イエスは十字架上で血を流されたとしています。私は、これらのことを受け入れることが霊的割礼を受けることになるのだと気づきました。イエス・キリストは、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを授けられました。それによってイエスは世の罪を被られたのです。人類の身代わりとなって裁きを受けられ、十字架上で死なれたのはそのためなのです。
この真理を心に受け入れて、人はすべての罪と咎とからの救済を受けるのです。すべての罪からの救済を受けるには、霊的割礼をもたらす神の義を信じなければなりません。人々はこのことを知る必要があります。読者のみなさんは、旧約の霊的割礼と新約のイエスのバプテスマとは、罪の赦しに関して一対のものであることを知っておいてください。イエスは罪を犯したから裁かれたのではなく、バプテスマをお受けになって世の罪をその身に被られたために、人類のために十字架上で死なれたのです。これが霊的割礼を受けた者の信仰です。
霊的割礼によって神の義を信じる者には罪がありません。彼らはほんとうにイエスを信じているためです。一応はイエスを信じていても、神から霊的割礼を受けていない人々は気の毒です。その人たちは、ヨハネがバプテスマを授けたときにイエスが世の罪をすべて被られたことを信じなければなりません。
残念なことに、大方のキリスト教徒は十字架だけを信じ、イエスのバプテスマを信じていません。そこで、神の義を信じる信仰をもたないのです。よろしいですか、神が聖書でお告げになっていることを信じなければならないのです。
神学者の教義や教えを打ち崩し、神の義へと導くみことばだけを信じるのです。神の義のない言葉は、ほんとうの神のみことばではないためです。霊的割礼なしの福音は、完全ではありません。神があれほど繰り返し旧約の割礼と新約のイエスのバプテスマについて語っておいでなのは、このためです。つまり、旧約の割礼と過越しの小羊の血と並行して、新約のイエスのバプテスマと血とについて語られているのです。霊的割礼を受けるには、このことを信じるのです。これを信じなければ、神の御国には入れません。
神の義は十字架上の血だけによって成就されたのでしょうか。そうではありません。神の義は、イエスのバプテスマと十字架上の血の両方で全うされたのです。ですから、聖徒は十字架上で流された血だけではなく、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマをも信じて心に霊的割礼を受けているのです。イエスがほんとうにバプテスマと十字架上の死による贖いとによって罪をすべて消してくださったので、霊的割礼は可能なのです。
 
 
割礼とは、切り離すこと
 
イザヤは、救世主イエス・キリストが打たれ、傷ついて身代わりとして人類の罪をお受けになると預言しました。さて、先に進む前に知っておくべきことがあります。なぜキリストは十字架につけられなければならなかったのでしょう。
旧約で、罪人は両手をいけにえの小羊の上に置いて罪を移し、それから殺さなければなりませんでした。次に祭司が罪のためのいけにえの血を少し取り、指で全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りの血を祭壇の土台に注ぎました(レビ記 4:27-30)。旧約の時代の罪人は、このようにして罪を赦されました。では、神の小羊(ヨハネ 1:29)として人類を罪から救ってくださるために来られたイエスは、人類の罪を全部被られるために、旧約にあるように頭に両手を置かれなければならなかったのではないでしょうか。
では、主はいつ、どのようにして世の罪を被られたのでしょう。それは、マタイ 3:13-17 でヨハネがヨルダン川でイエスにバプテスマを施している部分に示されているのではありませんか。これは、旧約のレビ記で、罪人が罪を移すために「罪のためのいけにえの頭に手を置」(レビ記 1:4、3:8、4:29)くと、何度も言われているのと同じです。旧約の大祭司は、山羊の頭に両手を置いてイスラエル人全員の罪を移さなければなりませんでした(レビ記 16:21)。かつてはこのようにして罪の赦しを受けたのです。
それと同様の方法により、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血とによって、人類の罪の赦しが可能になったのです。聖書で神がお与えになろうとなさったのは神の義と霊的割礼でした。ですから、神の義を信じる者は、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血とによって罪を切り離されているのです。新約のイエスのバプテスマの意味を旧約の割礼との関係において理解し、神の義を信じて、ほんとうに心に霊的割礼を受けるのです。
 
