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布道

主題 10: 黙示録

[第10章-2] 聖徒の携挙はいつ起こるか (黙示録 10:1-11)

聖徒の携挙はいつ起こるか
(黙示録 10:1-11)
 
では、携挙がいつ起こるのかという問題に目を転じましょう。聖書の中には、携挙について述べた部分がいくつもあります。新約聖書には、これについて論じている部分が何箇所もありますし、また、旧約聖書も同様で、たとえば火の戦車に乗って天へ上ったエリヤ、神と共に歩み、神に連れ去られたエノクについての記述があります。このように、聖書では多くの部分で携挙について触れているのです。携挙とは、「引き上げる」という意味です。これは、神がその力によって民を天に引き上げることをいいます。
しかしながら、聖書で最も不可解なこともまた、携挙についての問題なのです。神は、いつその民を引き上げられるのでしょう? この携挙の時の問題は、キリスト教社会において最もしばしば問われる質問の一つです。
では、テサロニケ人への手紙第一第 4 章 14-17節で神が使徒パウロを通しておっしゃったことを見ましょう。「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスと一緒に連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
ユダの手紙第 1 章 14 節ではまた、神は「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる』」とおっしゃっています。つまり、聖徒は御使いのかしらのラッパの音とともに神によって空中に引き上げられ、しばらく空中にとどまり、それから主と共に地上に下るのです。これが聖書に基づいた携挙の描写です。
上の部分を最初に見たのは、黙示録第 10 章では携挙がいつ行なわれるかについて述べているからです。前にも述べたように、本章の主題は第七節、「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する」にあります。この節は携挙がいつ起こるかを告げているので、携挙についての疑問や質問すべてに答える鍵なのです。
ヨハネへの啓示の中で、神は強い御使いを遣わされ、この御使いに主がこの地上に来られたかのようにふるまわせることによって、ご自分のなさることを示されました。この御使いは手を天に上げ、「永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。『もはや時が延ばされることはない。』」「もはや時が延ばされることがない」とは、これ以上延期する理由は何もないということです。これは「時間がない」という意味です。また、時間がないということは、第七の御使いのラッパの音とともに、しもべである預言者たちに告げられた神の奥義が成就されるということなのです。
第七のラッパの災害について言えば、最後のラッパが鳴ると、七つの鉢の災害が始まります。よろしいですか、その時には、この世界にもはや時間は少しも残されていません。ですから、第七節のみことば、「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神ご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する」は、携挙の時を告げているのです。別の場所では、パウロもまた、携挙は御使いのかしらの声と神のラッパの音と共に起こると語っています。これがパウロの言わんとしたところであり、携挙について聖書中で述べられていることすべての始点でもあるのです。
「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神ご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」このみことばは、携挙は第七の御使いがラッパを鳴らしたときに起こり、聖徒は空中に引き上げられるとしています。神のしもべが水と御霊の福音を迷える魂に宣べ広めるとき、真の福音を受け入れた信者の心に御霊がほんとうに下り、彼らはほんとうに神の子どもになるのです。これらはすべて同じことであり、携挙、すなわち神の奥義もまた実現し、聖徒を空中に引き上げるということなのです。
この後で、神は最後の七つの鉢の災害を注いでこの世界を完全に破壊なさり、この地上に神の御国をもたらされ、聖徒はそこでキリストと共に千年間支配し、それから新たな天と地に移り、永遠にそこに生きるのです。
