(ローマ人への手紙 第 7 章 14-25 節)
「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は自分のしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
神の恵みはなんとすばらしいのでしょう!
この夏の聖書集会を開くことをお許しになり、気象を操作して台風を阻み好天を恵んでくださった神に感謝します。神は魂を送り、みことばをお与えになり、仲間と聖霊とを喜ぶよう、ご自分の民をお集めになりました。
神は生きています! 神の恵みはなんとすばらしいのでしょう! 人々は台風ダグがこの国に上陸するだろうと思っているので、インジュ渓谷一帯からキャンパーを避難させようと、職員が巡回しています。今日の午後、インジュの町に行ってきました。人々は台風のことを心配して、この台風がどれだけの強さでどんな猛威をふるうだろうかと予想を話し合っていました。
しかし、私たち神の子どもが夏の研修に集まっているというのに、あの人たちが思っているようなことが起こるでしょうか? 私たちが祈れば、神の恵みにより雨は降らないでしょう。神は信徒を吹き飛ばされるでしょうか? 神は気象を支配されますが、それは人間の信仰のためにそうなさるのです。神は賢明にみわざを行なわれるのですから、信仰を始めたばかりの人々に「なぜ神は、私たちが夏の修練をしているときに台風をよこされるのだろう」と疑問に思わせるようなことをして試されはしないでしょう。
知らせを聞いたとき、私には台風ダグを妨げる力は何もありませんでした。できたのは祈ることだけでした。この夏の聖書集会はずっと前に計画が立てられていて、すでにみな集まっていて、今さらできることは何もありませんでした。プレハブ建築のこの礼拝堂が台風に耐えるほど丈夫ではないのではないかと不安でした。そこで、神におすがりしなければなりませんでした。私は祈りました。「神よ、私たちをお助けください。お守りください。イエスの名のもとにお願いいたします、アーメン。」 そうして、神は台風ダグをお止めになったのです! 神はきっと何もかもご存知なのです。神は私たちの状況を私たち以上によくご存知なので、安全に導いてくださいます。
気象はいとも精妙に、神が生きておられることを示しています。私はテントの中で銃声のような雷鳴を聞きました。そこで、テントから出て空を見ました。空は暗く、厚い雲が渓谷さしてやってきていました。そこで、尋ねました。「主よ、雲はこちらに来るのですか?」 私の信仰は揺らぎ始めました。「主よ、どうなっているのですか? 台風がここに来たのですか? 本当にここに?」 しかし私は祈り、神を信じ、信仰をもち続け、言いました。「主よ、あなたは私たちを守ってくださいますね。信じております。あなたが私たちのためにみわざをなしてくださると、とうに信じています。」 信じていれば、神は本当に恵みをくださいます。心から神に感謝します。
肉は身勝手で邪悪
神がみわざを行なってくださらなければ、私たちは何もできません。神は私たちを守り、助けてくださいます。神のみことばを読んでみましょう。ローマ人への手紙第 7 章 14-25 節は、使徒パウロが自身を、肉にあって、売られて罪の下にあったと考えていたことを伝えています。パウロはまた、生きている限り肉が罪を犯さずにいられないのは定められたことであることを知っていました。
新たに生まれた私たちも、肉でよい行ないをしたいと思いながら悪を行ないます。ローマ人への手紙第 7 章 19 節は「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」と記されています。人間の中には善が住んでいないということがわかります。そのために、私たちは悲しみ嘆息し、「私は信仰をもち続けることができるだろうか」と考えます。絶望的な悪である肉のために私たちは深く悲しみます。みなさんは、肉がどんなに身勝手であるかご存知ですか? ローマ人への手紙第第 7 章 18 節には「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」と記されています。
人間は内に悪行の種をもちながら、いつでも自分を弁護します。人間がどんなに身勝手かおわかりですか? 確かに自分が悪であることを知りながら、主の側に立とうとはしません。人間は自分の立場を守ろうとします。主はまことに善であり、神のみこころもまた善です。人間は自分が悪であるのを知りながら、それでもあまりにもわが身がかわいいのです。神は自分の前に他の神をもってはいけないとお命じになりました。神は罪の知識を与えようとしてそうおっしゃったのです。
人間は、自分がどんなに身勝手で独善的か知りながら、わが身かわいさに自分のためには何でもします。何かしら利益になることがあるときには、ほしがってやきもきするのですが、主に対してはなんとけちで欲深に振舞うのでしょう! それは、分別がないからです。子供は絶対に自分のクッキーを手放しません。自分の手の中にある物は壊れるまで握っていて、分け合おうとしません。子供は幼く分別がないからです。子供は、世の中にはクッキーよりも大事なものがあることを知りません。子供とはそういうもので、私たちも同様なのです。