 
新約での真の霊的割礼
 
マタイ 3:13-15 を読みましょう。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかしヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。」
バプテスマのヨハネはヨルダン川でイエスにバプテスマを授けました。彼はイエスの頭に両手を置いてバプテスマを授けました。バプテスマ、ギリシャ語の「baptizo」は、水に浸る、または沈むことを意味します。
イエスが人類の罪のために十字架上で死なれるためには、まずバプテスマによって人類の罪を被られなければなりませんでした。そこで、まずヨハネからバプテスマをお受けになり、それから水に身を浸されたのです。イエスはなぜバプテスマをお受けになったのでしょう。それは、バプテスマをお受けになると神の義がすべて全うされたためです。イエスがバプテスマによって人類の罪を被られて神・救い主になられることは、そうあるべきことだったのです。イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて負われて十字架上で死なれることは、まさにそうあるべきことでした。
イエスがその教えを始められるにあたって、まずなさったことは、バプテスマをお受けになることでした。バプテスマ、ギリシャ語の「baptisma」とは、「洗う・埋める・移す・渡す」ことを意味します。旧約では第七の月の十日はイスラエル人の贖いの日でした。アロンは両手をいけにえの山羊の上に置いてイスラエル人の罪を全部移しました。二頭の山羊のうち、一頭は神にささげられ、もう一頭はイスラエル人の前で贖いのささげ物にされました(レビ記 16)。新約では、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪を全部受け取られました。
バプテスマの翌日、ヨハネはイエスを指して言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29)
霊的割礼は、血だけへの信仰によっては不可能であることがおわかりでしょう。
ヨハネ I 5:4 から読んでいきましょう。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(ヨハネ I 5:4-12)
霊的割礼の証拠とは何でしょう。イエスのバプテスマと血とが人類の救済であると信じる信仰です。世に打ち勝ったものは水と血です。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。」主が神で救い主であられることを示す証人は、神が人間の肉の形でこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪をすべて被られ、身代わりとして十字架上で血を流され、そうして人類を罪のすべてからお救いくださったことをあかししています。
新約では、霊的割礼の福音は水と血とからなります。新約では、水はイエスがヨハネからお受けになったバプテスマであり、血とは十字架上の死を意味します。イエスのバプテスマは旧約の割礼に相当します。イエスがヨハネから授けられたバプテスマは、人類の罪がイエスの上に移されたことをあかししてます。これを信じる者は、神の前に立ち、「神様は私の救い主です。神の義を信じています。ですから私には罪がありません。私は神の欠点のない子供であり、あなたは私の神です」と言うことができます。このように自信をもって告げることができるようになる聖書中の根拠は何でしょう。神の義をなすイエスのバプテスマと十字架上の血です。神の義を自分の義として受け入れることは、キリストの血のみによっては不可能です。バプテスマと血の両方によってできるのです。
イエスのバプテスマが人間の救済に不可欠であることを告げている部分を見ましょう。ペテロ I 3:21 は、この真理をあかししてます。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」
使徒ペテロはここで、人類救済の疑問の余地なきあかしについて語っています。イエスのバプテスマは旧約の割礼にあたるものです。わかりますか? 旧約でイスラエル人が割礼のために包皮を切り取ったように、新約では、イエスがヨハネからバプテスマを授けられて世の罪をすべて被られ、人間が霊的割礼を受けられるようになさったのです。バプテスマと十字架上の血とが神の義をなします。霊的割礼とバプテスマには同じ意味があるのです。よろしいですか、イエスのバプテスマは人間全員にとって霊的割礼を示しているのです。
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」神の義は、どのようにして受けるのでしょう。イエスが人類の罪のためにバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれたと信じることによってです。マタイ 3:15 には、「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とあります。人類の罪がみなイエスの頭に移されたので、罪人の罪は完全に消されました。罪人はみな、イエスのバプテスマと血とを信じて義人になります。イエス・キリストは世の罪をすべて負われた後で十字架上で裁きの血を流されました。このようにして人類の罪が全部贖われたのです。イエスがバプテスマをお受けになって世の罪を被られ、人類の身代わりとして裁きをお受けになったと信じることが、神の義を信者にもたらす信仰をもつことなのです。これを信じなさい。
ヨハネ 1:29 は、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と告げています。イエスは神の御子、また造り主として、罪人の罪をすべて負われて割礼の約束を全うなさいました。これが心に神の義である霊的割礼をもたらす真の信仰です。イエスが真の義であられるのです。イエスに感謝しましょう。人間が霊的割礼を受けられるようにしたバプテスマと血をイエスに感謝しましょう。
ペテロ I 3:21 はさらに、「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓い」であると述べています。人間の肉の汚れは、イエスを救い主と信じたからといって除かれません。罪がみなバプテスマによってイエスの上に移されたことと、十字架上で流された血とを信じて、罪の赦しを受けることができるのです。イエスが救い主であると告白して罪の赦しを受けることは、心に起こります。それは信じる者の心に起こります。救い主を心で信じるなら罪を赦されます。肉は汚れたままで毎日不正を行なっていても、罪はないのです。イエスがバプテスマをお受けになったときに罪がみなイエスの上に移され、自分の心にはもはや罪がないと信じると、神の義を受けます。
 
