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דרשות

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 9-2] 予定は神の義のうちで計画されたものであることを心しておきなさい (ローマ人への手紙 第 9 章 9-33 節)

(ローマ人への手紙 第 9 章 9-33 節)
約束のみことばはこうです。『私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。』 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。聖書はパロに『わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。』と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。』 しかし、人よ、神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。
『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、 
愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。』 
《あなたがたは、わたしの民ではない》と、 
わたしが言ったその場所で、彼らは、 
生ける神の子どもと呼ばれる。』 
また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。
『たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、 
救われるのは、残された者である。
主は、みことばを完全に、しかも敏速に、 
地上に成し遂げられる。』 
また、イザヤがこう預言したとおりです。
『もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、 
私たちはソドムのようになり、 
ゴモラと同じものとされたであろう。』 
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。
『見よ、わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く、』 
彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」
 
 

神がご計画になった真の予定とは何か?

 
ここで、「神がご計画になった真の予定」とは何か、考えてみましょう。予定とは厳密には何であるかを理解するには、書かれた神のみことばを見、信仰に何らかの誤りがあった場合、正す必要があります。このために、まずなぜ神はヤコブを愛され、エサウを憎まれたのかを理解しなければなりません。また、現在のキリスト教徒の予定についての考え方が聖書から離れたものであるかどうかも調べる必要があります。神のお定めになった予定を正確に理解しましょう。
神の恵みを受けるために、キリスト教徒は、神が予定をどのようにご計画に組み入れられたかを知らなければなりません。神のご計画について考えるとき、今日のキリスト教徒の多くは、信仰には関わりなく、ヤコブとエサウの運命が神によって無条件に一方的に定められていたものであるかのように、自分たちの運命は生まれる前に既に定められているのだと考えます。でも、そうではないのです。神に愛されるかどうかは、神の義を信じるかどうかにかかっているのです。これが神がご計画でお与えになった真理なのです。
 
 
神のご予定を正しく理解したければ、自分自身の考えを捨て、神の義に集中しなければならない
 
多くの人々はイエス・キリストによって示された神の義を考えたり信じたりすることができないために、神の愛とはどういうものかを自分なりに考えがちで、中には神の義は不公平だとさえ思う人々がいるのです。そういう人々は、それは正しい考え方ではないと気づかなければなりません。イエス・キリストによって示された神の義であるご計画を考えずに到達した過った信じ方の信仰は捨てましょう。神はある者を愛し、他の者を憎まれると単純に考えるのなら、それは過った考え方によって作り出された誤った信仰なのです。
人間の心は誤った考えに冒されています。現代のキリスト教徒の多くは、心に誤った考えがあふれていることがあまりに多く、正しい信仰をもちません。自身の無価値な考えを捨て、信仰を神のみことばにしたがって神の義を信じるという正しい道に戻さなければならないのは、このためです。
予定は神の義によって計画されたのですから、神の義を信じたときにだけ、正しく理解し信じることができるのです。ですから、神のご計画と神の義を信じるのです。神のご計画とは、神の義のうちの神の愛を信じる人々を義によって包むというものです。
神の予定は、信じる人々をイエスのバプテスマと磔刑とで贖われた罪の赦しの救済によって包んで神の民とするというものです。神の義のうちで計画された真理を信じることで神と正しい関係を築きましょう。神は、ヤコブのような人々を愛の対象とし、エサウのような人々を怒りの対象となさったのです。
 
 

神の予定は、宿命論とは異なる

 
神のご計画の中の予定は、神の義によって定められました。神の愛は無計画に恣意的に向けられるものではありません。人生が運命によって定められているかのように誰もが生まれる前に無条件に選別されているのなら、どうしてイエスの義を信じることによって罪から救われることができるのでしょう? 人の運命がそのように生まれる前に定められており、その人が神に愛されるかどうかはあらかじめ定められた結果であるのなら、誰が神は公正であると考え、誰がそのような神を信じるでしょう? そのような恣意的で独裁的な神は誰も信じないでしょう。
しかし、神のご計画は恣意的でも独裁的でもなく、人を神の義のうちで罪からお救いになり、神の民とするということなのです。神はこのご計画に従って神の義をお与えになり、愛の義によって赦しをお与えくださったのです。神の義の愛を信じる者を愛で包み、信じない者を怒りで包むよう計画なさったのです。
誤解から神の予定を不満に思っている人々には、次のように申し上げます。神のご計画は、被造物である人間をご自分の民とすることです。ですから神の予定に感謝するべきです。神の義を信じる感謝の心をもった民である方が、神を非難する、恨みをもった者であるよりよいのです。イエスを自分の救い主と信じる人はみな、神の義のうちで計画された神の予定について正しい理解と信仰をもたなければなりません。
 
