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主題 10: 黙示録

[第2章-2] 殉教を受け入れる信仰 (黙示録 第 2 章 1-7 節)

殉教を受け入れる信仰
(黙示録 第 2 章 1-7 節)
 
たいていの人にとって、「殉教」というのは耳慣れない言葉です。とりわけ、非キリスト教文化で育った人にはなじみが薄いでしょう。たしかに、「殉教」というのは日常的に出会う言葉ではありません。自分が実際に殉教するという考えは、あまりに非現実的で縁遠いもののように思われます。しかしながら、黙示録の第 2・3 章ではこの殉教が取り上げられています。このみことばから殉教の信仰、すなわち、それによって殉教できるような信仰を心に打ち立てなければなりません。
ローマ皇帝は、その民にとって絶対的支配者でした。皇帝たちはその領土に絶対的な力を振るい、心の望むままにどんなことでもできました。数多くの戦いに勝利して、ローマ帝国は多くの民族をその支配化に置き、征服した国々から支払われた貢物で豊かになりました。一度たりと戦に破れず、かつての小国から世界最大の帝国のひとつに育ちました。皇帝たちの振るうようになった力は、実に強大でした。その強大な力のため、彼らはやがて国民から生ける神として崇拝されるようになります。
たとえば、皇帝が自分の像を建立し、人々にそれを拝ませるのもまれなことではありませんでした。自らを神と称した皇帝にとって、イエスの教えが広まり信者が増えることは、自分たちの絶対権力への深刻な脅威にほかなりませんでした。キリスト教徒の集まりを違法として信者を迫害する政策をとり、逮捕・投獄し、やがて信仰のゆえに処刑するようになります。こうした歴史的背景の中で、原始キリスト教徒はカタコンベのような場所に潜って迫害を逃れましたが、また、この迫害は、信者が正しい信仰を守るために殉教を受け入れるようになる下地となったのです。
こうして原始教会の時代に殉教者が出たのです。もちろん、当時の聖徒はただ単に皇帝の権威を認めることを拒んで殉教したわけではありません。彼らは皇帝の世俗的権威を認めましたが、人間を神として崇め、イエスへの信仰を心から捨てるよう強いられたときには、たとえ命を失うことになっても、もはやその権威を認めませんでした。ローマ皇帝たちはキリスト教徒に、イエスを否定し、皇帝としてだけではなく神としても崇めるよう命じました。そうした要求に従うことができず、またそのつもりもない原始キリスト教徒たちは、西暦 313 年にミラノ勅令が布告されてついに宗教の自由がもたらされるまで迫害を受け、信仰を守るために殉教し続けました。こうした信仰の先人たちのように、私たちもまた、信仰を捨てるよりは義のために死を選ぶでしょう。
小アジアの七つの教会に関する部分は、当時の背景や状況を説明するだけでなく、やがて来る世界の啓示でもあります。ここには、神のしもべと聖徒が信仰を守るために殉教するという啓示があります。ローマ帝国時代と同様、絶対的支配者が現代版ローマ皇帝として出現し、すべての人をその専制的な支配下におき、自身の像を建てて人々にその前で拝礼させ、自らを神として崇めるよう要求する時が来るでしょう。これは、私たちの生きている時点からそう遠くないことでしょう。そのときには、多くの聖徒が原始教会の信者の例に倣って殉教に赴くでしょう。
ですから、主がアジアの七つの教会にお与えになった警告のみことばを心に抱いていなければなりません。アジアの七つの教会に挨拶し、励まし、そして叱責する中で神は、「勝利する者」には「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べ」させ、「いのちの冠」を与え、「隠れたマナ」を食べさせ、「明けの明星」その他を与えると約束なさいました。これは、殉教によって勝利した人々に天の永遠の恵みをお与えになるという、神の誠実な約束です。
では、原始教会の聖徒は、どうして殉教に赴くことができたのでしょう? 第一に、殉教できたのは神のしもべと聖徒たちでした。誰もが殉教できるわけではありません。イエスを救い主として信じ、迫害に屈せず、信仰を堅持し、主を信じ続けた者だけが殉教できるのです。
流刑先のパトモス島でエペソの教会を非難した使徒ヨハネは、イエスの十二使徒の最後の生き残りでした。他の使徒は、他の聖徒たち同様、みなすでに殉教していました。歴史的にいって、アジアの七つの教会の聖徒たちは、西暦 313 年までに殉教した無数のキリスト教徒のごく一部にすぎませんでした。ローマの政権からの迫害を逃れ、彼らは文字通り地下に潜り、追っ手を逃れて洞窟を掘り、カタコンベとして知られる地下墓地に集まりました。こうしたことすべてを通じ、彼らは決して信仰を裏切らず、すすんで殉教を受け入れました。
エペソの教会を含むアジアの七つの教会のしもべと聖徒たちは、ここで神から叱責されてはいますが、みな殉教しました。彼らの殉教を可能にしたものは、主への信仰でした。彼らはみな、主が神であり、自分たちの罪をすべて取り除かれ、すべての人間を千年王国と新たな天と地へと導く羊飼いであると信じました。この信仰と希望への確信とが、殉教に伴う恐れと死の苦痛を克服することを可能にしたのです。
現在は終わりの時です。世界が一つの権威の下に統合され、絶対的な権力を振るう支配者が現れるのはそう遠いことではありません。黙示録第 13 章に記録されているこの絶対的支配者は、死をもって聖徒を脅し、信仰を捨てるよう迫ります。しかし、私たち終りの時の聖徒はこの脅迫やそそのかしに打ち勝ち、殉教によって信仰を守ります。なぜなら、原始教会の聖徒たちと同じ信仰をもっているからです。
第 4-5 節で、神はエペソの教会を非難しておっしゃいます。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」これは、どういうことでしょう? これは、エペソの教会が水と御霊の福音から離れたということです。エペセの教会の人々を含め、原始教会の聖徒はみな、水と御霊の福音を信じました。これは、イエスの弟子たちがみな、水と御霊の福音を説いたからです。ですから、当時の聖徒が使徒たちから受けた福音は、十字架上の血のみを信じる人工的な偽りのものではなく、完全な福音でした。
