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خطبے

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 5-1] ローマ書第 5 章について

義認の教義は真理ではない

 
パウロはこの章で、神の義を信じる者だけが信仰によって「神との平和を持」つと告げています。それは父なる神が、人類のためにキリストがバプテスマをお受けになって十字架上で血を流すようになさったためです。
しかしながら、今日の大方のキリスト教徒は、神の義について少しも知らないために、神との平和をもつことができないのです。これが今日のキリスト教を信じる者の現実です。すなわち、義認の教義は神の前で正しいものではありません。
義認の教義を信じるのではなく、信仰をもって神の義を得るというのが正しいのです。父なる神は、イエスの信者なら心に罪があってもご自分の民とするとはおっしゃいませんでした。神は、罪人を子供になさいません。神はそのようはお方ではないのです。神は、心に罪をもつものをけっしてご自分の民とはみなされない救い主であられます。私たちの信じている神は、全能です。全知全能の神は、誰かが誤った信仰をもっていることをご存知なのではありませんか。では、神は誤った信仰をもつキリスト教徒の罪人をご自分の民とはお呼びにならないはずです。
誰でも神の前では真実でなければなりません。人々が誤って知り、信じている義認の教義は、神を嘲るものです。ですから、神の義について正しく理解したうえでイエスを救い主と信じなければなりません。父なる神は、イエスを信じているかどうかに関わりなく、人間に罪があってもいいとはおっしゃいません。神は、罪人の罪を必ず裁かれるお方です。
ですから、罪の問題を解決するために神の義を知り、信じなければならないのです。神はイエスのバプテスマと十字架上の血とへの信仰をご覧になって罪をお赦しになります。聖徒は神の義を信じているので、神はご自分の民となさり、受け入れ、恵んでくださりさえするのです。父なる神は、ご自分の義への聖徒の信仰が正しいとお認めになります。
 
 

神はこの世の裁き手ではない

 
神の義を信じる信仰は、みことばを純粋に信じたアブラハムの信仰に基づいています。大方のキリスト教徒は義認の教義を誤解していますから、この時点で明確に理解しておくことが必要です。完全に正しい裁きというものがこの世には存在しないことは、ご存じでしょう。よろしいですか、この世の判事は、いつでも誤った判断をする可能性があります。
それは、人間の判事がみな不完全で、善悪の絶対的基準である神の義を知りもしないためです。大方のキリスト教徒は、神の義は判事が罪人に下す判決と同じ論理を用いるものと考えるために、信仰によって義人となった者(ローマ 5)を裁く神の義を誤解しがちです。
義認の教義は誤審の教義です。それは、この教義が人間の考えに基づいて作られたものであるためです。人間は全能ではありませんから、判断を誤りがちです。そこで、実際は神が人を義人になさるのに、義認の教義に基づいた自分の考えで神を誤り信じます。そのために、「ともかくわたしを信じているのだから、あなたには罪がないとみなそう」と神がおっしゃるだろうと考えるようになります。
しかしながら、神はそのようなことはけっしてなされません。人々はよく、ともかくイエスを信じているのだから、罪があるけれど、神はそれでもご自分の民と認めてくださると考えます。これは、自分の考えに基づいたものであって、悪魔に欺かれた結果の誤った信仰でしかありません。
ですから、神の義への信仰の上に信仰の家を再建しなければなりません。聖く全能であられる神が、どうして心に罪のある者を罪がないと判断なされるでしょう。神は、心に罪のある者を罪がないとおっしゃれるでしょうか。そのようなことほんとうなのだと思い込むのは人間の考えに過ぎません。神は真実の神であられますから、けっして判断を誤られません。真実そのものであられる神が、どうして人間同様にその裁きを誤られることがあるでしょう。そのようなことは絶対に起こりません。神は、ご自分の義を信じる者をご自分の義に基づいて罪なしとなさる、正しい神です。
みなさんは神の義についてご存じですか? 神の義を知り、信じていますか?この義は、水と御霊の福音のことばの中にその全貌が示されています。ローマ書で語られている神の義を理解するためには、水と御霊の福音を理解している必要があります。そうでなければ、神の義はけっして理解できません。これは誰でも知っておくべきことです。神の義を理解する者は、自分を義人にした真理を正しく理解しています。
聖書に明かされている神の義を信じなければなりません。そうでなければ、人間の誤った判断や考えを基とするために信仰は道を誤ります。これまでそうした誤った信仰をもっていたのなら、これからは神の義のみことばに基づいて信じなさい。
これまで大方のキリスト教徒は神学で義認の教義を学び、それがほんとうのことなのだと信じてきました。しかしながら、今は神の義を信じて真の信仰に戻らなければなりません。イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血への信仰によって、神の義は明確に示されています。
 