罪は洗い流されましたが、私たちはまだ身勝手です。神がその力によって罪なきものとして御霊を与えてくださったことには感謝します。しかし、罪を赦され新たに生まれた後で、私たちの中で戦いが始まります。この戦いは肉と霊との戦いです。新たに生まれた直後は幸福なのですが、じきにこの戦いに苦しめられます。しかし主は今や、神の王国のために働くことを求めておられます。
主は、人類のために栄光をお捨てになりました。主は肉の形をとって遣わされました。しかし、みめよい男としてこの世に遣わされたのではありません。主はこの世界につましい人間、おそらくは短足で醜い男としておいでになりました。実際、イエスはちっともハンサムではなかったといわれています。イザヤ書には「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」(イザヤ 53:2) とあります。それでも、主は人類の罪をすべて取り去られたのです。
肉は罪にだけ仕えます。パウロは自分の肉が罪の塊であることを知って「私は自分のしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです」と言いましたが、それでも、具体的に述べようとはしませんでした。自らの罪を恥じていたからです。
人間はごみ入れのようなものです。罪の塊です。自分が後ろにごみを落としながら歩いているのが見えるとしたら、どんなに嘆かわしいことでしょう。しかし、自分の良心にさいなまれて神に訴えます。「主よ、こんなことをしてはいけないのです。私はみこころのままに生きたいのです。でも、またやってしまいました。主よ、どうしたらやめることができるのでしょう?」
自分の邪悪さを知るとき、神に感謝できる
神、イエス・キリストがお与えくださった恵みについて考えてみましょう。神は私たちの心に何をなさったのかを考えてみるのです。そうしてはじめて、何が正しいかを知り、主に仕えることもできるようになるのです。神の恵みと信仰とによって、人は神を求め、神に身を捧げ、途中で出会う困難を乗り越えながら心で神に従い、共に歩むことができるのです。
自分が邪悪で神の前に無意味であることを知ると、人は否定ようとします。が、主に仕えることなしに罪を避けることは肉のために不可能ですから、大いなる恵みを受けていながら弱さのために何もできないことに気づくのです。恵みにより仕えることのできるようにしてくださった神に感謝します。 福音に仕えるよう神が聖職につけてくださらなければ、私はいまだ肉の中にあるただの罪の塊のままで、神の前に義である行ないを何ひとつできずにいたでしょう。
仕えることのできるようにしてくださった神に感謝します。ですから、私はこのような祈りを捧げます。「主よ、ありがとうござます。主よ、お金が必要ですが、私には何もありません。私には何もありませんが、あなたのためにあらゆる事をしたいのです。どうかお助けください。自分のためではなく、主のためにお金を使います。自分のためにお金を使ったら、肉は心地よいでしょう。でも、私は主と正しい仕事のために使いたいのです。このお金を得るためにはうんと働いたので、私には貴重です。そして、貴重なものなのですから、これをあなたに捧げます。どうかこれを義のみわざにお使いください。」
自らの邪悪さを知る人たちは、自分の中に良いものが何も住んでいないことを知っています。「良いものが何も住んでいない」とはどういう意味でしょう? それはつまり、肉の中には悪しかないということです。自分のためだけに生きることは悪です。
主イエス・キリストのゆえに、神に感謝します
パウロは告白しました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ 7:24-25) 肉は何に仕えているのでしょう? 肉はいつでも罪に仕えています。しかしながら、私たちは心で神に仕えます。だれによって神に感謝しますか? 主イエス・キリストによって、神に感謝します
パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と言いました。私もです。肉は今でもまだ罪に仕えているのですから、主がすべての罪を取り除いてくださらなければ、救われることはなかったでしょう。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、神に感謝します。」 主に感謝するのは、すべての肉からすべての罪を取り除いてくださったからです。肉は、罪の赦しを得た後でさえ罪にだけ仕えます。しかし、心は神に仕えることを欲します。私たちが神に感謝し心が義となったのは、イエス・キリストによってです。これを信じますか? 神に感謝し仕えるのは、神が罪を取り除いてくださったからです。主が肉の罪を取り去って救ってくださらなければ、私たちは永遠に滅びたでしょう。これを信じますか?