しかし、ここではエペソの教会のしもべが初めの愛から離れたといっています。これはつまり、エペソの教会のしもべが教会での勤めにおいて水と御霊の福音を放棄したということです。悔い改めなければ燭台をその置かれた所から取り外すと主がおっしゃったのは、そのためです。燭台を取り外すとは、教会を除くということであり、それは、もはや聖霊がエペソの教会で働けなくなるということです。
エペソの教会のしもべにとって、水と御霊の福音に戻ることは、実際はそれほど難しいことではありませんでした。しかし、これはまだ些細な問題にすぎませんでした。ほんとうに問題となったのは、心で水と御霊の福音を信じながら、自分の信じるままに説くことができなかったことなのです。本来は、水と御霊の福音への信仰を告白するということが信者を殉教に備えることであったのに、水と御霊の福音を信じていなくても、ただイエスを救い主であると告白した人々をすべて教会に受け入れたのです。すなわち、神と水と御霊の福音について同じ信仰をもつか否かに関わらず、教会に来る人すべてを受け入れたのです。教会に入るには、たいへんな犠牲を払わなければなりませんでした。エペソの教会のしもべは、そうした犠牲が大勢の人々が教会に加わる妨げになることを心配したため、絶対的な真理を厳密な表現で説くことができませんでした。
しかし、御霊は真理のないところには住めないので、神は燭台を取り外すとおっしゃったのです。神が教会を除くとおっしゃったのは、しもべやエペソの教会の聖徒たちが行ないにおいて劣っていたためではありません。そうではなくて、もはや真理がなくなったので、その教会には住むことができないということだったのです。
神の教会にとって、水と御霊の福音に従うことは不可欠の条件です。福音の中にのみ神の愛と恵みのすべてが見出されるのですから、神のしもべと聖徒は福音を信じるだけではなく、的確な表現でそれを説き、教えなければなりません。
福音を説く代わりに、エペソの教会のしもべは、イエスの十字架上の血だけを信じる人々を会衆として受け入れました。しかし、新たに生まれたしもべや聖徒あるいは教会にとっても、イエスのバプテスマと十字架上の血とによって人類の罪をすべて取り除いた水と御霊の福音を信じながら説かないでいることは、主のみわざのすべてを無益なものにしてしまうことです。
主の目には人間は不完全なのですが、この福音を信じて説くならば、主は御霊として内に住み、はたらいてくださるのです。神のしもべや聖徒が欠点だらけであろうと、主はみことばによって教え導いてくださいます。水と御霊の福音の教会には御霊がおいでで、御霊が内におられるということは、その教会が聖いということです。
もはや水と御霊の福音を説かないのであれば、神のしもべや聖徒には聖さがありません。その人たちは、自分たちにはもう罪がないと言うでしょうが、水と御霊の福音の説かれないところに聖さはありません。
この水と御霊の福音は、主がバプテスマによって世の罪のすべてを被られ、それを十字架上の死によって取り除くことで人類をお救いになるためにこの地上においでになったと告げる福音であり、原始教会の聖徒たちが信じた福音です。主はバプテスマによって人類の弱さや欠点をすべて取り除いてくださいました。神は、人間が弱さや欠点のために犯す罪のすべてを取り除かれて、永遠の羊飼いになられました。
このようなすばらしい恵みを受けていながら、どうして主の代わりにローマ皇帝という単なる人間を神と崇めることができるのでしょう? 神の恵みが大きく豊かなので、ローマ皇帝の誘惑も脅しも聖徒に神の愛を否定させることができず、彼らは信仰を守るために喜んで殉教に赴いたのです。彼らは、信仰を捨てさせようとする脅しにも、公職に任じて物質的利益のために信仰を捨てさせようとする試みにも、節を曲げませんでした。何ものをもってしても信仰を捨てて神から離れさせることはできませんでした。この永遠の忠実さがあったからこそ、殉教が可能だったのです。
殉教者の心には、水と御霊の福音によってすべての罪から救ってくださった神の恵みと愛への感謝の念が満ちていました。永遠に罪から解放してくださった神の愛を裏切ることのできない信仰をもった人々は、背教よりは殉教を選んだのです。ローマ皇帝が原始教会の聖徒たちに自分の神性を認め神として崇めよと要求したように、私たちも信仰を捨てるようそそのかされるときが来るでしょう。そのときには、信仰の先人たちの例に倣い、殉教によって信仰を守るのです。
人間は欠点だらけですが、神は人類をたいそう愛され、その欠点と罪のすべてを被られました。神の栄光の前にどんなに人間が劣っていても、神は人類をその腕の中に受け入れてくださいました。人類を受け入れられたばかりではなく、罪と滅びの問題を解決し、永遠にご自分の子ども、花嫁となさいました。聖徒が絶対に神への信仰を捨てることができず、喜んで主の名のために殉教を受け入れるのは、そのためです。殉教とは、神がお与えになった初めの愛を守ることです。これは人間の感情の産物ではなく、人間のもつ弱さや欠点にもかかわらず、神がすべての恵みをくださったという事実への信仰によるものなのです。殉教できるのは強い意志によるものではなく、神の偉大さへの信仰によるのです。
もちろん、自分の国や思想に殉じる人々はいます。こうした人々は、自分の正しいと信じるところのものを固く信じ、そのためには命を捨てることもいといません。では、私たちはどうでしょう? イエス・キリストへの信仰をもって水と御霊によって新たに生まれた神の子どもは、どうして殉教できるのでしょう? 主が人類を愛し救われた福音に深く感謝するために、殉教できるのです。数えきれないほどの欠点にもかかわらず神が受け入れてくださり、御霊をくださり、ご自分の民とし、永遠に神とともに生きる恵みをお与えくださったので、絶対に神から離れることはできないのです。