患難が忍耐を生み出す
 
ローマ 5:3-4 には、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」と記されています。新たに生まれたキリスト教徒はみな、神が必ずあらゆる患難からお救いくださるという希望をもっています。この希望は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出します。ですから、神の義を信じる義人は、患難の時にあっても喜びます。
パウロは、神の義への信仰は神の御国を希望し、それは失望させないとしています。義人はどのような希望をもつのでしょう。神の御国に入り、生きる希望をもっています。こうした信仰はどこから来るのでしょう。父なる神の愛を通してイエス・キリストの義を信じるところから来ます。
 

主は、人間はかつては不敬虔であったとおっしゃる
 
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ 5:6)
人間は孕まれる前から、あるいは、母の胎内にいた時から、生まれてまだ主を知らなかった時から、生涯を通じて死ぬまで罪を犯さずにはいられず、やがては地獄に行く定めにありました。
祖先のアダムとイブが罪を犯したとき、神は、「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記 3:15)とおっしゃり、救い主を遣わされると約束なさいました。この約束にしたがって、私たちが罪を犯す前にすでにイエス・キリストがこの世に来られ、罪のすべてからお救いくださったのです。イエスは世の罪を被られるためにヨハネからバプテスマを授かり、十字架上で血を流されて罪を消されました。主は、死者の中からよみがえられて人類の罪を消されました。主はバプテスマによって人類の罪、みなさんや私のような不敬虔な者の罪を被られ、十字架上で死なれ、信じる者全員を罪のすべてからお救いくださいました。
私たちは敬虔でしょうか。敬虔な人とは、神を崇め、罪から遠ざかっている人です。イエスがみなさんや私、不敬虔な者のためにバプテスマをお受けになって十字架につけられ、よみがえられるようになさったのは、神の完全な義でした。また、人間が弱かったのにお救いくださったのは、神の愛です。
旧約で大祭司が両手を置いて罪のためのいけにえの上にイスラエル人の一年分の罪を移した(レビ記 16:20-21)ように、新約でイエス・キリストは、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度で人類の罪をみな被られたばかりではなく、世の罪を負われていたために、磔刑に処されさえなさったのです。神の義とは、イエス・キリストがバプテスマをお受けになり、血を流されて罪人の罪をみな洗い流されたことを指しています。
みなさんと私は敬虔でしょうか。主は、人間が不敬虔であるために罪人をお救いに来られたのではありませんか。神は、人間がみな不敬虔であることをよくご存じです。人間は、生まれた日から死ぬまで罪を犯さずにはいられないのですから、不敬虔です。しかしながら、人間がまだ罪人であったときに、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されて、キリストは愛を示されました。
 
