Search

خطبے

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 10-2] 真の信仰は、聞くことから始まる (ローマ人への手紙 第 10 章 16-21 節)

(ローマ人への手紙 第 10 章 16-21 節)
「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。』とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。でも、こう尋ねましょう。『はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。』 むろん、そうではありません。
『その声は全地に響き渡り、 
そのことばは地の果てまで届いた。』 
でも、私はこう言いましょう。『はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。』 まず、モーセがこう言っています。
『わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、 
無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。』 
またイザヤは大胆にこう言っています。
『わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、 
わたしをたずねない者に自分を現わした。』 
またイスラエルについては、こう言っています。
『不従順で反抗する民に対して、 
わたしは一日中、手を差し伸べた。』」
 
 
第 17 節は「そのように信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とあります。人をその罪から救う信仰はどこから来るのでしょう? 真の信仰は、神のみことばを聞くことから始まります。
私は、みことばによって神の義の福音をあかしすることを続けたいと思います。まずローマ人への手紙第 3 章 10-20 節から見ていきましょう。
「それは次に書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、 
みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。』 
『彼らののどは、開いた墓であり、 
彼らはその舌で欺く。』 
『彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、』 
『彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。』 
『彼らの足は血を流すのに速く、 
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。』
『彼らの目の前には、神に対する恐れがない。』 
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
救済を得るためには上の部分をどのように理解したらよいのでしょう? そもそもの初めから、義である者も神を求める者もおらず、ただみな罪人でした。その人たちの喉は開いた墓であり、その人たちの口は毒蛇の毒のようにずるく、呪いと恨みに満ちていました。その人たちの足は、血を流すのに速かでした。その人たちは平和の道を知らず、目の前に神を恐れることも知らず、ただ自分の滅びと惨めさに向かって歩いていました。神の義を知り信じる前は、すべての人が罪人です。そして、自分が神の前に罪人であることを知るのは、律法によるのです。
律法なしにどうして自分が罪人であることを知り得たでしょう? どうして神を知り得たでしょう? 人間は神を恐れたでしょうか? ローマ人への手紙第 3 章 18 節には「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」とあります。肉の目は神を見たことがあるでしょうか? おそらく神の存在をかすかに感じていたでしょうが、見も恐れもしませんでした。では、どうして自分が罪人であることを知ったのでしょう? 書かれた神のみことばを聞くことによって神の存在を知ったのです。神のみことばから聞くことが始まるというのはこのためです。
聖書に「初めに、神が天と地を創造した」(創世記 1:1) と書かれているので、神が世界をお創りになったことがわかります。みことばを聞くことによって神の存在を知り、信じ、神は宇宙全体の創造者であると信じるようになったのです。みことばがなければ、神を知る者も恐れる者もなかったでしょう。また、みことばがなければ、ひとりたりとも自分の罪を知ることはなかったでしょう。
つまり、もともとは神のことを知らず、無益なものを拝み、自分の罪を知らずにいたのです。しかし、神が律法をお与えになったので、それによって神の前の自分の罪を知るようになったのです。十戒と 613 の詳細な律法の条文として与えられた神の律法のみことばを聞くことによって、自らの欠点と罪を知るようになったのです。
律法のみことばなしには、誰ひとり自身の罪すら知ることができません。刑務所にいる囚人はみな、「自分の罪が何か知らない、なぜ閉じ込められているか分からない」と主張するでしょう。彼らの多くは無実を主張します。自分は不当に、不正に刑務所に送られたと言います。神の律法を知ることなしには、人は自分の罪を知ることができず、「いつもこういうふうにしてきました。みんな、こうします。どうしてこれが罪なのです?」と尋ねます。
神の律法を見、聞くことによってのみ、自分の罪に気がつくのです。神の律法がそう言っているために、みことばに従って生きないこと、他の神々を拝むこと、神の名を空しく呼ぶこと、安息日を守らないこと、殺すこと、姦淫、盗み、嘘、ねたみといったことは罪なのだと知るのです。このように、神のみことばにより神の前で自分が罪人であるということに気がついたのです。この律法の以前には、自分の罪さえ知りませんでした。
では、自分が罪人であることを知ったなら、神の前でどうするべきなのでしょう? どうしたら罪が赦されるのかを尋ねるのです。みことばを聞くことによって自分の罪を知るようになり、救済の必要を知ったのです。飢えた者が食物の必要を感じるように、神の律法を破ったことに気づき自分が深刻な罪人だと知った人々は、救済の必要を認識するのです。このようにして神を求めるようになり、神の遣わされたイエス・キリストによって神の義を信じることの必要性を知るようになったのです。「信仰は聞くことから始ま」るのであり、みことばを聞くことで自分の罪を知るのです。
 
 

自分が罪人であることを知った。では、罪から救われるにはどうしたらいいのか?