神はまた、新たな天と地をもお約束なさいました。この希望のためだけにも信仰を捨てることはできません。何が起ころうと、たとえ終わりの時に反キリストに脅され、死ぬまで迫害されようと、主と水と御霊の福音とを否定することは決してできません。反キリストの足もとに引きずられて行って殺されようと、人類を救われた神の恵みと愛とを裏切ることは絶対にできません。俗な表現を使えば、「たとえ殺されても」主を裏切ることはありません。他のことなら強制されることはあるでしょう。しかし、ただ一つ、絶対に譲れないことがあるのです。聖徒は絶対に、人類をお救いくださったキリストの愛を放棄も裏切りもしません。
反キリストは、人間には欠点があるのだからといって慈悲深くふるまうと思いますか? もちろん、違います! 彼は、そんなことは考えません。しかし、主は、どんなに弱く不完全であろうとも意に介されず、人類の問題のすべてを被られ、身代わりとなって裁かれて人間を完全なものにしてくださいました。水と御霊の福音によって人類を救われた主の救済の愛を離れることができず、また、初めの愛への信仰を捨てることができないのは、このためです。まず心の中で捨てなければ、何ひとつ捨てることはできません。
同様に、信仰を心に深くもつならば、どんなに脅され、誘惑され、そそのかされようと、最後まで信仰を守ることができるのです。神の貴い愛を心で知っていれば、また、この愛に最後まですがるならば、死の日まで福音を守ることができます。信仰に歩む者にとって、殉教は受け入れるに難いものではありません。
誰もが自分が殉教する可能性について真剣に考えてみるべきです。殉教は、ただ痛みや苦しみに耐えることではありません。人間の肉は、ほんのちょっと針で刺されただけでも耐えがたい苦痛を感じるようにできています。そのような肉の痛みに耐えることが殉教ではありません。そうではなくて、殉教とは、いのちを捨てることを意味します。ただ肉体的な苦痛に耐えるだけでなく、命をも失うことが殉教ということなのです。反キリストが自分を神として崇めよと要求したとき、聖徒は死ぬまで抵抗します。主なる神だけが礼拝に値するお方なのですから、主の御名を守って殉教することはふさわしいことです。この信仰は何物にも代えることができません。
神を否定し、自らを神として崇めよと要求する反キリストは、ほんとうに礼拝に値するでしょうか? もちろん、値しません。神だけがこの世界と宇宙とを創造する力をおもちです。神だけが生と死とを司る力をもち、神だけがすべての被造物の前にあって傷がなく、罪もなく、正しく、神だけが世の罪のすべてを取り除く力をおもちなのです。では、反キリストはどうでしょう? 反キリストにあるのはこの世の権力だけです。主を彼と替えることができず、万物の支配者である神への信仰を捨てることができないのは、このためです。
神だけが、人類を永遠に幸福にしてくださるお方なのです。神は、イエス・キリストを信じて罪なき者とされた人々を栄光の体のうちによみがえらせ、千年王国と新たな天と地との門を開いてくださいます。しかし、反キリストの前に屈した人々は、永遠の罰を受けるべくサタンとともに地獄に投げ込まれます。一時的な痛みと苦しみに過ぎないものを恐れて反キリストの側に立ち、永遠の幸福を投げ捨てるとしたら、それは愚か極まりないことです。この真理を知って水と御霊の福音を心で信じる人々は、勇敢に反キリストに抵抗し、殉教し、その犠牲の報いとして永遠の幸福を与えられるのです。
みなさんも私も、誰もが殉教するのです。よろしいですか。黒い馬の時代が終わると、青ざめた馬の時代が訪れ、それから反キリストが出現して七つのラッパの災害が始まります。反キリストは間違いなく出現し、聖徒は確実に殉教し、よみがえりによって、確実に携挙されるのです。そして、必ず千年王国に入ります。反キリストが迫害し殺そうとしたときに聖徒がすすんで殉教するのはこのためなのです。
クラシック映画のクオ・ヴァディスは、信仰を守り、死につけられても神をたたえて歌った多くのキリスト教徒を描いています。映画自体は虚構ですが、その歴史的背景はすべてほんとうのことです。数多くのキリスト教徒が信仰を守るために命を捨てたのです。なぜ彼らはそうしたのでしょう? ローマの権力が要求したこと、すなわち、神を捨て、代わりに別の神々を礼拝し、信仰を捨てることができなかったためです。
ローマ皇帝の要求したように別の神に宗旨がえしたならば、すべては変わっていたでしょう。皇帝が彼らの神となり、人々は専制の下に置かれ、皇帝の手足となって戦闘で死んだことでしょう。罪から救われることも、新たな天と地に入ることもできなくなったでしょう。信仰を捨てることができず喜びほめたたえながら確実な死を迎えることを選んだのは、このためです。死につつあっても主をたたえて歌うことができたのは、死の苦しみよりはるかに大きな希望があったためです。
聖徒はなんとしても水と御霊の福音を守らなければなりません。また、死の向こうに幸福と栄光に満ちた新たな世界での永遠の生が待ちうけていると信じ、希望をもって生きることも、とても重要です。
みなさんは、主のために苦しんだことがありますか? 自分の欠点や失敗のせいでなく、主のためにほんとうに苦しんだことがありますか? 苦しみが主のためであれば、痛みはより大きな喜びとなるでしょう。使徒パウロが「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8:18) と喜びを表現したように。聖徒に啓示される栄光の喜びは、主のための苦しみに比べてはるかに大きいのですから、現在の苦しみはすべて信仰のすばらしい喜びと幸福の陰に埋もれるでしょう。
つまり、原始教会の聖徒と殉教者は、待ちうけている喜びが現在の苦しみよりはるかに大きいことを知っていたために痛みに打ち勝ち、主のために命をささげることができたのです。彼らの殉教は、苦痛に耐え忍ぶ能力のためではなく、やがて来る栄光への希望によるものでした。