 
イエスが人間の運命を変えられた
 
生まれたその日から人間がどのような運命に望んでいるかについて考えてみましょう。人間は、生まれたその日から、どのような運命にあったのでしょう。地獄に行く運命でした。では、みなさんや私は、どうしてこの地獄に行く運命から救われることができたのでしょう。運命が変わったのは、神の義を信じたためです。運命を変えた真理は、水と御霊の福音です。神の義を全うなさったイエス・キリストを信じて、運命は幸いなものになったのです。
みなさんは、次の有名な聖歌の歌詞をご存知でしょう。「♬驚くばかりの恵みなりき。この身の汚れを知れる我に ♬ 恵みは我が身の恐れを消し ♬任する心を起こさせたり♬」  神の慈悲と義とが、救済をあかしする真理です。神の義を知り、信じれば、誰でも心の罪をすべて赦され、天の平和を享受できるのです。神の義を知るためには、イエスを信じてはいてもまだ心に罪をもつ人はみな、水と御霊の福音に還らなければなりません。
実際、水と御霊の福音を知らないキリスト教徒は、罪がイエスの上に移されていることにも気づいていません。ですから、神の義を得ることができないのです。イエスがこの世に来られ、十字架上で死なれて罪からお救いくださったことを知ってはいても、自身の救済に確信がもてません。そこで、たぶん世界創造の前に神が選んでくださっているのだとぼんやりと考え、安心しているだけです。つまり、キリスト教を世にある他の宗教であるかのように信じているだけなのです。
第 11 節には、「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」とあります。誰が私たち罪人と神を和解させるのでしょう。イエス・キリストが、父なる神と和解させてくださいました。どのようにしてでしょう。ご自身がこの世に来られ、三十歳のときにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、死者の中からよみがえられ、そうして神の義をすべて全うしたみわざを完了なさったのです。イエスは、この世に天の大祭司として来られ、人類の罪を被られ、神の義を信じる者の救い主となられました。地上の大祭司であるバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流され、よみがえられて、キリストは人類の救い主となられました。
イエス・キリストがすでに罪をすべて除いてくださっているのですから、聖徒は信仰によって神の義を受けることができました。イエスが完全に罪のすべてからお救いくださったと信じる者は誰でも神を喜ぶことができます。心にごくわずかでも罪のある者は、神の子ではありません。
みなさんは、おそらくすでにご存じでしょうが、この世界の人々は、義認の教義と聖化の教義が真理であると信じています。心に罪があってもイエスを信じると言いさえすれば罪がないと神が定められるのは、正しいことでしょうか。あるいは、ただ自分がキリスト教徒であるというだけで神の民だというのは、正しいことでしょうか。
「主の祈り」では、「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ」と唱えます。この句は、心に罪のある者は神を「我らの父」と呼ぶことはできないことを示しています。まだ義認の教義を信じているべきでしょうか。現在罪人である人が、主を救い主だと言えるでしょうか。二年ほどは主を呼ぶでしょう。しかし、やがて主を去ります。キリスト教徒であることを恥じるためです。ですから、義認の教義は人を神の義から引き離すものなのです。
聖化の教義もまた、誤っています。この教義は、人は徐々に変化して、死ぬ直前に完全に聖くなり、聖い人間として神にお会いできるとしています。罪なしで神にお会いできるように、自分で徐々に聖くなれると思いますか? あり得ません。神の義を知り、信じてはじめて人は神の御国に入れると真理は告げています。
 
 
ひとりの人によって罪が世界に入った
 
第 12 節を読みましょう。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に。──それというのも全人類が罪を犯したからです。」
誰によって罪が全人類の心に入り、何人から罪が世界に入ったのでしょう。聖書は、「ひとりの人によって罪が世界にはいった」としています。
つまり、一人の人、アダムのために罪が存在するようになったのであり、人間はみな彼の子孫なのです。では、誰によって世の罪は消えたのでしょう。罪が最初に世界に入ったのと同じように起こったと言えます。
人類の罪は、一人の男が神の定められた法を信じなかったために存在するようになりました。今でも、神のみことばを信じない者は罪深いままで、ついには地獄に行きます。ですから、次のことを覚えておきましょう。人間は自身の罪のために罪人であるのではなく、罪をもっていた祖先のために罪人になっているのです。よろしいですか、人々が罪を犯すのは、弱く、心に罪があるためなのです。人々が犯す罪は、不正とよばれます。人が罪を犯すのは、罪をもってこの世に生まれてくるためです。誰もが不完全で、罪をもってこの世に生まれてくるのですから、罪を犯さずにはいられません。
人間は祖先から罪をすべて受け継いでいるために、本来罪人、罪の種なのです。しかしながら、よろしいですか、神の義を信じてただ一度で誰でも聖い義人になれるのです。
 