 
神の真の予定は、お召しになる神によって定められた
 
今日の章句、ローマ人への手紙第 9 章 9 節には、こうあります。「『私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。』 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。」 
上の節では、神の予定は愛によるもので、神の義の愛のうちで計画されたとしています。創世記第 18 章 10 節にあるように、サラが子を産むことは肉体的に不可能なことでしたが、アブラハムは、神がお約束になったので、その言葉を信じます。神は次のようにしてアブラハムを義とされました。アブラハムが神を信じ、神がその信仰をよしとされたので、神はアブラハムに息子イザクをお与えになったのです。
ですから、神の義への信仰について話すときは、神のみことばへの信仰について話しているのです。神のご計画と予定についての議論もまた、神のみことばへの信仰によって導かれなければなりません。そうしない人々、例えば、神の義の追求を、幻想や祈りや夢の中で見たと主張するしるしと混同している人々は、信仰において大きな誤りを犯しているのです。
パウロはさらに続けます。「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。』」 
聖書によると、イザクは自分に子どもがなかったので神に祈り、神は双子をお与えになってそれに応えたとあります。神の義のうちで計画された予定は、神に愛された者の信仰と何かしらの関係があることがわかります。
ここで、第 11 節をもう一度見ましょう。「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方による。」 神のご計画の中の予定と選びの真実を理解する鍵は、神の目的は「召してくださる方による」ものだということです。ヤコブとエサウの二人から、ご計画の中の予定に従って神はヤコブをお召しになり愛されたのです。
つまり、神が人々をお召しになり愛されるときには、ヤコブのように義であることから遠い人々をお召しになり愛されるのです。神は、自分を義であると考え高慢であったエサウを召されませんでした。神のご計画の中に定められているご予定では、神がヤコブのような人々を召され愛されるのは当然のことなのです。神がヤコブのような人々を召される目的は、罪人を罪から解放されたご自分の子どもとすることです。召された者を愛で包むためにお召しになる方は神であり、ヤコブとエサウの二人から、神がお召しになったのはヤコブでした。
神のご計画の中の神の義を知り信じましょう。ヤコブは、神がご自分の義の中の恵みを示された典型的な罪人であり、エサウは、神の義の愛を無視し自分自身の義を追い求めて神に背く者を代表しています。神のご計画の中の予定についての神のみことばを明らかにする鍵は、神の目的は「召してくださる方による」ということを理解することにあるというのはこのためです。
自分自身の考えによって作り出した錯覚に基づいた信仰から解放されましょう。神は、神の義のうちでヤコブを愛しエサウを憎むしかなかったのです。神のご計画と予定についての説明は、神の目的は「召してくださる方による」という宣言によってすべての人に与えられています。神のご計画は、神の義のうちで全うされた愛の真理です。神がヤコブを愛され、エサウを憎まれたとき、予定は神の救済のご計画に従って神の義を全うするためでした。
これは、他の多くの宗教で主張されているようによい行ないによって神に愛され救われるということではなく、神のご計画と神の義とを信じることによって罪を赦され、神の子どもとなるということなのです。
 
 
神は誤っている?
 