神はヨハネにやがて来る携挙についてお告げになった後で、小さな巻き物を食べて再び預言するようにとお命じになりました。神のしもべが終わりの日々に生きている聖徒に教えるべき最も重要なことは、携挙とその正確な時についてです。これらのことは、聖書に基づいて教えなければなりません。彼らはまた、水と御霊の福音を正確に説かなければなりません。こうしたことを、終わりの時に生きる神のしもべと聖徒とはしなければなりません。神はそのように聖徒にわざを託され、また奥義を明かされたのです。神は、遅延なく確実にみわざを成就なさるとおっしゃいます。時が来れば、神はすべてを実現なさいます。
第 11 章には二本のオリーブの木、すなわち二人の預言者が登場します。二本のオリーブの木に象徴されているしもべ二名は、反キリストと戦って殺されますが、三日半後に死から再びよみがえり、携挙されます。つまり、神は何度か、携挙は反キリストの時代に聖徒が殉教した時に起こると示されているのです。
事前に知っておくべきことは、聖徒は大艱難の間を生き、七つのラッパの最初の六つの災害が終わるまでこの地上にとどまるということです。神は聖徒を七つのラッパの災害から守られます。つまり、神は第六の災害までは聖徒を守られるのですが、反キリストが神との最後の闘争の中で、その専制が最高に達したときに、ついに彼らを殺すのです。このときに聖徒が受け入れる死が殉教です。彼らは信仰を守り、義である死に赴くのですから、それを「殉教」というのです。ですから、携挙はこの殉教の後で起こると信じ、この信仰を他の人々にも宣べ広めるのです。
多くの人々が、携挙が大艱難の前に起こるのか後に起こるのかについてひどく迷ってきました。かつて人々は、キリストは大艱難の後に戻られ、聖徒はこのイエス再臨の際に引き上げられるのだと信じていました。しかし今日、キリスト教徒の大方が、携挙は大艱難の前に起こると信じています。彼らは、七つのラッパや七つの鉢の災害は自分たちには何の関わりもないことだ、ごく普通の快適な日常生活をしている時に引き上げられるのだと考えます。しかし、この誤った教えに欺かれてはなりません。こうした人々は、携挙の時についての知識と理解とにおいてたいへんな誤りを犯しています。終わりの時が次第に近づいてくると、彼らの信仰心は緩み、その信仰は消え失せます。
携挙は大艱難の中間に起こるのだと申し上げているのは、これまで以上に信心深くさせようとして言っているのではありません。ただ、携挙の時期についてはっきり理解し、大艱難前携挙の誤った教えから逃れてほしいのです。第 7 節で、神は詳細に告げられています。「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神ご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」七つの鉢の災害が注がれるときには、それ以前の七つのラッパの災害とは違って、次から次へと立て続けに注がれます。聖徒はこのことを知っておかなければなりません。
黙示録第 16 章  1-2 節には、次のようにあります。「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。『行って、神の激しい怒りの七つの鉢を地に向けてぶちまけよ。』 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々にひどい悪性のはれものができた。」この最初の災害の後で、残りの鉢の中身が立て続けに注がれます。災害は自動操縦モードになっているかのようで、ラッパの音も何も伴わず、七人の御使いが次々に鉢の中身を注いでいくのです。つまり、七つの鉢を連続して注がれて、神はこの世界を完全に破壊なさるのです。なぜでしょうか? 七つの鉢の災害は第七のラッパの災害にそっくり含まれているのですが、これを注ぐことによって、すべてが終わるためなのです。
七つのラッパの災害がもたらされるときには、一つの災害と次の災害との間には少なくとも何らかの間があるのですが、七つの鉢の災害の場合には、そのような間はありません。七つの鉢の災害は最後の瞬間まで温存されています。そして、七つのラッパの災害が順にもたらされてついに最後のラッパが吹き鳴らされると、世界はすべてが終わる全く新たな段階に移ります。
黙示録第 11 章 15-18 節に次のように記されているのは、そのためです。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。『万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。』」