 
人間の罪の初め
 
というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。(ローマ 5:13)神の律法を知る前、罪はあったでしょうか。神の律法を知る前、人間は何が神の前で罪深い行ないとして罰されるのかを知りませんでした。神は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とおっしゃいました。そうした、何をするべきか、何をしてはならないかを告げる神の律法と六百十三項目の戒めを知る前、人間は、ほんとうには自身の罪を知りませんでした。
ですから、「というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです」とあるのです。私たち外国人には律法がありませんでしたから、それを知らず、それと知らずに罪を犯していました。大方の韓国人は、岩を仏陀だと思って祈っていました。それでも、自分たちが刻まれた像に仕えていることを知りませんでした。他の神々の前に額づくことは、神の前に罪であることを知りませんでした。
しかしながら、律法が与えられる以前に罪はすでにこの世にあったのです。神は、アダムを作られてから約二千五百年後に律法をくださいました。紀元前1450年ころ、神はモーセを介してイスラエル人に律法をお与えになりましたが、そもそもの初め、律法が知られる前に、罪はすでに一人の人間アダムを通して人々の心に宿るようになっていました。
    
 
イエスは民の救い主
 
イエス・キリストは、お一人で世の罪を除かれたのでしょうか。そうです。第 14 節には、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった者をも死は支配したとあります。ですから、アダムはやがて来る方の雛形でした。人類は、一人の人によって罪人になりました。同様に、イエス・キリストはこの世に来られ、水と御霊の福音によって人類を罪のすべてからお救いくださいました。
イエスは民を罪から救った救い主になられました。アダムの子孫である人類を罪から救った救い主は、ただお一人です。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。」(使徒 4:12)
その名はイエス・キリスト、永遠の救い主です。よろしいですか、人間は一人の人、アダムによって自動的に罪人になっているのです。イエス・キリストが世の罪をただ一度で除かれた救い主であられることを知っていますか?イエス・キリストがバプテスマと十字架上で血を流されることとによってただ一度で世の罪をすべて消された救い主であられると信じていますか? アダムが一つの違反を犯してすべての罪の源となったように、イエスがこの世の罪を除かれ、全人類の真の救い主になられたと信じていますか? 
イエスは、一人の人アダムのために罪人となった者をすべてお救いになるためにこの世に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて被られ、罪の裁きをお受けになって十字架上で血を流され、人類の罪を全部消す神の義をすべて満たされたのです。そうして完全な救い主になられました。
イエスを信じるようになってから義認の教義や聖化の教義を信じても、救済は得られません。イエスはただ一度で永遠の救済をくださいました。イエスは、水と御霊によって新たに生まれた者だけが神の御国に入り、目にすることができるとおっしゃいました。
人間意識の底にこびりついている考えは、何でしょう。それは、因果律です。人々は心の底で、自身の努力や功績が何らかの意味で救済の役に立つのだと考えています。しかしながら、水と御霊の福音を信じたとき、誰もがただ一度で罪からの真の救済を受けるのです。また、イエスは人類をお救いくださるためにこの世に来られ、十字架につけられました。イエスは真の福音を信じる者すべての救い主となられました。    
悔い改めの祈りによって聖化され、やがては義人になるという不合理な考えは捨てなさい。聖書では、一人のお方、イエス・キリストがこの世に来られ、人類の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになり、十字架上で罪を贖われて人類救済を成就なさっているのです。
 