 
神のみことばを聞き学ぶことで自分の罪に気づいたように、救済は心の中心にあるみことばを信じることで得られます。ローマ人への手紙第 3 章 21-22 節にあるように、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
神は人類に律法をお与えになることで、みことばに従って生きられないことから自らが神の前で罪人であることを知るようになさいました。したがって、人間には二つの欲求があります。律法に従って生きたいのですが、同時に、罪からの救済を必死に求めているのです。しかし、「今は、律法とは別に、……神の義が示され」たために、罪から救われるためには、律法の中にではなく、この神の義に対する信仰による罪の贖いを求めなけばなりません。この救済は律法に従うことによってではなく、イエス・キリストによってお救いくださった神の義そのものによって、神の与えられた救済によって得られるものです。
では、この神の義と救済とは何でしょう? これは、旧約と新約の両方で語られている、水と聖霊の福音です。水と聖霊の福音は、旧約聖書では犠牲の制度の中の信仰による救済として描かれ、新約ではイエスのバプテスマと十字架への信仰によるものとされています。ローマ人への手紙第 3 章 21-22 節は、「律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」と言っています。
では、どうしたら神の義を受けられるのでしょう? 律法と預言者とにあかしされたみことばによると、イエスは神で人類の救い主であり、イエスへの信仰によってすべての罪から救われることによって神の義を受けられます。
つまり、旧約の律法と預言者によってあかしされたみことばを信じることで神の義を受けるのです。律法と預言者とがみことばをあかししたことは、ヘブル人への手紙とローマ人への手紙の最初の章にも記されています。
神が約束なさった救済とは、イエスが人類を救うためにおいでになったことを指します。律法の下にあって滅びる運命にある罪人を救うというこの約束は、何千年も前に神がなさいました。神は何度もこの約束についてお話しになり、いかにしてこの約束を守るのかを、私たちの前に来た多くのしもべによって示されました。
例えば、次の部分を見てみましょう。レビ記第 16 章 21 節には、「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ」とあります。ローマ人への手紙第 3 章 21-22 節にある、神の義は律法と預言者にあかしされたという部分は、イエスによる完全な救済が旧約の幕屋での犠牲とイザヤ、エゼキエル、エレミア、ダニエルなどの預言者によって示されているということなのです。
つまり、神はすでに旧約のみことばによって、どのように救済の約束を果たすかを示されていたのです。神は、ご自分の義によって人類を罪から救うだけのために、イエス・キリストをお遣わしになり、バプテスマによって世の罪をすべて被らせ、人類に代わって十字架上で死なせ、そうしてそのからだで罪の報いをすべて支払わせられたのです。ですから、救済は律法によるのではなく、律法と預言者とによってあかしされたように、神の義とイエス・キリストご自身に対する信仰によるものなのです。
神は、イエス・キリストによって全うされた御自分の義を信じることによって人類が救われたとおっしゃいます。信仰は神のみことば、イエス・キリストのみことばを聞くことから始まります。イエスが救い主だと、どうして分かるのでしょう? 神のしもべの語った、神がご計画に従って救うことを約束なさり、イエスがこの約束とご計画に従って救いにおいでになったという神のみことばを聞いて、イエスが救い主であると知り、信じるのです。ダニエル書第 9 章 24 節に書かれているように、「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためにである」のです。
 
 