一般に、人々は我慢しなければならないと考えて痛みに耐えます。これは困難で骨の折れる戦いです。我慢した挙句が失望であれば、欲求不満はより大きくなります。あんなに苦労したのに無駄だなんて! しかし、キリスト教徒は、希望と報いとに揺るがぬ確信があるために、耐え忍ぶことによって喜びと幸福が増すのです。忠実なしもべとして心から主に仕えることにしたならば、待ちうけている喜びと慰めが現在の犠牲の痛みに比べてはるかに大きいことを知っています。すべての困難は喜びの陰に埋もれますから、みな主のために生き、主のためには殉教さえも受け入れるのです。
人間には魂、感情、考え、信仰があります。主の御霊が内に住むのですから、新たに生まれた魂にとって義のために迫害されることは、待ちうける栄光を思えばただ言いようもない喜びをもたらすだけなのです。しかし、初めの愛を離れれば、主は燭台を取り外すことをためらわれません。
喜びをもって心と命のすべてで水と御霊の福音に仕えていた人々がそれをやめるということは、完全に捨て去らないとしても、初めの愛である福音に仕える喜びから徐々に離れていったということです。その人たちは個人的な信仰をもち続けるでしょうが、もはや福音を説くことを誇りとせず、救われるということについての明確な理解──十字架上の血だけでは救済には不足である──が失われているのなら、その信仰は薄まり、殉教はとうてい不可能となるでしょう。すると神は、その人たちの燭台を置かれた場所から取り外されます。
揺るがぬ信仰をもち、喜びをもって福音に仕える人々は、初めの愛から離れることがないので、すすんで殉教を受け入れることができます。彼らはキリストの愛を信じ宣べ広めて神に恵まれているのですから、殉教できるのです。人がどんなに有能で才能があろうと、問題ではありません。水と御霊の福音を広めないのなら、教会はその場所から取り除かれます。これは、神が人々に理解させようとした重要な啓示なのです。この真理を知り信じるなら、人は終わりの時に心を新たにし、主の御名のために殉教できるのです。
信仰を支える最も重要な基本点とは、何でしょう。それは、水と御霊の福音です。水と御霊の福音がなければ、行ないや信仰が何の役に立つでしょう? 信仰を守れるのは、神が人類を愛され、水と御霊の福音によってその腕の中に抱かれたためです。この愛は栄光を与える不変の愛ですから、信仰をもって宣べ広げ続けることができるのです。
人間は弱いのですが、それでも最後まで神に向かって走ることができるのは、水と御霊の福音が人類を救い、その福音の中にキリストの愛が示されているためです。人間は欠点だらけですが、主の愛に満たされた水と御霊の福音をまとったために、兄弟姉妹や神のしもべ、世の魂のすべてを愛することができます。そもそも、完全な愛は人間の及ぶものではありません。人間の中には愛がないために、身勝手に自分自身しか愛することができずにいます。多くの人は表面に見えるものにだまされ、皮一枚のものでしかない、華やかな外見に惹かれます。人々は人間をその物質的な所有物や目に見えるものによって判断します。しかし、真の信者の間には神の愛があります。これがあるからこそ、聖徒は主の完全な愛である福音を広めることができるのです。
主はこの世界においでになり、人類の欠点のすべてをその身に負われるためにバプテスマをお受けになり、すべての罪から人類を救うために清めてくださいました。では、人類を神の子どもとした初めの愛からどうして離れることができるでしょう。人間はさまざまな欠陥を抱えていますが、この真理への信仰において欠けることがあってはなりません。絶対的な信仰をもってこの福音を広めるのです。艱難の時に最も必要なものは、まさにこの水と御霊の福音への信仰なのです。試練や艱難に接したとき、信仰を守り困難を克服する力は水と御霊の福音からのみくるのです。この福音の力によって、毎日の生活の中の数知れぬ問題に疲れても、顔は喜びに輝くのです。これが主の愛です。
時に人々は律法主義の罠に陥ります。彼らは、自分たちの行ないによって神は恵まれるのだと考えます。もちろん、これが全く誤っているというのではありません。主は、ご自分を愛する者を愛するとおっしゃっているのですから。しかし、神が人間を罪のない者とするほどに愛されたのは、行ないによってではありません。神はご自分が人間になさった約束をすべてご存知で、また人間の罪をすべて知っておいでなのですから、完全なみこころと愛とによって人類を受け入れ、完全になさったのです。人間が喜びをもって生きることができるのは、ひとえに神の恵みのおかげです。神がご自分の民やしもべとしてくださったので、信者は主のために働き、主の栄光をまとい、福音を他の人々に宣べ広げ、時が来れば主の名のために殉教できるのです。こうしたことすべてを可能になさるのは、主なのです。
クオ・ヴァディスの女性殉教者たちは、死に赴きながらも主をたたえて歌う力をどこから得たのでしょう? 主の愛の内にその力を見出したのです。キリストの愛はとても大きいので、主をたたえつつ殉教することができたのです。
同じことが現在の私たちの生についてもいえます。私たちが生きるのは、主がそうできるようにしてくださるからです。神の子どもやしもべとして生きるのは、自分の行ないによってではありません。私たちはそれに値することは何一つしていません。神の不変の完全な愛と、この愛への信者の信仰によって、時につまずいても最後まで従うことができるのです。この力は神の力であって、人間のものではありません。殉教が可能であるのは、ただ人間を完全にした神の愛によるのです。神の恵みによってのみ、人は殉教を受け入れることができるのです。この真理を忘れてはいけません。人が殉教できるようにするのは神です。自分に何かできるかのように、殉教のために心の用意をしようなどとして時間を無駄にしてはなりません。水と御霊の福音への信仰のみが、いのちの絶える時まで主をたたえることを可能にするのです。
主は、アジアの七つの教会におっしゃいました。「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」いのちの木は新たな天と地にあります。そこには神の御座、宝石によって建てられた家々があり、いのちの水があふれています。勝利する者たちに、神はご自分のパラダイスを約束なさいました。彼らはそこで永遠に神とともに何一つ欠けることのないいのちを生きるのです。