 
イエスは人間の違反とは異なる、永遠の罪の赦しをくださった
 
第 15 節には、「ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。さばきのばあいは、もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」とあります。
みなさんと私の罪は、イエスがバプテスマをお受けになったときにその上に移されたのでしょうか。移されました。イエスは世の罪を負われて十字架に赴かれ、身代わりとして罪の裁きをお受けになりました。
神による救済は価なくして与えられた賜物であり、人間の違反の場合とは違っているのです。
イエスは三十三年この世で生きられ、生涯を通じて罪を犯さずにはいられない人間をバプテスマと十字架上の血によってお救いくださいました。人間は、ただ一度で成就された罪の赦しを信じて救済を受けてからも、この世に生きる身は不完全で弱いために、罪を犯し続けるでしょう。肉は罪を犯し続けても、イエスがバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて被られたのであり、血を流されて神の義をすべて満たされたと信じるなら、永遠の罪の赦しを受けることができます。
罪の赦しの救済の賜物は、アダムの違反とは異なります。神からの罪の赦しの賜物は、人間が日々に犯す罪のように毎日与えられるものではありません。罪の赦しの真理は、すでに二千年ほど前に主がバプテスマをお受けになり、血を流されてただ一度で罪のすべてからお救いくださっていると告げています。
人類を罪のすべてから救った神の救済の賜物は、イエスのバプテスマと十字架上の血とによって、ただ一度で成就された義です。永遠の罪の赦しは、今日の大方のキリスト教徒のしているように毎日悔い改めの祈りをささげて罪を赦されることとは違います。この真理では、主は人間が毎日罪を犯すだろうことを予めご存じだったために、バプテスマをお受けになった際に世の罪を全部ただ一度で被られたと告げています。ですから、父なる神は御子のバプテスマと磔刑とによってその義をすべて満たされたのです。神の義はみな、イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流され、よみがえられて成就しました。
今日、ほとんどのキリスト教徒は、罪は悔い改めの祈りによって赦されると信じています。ほんとうにそうなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。誰かを殺した後で悔い改めの祈りをささげれば罪を贖われると信じるのは誤りです。このような考え方は、人間の考えに過ぎません。神の観点からすると、罪を消すためには必ず罪の代償を支払わなければなりません。そのために神は御子イエスがヨハネからバプテスマをお受けになるようになさり、十字架上で血を流させ、罪をすべて消されたのです。人類の罪はイエスのバプテスマと十字架上の血とを信じて洗われ、除かれるのです。悔い改めの祈りをささげることによってではありません。
ですから、聖書には、「さばきのばあいは、もしひとりの違反のために多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」とあるのです。
神の救済の賜物は満ち溢れます。水道の水を一晩流し続ければ水があふれるように、人間がどんな罪を犯しても、神の救済は罪のすべてを覆って満ち溢れ、人類を救うに余りあるのです。
イエスはバプテスマをお受けになり、世の罪をすべて被られました。また、神の救済は人間の犯している罪よりもはるかに大きいので、人間が救われてもまだ満ちあふれているのです。おわかりいただけたでしょうか。
 