神は私たちの民のために七十週を定められた

 
上記ダニエル書の一節について続けましょう。引用部分は、偶像崇拝のためにイスラエル人が 70 年間バビロンにとらわれるよう神が定められ、バビロンによってイスラエルが陥落したときのことを描いたものです。神が定められたように、イスラエルはバビロンに攻められ、圧倒され、壊滅的な打撃を受けて侵略者に降伏しました。バビロニア人は多数のイスラエル人を捕虜とし、奴隷としました。捕虜の中にはダニエルのような賢い者がいて、バビロニアの王は、彼らを相談相手としました。
神はこのようにイスラエル人の罪を罰されましたが、あわれみ深くあられたので、いつまでも怒りをもたず、70 年間で解放するようご計画になったのです。
ダニエルがイスラエル人のためにあわれみと救いを祈ると、神は御使いを遣わされ、上に引いたように「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである」とお告げになったのです。これは、七十年で違反の罰が終わったときに民の罪を赦すと神がダニエルに約束なさった部分です。この部分はまた、イエス・キリストによる救済の約束を示しています。
イスラエル人は数多くの罪を犯したために、神は彼らを罰さなければなりませんでした。そして、70 年間の奴隷生活という代償によって、過去の罪をすべてお赦しになりました。違反が贖われ、罪の結果が清算されたとき、イスラエル人の罪はすべて消されたのです。不正の悔い改めが行なわれたとき、永遠の義がもたらされ、幻と預言は終結し、神がエレミアに告げられたみことばのすべては全うされるのです。70 年間の虜囚で、これらすべてが実現し、70 年目にイスラエル人は故国に帰るのです。
これが神が御使いを通してダニエルに告げられたことです。これは、イスラエル人にされた約束ですが、これにはまた、霊的な意味があります。神がイスラエルと聖都のために 70 週を定められたように、信者みなのために天の聖都、神の国をご用意なさったのです。
ローマ人への手紙には「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」とあります。イエスがこの地上においでになり、バプテスマを受け、十字架上で死なれて罪がすべて除かれたとき、人類の罪は終わり、永遠の義が示され、幻と預言が終結したのです。ダニエル書のこの部分は、「至聖所に油をそそぐためである」で終わっています。これは、どういう意味でしょう? 至聖所とは、この地上に油を注がれるためにおいでになるイエス・キリストにほかなりません。
油を注がれるとは、どういう意味でしょう? イエスが王、神の国の祭司長、預言者の三つの地位に着かれるということです。王、祭司長、預言者としてイエスは、人類をすべての罪から救うという神のみこころを成就なさいます。ダニエルの前に現れた御使いの預言したように、イエス・キリストがこの地上においでになってバプテスマを受けて罪をすべてその身に被られ、人類に代わって裁きを受けられたのです。
「信仰は聞くことから始まる。」 では、どうしたらこの神の義の福音を聞き信じられるのでしょう? どうしたら、イエス・キリストが救い主だと信じられるのでしょう? 旧約と新約にある、預言者と神のしもべによって話された神のみことばを聞いて信じることができます。パウロが信仰は聞くことから始まると言ったのはこのためで、信仰はキリストのみことばを聞くことから始まるのです。
ダニエルやイザヤのような旧約の預言者はイエス・キリストの来臨を預言しました。特に、イザヤは、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」、「ほふり場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ 53:4、7) と預言しました。
イザヤの時代の誰が、イエス・キリストが最も平凡な人間として処女からこの地上に生まれ、三十三年間生き、洗礼を受け、十字架につけられ、三日目に死からよみがえると信じたでしょう? しかし、イザヤはイエス来臨の 700 年ほど前にこれらのことがすべて起こると予見し、預言したのです。イザヤは、キリストが人類の悲しみとすべての罪を被られるだろうとあかししました。
パウロがローマ人への手紙の中で、イエスが地上においでになり、罪をすべて取り除かれ、神の義によってお救いになった事情を神のしもべがどのようにあかししたかを説明する際に、旧約をしばしば引用しているのはこのためです。
 
 