神は神の義を信じ愛する人々を愛します。つまり、父なる神がイエス・キリストの内で神の義を信じる者を愛し子どもになさることをお決めになったことには、悪いことは何もありません。神はイエス・キリストの内にある人をすべて愛するのではなく、ヤコブのような人を愛すると計画なさいました。
ですから、自分はヤコブとエサウとどちらのようだろうかと問うてみましょう。自身のよい行ないと自分自身の義で頭がいっぱいの人々でも、神に愛されたいと望みますが、この人たちが誤った道を駆け下りるのを誰も止めることはできないのです。ヤコブとエサウのような人々はいつでもいて、今こうして話している間にも、神に愛されたり憎まれたりしているのです。
神の義の愛と救済のご計画を信じて神に感謝し、栄光をたたえましょう。また、神の義がみごとに示されている水と聖霊の福音の真理のことでも神に感謝しましょう。神の愛に包まれるには、その人はまず神の前での自分自身の弱さと罪とに気づき、神の義を信じる必要があるのだと認識しなければなりません。
問題は、多くのキリスト教徒がイエスのバプテスマと神の義を全うした十字架の真実を信じることができず、神は特定の人々を愛され、他の者はただ見捨てられる運命なのだと誤って信じていることなのです。
さらに問題なのは、このような不合理な信仰が主流となっていて、人々に確信をもって説かれているという不幸な事実です。これは急速に広められ、神のご計画になった定めに示されている神の愛をますます多くの人々に誤解させることになっています。ヤコブとエサウの話で神の告げようとなさっているのは、神の子どもとなるために必要なのは人間の義ではなく、神のご計画で予定された神の義の愛に対する信仰だけであるということなのです。
聖書によると、神はアブラハムにお約束になった息子をサラにお与えになりました。このことから、今日でも、神の義の愛とみことばを信じる者は神の子どもとなることができることが分かります。そのような子どもになるためには、神の義とご計画への信仰によって与えられた真理を知ることが必要で、この真理を信じるには、神の愛と義とを信じなければならないのです。
イエス・キリストの私たちに対する愛と、私たちについての神のご計画とは、すべての人に与えられた絶対的な真理と愛なのです。罪から救うために、イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架上で死に、死からよみがえらされたのはすべて、信じる者に永遠のいのちをお与えになるためでした。
この真理は、信仰心をもち、自分自身の努力を示しさえすれば神の子どもになれるということではなく、神の子どもになる唯一の方法は、神が告げになり、私たちのためにご計画になった愛のみことばと神の義とを信じることなのだということなのです。神の愛と義とを信じる者だけが神の愛に包まれるのです。
では、どう振舞えばよいのでしょう? イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じることです。また、恵みをお与えくださいと神にお願いしなければなりません。すべての人は神の前では罪人なのですから、神の民と呼ばれる資格はありません。神の義である愛を知り、神の子どもとなれるのは、神のご計画によってだけなのです。
神に憎まれる者は、神の愛と義とを必要としも信じもしないために憎まれるのです。ですから、神が予定なさった愛のご計画を知り、信じるのです。明白な真理は、神の義の愛を知り信じる者は神に愛され、神の愛を拒み否定する者は神に憎まれるということです。
 
 
水と聖霊の福音を受けられるのは誰ですか?
 
神がお与えくださった水と聖霊の福音は、神の義を明かしている唯一の福音です。では、どんな人々がこの真理を心に受けるのでしょう? それは、自分の運命は永遠の断罪を受けることにあり、神と神のみことばの前には自分は罪人であると知って神の恵みを求めた人々です。「主よ、私は罪人で、あなたの律法に従って生きることが全くできません。私は自分の心を諦め、あなたに従います。」こうした人々に神は、ご自分の義の中の愛である罪の赦しをお与えになるのです。神の義を表している福音を信じることはすべての罪人にとって何より重要なことです。
神は、一言一句従うようにと律法をお与えになったのではないという事実を、多くの人々はしばしば誤解しています。そうではなく、律法の目的は、人間が自分の罪深さに気づくようにすることなのです。では、なぜ罪人は律法に従おうとするのでしょう? それは、罪人はみな、本能的に罪の贖いと赦しとを求めるからです。
しかし、律法をすべて守れる人は誰もいません。試みはただの模倣であり、単なる本能的な物まねで、必死に自分の罪を覆い隠そうとするものであり、神の前には欺きの信仰です。罪人が欺きの信仰を捨て、神の義への信仰につき、神の愛に包まれなければいけないのはこのためです。
私たちをこの愛で包むために、神はイエスを地上に遣わされ、ヨハネのバプテスマを受けて世界の罪を被らせ、十字架上で血を流すことによってすべての罪を消すようになさったのです。神は、神の義の愛を信じる人々の信仰を認められます。神の義を全うする水と聖霊の福音への信仰によってすべての罪から救われたとき、人は神の愛に包まれるのです。これが神がご計画の中で私たちのために定められた、約束された真理なのです。
神は自分自身だけを頼みとする人々を憎まれます 私たちの周りには、そのような人々が大勢います。しかし、みなさんは、神の愛と義とを全うしたイエスのバプテスマと血とを信じてすべての罪から救われてください。そうしてはじめて、神のお召しになった人々のために用意されていた神の愛に包まれるのです。人々はしばしば神の愛と赦しを得るために自分自身で努力します。しかし、こうした努力は神の義への信仰を欠いてはすべて無駄です。
神はご自分の愛で包むために、エサウではなく、ヤコブだけをお召しになりました。神の前でヤコブはずるがしこく、欺きに満ちたうそつきでしたが、神の愛と義とを信じたために信仰の父の一人となったのです。人類の贖いとして神の義を全うするイエスのバプテスマと十字架上の血を信じて神の愛を受けましょう。エサウは自分の狩猟の腕によって父から祝福を得ようとしたために、神の祝福を得られない人の象徴となりました。この点について、よくよく考えてみましょう。この世界で、エサウのような人は誰でしょう? 私たちはエサウのようではありませんか?
ヤコブのような人は神の義の愛に夢中になっています。私たちは、ヤコブがそうだったように自分が弱くよこしまであることを知っています。生まれる前に既に、自分の仕事によってではなくお召しによって立つようにと召された神は、神の愛を受けるには神の愛と義とを信じるようにとおっしゃいました。神は、人類のためにご計画によってご自分の義を全うするためにイエスをお遣わしになりました。
最初にお召しになったとき、神は正しい者ではなく罪人をお召しになるためにおいでになりました。神に憎まれる人々は、自分を自分自身の義に満ちていると思い、神の恵みの愛を信じない人々です。こうした誤り導かれた信仰をもつ人々は神に憎まれ、神の民となって神の愛に包まれることができません。神はこの真理を私たちのためにみこころの中であらかじめ定められたのです。ですから、パウロは断定しました。「それではどういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ9:14)
 