ここでは、第七の御使いがラッパを吹き鳴らすと、大きな声々が「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」と言うのが聞こえます。しかし、災害については何も触れていません。なぜでしょうか? 第七のラッパが吹き鳴らされた直後に起こるのは第七の災害ではなく、携挙だからです。神は、まだ地上に生きている聖徒とすでに死んだ聖徒とをよみがえらせて引き上げられます。そして携挙が終わった後で、七つの鉢の災害を注ぎ、世界を完全に破壊なさいます。
携挙が正確にいつ起こるのかを知りたければ、黙示録第 10 章 7 節を見るだけでよいのです。しもべである預言者たちに告げられたように、神の奥義は確かにこのときに完了しするのです。ここでの神の奥義とは携挙のことですが、それは誰でもというのではなく、聖徒が携挙されるのです。
さて、明確な理解と正しい信仰を得られるよう、別の部分を引いてみましょう。ここでも、聖書には次のようにあります。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです 。」(コリントI 15:51-52) 聖書には、聖徒のよみがえりは最後のラッパとともに起こるとはっきり記されているのではありませんか? ラッパが鳴ると、キリストにある死者は朽ちないものによみがえり、聖徒もまた、一瞬のうちに携挙されるべく変えられるのです。
第 11 章に登場する御使いは、神の遣わされた強い御使いで、それまでの六つのラッパを鳴らした御使いとは異なっています。この強い御使いのすることを見ると、あまりに神に似ているので、神かと思ってしまうほどです。「その頭上にはにじがあって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
つまり、この御使いはイエス・キリストがなさることを代わって実行なさるために、この御使いを神と見誤るのです。ここでは、神がこの強い御使いを通してすべてのことをなさることが示されています。この御使いは足を海と地とにおき、両方を破壊し、雷が来ると、神が宇宙と人類の創造のそもそもの初めからイエス・キリストの内にご計画になったことを完了します。
七つのラッパの災害について言えば、聖徒は初めの六つの災害を経験し、その時点までは福音を説き続けます。神はヨハネに、小さな巻き物を取って食べ、預言するようにとお命じになりましたが、このみことばはまた、みなさんや私にも向けられているのです。つまり、最後の日まで信仰をもって生き続けよというのです。第七のラッパが鳴ると携挙が実現するのですから、この携挙の真理を認め、その信仰を固くもってみことばを聞き、その日が来るまで福音を説き続けるのです。
第七のラッパが鳴るまで、反キリストはこの災害の中にあって活動し、聖徒はそのために殉教し、その後間もなく携挙されます。ですから、イエスの信者の多くの信仰が核心まで揺らぎ、その活力を失うこの時にあっても、みなさんと私は信仰に生き続けるのです。つまり、携挙は第七のラッパの吹き鳴らされた直後に起こるのだと信じ、この信仰に従って生きていくのです。
私たちは、間もなく七つのラッパの災害をこの目で見ることになるでしょう。これらの災害を最初のものから六番目のものまでこの目で見、数えるのです。その後、殉教の時が訪れたと本能的に感じる時が来ると、実際にそれに従って殉教するのです。これはおとぎ話でもSFでもありません。また、恣意的に信じたり信じなかったりできるものでもありません。これは実際にみなさんや私のうえに起こることなのです。
黙示録中で最も明瞭に携挙のことを語っている第 10 章 7 節によると、聖徒の携挙は第七のラッパの音と共に起こり、世界は七つの鉢の災害と共に終わるとなっています。聖徒を携挙なさった後で、神は全世界を滅ぼされるのです。聖徒が全員携挙されると、彼らは空中で主をたたえます。しかし、地上には七つの鉢の災害が注がれ、完全にこの世界を破壊します。七つの鉢の災害が終わると、聖徒は新たになった地上に主とともに下ります。そして千年王国、キリストの御国がこの地上に築かれます。
今日のキリスト教徒はほとんど大艱難前携挙を支持し、中には無千年王国主義つまり、千年王国というものはないと主張する人々さえいます。では、千年王国は現実ではないのでしょうか? 今日では、そのように信じる人が大勢います。中には、韓国最大の教会に勤めていて、黙示録で語られていることはすべて、六百六十六の印から携挙に至るまで、事実ではなく象徴的なものだと唱える人々もいます。主がかつて「人の子が戻った時、ほんとうに地上に信仰を見いだすだろうか」とお尋ねになったように、終わりの時に真の信者を見つけるのは極めて困難です。