主が罪をすべて取り除いてくださらなければ、どうして平安を得、どうして主に感謝し神に仕えることができたでしょう? どうして罪の下にある人が他の人を救えるでしょう? 刑務所にいる人がどうして他の囚われ人を救うことができるでしょう? 「私たちの救い主イエス・キリストのゆえに、神に感謝します。」 主は人類が神に仕えることができるよう、すべての罪を取り除かれ、心に平安をお与えになりました。
世界に対してすでに死んだ
主なしにどうして福音を説き、神に仕え、神のために働き、神のみわざに貢献できるでしょう? 私たちはこうしたことすべてを主によって行ないます。今日も明日も明後日も、いつまでも主に従い続ける、これが正しい信仰です。主に仕える人々は、家をよく整える徳高く賢い婦人のようなものです。すばやく熱しすぐに冷めるフライパンのような、落ち着きのない宗教生活をしてはいけません。主が再臨されるまで、ずっと主に従っていってください。新たに生まれて後、自分は世界から切り離され滅びたものと考えなさい。自分はもはやこの世界の人間ではないということを念頭に置いてください。私たちはすでに世界に対して死んだのです。
私たちの名はこの世の系図から除かれたのです。わかりますか? 私たちの名はそこには記されていません。
世界は「久しぶりだね」と言うでしょう。「どうしていた? 教会に行ってるんだって? それに、君の罪はみな赦されたんだって? それで、もう罪がないって?」
「うん。もう罪はないよ。」
「おかしいな。君は、へんな教会に入ってしまったんじゃないか。」
「いや、そういうことではないんだ。教会に来なさいよ。とてもいいところだって分かるから。」
「やっぱり、君はへんだと思うな。」
それで、考えます。「どうしてみんな私の言うことがわからないのだろう? わかってくれたらいいのに。」 しかし、まだ新たに生まれていない人たちに私たちを理解できるでしょうか? 人間は罪なき者になれるということを知らない人々に、どうして私たちのことが理解できるでしょう? どうしてその人たちに、イエスが世界中の罪をすべて取り除いたことが理解できるでしょう? できません。ですから、わかってもらえるとは期待しないことです。主は私たちに代わって世界に別れを告げられました。十字架上で黄色いハンカチをお振りになったのです。イエスは、人間が情に流されやすいことをご存知だったので、別れを告げることができないのではないかと心配なさって、「完了した」(ヨハネ 19:30) とおっしゃいました。イエスはまた、「私はあなたたちの名を世界の系図から除きました」とおっしゃいました。
主は資格のなかった私たちの罪をすべて取り除き、神に仕えられるようにしてくださった
主に仕えることが絶対できなかった私たちは、イエス・キリストによって神に仕えることができるようにしていただきました。私たちは本来、主に仕えることはとうていできないはずでした。教会にお連れになり、神に仕える資格をお与えくださった主をたたえましょう。主は私たちをお使いになります。私たちが神のみわざを行なうのではありません。わかりますか? つまり、義である主が神の義であるみわざに私たちを使われるのです。
福音伝道者リーは、かつて、厩肥をテーマとする一連の説教を行ない、自分は悪臭のする厩肥の山のように汚くおぞましいものだと語りました。しかし、それさえも控えめな表現なのです。みなさんが思いつくどんなものよりも、人間はずっと汚れているのです。エレミヤ書第 17 章 9 節では 「人の心は何よりも陰険」だとしています。主であり至高者であられる神は、何よりも、心に偽りが満ちていた者たちが神の栄光のために生きられるようになさいました。神は、ご自分の義のみわざを行なうよう私たちを召されました。
主が罪をすべて洗い流してくださったので、私たちは主に従い、神の恵みの中で生きることができます。神と共に苦しみ、共に栄光にあずかることができます。主によらなければ、私たちはすでに死んでいるのです。主が罪をすべて除いてくださらなければ、救いにあずかることはできなかったでしょう。肉に従って生きていたなら、まだ世の人々の中にあったでしょう。
主はただ一度で永遠にお救いくださいました。神は私たちを救い、神の永遠のみわざの道具となさいました。人間はなんと邪悪で汚いのでしょう! 主に出会ってから、自分がどんなに邪悪で汚れているかがますますよく見えるようになります。人間が光を見て喜ぶのは、このためです。しかし、自分を見るとき、パウロがそうしたように、悲しみ嘆息します。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ 7: 24)