 
ヤコブのような人々が神に愛される
 
神がごらんになるとき、みなさんは本当に神が恵まれるような人間でしょうか? 神があわれみをもたれる者にあわれみをもち、憎まれる者を憎まれるのにどんな理由が必要でしょう? どうして私たちに、神は不正をしたと言えるでしょう?
この地上には無数の人々が住んでいます。ある人々は神に愛されていますが、他の人々は愛されていません。これは神がその人たちに不正をしたということですか?
神はまた、神の義に背いた人々の罪を裁く公正な神です。神の義に表された神のご計画をこの義への信仰によって理解して、この点についてのいかなる誤解もないようにしましょう。世の中には、誤り導かれてパロのように心がかたくなになったキリスト教徒が大勢います。こうした人々は、この章の第 17 節で「聖書はパロに、『わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と言っています」と説明されているように、神に憎まれた人々です。
神の前では誰もが不完全です。でも、パロのようになってはなりません。イエスのバプテスマと十字架上の血とが人類の贖いであると信じないでパロのように頑固でいたなら、神はお憎みになるのではありませんか? そうです。パロのような人々は神に背きます。こうした人々は自分自身の義を誇り、頼みとしますが、自分自身の義では罪を贖うことができないのです。
パロは何に頼ったでしょう? パロはナイル川を信じ頼りました。パロは、川が豊かに流れ続ける限りすべては順調であると考えました。神がパロのような人々を憎まれるのは、このためです。心がパロのようにかたくなになっている人は誰でも神に憎まれ告発されるのです。パロのようであってはなりません。そうではなく、神が無償でお与えくださった恵みに満ちた愛を受ければ神の子どもとなることができるのです。
 