勝利する人々は、水と御霊の福音への信仰によって勝利します。この福音以外の何ものをもってしても、勝利することはできません。これは神の力によってのみ成し遂げられることであり、人間の力によるのではないのです。勝利することのできる力は神からのみ来ます。水と御霊の福音の偉大さ、神の愛と救済のすばらしさとを知り、感謝しましょう。この福音が殉教を受け入れる信仰を与えるからです。人間はみな弱く、能力も才もなく、無能で愚かで無知ですが、それでも、水と御霊の福音を心にもつために力があるのです。
水と御霊の福音を信じる人々の名前は『いのちの書』に記されています。『いのちの書』に名前の記されていない人々は、みな堕ちてサタンの前に屈すします。水と御霊の福音を信じて『いのちの書』に名前を記されている人々だけが、悪魔の前に屈しないのです。自分の名前が確かに『いのちの書』に記されるようにしましょう。
人が殉教するのは、信仰、すなわち主がお与えくださったキリストの初めの愛によってです。心配や恐れなく殉教を待つことができるのは、内に住む御霊が殉教に耐えるだけの力を与えてくれると信じるためです。殉教の苦しみは、やがて来る天の栄光には比べようもないのですから、死の前にひるまず、尊い福音を守って大胆に殉教を受け入れることができるのです。どうしたら殉教ができるのかと思い悩むことはやめましょう。殉教は自分の努力によるのではなく、神のなさることだからです。
いつの日か、次のような告知が拡声器を通して告げられることでしょう。「市民のみなさん、今日が印を受ける最後の日です。今日印を受けられる市民はごく少数です。これまでのご協力ありがとうございます。印を受けるのは、みなさんにとって、とてもためになる、絶対必要なことです。これによってわが国に秩序が打ち立てられるからです。ですから、できるだけ早く市役所に来て、印を受けてください。よろしいですか、この印を受けるのは今日が最後です。今日の期限までに印を受けない人は、厳しく罰されます。さて、確認のため、まだ印を受けていない人たちの名前を読み上げます。」もちろん、これは作り話ですが、こうしたことは近い将来必ず起こるでしょう。
原始教会の信者たちは、互いを魚のしるしによって識別しました。それが彼らの間での合言葉でした。私たちもまた、互いに殉教できるだけの信仰をもつよう励まし合えるよう、兄弟姉妹を識別できるようなしるしを作るのがよいでしょう。
殉教は自分の努力によって成し遂げられることではないのですから、心配は脇において、大胆に臨みましょう。義である死の前に、恐れるべきことは何もありません。人間はこの地上にいる間、主のために生きさえすればよいのです。主のために身をささげることができるのは、主の御名のために殉教するべく定められているからです。自分の所有物を失うことを恐れて殉教を逃れようとするのなら、より以上の苦しみと災いに臨むことになるでしょう。人は、キリストのために殉教することになると知りながら最後まで主のために生きる、信仰の人にならなければなりません。
自分は殉教すると知ったとき、信仰と心と実生活においてより賢くなります。この認識は愚かさを治し、俗世間への執着心の残滓をすべて捨てることができるようにします。これは、命を捨てるということではなく、主のために生きるということです。神の力がサタンを底なしの淵に投げ込むまで、信者はお救いくださった主のために生き、サタンと反キリストと戦い勝利し、勝利の栄光のすべてを神だけにささげます。神は人間が栄光をささげることを望まれます。多くをお与えくださった神に信仰をもって栄光をささげることができるようにしてくださった主に感謝します。
主は間もなく私たちを連れに戻られるでしょう。終わりの時に多くの魂が神のもとに戻るとき、神はみなをその腕に受け入れ、運び去られるでしょう。黙示録第 3 章 10 節で、神はフィラデルフィヤの教会におっしゃいました。「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」神は必ずや約束のみことばを全うなさるでしょう。
「あなたが、わたしの忍耐について言った言葉を守った」とは、聖徒の忠実な生活を指しておられるのです。これは、他の人が何を言おうと、何をしようと、彼らが固く信仰を守ったということです。神が「試練の時には、あなたを守ろう」とおっしゃるのは、忍耐せよとのご命令に従った人々は、信仰の試練を受けなくてもよいということです。
つまり、艱難と殉教の時が訪れたとき、忠実に祈りと奉仕との日常を過ごした人々を神はただ運び去るというのです。自分は殉教することになるのだという認識をもつならば、瑣末事はすべて心から消え去り、信仰はより堅固になります。信者はみな殉教によって試練の時を免れるという神の約束を思い、神の前の現在の信仰生活を生きなければなりません。つまり、信仰によって生きるのです。
今の時代は黙示録の時代です。神のみことばを強情に無視し、誤った大艱難前携挙説に固執する愚かなキリスト教徒が大勢います。終わりの日が来たとき、彼らは自分たちがいかに誤っていたかを知るでしょう。彼らの勢力と権力の日々は限られています。人はただ、神が約束のみことばを全うされるという希望を抱いて生きるだけでよいのです。
大艱難の中間に達したとき、信者は信仰を守って殉教し、七つのラッパの災害が始まる直前に神によって空中に携挙され、千年王国に入ります。キリストとともに支配するという希望が実現したとき、地上での苦しみのすべては待ちうける報いによって十分以上に報われ、永遠の新たな天と地に入るときには、言いようもない喜びに満たされるでしょう。今日、私たちは神の約束の成就への希望により、信仰をもって主のために生きます。主がすべての約束を満たされると信じ、主とともに栄光の体の中で生きることのできる日を切に待ち望んでいます。
完全な罪の赦しの福音をお与えくださり、信仰を守るために殉教を受け入れられるようにし、また神の恵みを受けた者の列に加えてくださった主に感謝します。
 