 
真理を信じ、自分のものとせよ
 
ヨハネ 1:12 には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。
みなさんはどんな言葉を受け入れたのですか? 神の御子のなさったことを受け入れるのです。神のみわざとは何でしょう。神の御子がこの世に罪深い肉の形で来られ、三十歳のとき人類の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになり、人類の罪が消されるよう、霊的割礼をくださいました。それから神の小羊として十字架上で死なれ、人類を贖われました。主はすべての罪人の永遠の罪のためのいけにえとなられ、永遠に救ってくださったのです。これが真の信仰です。この真理を信じて聖徒は義人になりました。
キリストの血のみによって霊的割礼を受けることができるでしょうか。いいえ、できません。イエスのバプテスマは人間から罪を切り離し、十字架上で罪人のために血を流してお受けになった裁きは、みなさんと私の身代わりとして裁きをお受けになったものなのです。聖徒が裁きを免れたのは、神の義の福音、すなわちイエスのバプテスマと十字架上の血との福音を信じたためです。イエスを救い主として受け入れることが、罪人の心からすべての罪を消すのです。霊的割礼を心に受けなさい。そうすれば、神の義を得られます。
 
 
霊的割礼は心に受けるもの
 
ローマ書第 2 章で使徒パウロは、「心の割礼こそ割礼です」と述べています。心の割礼は、どのように受けるのでしょう。イエス・キリストがこの世に人間の肉の形で来られ、世の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流して死なれ、よみがえられて永遠の救い主となられたと信じると、受けられるのです。使徒パウロは、割礼は心に受けるものだと言いました。イエスのバプテスマを信じて、人は心に割礼を受けるのです。霊的割礼を心に受けたいのなら、イエスのバプテスマを信じなさい。そうすると、ほんとうに神の子供の一人になるのです。義人とは、イエスのバプテスマと血とがすべての罪から救ってくれたのだと信じる人です。アーメン。
イエスは二十九歳まで家族を支えて個人として生きられましたが、三十歳になられると、教えを広め始められます。教えを広めておいでの間に人類の罪をすべて消され、罪人全員をお救いになりました。イエスが最初になさったのは、罪人を罪から救って義人となさるためにバプテスマをお受けになることでした。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。」(マタイ 3:13)なぜイエスはバプテスマを受けようとなさったのでしょう。よろしいですか、すべての罪人の罪を被られるために、主はそうなさったのです。イエスのバプテスマの真の意味を誤解してはいけません。バプテスマは、罪を移して洗い流すためのものです。イエスは罪人の罪を被られるために、バプテスマを授けるようヨハネにお求めになったのです。
イエスにバプテスマを授けたヨハネとは、誰でしょう。ヨハネは全人類の代表です。これは、マタイ 11:11-14 に詳しい説明があります。「まことにあなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかし、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」
バプテスマのヨハネに至って、神の契約の時代は終わりました。神の約束を成就するべきお方、イエスが来られたのは、このためです。では、旧約の約束を成就するべき人々とは、誰でしょう。イエスとバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネはイエスに罪を移しました。バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者で、新約で神の小羊の上に罪をすべて移すために遣わされました。ヨハネは、いけにえの制度で定められた正しい方法に従ってイエスの頭に両手を置き、その役目を果たしました。イエスがバプテスマをお受けになった時に世の罪は切り取られ、その上に移されました。「このようにして」神は霊的割礼を人類全員の心に施されました。