 
神の義のご計画に喜んで同意する
 
みなさんの心は、神のご計画であらかじめ定められた神の義の愛を受ける用意ができていますか? 世の中には、イエスを信じながら、神のご計画を誤解したために悩み苦しむ人々がいます。こうした人々は、「私はイエスを信じている。しかし、神は本当に私をお選びになったのだろうか? 選ばれていないのなら、信仰が何の役に立つだろう? では、どうしよう? ただイエスを信じるのをやめることはできない。どうしたらいいんだろう? 私は本当にイエスを信じている。でも、神の選びに入っていなかったら、どうなるのだろう?」と思います。
それからその人たちは、こう考えて自分を慰めようとします。「イエスを信じて教会の礼拝に出席しているのだから、神は私を選んでくださっただろう。きっとそうだ! きっと天国に私のための場所があるはずだ!」 しかし、罪を犯したとき、また考えます。「神が私をお選びになるはずがない!もうイエスを信じるのはやめた方がいいんだ!」つまり、この人たちは自分で考え、自分で結論を出し、自分で何もかも終わらせます。こうした人々は、とりわけ自分たちの神のご計画についての考え方を見直し、イエスを救い主として信じる正しい理解をしなければなりません。
他方、神のみことばよりも神学者の教えを信じる人々は、言うでしょう。「神は兄は弟に仕えるとおっしゃったし、それに、神は二人が生まれる前に既にヤコブを愛してエサウを憎まれたのではないか? 私たちは今イエスを信じているのだから、きっと、生まれる前にもう救われるように決まっているのだ。」しかし、使徒パウロが言っているように、神のご計画になった予定は「召してくださる方による」のです。
律法に従うことは人を神の子にしません。イエスのバプテスマと十字架上の血に示された神の義と神の恵みと愛を信じることによってのみ、人は神の子になれるのです。
神学者の定めた教理のせいで、多くの人々が、神の義の表れであるイエスのバプテスマと血とを自分たちの救済であると信じられずにいます。神の義を示している愛の福音を聞いても信じない人々は、パロのようなものです。イエス・キリストに啓示された神の義を信じず、イエスを自分自身の好むような信じ方をして神の子どもになろうとする人々を神は憎まれます。
イエス・キリストによって示された神の義の愛を信じていないのならば、今こそそうしなさい。そうすれば、神の愛に包まれるのです。私たちはみな、もともとはエサウのようでしたが、神の義の愛を信じることによって一度に罪から救われたのです。神の義を信じることによって神の恵みの愛を受けたのです。
神は、イスラエル人も異邦人も、神の義の愛を信じる者を神の子どもとする恵みにあずかれるようになさいました。神は、「私は、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」とおっしゃったように、イエスのバプテスマと血の福音をお与えになり、これを信じる者に神の義の愛をお与えになったのです。
次の節「『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる」は、今日人類のために全うされた神の愛のみことばです。人類は神の前であまりにも不完全なので、神は肉の形でおいでになってお救いになり、神の義の愛にあずかれるようになさったのです。
みなさんと私が神の前ですべての罪から救われているのは、神の義の中で計画された赦しの愛なのです。心をかたくなにせず、神の義の愛を信じることによってすべての罪から救われるのは、この真理を信じることによってのみ可能なのです。この信仰による方法以外、罪の赦しを受ける方法はありません。人間はみな、かたくなな心をもって生まれましたが、神のみことばは心とかたくなさを克服できるのです。そうすると、心は神の安らぎに支配されます。神を信じれば、神の義はあなたのものです。
私たちの説いている神の義を伝える真理の福音が存在しなければ、この世界のすべての人は滅びにつくのです。水と聖霊の福音を広める人々がいなければ、人類はすべてその望みを失うでしょう。神の義の愛に包まれた人々がいなければ、世界は既に終わり、すべての人がその罪を裁かれていたことでしょう。しかし、神は、この地上に神の義の愛を信じる人々を残されました。私たちは弱く欠点だらけなのですが、それでも神が私たちを通して働いてくださることに、ただ感謝します。
神の義の愛に包まれた信仰は、イエスのバプテスマと十字架上の血からきた義です。神の義に対する信仰は、イエスのバプテスマと血とを信じる者の心の中にあります。神の義に対する信仰によって、罪から救われるのです。この真理が、神が人類のためにお定めになったご計画、予定、選びなのです。
神は、イエス・キリストにあって神の義を全うするみことばを信じる者は誰でも罪から救われるとおっしゃいました。人が滅びに向かうのは、神の義がすべての罪を除いてくださらなかったからではなく、かたくなな心のために、神の義を信じなかったからなのです。
神のみことばの前に心を柔和にし、水と聖霊の福音を信じましょう。心を神の前に膝まづかせましょう。神の義の愛を信じることによって私たちは恵まれました。神は深いあわれみから人類をすべての罪から救ってくださいました。神に感謝します。神の義を信じる者には何ひとつ恥じることがありません。かえって、神の義を誇りに思うべきなのです。
神が完全に罪から救ってくださったのは、人間が神の前で不完全であったからです。主の救済をたたえよ! 神に愛されるためには、神の義を信じることができなければなりません。
この神の義を知っていますか?そうなら、信じなさい。そうすれば、神の義である愛はみなさんの心に入ります。神がみなさんのためにご計画になった神の義の愛への信仰が誤解のないものでありますように。
神が定められた贖いの愛がみなさんの心に入りますように。ハレルヤ! 義によって私たちを子どもとしてくださった三位一体の神に感謝いたします。