 
エペソの教会の背景
 
エペソは小アジアのローマ帝国領にあった大きな港町で、商業と宗教活動の中心地でした。原始教会の時代、北にはスミルナ、南にミレトスを臨むエペソは、繁栄した国際都市でした。神話は、勇敢な戦の女神アマゾンが紀元前十二世紀にこの都市を建設し、アテネの皇太子アンドロクレスに与えたとしています。
物質的には、エペソは繁栄した都市でした。すなわち極めて世俗的な都市でもあったのです。神がエペソの教会に、水と御霊の福音を失わないように最後までサタンと戦い勝利せよとおっしゃったのは、このためです。神の真理のみことばの重要さを認識し、何をもってしても信仰を守らなければなりません。
神は、使徒ヨハネを通してエペソの教会に手紙を送られました。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐してわたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。』」神はエペソの教会の行ない・努力・忍耐、悪を許容しないこと、偽の使徒を試し偽りを暴いていること、よく忍耐して主の名のために耐え忍んで疲れを知らないことをお褒めになりました。
しかし、エペソの教会はまたその過ちを非難されてもいます。手紙は続きます。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
上の部分には、神がニコライ派の人々を憎まれていることが記されています。ここでいうニコライ派とは、神と教会、真理とに逆らった一群の信者を指しています。ニコライ派が具体的に何をしたかは、後のペルガモの教会に向けられた部分に詳しく述べられています。
 
 
ニコライ派の悪行
 
黙示録第 2 章 14 節には、「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた」と記されています。民数記第 22 章に、この部分について参考となる部分あります。そこには、モアブの王バラクの話が記されています。
イスラエル人がエジプトを脱出して後、カナンの地モアブの草原に着いたころ、彼らはその地の七つの部族を「牛が野の青草をなめ尽くすように」征服していました。このことを聞いたバラクは彼らの神を恐れました。モアブもまたカナンのすでに征服された諸部族のようになることを恐れたのです。イスラエル人に征服されることを防ごうとして、バラクはイスラエル人を呪わせるために偽りの預言者バラムを招こうとしました。
バラムは偽りの預言者でしたが、異邦人は彼を神のしもべだと思っていました。彼は、大祭司アロンの子孫でもレビ族でもありませんでした。しかし、モアブの王バラクは、バラムの祝福した者は祝福され、呪う者は呪われると考えました。当時、バラムは偽りの預言者ではありましたが、その国では有名な魔法使いとして知られていました。
しかし、バラムはバラク王に頼まれても、従うことはできませんでした。イスラエル人は神の民であり、バラムは神からイスラエル人を呪う許可を得ることができなかったばかりか、そうすることは自らの上に呪いを招くはめになるだけであったためです。神の霊力に圧倒されたバラムは、実際にはイスラエル人を祝福するほかありませんでした。これに腹を立てたバラクは、イスラエル人の見えないところから彼らを呪うよう、バラムに頼みました。
バラムはバラクから莫大な宝を受け取り、その見返りとして、イスラエル人を呪う方法を王に教えました。その計画とは、モアブの宴会にイスラエル人を招き、女たちを差し出してみだらなことをするよう誘惑させ、イスラエル人がその罪を神に罰されるようにするというものでした。これが、偽りの預言者バラムがイスラエル人の上に破滅をもたらすためにバラクに教えた策です。
神は、バラムが金を愛したためにバラムを憎むとおっしゃいました。現在のキリスト教社会には、バラムのような人が大勢います。彼らは実際みな偽りの預言者ですが、その多くはいまだに尊崇を受けています。さて、バラムが求めたのは物質的な富でした。彼は金を与えられると、祝福しました。そうでなければ、呪いました。残念なことに、現在のキリスト教社会には神のしもべのはずでありながらバラムのようである人々があまりに多いのです。神を信じる人々が物質的利益だけを求めることになるなら、彼らは偽りの預言者となります。このために、神はニコライ派を憎まれたのです。
神の教会としもべに滅びをもたらすものが何か、おわかりですか? それは、金銭欲です。目の前の物質的利益のみを求める人々は、神の前に滅びることになるのです。
 