しかし、パウロはすぐに主をたたえます。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」 主は人類の罪をすべて流し去ってくださいました。主は肉の罪をすべて消し去ってくださいました。肉は毎日いくつの罪を犯すでしょう? 自分の肉は罪を犯さないふりなどしてはいけません。
主に感謝しているか
主は人類が肉で犯す罪をすべて消し去ってくださいました。これを信じていますか? 主が世界の罪を取り除いたというのは、たいしたことに思えないかもしれません。しかし、自分が肉によって犯した罪のすべてを主が取り除かれたと気がついたならば、思わず叫ぶでしょう。「神に感謝します、主イエス・キリストのゆえに。主よ、ありがとうございます! 主にたたえあれ!」
罪にはそれ自体の重みがあります。主は私たちが生涯、最後の日まで犯し続ける罪のすべてを取り除いてくださいました。なんとありがたいことではありませんか! ほんの少しだけ罪を犯したのであれば、祈りや悔い改めによって神の赦しを求めるでしょう。しかし、罪は無数にあって、生涯やむことがないのです。これに気がついたとき、神に感謝せずにはいられません。「主よ、ありがとうございます。あなたは私の罪をすべて消してくださいました。主にたたえあれ!」 つまり、「私たちの主イエス・キリストのゆえに」神に感謝するのです。みなさんは、神に感謝し、このように告白しますか? 「主よ、ありがとうござます。あなたの義に仕えるようお召しになり、救ってくださったことに感謝します。肉の罪すべてから救ってくださった主に感謝します。」 みなさんは主に感謝しますか? 罪からの真の救済はこのように単純そうですが、これは軽々しく扱うべきことではありません。これは極めて深く、偉大で、広く、尊く永遠なのです。
自分の中には有益なものは何一つないから主に従う
人間は罪の塊です。自分が闇そのものであることを認識しましょう。「私は闇ですが、主は光です。私は完全な闇ですが、あなたは真の光です。あなたは太陽で、私は月です。」 月は太陽からの光を受けてはじめて地上を照らすことができます。
月自体は光を放つことができません。月は太陽から受ける光を反射することで照らすのです。すべては闇の中です。みなさんは、光ですか、闇ですか? 主なしでは、人は闇の中です。イエス・キリストによって、そして主の中には断罪がないので、私たちは神に感謝し、仕え、従うことができるのです。一方、肉でのみ仕えるのは、闇だけを捧げることです。それはできるだけ早くやめなさい。肉はどんなに努力しても変わりません。人間の中に特別なものは何もありません。肉は永遠ではないのですが、私たちは永遠のもののために生きます。永遠のもののために生きる人は、賢い人です。早くに自分を知り、自分を放棄したほうがよいのです。自分自身からは何も期待できないこと、自分の中には良いものが何もないことを知りましょう。人間は罪の塊であり、いつでも肉にだけ仕えます。肉は「くれろ、くれろ」と言って、からだにくっついて血を吸うヒルのように振舞うのです。(箴言 30:15)
私たちは、何か食べた後でトイレに行ったかと思うと、すぐに空腹を覚えます。どんなによく仕えようとしても、肉を満足させることは決してできません。どんなに大量に、どんなおいしい物を食べても、数時間のうちに空腹になります。しかし、主に感謝して神に従うと、喜びは大きくなるばかりです。
主に従うとき、人は空腹を覚えません。救済の後で永遠の喜びを得たいと思いますか? それならば、主に従いなさい。光の中を歩みたいと思いますか? 主に従いなさい。恵みの中で生きたいと思いますか? 主に従いなさい。実り豊かな人生を送りたいと思いますか? 自分は闇だということを知り、ただ光に従いなさい。
主のおいでになるところに従って行き、主の止まられるところで止まります。主が望まれることをし、主が望まれないことはしません。神とともに歩み、従うのです。みなさんは、自分自身に何かを期待していますか? もちろん、していません! 自分自身には何一つ期待できないのですから、神に従うのです。肉は永遠ですか? もちろん、違います! では、なぜ何ももたらさず、永遠でもないものに従っているのですか?