すべての人は罪を犯したので

 
ローマ人への手紙第 3 章 23-24 節は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです」と述べています。人間は罪のうちに生まれ、みな神に対して罪を犯したので、神からの栄誉と神の国を受けることができません。しかし、イエス・キリストによる贖いによって与えられた神の恵みのおかげで値なしに義と認められたのです。義認は値なしに行なわれました。イエスがみことばを聞き信じる者を救うために、罪をすべて被られ、十字架上でご自分の命で贖われたので、人類は罪の報いを支払わずにすむのです。
すべての罪からの救済への信仰とは、どういう意味でしょう? ただ、神の義への信仰という意味です。神の義を信じることは、行ないとは関わりなく、すべては心によるものです。主のみことばを聞き心でそれを信じることによって義と認められるのです。主は人類を罪から救うために地上おいでになり、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けて世の罪のすべてを負う神の子羊となられ、十字架上で死なれたのです。三日目に、主は死からよみがえり、今は父なる神の右側の座に着いておいでです。
イエスがみことばを聞き信じる者を救うために、罪をすべて被られ、十字架上でご自分の命で贖われたので、人類は罪の報いを支払わずにすみました。これを信じることによって私たちは救われました。救済は信仰によって始まり、信仰は書かれた神のみことばを聞くことに始まり、聞くことはキリストのみことばに始まります。
「信仰は聞くことに始まる。」 私たちは、心で信じます。知性は知識のため、からだは仕事のために、信じるのは心で行なうのです。では、心で何をどのように信じればよいのでしょう? みことばを聞くのです。福音を聞き、福音を聞くことによって信仰をもち、信仰をもつことによって救われます。信じるときは、みことばによって信じます。つまり、キリストがバプテスマによって罪をすべて被られ、十字架上で死なれ、死からよみがえられたと告げている書かれたみことばを信じるのです。
みことばを信じることは、神の義を信じることです。ですから、みことばを聞かない信仰は、無益で無意味です。神が夢その他のもろもろのものによって啓示をお与えになるというのは、すべて嘘です。
私たちはただ信仰によって救われたのです。では、ローマ人への手紙第 3 章 24-26 節をもう一度読みましょう。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」 アーメン。主は人類の罪のなだめの供え物となられました。人類は罪のために神の敵となりましたが、イエスはバプテスマと死とよみがえりとによって罪のなだめの供え物となられて、神との関係を元に戻してくださったのです。
ローマ人への手紙第 3 章 25 節の中ほどに、「と言うのは、今までに犯されて来た罪を忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり」というくだりがあります。ここでは、神が極めて長い間辛抱強く待たれ、最後の審判の日まで待たれるだろうというのです。イエス・キリストを信じる人々、水と血による救済を信じる人々、父なる神へのなだめの供え物となられた御子による救済を信じる人々の罪をすべて、神は見逃してくださいました。「罪を見逃してくださった」というのは、神がみことばと福音を聞いて信じた人々、すなわちイエスのバプテスマと十字架上の血を信じる人々の罪を見逃されたということです。
生きている間には、時に道を誤るのですが、これは肉と心の弱さのためであり、イエスの救済を否定しない限り、神はこれらの罪を罪とはなさりません。つまり、神は、水とイエスの血とを心で信じることで救われた者の罪をごらんにならず、見逃されるのです。
では、なぜ神は罪を見逃されるのでしょう? 神は聖なる正しい神であるのに、なぜそのような罪を無視なさるのでしょう? それは、キリストがこの世においでになってバプテスマを受けられたからです。イエスがバプテスマによって世界の罪をすべてその身に被り、十字架につけられたために、神は人類がこれまで犯した罪を見逃されるのです。これまでに犯した罪というのは、原罪だけを指しているのでしょうか? いいえ、そうではありません。原罪のようには見えても、永遠なる父なる神にとって、すべては過去のことなのです。
永遠という視点からすると、この世界の時はいつも過去として見えます。この世界には始まりと終わりがありますが、神は永遠であり、そのため、神の時を私たちの世俗の時と照らし合わせると、世の罪はすべて神の前で過去に犯されたものと見えるのです。「今までに犯されてきた罪を忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすため。」 神が人類の罪をごらんにならないのはこのためです。神に人間の罪を見る目がないというのではなく、御子イエス・キリストが人類の罪を贖われたためにごらんにならないのです。キリストのバプテスマと磔刑が罪をすべて洗い流したので、私たちは神の前に罪のない民と見えるのです。
イエス・キリストが神の義を全うして信じる者をすべて贖いすべての罪を取り除いたのに、どうして神が私たちの罪をごらんになることがおできになるでしょう? 神はこのように、イエス・キリストによって既に贖われた、これまでに犯された罪を見逃されて、義を示されるのです。