しかし、主は聖徒の携挙はほんとうに現実のこととして起こるとおっしゃいます。聖徒は携挙されて空中で主にお会いしてたたえ、主に世話されて慰められ、主とともに再び地上に戻ります。千年王国に降り立つと、復活され、変えられた体で、変化した生から変化した恵みに至るまで、すべてが新たになった中で新しい生を生きるのです。神が着せてくださった栄光の中で生きるのです。みなさんと私は、この信仰と希望をもって生きます。そして、千年王国が終わると、新たな天と地に入り、キリストと共に永遠の誉れと栄光の中でいつまでも支配するのです。
千年王国と新たな天と地に入ると、御使いはみな聖徒のしもべとなります。すべての霊的存在、神とイエス・キリストが創られた全世界とその中にあるすべては、誰のものでしょうか? すべて私たちのものです。聖書が、すべてのものを継ぐのは聖徒だと述べているのは、このためです。みなさんと私は水と御霊の福音によって新たに生まれた聖徒なのですから、私たちは神の相続人であり、すべてのものを相続なさるキリストと共同相続人であるのです。ですから、みなさんと私はこの地上の困難を信仰によって乗り越え、相続する日を楽しみに耐え忍ぶのです。私たちはまた、神の精鋭部隊として戦う信仰をもたなければなりません。
神は、これらのことすべては遅延なく成就されるとおっしゃっています。つまり、確実にじきに成就されるのです。そこで、中にはなぜ神はこのことについてもっと詳しくおっしゃらなかったのかと思う人がいるでしょう。この問いへの答えは、みわざを隠すのが神の知恵であるからなのです (箴言 25:2、ルカ 10:21)。
神のご計画が詳細に書き記されていたなら、この世界は騒然とするでしょう。そうなると、聖徒は終わりの日まで生きることができません。聖徒はほとんどすべて不信者に殺され、誰ひとり生き残れないでしょう。終わりの時の詳細が聖書に記されていたなら、水と御霊によって新たに生まれていない人々は、新たに生まれた信者を殺戮するでしょう。ご自分の目的を隠されることによって、神はふさわしい者にのみ明かし、それ以外の人々には秘密となさいました。これは神の智恵です。神がご計画を聖徒に明かされて知るようになさったのは、それがこの時代の聖徒にどうしても必要なものだからです。
新たに生まれた教会が、今終わりの時について詳細に述べているのは、終わりの時が迫っているためです。大艱難の時代が近いために、聖徒が終わりの時について正しい知識をもち、迫り来る大艱難を耐え忍び打ち勝つようにするために、啓示のみことばが説かれているのです。新たに生まれて者でさえ、何も知らずに大艱難に臨んでは、大艱難が実際に起こったとき何をするべきかを知らず、はなはだしい混乱に陥るでしょう。この混乱は、自分なりの信仰にのみ頼る人々の場合は、より大きいことでしょう。
数多くの準備できていなかった魂が、終わりの時が来た時に無知と混乱のために誤った道を選ぶことは十分に考えられます。「神はあなたに何かおっしゃいましたか?」「祈っていた時に神は啓示を示されませんでしたか?」大勢の人々が神からの啓示を求め、終わりの時には大勢がそのような啓示を得たと主張するでしょう。「祈っていた時に、神は何かおっしゃいませんでしたか?」聖徒が無知のままでいては、終わりの時にこのような質問をしきりにするようになるでしょう。
しかし、神は決してそのようにはみわざを行なわれません。神はすでに「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とお命じになっているのですから。つまり、聖徒は御霊が教会を通して言われることだけを聞くのです。御霊は神のみことばを保証し、真実で正しいことだけをあかしするのですから、世の終わりを告げる災害が訪れた時、聖徒はその後に続く艱難に不意を突かれることなく、信仰をもって生きます。その時までには、聖徒はすでに真理のみことばを聞き、それを信仰をもって心に刻み込んでいるはずだからです。
ヨハネが将来起こることを事前に明かし、神のしもべがこの記されたみことばの範囲内で真理を説くのは、このためです。預言とは、記された神のみことばから得たことを知り、説くことに他なりません。夢や祈りの中で啓示を見たと唱えることではありません。
聖徒の携挙はほんとうに起こるのであり、自分は神の聖徒なのだということを、決して忘れてはなりません。また、自分が、携挙が起こった時には、千年そこで過ごされるために新たになった地上に再びおいでになり、新たな天と地で永遠に生きられるキリストと空中でお会いする、聖徒となっていることも忘れてはなりません。人々が大艱難前携挙や大艱難後携挙について話したり、千年王国は実現しないと唱えるのを聞いたときには、ここまでお話してきた部分を示し、真理を告げるのです。また、テサロニケ人への手紙第一第 4 章、コリント人への手紙第一第 15 章をも示し、主は御使いのかしらの声と最後のラッパの音とともに下られ、共に暮らされるために聖徒を空中に引き上げられるのだと告げなさい。この携挙を信じてはじめて、自分の信仰を守ることができるのです。