 
バラムに従う教会
 
今日、使徒の時代と同様に、バラムの後に従う多くの世俗的教会や偽りのしもべがいます。彼らはあらゆる手段を講じて信者から金をかき集めようとします。たとえば、信者の寄付が信仰の尺度ででもあるかのように、信仰をあかしするために、霊的ではなく物質的ささげ物を会衆に競わせる運動が行なわれています。教会により多額の寄付をする人々の信仰は、寄付額の少ない人々の信仰より深いとほのめかす、この腐敗した運動の唯一の目的は、教会を裕福にすることです。
もちろん、信者が真摯な心から神と福音とに仕えようと決めるなら、それはすばらしいことです。しかし、バラムのような偽りの預言者は、私腹を肥やすために信者を食い物にします。彼らは信者に、「私は十一献金を忠実に納めましたが、神は事業を通して十倍の恵みによって報いてくださいました」というような、世俗的なあかしを競って行なわせるます。バラムに欺かれ、何も知らない信者は、実際は霊的・物質的貧困化、誤った誇り、最終的には滅びにつながる道であるというのに、それを真の信仰への道だと考えます。
「ニコライ派の人々の行ない」とは、バラムの行ないにほかなりません。貪欲さからイスラエル人の前につまずきの石を置くことをバラクに教えたバラムように、今日のキリスト教社会で神のしもべと主張する人々の中には、ただ会衆の財布の中身にだけ興味がある人が多いのです。こうした偽りの預言者によって道を誤らせられた人々は、にせの羊飼いにすべての所有物をささげて無一物となり、さらに悪いことには、遅かれ早かれ正気に返って、自分の信じてきたことが完全な誤りであったことを知るのです。結局、そうした人々は偽りの教会を非難し、信仰を捨ててしまいます。不幸にして、こうしたなさけないことは、いわゆる福音教会においてもそれほど稀ではないのが悲しい現実なのです。バラムに欺かれ、多くの信者がこうしたごまかしによって道を失い、教会を離れてしまいます。
聖書には、神はニコライ派の行ないを憎まれるとあります。ニコライ派に従えば、神への信仰を失います。神が与えてくださったあかしは数多く、それらはみな霊的に人を豊かにする宝です。しかし、あかしを利用して物質的利益を追求することからは、絶対に身を遠ざけていなければなりません。それは神ご自身が憎まれたニコライ派の行ないだからです。
 
 

骨のある信仰

 
神はアジアの七つの教会すべてに、ニコライ派の行ないに関して警告なさいました。さらに、神はまた勝利する者にはいのちの木の実を食べさせると約束なさいました。主に仕えるのは、贖いに感謝し、水と御霊の福音を広めることが正しいことであることを知っているために、信仰をもって行なうのです。人に見せびらかしたり、他人によく思われるようにと神に仕えるのではありません。そのようなことは、真の奉仕でも真の信仰でもありません。教会では、ニコライ派の行ないによくよく注意する必要があります。主がアジアの七つの教会すべてにニコライ派のことを注意なさったのは、このためです。
新たに生まれた教会ではない教会の多くがなぜあんなに急速に大きくなったか、わかりますか? 偽りの信仰と偽りのあかしとが、ああした教会を建てたので、成長したのです。神のしもべが会衆を利用して私腹を肥やすことは、決してあってはなりません。
真の信仰は神がお与えくださった、イエスのバプテスマと十字架上の血、それに人類に代わって受けられた裁きによる救済を信じることです。しかし、新たに生まれた教会にしろそうでないにしろ、多くの教会は、あかしを利用して会衆の財布を狙っているのです。みなさんは心して、真のあかしは信仰のためになり、神に栄光をささげるものであり、偽りの信仰は罠であることを見抜くようであってください。
現在、世界の豊かな教会はいずれもバラムのような聖職者が導いています。バラムの道を行く教会指導者たちは、自分が信者から物質的利益を引き出すためだけに教会を利用するのです。バラムのようなキリスト教指導者は、物質的あかしを競うように仕向けて信者から金を掠め取ります。私はそうした行ないに嫌悪を覚えます。
真の信仰生活は、ほかならぬ信仰に始まります。サタンが仕掛けたニコライ派の罠にはまらないように気をつけましょう。ニコライ派の行ないとはどのようなものかを知り、底知れない貪欲さをもつサタンのしもべに決して欺かれないでください。とりわけ神のしもべは、この点にはよくよく注意が必要です。これには聖職者も含まれます。聖職者がどんな車に乗るか、どれだけ大きな家に住むか、どれだけの不動産を所有するか、銀行にはどれだけの預金があるかといった物質的所有物にあまりにこだわるようになると、教会を腐敗させ、ニコライ派の道をたどらせることになります。
神は、アジアの七つの教会すべてに、とりわけこの点に注意するようおっしゃいました。バラムのような信仰をもつ人は、ただ物質的利益、自己の栄誉をのみ求め、いずれは宗派の創始者となります。神の教会は、それ自体のために物質的所有を追求することがあってはなりません。神は、水と御霊の福音に従う人々に恵まれると約束なさったのですから、世俗的な所有物は地上に蓄えるのではなく、福音を宣べ広げるために使うべきです。
 