イエスのバプテスマと血とを自分のための贖いであったのだと固く信じていなさい。イエスはすでに世の罪をすべて被られ、罰をもすべて受けておられます。神の義の福音は、人間の罪をすべて贖うためにイエスがバプテスマをお受けになり、血を流されたというものです。今は神の義を心に受けるだけで罪の赦しを受けることができるのです。それを受けるなら、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」に入ることができるのです。世の中には、すでに神の義を知っている人々と、知らずにまだイエス・キリストの外にいる人々がいます。日は沈もうとしてます。イエスのバプテスマを信じてその内に入りなさい。バプテスマを信じる信仰が、結婚式の祝宴のために用意された油になるのです。みなさんが、ただイエスのバプテスマと十字架上の血とを信じ、主イエスの再臨のためにランプの油を用意できるよう、奥義を知っていただきたいと思います。
イエスはすべての人の罪を消すためにバプテスマをお受けになりました。イエスは神の御子、神であられます。イエスは創り主であられます。イエスは、人間を神の子供になさるため、父なる神のみこころに従ってこの世に来られました。旧約の預言はみな、誰について語っているのでしょう。イエスについて預言しています。預言は、イエスがどのようにしてこの世に来られ、人類の罪を被られ、消されるかを預言しています。旧約の預言が告げたように、イエスが約二千年前にこの世に来られ、バプテスマをお受けになって人類の罪をすべて被られました。アダムとイブに始まり最後の人間に至る全人類の罪を被られました。
霊的割礼を心に受けなさい。「心の割礼こそ割礼です。」(ローマ 2:29)イエスのバプテスマを信じれば、自動的に霊的割礼を心に受けます。心の割礼とは、罪がみなバプテスマによってイエスの上に移されたと信じたときに心の罪が除去されることを意味します。みなさんは心に割礼を受けましたか。心の割礼を信じることによって、罪はみな信仰によってきよめられるのです。
 
 
ほんとうに霊的割礼を心に受けているか
 
イエスがこの世に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれてから二千年ほどになります。今日、ただこのことを認め、心に受けなければなりません。「心の割礼こそ割礼です。」真理への信仰によって頭と心に割礼を受けることができます。聖徒はみな、神の義を信じて救済を受けました。神が地上を裁かれる時が来ても、聖徒は恐れません。神の義を信じる者は、神の裁きを受けません。神の裁きは、神の義を心に受けなかった者に下ります。
なぜ今日のキリスト教徒は、イエスを信じていながら道を誤るのでしょう。なぜ苦しみの内に生きるのでしょう。それは、イエスの血だけが救済なのだと信じているためです。そういう人々は、自身の頑なさを神に押し付けていたと認め、イエスがヨルダン川でのバプテスマによって罪をみな被られたという真理に戻るのです。そうすると、心に霊的割礼が施されます。
イエスのバプテスマと血とを信じるなら、霊的割礼が心に施され、その人はもはや神の裁きを受けることがなくなり、神の子供の一人になるのです。神はその人の神となられ、その人は神の民の一人になります。みなさんの中に、イエスを信じてはいても、イエスの血だけに頼っている人がいるのなら、その人にお尋ねしましょう。霊的割礼と神の義は十字架の血だけによるのでしょうか。救済は血だけによってではなく、イエスのバプテスマと血と御霊によって完了されたのです。
 