神の義への信仰はキリストのみことばに始まります。キリストのみことば自体が神の義そのものを告げるものだからです。義をお示しになることによって、神はご自分の義だけではなく、イエス・キリストを信じる人々の義をもお示しになりました。神は罪をすべて除いてくださり、私たちも心で、イエスが罪をすべて除いてくださったと信じます。私たちがキリストを身に着たように (ガラテヤ 3:27) 罪なく、義と認められたのは、このためです。神と私たちはどちらも義なのですから、私たちはみな家族であり、みなさんと私は神の子どもなのです。このすばらしい知らせを信じますか? 
これは、私たち自身に何か誇るべきものがあるということでしょうか? もちろん、違います! 実際のところ、救済はキリストのみことばを聞き信じることによってのみ可能であったというのに、何を誇れるというのでしょう? 私たちは自分の行ないのために救われましたか? 何を誇れるのですか? 何も! 早朝の教会礼拝に出席したからといって救われましたか? 日曜の教会での礼拝を欠席したことがないから救われたのですか? 十一献金を欠かさなかったから救われたのですか? もちろん、違います。
これらはみな人の行ないであり、行ないに基づく信仰や行ないで補われた信仰は誤った信仰です。神の義を心で信じることだけで罪から救われたのです。信仰は聞くことに始まり、救済はキリストのみことばへの信仰に始まります。
真の信仰は律法を守ることによってではなく、神の義を信じることによってのみ始まるのですから、イエスを信じるようになってから悔い改めの祈りによって罪の赦しを得ようとするのもまた、誤った信仰です。みことばにあるように、「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか? 行ないの原理によってでしょうか? そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。」
救済は、イスラエル人にも異邦人にも与えられるもので、イエス・キリストが水と血とで救ってくださったのだと聞き心で信じることによって得られます。私たちは神の義を信じた時に救われました。イエス・キリストであるこの義を信じた時に罪から救われるのです。神は父となり、人は神の子どもとなります。これがキリストのみことばを聞き信じることによる、神の義への信仰による信仰です。信仰は神の義を信じることによって始まります。
救済はキリストのみことばへの信仰によって始まります。ではみなさんは、キリストが救い主としてこの地上においでになり、神へのなだめの供え物としてバプテスマによって世の罪をすべて被られ、十字架上で死に、三日目に死からよみがえられ、父なる神の右手の座にお着きになっていると信じますか? 本当にこの救済、主イエス・キリストの贖いを信じますか?
神に夢の中に現れてくれと頼み、自分の目で一度神を見ることさえできれば信じると言う人が大勢います。中には、夢でイエスに会い、イエスがここに教会を、あそこに祈祷所を設けろと言ったなどと主張する人々がいます。しかし、通常は何かしら金が必要であるとも言います。こうした偽りの主張にだまされて大勢が破滅します。キリスト教社会には悲しい出来事があまりに多いのです。こうしたことはみな主のみわざではなく、悪魔自身の行ないなのです。
万が一、夢でイエスに会ったなら、あまり真剣に受け取らないことです。夢は夢に過ぎません。イエスはそのような形で現れるお方ではありません。そうでなければ、聖書は必要ないでしょう。イエスが私たちの前に一度でも現れれば、その時は聖書を閉じなければいけません。もう必要ないのですから。しかし、これはキリストの救済のみわざには壊滅的な影響を与えるでしょう。
聖書なしにキリストを信じるのなら、キリストはみなの前に現れなければなりません。しかし、その必要はありません。主は既に救済の必要をすべて満たされたからです。キリストのみことばを聞き信じることによって信仰が始まるというのは、このためなのです。では、すべての人がイエス・キリストのことを聞きましたか? イエス・キリストの名は聞いているでしょうが、そのすべてが真の福音を聞いたわけではありません。パウロが「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」と尋ねたのは、このためです。
ですから、神の義を明かすこの福音を宣べ伝えなければならないのです。しかし、何によって、どのように? 福音がどのような方法でどのように宣べ伝えられるかは重要ではありません。よい知らせを伝えるには、口頭でも印刷物でも、あらゆる方法を使うのです。信仰は聞くことに始まり、聞くことはキリストのみことばに始まるのです。印刷物でも福音を宣べ伝え、読者を真の信仰に導くことができます。方法の如何を問わず、信仰は聞くことによって始まり、聞くことは福音を宣べ伝えることによってのみ始まるのです。
本当に心にみことばへの信仰をもっているなら、その人は真のキリスト教徒なのです。願わくばみなさんがこのことを知りますように。みなさんが罪から救われますように。また願わくば、みなさんが水と聖霊の福音を心から信じますように。では、最後にローマ人への手紙第 10 章 17 節を一緒に読みましょう。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」 アーメン。書かれたみことばを聞き心で信じる人々は、真の信仰をもつ人々です。みなさんは、この真の信仰をもっていますか? 主はすべての罪から人類をお救いくださいました。
主がすべての罪を取り除いてくださったのは本当にありがたくうれしいことです! 福音なしには、人々はいつでも失望しているのですが、イエスがバプテスマによって罪をすべて被ってくださったと聞くだけで、心は喜びで満たされ、信仰が育ち始めるのです。
お救いくださったことを主に感謝いたします。