 
一人の人イエス・キリストによって
 
第 16・17 節には、次のようにあります。「また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
一人の人の違反によって全人類が死に支配されました。これは、一人の人アダムの罪によって人間がみな罪人となり、罪のために誰もが神の呪いに臨まなければならなかったことを示しています。罪を犯した者は誰でも、死んで地獄に行かなければなりません。同様に、神の義は一人の人、イエス・キリストのおかげでいのちにあって支配するのです。満ちあふれる恵みの賜物と義とを受けた者とは、水と御霊の福音への信仰によって救済の賜物を与えられた者です。その者たちは、より大きな恵みを神から受け、いのちにあって支配します。
第 18 節は、「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」とあります。
ここで、一つの問いを発して答えなければなりません。「一人の人の罪によって人間がみな罪人になったというのは、ほんとうだろうか。」みなさんは自分の罪のために罪人になったのでしょうか、それとも、祖先アダムが神に対して犯した罪のためでしょうか。人間がみなアダムの違反のために罪人になったのなら、人類を罪から救うために行なわれたイエス・キリストの義のみわざを信じる者は、義人になります。神の義を信じるなら、その人の罪はほんとうに消えるのでしょうか。──はい。その人は罪のない者になります。
「一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」神の義の賜物を価なく受けるということは、ともかくもイエスを信じて救われた後で、聖化されるために毎日悔い改めの祈りをささげなければならないということではありません。絶対に違います。また、使徒パウロが「信仰によって義とされた」ことについて語ったのは、いわゆるキリスト教の「信仰による義認」の教義を意味するものでもありません。
大方のキリスト教徒は、イエスの十字架上の血だけを信じているため、心に罪があります。そこで、心の罪を隠すために義認の教義を受け入れて支持し、「心に罪はあるが、神は罪なしと認めてくださる」と自分に言い聞かせるのです。しかしながら、この教義はとんでもない誤りであり、呪われることにつながるのです。
第 19 節は、「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」とあります。
ここには、従順であった者となかった者とが現われています。一人はアダム、もう一人は人類の救い主イエス・キリストです。アダムの不従順は全人類を罪人にしたため、イエスが父なる神のみこころにしたがってヨハネからバプテスマをお受けになり、世の罪のために十字架上で死なれ、よみがえられて人類を罪からお救いくださって人間と神との和解をもたらされたのです。父なる神は、イエスを信じる者全員をその義によって完全な義人になさいました。    
第 20 節は、「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とあります。
律法が違反を増すために入ってきたとあります。アダムの子孫として、人間は本来罪とともに生まれます。それでいて、罪を犯していても罪だとは思いませんでした。律法がなくては、罪が罪であるとはまったく思いません。神の律法があってはじめて、人は自身の罪を知るのです。しかしながら、律法を知るようになると、ますます罪に気づくようになります。人間は本来罪に満ちていたのですが、律法を受けて徐々に罪深い行ないに気づくようになるまでは、自身の罪深さを知りませんでした。そこで聖書には「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです」とあるのです。
「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」これは、神の律法によって人は自身の罪に気づき、神の義を信じて神の子供になったということです。律法によって欠点と罪深さとを知ってはじめて、人間は神の義を告げている真の福音によって神の恵みを知ることができるのです。律法の前で自分の罪を知る者は、地獄に行く定めにあることを認め、イエスを喜び信じます。イエスはバプテスマと十字架上の死によって救ってくださったのです。律法によって自分の罪深さを知れば知るほど、神の義によってそのようなすばらしい救済が設けられていることがありがたくなるのです。
第 21 節は、「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」とあります。
聖書には、罪が死によって支配したとあります。しかしながら、イエスの水と血とからなる神の恵みは神の義です。神の義が完全に罪のすべてから救ってくださったので、人間は神の子供になりました。
聖化の教義と義認の教義とは、神のみことばを無視する者が人間の論理によって作り上げた無意味な理屈に過ぎません。そのような教義は、哲学者・神学者のわけのわからない屁理屈に過ぎません。神の真理は明確です。
聖徒は、受肉された神イエスが人類を罪のすべてからお救いくださったことを信じて世の罪から救われました。イエスを信じる者は、救われています。これを信じていますか? ──はい。──
神の義を信じるなら、その人は救われています。確かに罪のすべてから救われています。聖化を達成するために限りなく悔い改めの祈りをささげ、過ちを犯すことなく生きることに固執するなら、イエスなしで救われると頑固に言い張っていることになります。聖化の教義が真理を無視して自身の行ないと努力によって救われるということについてどんな偽りを教えようと、イエスが救済への唯一の門なのです。
律法のごく一部でも行なえないということは、まったく従えないというのと同じことです。神は、人間は律法の 0.1% すら守れないとおっしゃいます。自分は律法の5% は守っており、いずれは10% まで上げるつもりでいる人は、自分の能力をまるで知らず、神の義に敵対しているのです。神の義を自分の概念や論理で理解しようとしてはいけません。神の義が人類を罪から救ったのです。そして、人間がそれを信じて子供になるのを神はお待ちなのです。
神は全能で慈悲深いお方ですから、その義によってただ一度でお救いくださいました。人類を罪のすべてから完全に救ったイエスのバプテスマと十字架上の血を神に感謝いたします。