 
キリストと結びついて神の義を得る
 
ローマ 6:3-8 を読みましょう。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
第 5 節には、「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」とあります。聖書は、罪から来る報酬は死である、つまり、罪のある者は滅びて地獄に行くとしています。みなさんは、イエス・キリストの真理を完全に信じる前、罪があったのではありませんか?──はい。──ごくわずかでも罪があれば、その人は地獄に行き、「火と硫黄との燃える池」(黙示録 21:8)の罰を受けます。罪を死によって贖わなければならないなら、けっして罪から救われないでしょう。そこで、神はイエス・キリストをこの世に遣わされ、イエスの上に罪を全部移され、身代わりとしてイエスに罰を下されたのです。
神が人類全員を救われたのは、深く愛しておられたためです。父なる神はひとり子をこの世に遣わされ、バプテスマによって世の罪をすべてその上に移され、罪全部を贖うよう御子を十字架に釘で架けられたのです。これを信じることが、イエスと結びつくということです。罪から来る報酬は死です。人間はみな心に罪があり、そのために地獄に行くはずでした。しかし、地獄に行く定めにあった人間の代わりにイエスがヨルダン川でバプテスマをお受けになって罪を負われ、身代わりとして十字架上で罰をお受けになりました。イエスのお受けになったバプテスマが人類の罪を取り除かれたのですから、イエスの死は人間の死なのです。これがキリストと結びつく信仰です。
多くの人々がいまだにイエスを「宗教」的に信じています。その人たちは教会に行き、罪を告白し、赦しを求めて涙を流します。そういうことは今すぐやめ、神の義を信じなさい。そうすれば、神は心に平安をくださいます。イエスは人類をお救いになるためにバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれました。どうか、この福音を信じてください。
神はモーセを通して罪の赦しについてお教えになりました。モーゼは神から、イスラエルの民を救うためにエジプトに行けと命じられました。そこで、妻と子供とともにロバに乗ってエジプトに向かいました。その夜、神がモーゼを殺そうとなさいます。すると、妻のチッポラはすばやく鋭い石を取り、息子の包皮を切り取ると、モーセの足に投げ、言いました。「まことにあなたは、私にとって血の花婿です。」(出エジプト記 4:25)
この部分は、次のような意味です。モーゼの息子でさえ、割礼を受けていなければ神の民の一人とみなされません。そこで、神は彼を殺そうとなさったのです。神は、割礼を受けていないイスラエル人はご自分の民とみなさないとおっしゃいました。旧約の割礼は、神の民の一人であるという印でした。神はこのことをモーゼに気づかせる必要がおありでした。そこで、モーゼの妻がすばやく息子の包皮を切り取りそれを投げて、「まことにあなたは、私にとって血の花婿です」と言ったのです。神がモーゼを殺そうとなさったのは、息子が未割礼であったためです。
たとえアブラハムの子孫であっても、割礼を受けていなければ、イスラエル人から切り離されます。割礼を受けた者だけが過越しの小羊の肉を食べ、かもいと二本の門柱とに小羊の血をつけることができたのです。同様に、霊的割礼を受けた者だけが聖餐に加わることができます。この信仰をもたないものはけっして神の義に入ることができず、そのために、神の栄光に与れません。
使徒パウロはユダヤ人でした。彼は生後八日に割礼を施され、ガマリエルの元で育てられました。彼は旧約に通じていました。そこで、イエス・キリストがなぜヨルダン川でバプテスマをお受けになったのか、なぜ十字架上で死なれなければならなかったのかが、パウロにはわかっていました。ですから、水と御霊の福音を確信をもって説くことができたのです。彼が「心の割礼こそ割礼です」(ローマ 2:29)と述べたのは、このためです。
もちろん、使徒パウロはイエスの十字架上の死について、より頻繁に話しました。なぜでしょうか。イエスが人類の罪を被られるという霊的割礼を行なわれても、十字架上でいけにえとなられなければ、つまり、罰をお受けにならなければ、人類は救われなかったためなのです。パウロが十字架についてより多く話したのは、このためです。よろしいですか、十字架は霊的割礼の結末・完了なのです。しかしながら、今日の大方のキリスト教徒は、イエスのバプテスマと十字架上の死との因果関係について何も知らず、そのために地獄に行く定めにあります。霊的割礼への信仰の力が世代を経てうまく伝えられていたなら、今日のキリスト教は今あるようではなかったでしょう。