ずっと昔、私はこんな歌を歌っていました。「♪若い時を返して♪」でも、今は、神が若さを返してくださらなくともいいのです。考えてみると、若い時に戻っても幸せではないだろうと思います。いのちの光である主に従えば、栄光の冠は私たちの頭上に置かれるのです。再び子供時代に戻る必要はありません。その代わり、こう歌います。「♪主を拒まず、命ある限り従わん♪」 これは、人生にあって主を拒まず、常に神に感謝して生きるという真の信仰を表しています。さあ、聖歌を歌いましょう!
「♪地の塵から人間を造られた主なる神を愛す。神はその鼻腔にいのちの息を吹き込まれた。♫我らのために御子を遣わせたまいぬ。神の姿に似せて造られしこの身をば主に捧げん。♫主を拒まず、命ある限り従わん。♪」
心から主に感謝する
心から主に感謝します。主は私たちの罪を取り除き、神に仕え、従い、神の義の仕事を行なえるようにしてくださいました。肉で犯した罪を主が消し去ってくださらなければ、どうして神の仕事ができたでしょう。少しもできません! 罪人は、どんなに良い人のように見えたとしても、やはり悪なのです。主が罪を洗い流して神に仕えることのできるようにしてくださるのは、なんとすばらしいことではありませんか。生まれてからずっと汚穢にまみれ、けちけちと暮らし、地獄行きは確実、主なしに虚栄に満ちて生きてきた人類の罪をすべて除き、祝福してくださったのは、なんとすばらしいのでしょう。
神に仕える者として私たちを選び、罪をすべて除いて信仰による贖罪をお与えくださった主は、神の恵みの偉大さを示しています。心に罪がありながら、どうして義であることができるでしょう? 私たちに罪がないという事実は、実にすばらしい恵みです。神はほむべきかな! たしかに肉はまた罪を犯すでしょう。こうして神のみことばを聞いていても、また罪を犯すでしょう。たぶん、この礼拝堂を出てすぐにでも。ですから、罪をすべて洗い流してくださった主をたたえるのです。本当です。主イエス・キリストはヨルダン川でのバプテスマで人類の罪をすべて取り除き、罪の裁きを十字架上で終えられたのです。私は神を信じ、たたえます! では、どうやって神をたたえるのでしょう? イエス・キリストによって神をたたえるのです。
聖徒のみなさん! 残りの生涯をかけて神の恵みに報いようとしても、それはとうていできません。罪をすべて取り去り、弱い私たちが神の正しく実り豊かなみわざを行なうことのできるようにしてくださった主には、永遠に感謝し続けても、十分ではありません。一生神をたたえ続けても、十分ということがないのです。
自分の中に何一つ良いものが住んでいないことは十分自覚しています。考えてごらんなさい。人は生きている限り罪を犯し続けますか? 必ず罪を犯します。しかし主はすでにその罪を取り除いてくださったのです。主は神のみわざを行なうようにと恵みをお与えくださったのです。主が、神に仕えられるようにしてくださったのです。主に感謝し続けずにはいられません。主をたたえてイエス・キリストによって神に感謝する人生を歩んでください。神が、感謝しながら人生を歩めるようにしてくださったのです。主は、肉で犯す罪のすべてから人類を救ってくださいました。主は、人類が心で神に仕えるよう、すべての罪から救ってくださったのです。主の恵みはあまりに大きいので、神に従い仕えたいのです。心から神に感謝しましょう。
神はイエス・キリストによって本当にすばらしい恵みを与えてくださいました。自分の肉がどんなによこしまで弱いものか、よく心得てください。自分のしていることをよく見、主は本当に自分の罪を取り去ってくださったのかどうかを考え、主に感謝し、信仰に生きてください。尊いいのちを生きるようにしてくださった主に感謝します 「主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:25) 人間は心では神を愛しますが、肉では罪を愛します。しかし、主はより愛しいのです。肉で無法な行ないをするまでは、それは罪ではないでしょうが、主は、私たちが将来犯すであろう罪までもすでに消し去ってくださったのです。主がより愛しく、また主に感謝するべきだというのは、このためです。
主よ、ありがとうございます。神に仕える心をお与えくださったことに、一生犯し続ける罪のすべてから完全に救ってくださったことに、感謝いたします。