携挙されるには、信仰による殉教と体のよみがえりとがなければなりません。携挙はよみがえりと同時に起こるのですから、よみがえらせられるとすぐに携挙され、空中に引き上げられるのです。ですから、携挙とよみがえりとは一体なのです。最初のよみがえりに加わるということは、千年王国で主と共に生きるということです。携挙されることもまた、主と共にこの地上で千年間生きることを意味します。
では、なぜ携挙されるのでしょう? 神が七つの鉢の災害を注いでこの地上のすべてを破壊されるためです。つまり、神はご自分の子どもを終末の災害から救われるために、事前に聖徒を携挙なさるのです。聖徒を罪人と区別し、その別々の運命を示されるために、神は聖徒を携挙なさいます。ですから、聖徒の携挙、よみがえり、殉教といったことすべてを信じるのです。
水と御霊の福音について詳細に明かされている人々がいれば、全く隠された奥義のままである人々もいます。同様に、聖徒の殉教・よみがえり・携挙・千年王国と新たな天と地の支配はすべて、神の奥義です。新たに生まれた者にだけ、神はこれらの奥義を明かし、示されたのです。そして奥義を信じさせることによって、神は聖徒が携挙と天の御国への希望をもって終わりの時を生き、すべての困難に勝利することができるようになさったのです。
みなさんと私はこうした信仰をもつのです。このような信仰なしには、つまり、自分が携挙されること、新たな天と地に生きるということ、主は死者の中から反キリストに殺された聖徒をよみがえらせ、携挙なさって空中にとどまらせ、それから共に千年間支配するために地上に戻されるということを信じることなしには、終わりの時代の困難で陰鬱な生を耐え忍ぶことはできないでしょう。
聖徒には美しい夢があります。そして、主以外の誰もこの夢を実現させる方はおられません。この希望なしには、聖徒は悲しみの中にのみ生き、陰鬱な世界で苦しむのです。
パウロはテモテに、委ねられたすばらしいものを守るようにと言いました。この福音はすばらしいものです。殉教とよみがえり、携挙も同様です。また、千年王国と新たな天と地で生きることもすばらしいことです。これらはみな良く、すばらしいのです。それは聖徒だけのものです。また、その信仰し希望するものはすべて実現するものであり、幻想や想像の産物ではありません。これらは主がお与えくださった希望と信仰です。これらすべてを信じることによって、聖徒はこの時代に千年王国と新たな天と地とがもたらされる日を待ち望んで生きるのです。
携挙されるのは、ほかならぬみなさんと私なのです。信仰をもって生き、主の前に立つために携挙される日と千年王国、新たな天と地とがもたらされる日を待つのです。
神は、やがて後に来られる方はすぐに来るとおっしゃいました。七年間の大艱難の前半に起こる災害はごく穏やかで、短期間のものです。災害が七年間の大艱難期を通して続いたならば、どうして人は耐えられるでしょう。初期の災害は短く、最終的な結末が近づくにつれ、はるかに多くのことが起こります。第七のラッパの災害が起こると、それは壮大な規模に達します。
サタンは聖徒の信仰を揺るがそうとして、教会指導者のいくたりかを殺して見せしめとします。サタンは言うでしょう。「神を否定すれば命は助けよう。」世界がより良くなるとしても、それでもサタンの申し出には二の足を踏むでしょう。では、主が七つの鉢の災害を注がれようとしており、自分がこの災害のもたらす苦しみを経験しなければならないと知っていて、誰が正気で主を否定するでしょう。世の終わりを知っている聖徒は、主を否定することも、また背教することもしません。また、心に御霊が宿っているのですから、神は勇気をくださいます。
神のご計画はすべて、終わりの時には速やかに成就されるのですから、退屈している暇はありません。短期間の災害が終わると、よみがえりがあり、その後に携挙が起こり、聖徒は空中に引き上げられます。肉の体が、主をたたえつつ霊的な体に変えられるのです。神の御国では、美しく優雅な、この地上では決して経験したことのないような全く新しい世界を享受します。霊的体は時空の制約に縛られないのですから、望むままにどこへでも行き、すばらしい驚くべき世界に生きるのです。
このようなすばらしい恵みをお与えくださる神に心から感謝します。みことばによって大艱難、その災害、殉教、よみがえりと携挙について詳細に明かされたことを神に感謝します。また、心が常にこの終わりの時を知り信じて生きるよう祈ります。