初めてイエスに出会ったときにとても感謝する人々がいますが、自身のどうしようもない弱さに失望し、時とともにより深刻な罪人になります。イエスを信じるようになって十年が過ぎても、前以上の罪人になっているのです。イエスを信じるようになっても罪人であり得るのでしょうか。人々は聖歌を口先だけで歌います。
「♪犯した罪思い出しては 悲しむ ♪けれど涙の中に 救いはない … ♪イエス・キリストにおすがりすれば救いはすぐに与えられる ♫ 力限り善事を励み ♪修養しても ♪よい行ないに救いはない … ♪イエス・キリストにおすがりすれば救われる ♪ 」
人々は「涙の中に救いはない イエス・キリストにおすがりすれば救われる」と歌います。しかし、それは口先だけのことです。罪を犯すたびに涙を流して祈ります。「神様、赦してください。これを赦してくだされば、もう悪いことをしません。」キリスト教徒が罪を犯すと、その人は告白し、泣き、赦しを求めます。そうすると、気分がよくなります。しかし、これを何年も続ける人は、十年前にイエスを信じるようになったときよりも心がずっと罪深くなります。そこで、後悔して自問します。「なぜあんなに早くにイエスを信じたのだろう。八十歳になってから、それとも死ぬ直前に信じればよかったんだ。信仰をもつのがあまりに早すぎた。」
これは、神のみこころに従って生きなければならないのに、そうしなかったためです。誰の罪にも必ず罰があります。イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で裁かれ、尊い血を流して人類を罪からお救いくださったのは、そのためです。イエスは三日後に死者の中からよみがえられました。父なる神がイエスを復活おさせになりました。霊的割礼を信じる人は、福音を広める生を生きることができますし、そうしなければなりません。霊的割礼は、人間が神の子供にならなければならないという証拠であり、神の義です。イエスのバプテスマは、人間の罪がその上に移されたということであり、十字架上での尊い血は、身代わりとして裁きを受けられて罪を贖われたということなのです。
みなさんは、イエスを信じながら、心に罪をもっているのですか? それは異端者の信仰です。テトス 3:10 には、「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです」とあります。異端の信仰をもつ人々は、悪いと知りながら罪を犯す罪人です。そうした人々は、死をもって脅されても、自分は罪人であると言い張ります。あまりに頑固なために、誤った考えを改めないのです。神は、そうした罪人に「あなたは異端者です。あなたは罪人です。わたしの子供ではありません。あなたは永遠の火の地獄に行くのです」とおっしゃいます。
イエスを信じながら神の義、またはイエスのバプテスマと血の霊的割礼を受け入れていない人々は異端のキリスト教徒であり、神の前で自らの罪を告白するしかない罪人です。イエスの義を信じない罪人は、御国に入ることができません。
イエスを信じて義人になった人々は、そのあかしとして心に霊的割礼を受けています。次がそのあかしです。イエスは人間の肉の形で来られ、バプテスマをお受けになって十字架上で血を流されました。イエスは、この世に来られ、世の罪を被られるためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。霊的割礼を信じる者の信仰を完全になさるために十字架上で裁きをお受けになりました。イエスは三日後によみがえられ、生ける救い主となられました。これが、血だけではなく、水と血と御霊による、神の義による実に正しい救済です。以上が、イエスによる完全な人類救済をあかしする霊的割礼の決定的なあかしです。
みなさん、救済はイエスの血だけではなく、水と血と御霊によるのだということを心に受け入れるのです。神は世の罪を切り離され、罰を完全に除かれました。神は私の罪だけではなく、世の罪、アダムに始まって地上最後の人間に至るまでの罪までも切り取られたのです。主はバプテスマと血によってすべてを除かれました。霊的割礼を受けるなら、水と血によって来られたイエスが成就された神の義を信じる者は誰でも救われます。
世の罪はみな、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによって切り取られました。霊的割礼を信じる者の心には、もはや罪がありません。イエスはよみがえられ、罪のために死んでいた人類の魂をご自分の義によってよみがえらせられました。神はイエスのバプテスマと血と御霊によって人類を待たれています。そして、人間は今、霊的割礼によって救われます。霊的割礼は、神が創造以前にイエスの内にご計画になったものです。今、神の義を信じているみなさんもまた、霊的割礼を受けているのです。