 

にせの羊飼いを退ける

 
新たに生まれた信者でさえ、ニコライ派の罠にはまれば滅びることになります。初めは、そうした指導者の信仰はすばらしく強いと考えるのですが、にせの羊飼いの欺きは、最終的には人々を滅びへと導きます。
神は、エペソの教会の御使いに、ニコライ派の行ないを憎むとおっしゃいました。ニコライ派に欺かれた人々はみな、確実な滅びに向かいます。それが新たに生まれた信者や神のしもべ、その他の何であろうと、ニコライ派の罠にはまれば、滅びを免れません。悪い羊飼いが群を死へと導くように、にせの羊飼いは呪いをもたらします。
神がしもべに「わたしの子羊を飼いなさい」とお命じになったのは、このためです。神のしもべは、羊飼いが子羊の世話をするように信者の世話をし、危険から守り、必要を満たさなければなりません。羊飼いとして彼らは、群れが道を誤らず、行く手にどのような危険が潜んでいるかを見つけ、群がそうした危険に近づかないようにしなければなりません。
実際に羊を飼っている人々から、羊は最も頑固な動物の一つであると聞いたことがあります。人間は神の前で頑固な羊のようなのではありませんか? 神が人間を表現なさるのに子羊の比喩を用いられたのは理由があってのことで、人間がその根本においてどんなに頑固であるかをよくご存知だったためなのです。
神は、なぜアジアの七つの教会にニコライ派やイゼベル、バラムの行ないに関して繰り返し話されたのでしょう? なぜ神は、勝利する者にはいのちの木の実を食べさせると約束なさったのでしょう? 偽りの預言者の欺きに注意するようにと教えるためにそうなさったのです。神のみことばについて深く考え、「真の水と御霊の福音とは何だろう」と自らに問うてみてください。みことばに人間の教訓を混ぜ、それをもっともらしく組織立てたものが福音ではないのです。現在のキリスト教社会には、水と御霊の福音とは全く関係のない、巧みに組み立てられ、語られた説教はたくさんあります。有名な説教師の多くは、職業的スピーチライターを雇って代わりに説教の原稿を書かせさえしていて、自分ではそうした他人の用意した原稿を読み上げるだけなのです。
ニコライ派の罠にはまってはなりません。新たに生まれた教会は、物質的利益の追求をすることがないように心しておかなければなりません。とりわけ聖職者は、常に気をつけなければなりませんが、その他の会衆の誰もが気をつける必要があります。教会の会員から金を引き出そうとし、教会での物質的な贅沢を愛し、礼拝の場というよりは宮殿といったほうがよいような大伽藍を建設する──それも、主の再臨が迫っていると説きながらです!──これらはすべて誤った信仰による行ないであり、ニコライ派の行ないそのものなのです。
とりわけ、にせの羊飼いには注意し、欺かれて彼らの信仰に従うことのないようにしてください。聖徒はそもそも金を愛してはなりません。そうではなくて、水と血の福音、神の初めの愛を守り愛するのです。主がキリストの水と血とによって人類を救われたという真理を固く信じて、主にお会いする時まで信仰をもって生きるのです。イエスがバプテスマと十字架上の死とによってすべての罪を取り除いてくださったのだという、神のみことばを信じましょう。
ニコライ派に従う人々は、水と御霊の福音を説くことがありません。彼らは水と御霊の福音の行ないには興味がなく、金をもうけることだけを考えています。彼らは、イスラエル人の前につまずきの石を置いて滅びるように仕向けた、現在のバラムです。このことを覚えておきなさい。
バラムはやがてヨシュアに殺されました。ヨシュア記が伝えるように、この偽りの預言者は、イスラエル人がカナンを征服したとき、ヨシュアの剣にかかって殺されます。バラムは、神の真のしもべではなかったために殺されました。何も知らない信者を利用して私腹を肥やすためにキリストの名を使う人々はみな、現在のバラムです。バラムは自らの貪欲さを満足させるためにあらゆる手段を用いました。
神はエペソの教会のしもべに、「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」とおっしゃいました。つまり、この部分は、道を誤り敗れた者は死ぬということをも意味しているのです。バラムの道、自らの死への道をたどることは、破れることです。神は、人間がニコライ派の罠にはまらないように警告のみことばをくださいました。このことに感謝いたします。みなさんが物質的誘惑に陥って貪欲さのために神に見放されることのないよう、心から願っております。