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主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 6-4] もはや罪を犯し続けることはできない (ローマ 6:1-23)

(ローマ 6:1-23)
では、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
 
 
<ローマ 6:1>それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
ここで使徒パウロの言う「恵み」とは、神の義を信じて特別に得られる、罪からの救済です。
ローマ書第 6 章でパウロが強調しているのは、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマ、死、そしてよみがえりを信じる信仰です。パウロは罪に関して、イエス・キリストと共に罪に対して死んだのなら、恵みが増し加わるように、罪の中に留まって、さらに罪を犯すべきだろうかと、修辞的に尋ねています。この問いは、「パウロは、私たちは神の義を信じて、ただ一度ですべての罪を贖ってもらったのだから、もっと罪を犯すべきだと言っているのではないか」という、おかしなことを言う人々に向けたものです。ローマ書第 1 章にあるように、「ただ一度で罪をみな贖われたのなら、罰を恐れることなくもっと罪を犯せる」と考える人がいるのです。パウロは、そうした人に対して、神の義を信じる者がどのような信仰生活を送ればいいのかを説明しているわけです。
パウロは、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」という問いに対して、それはいけないと答えています。罪を犯し続けてはいけないというのは、聖徒は神の義を信じて罪から救われているからです。神の義を信じてすべての罪から救われた者は聖徒と呼ばれます。この「聖徒」という称号は、この世の何よりも貴重です。他のどんな名誉とも代えられません。ですから、聖徒には、この滅び行く世界で罪を犯し続けようという気持ちがありません。
信仰によって聖徒になった者が、神の義を得ているというのに、意図的に罪を犯せるでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪の赦しを受けているのですから、罪の中で生き続けることを嫌います。きれいな服を着ている人は汚いものを避け、きれいな場所にとどまろうとします。同様に、神の義を得た者は、正しいことをして生きようと思います。それは、罪を贖われた者は御霊に心を支配されているからです。ですから、義人は罪の中にとどまることができません。
使徒パウロは、聖徒が「罪に対して死んだ」と言っています。イエスのバプテスマによって罪が移され、キリストと共に十字架上で死んだと信じると、「罪に対して死ぬ」ことができます。つまり、神の義への信仰とは、キリストのバプテスマによって自分の罪を移し、十字架上で死に、キリストと共に生きることをいうのです。では、どうしたら罪に対して死ねるのでしょう。罪に対して死ぬというのは、イエス・キリストのバプテスマを信じて十字架上で死に、キリストと共によみがえるということです。
 
<ローマ 6:2>絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
使徒パウロは、神の義を信じる者には世の罪の中で生きることができないことを明らかにしています。神の義とその福音を信じる者の信仰を疑う必要はありません。「絶対にそんなことはありません」と言う信仰があるからです。つまり、「イエス・キリストを信じて、共に世の罪に対して死んだというのに、どうして罪の中に行き続けられるだろう」と考えさせる信仰があるからです。
新たに生まれる前、神の義を信じる者は罪のために苦しみました。そこで、そうした時のことを思い起こして、あの状態に戻ったなら、もう生きていけないということがよくわかっているのです。パウロがここで、「新たに生まれた者がどうして世の罪の中で生きていけよう」と修辞的に問うているのは、そのためです。
神の義を知らない人々が心配しているのは、神の義を信じている人たちがより多くの罪を犯し、これまで以上に不道徳になるのではないか、ということです。しかしながら、そんな心配はまったく無用です。神の義を信じる者の心には、たった今も御霊がおられ、導いておられます。ですから、罪の奴隷であった時とは違い、もはや罪に縛られてはいません。聖徒は御霊の力により、神と共に歩めるのです。
聖徒が新たに生まれる前は罪の奴隷でした。しかし、今は神の義を信じて義の奴隷になっており、もはや罪と共に生きたくはないのです。みなさんは、神の義を信じて罪を完全に贖われたなら、また罪と一緒に生きていきたいですか。そういうことは望まれません。神の義を信じたパウロも、まさにそうだったのです。
「罪に対して死んだ」という事実を信仰に適用しなければなりません。第一に、イエス・キリストのバプテスマの後、その死を共にしました。第二に、キリストが復活なさったことは、キリストにつけられた私たちが新たないのちを受けたということを意味します。これは、死につながるはずであった罪の報いから、今は永遠に切り離されているということです。私たちは今、神の義を信じているので、御霊が内におられます。その力のおかげで、正しく生きることができるのです。ですから、神の義を信じる者は、けっして罪人に戻りません。神の義を信じる者だけが罪に対して死んだのであり、そうした者は、もはや罪の中にいることができません。
 
 

バプテスマによってイエス・キリストにつけられた者

 
<ローマ 6:3>キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた理由を理解しているなら、この部分を理解し、信じることもできます。神の義を信じる者はみな、バプテスマによってキリストにつけられました。それは、イエス・キリストがこの世に来られ、神の義を成就なさるためにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に、彼らの罪が信仰によってすべて移されているからです。ですから、「バプテスマによってキリストにつけられた」時、罪がみなイエスのバプテスマによってキリストに移されたと信じるようになったのです。人はみな、バプテスマによってキリストにつけられたことを信じなければなりません。
神の義を信じる者はみな、ヨハネからバプテスマを受けられたイエスを信じて、世の罪をすべて移すのです。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪をすべて受け取っておられるからです。ですから、神の義が示されている真理を信じているのです。この信仰だけが、バプテスマによってキリストにつくことを可能にします。
私たちはイエス・キリストが救い主だと信じています。これは、次の三つを信じていることを意味します。第一に、主が神の御子であられるということ。第二に、罪人を罪からお救いになるために神の栄光を捨てて受肉してこの世に来られたこと。第三に、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、それによってただ一度でこの世の罪をみな受け取られたこと。この信仰が、バプテスマによってキリストにつくことを可能にするのです。これを信じているなら、その人もまた、信仰により、バプテスマでキリストにつけられているのです。
キリストと共に死に、共に生きることは、イエスのバプテスマの奥義を知り、信じているかどうかによります。言葉を換えて言えば、イエスのバプテスマの奥義を理解し、信仰によってイエスの十字架上の死の力を身につけるのです。そこで、バプテスマの力と奥義を聖書の語句によって明らかにしようと思います。そのためには、なぜバプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けなければならなかったのか、なぜイエス・キリストがバプテスマをお受けにならなければならなかったかを知る必要があります。
新約でヨハネがバプテスマのヨハネと呼ばれるのは、イエスにバプテスマを授けたためです。では、イエスが彼から受けられたバプテスマは何を示しているのでしょう。「バプテスマ」はギリシャ語で「βάφτισμα(baptisma)」ですが、これは「浸される」という意味です。もっと重要なことに、これには「罪が移された、洗われた、埋められた」という意味もあるのです。ですから、「バプテスマ」には「罪の死」という意味もあるのです。これは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、それによって世の罪を被られ、信じる者の罪を洗い流され、その死によって罪を贖われたことを意味します。主がバプテスマを受けようとなさったのは、人類の罪をみな被られるためでした。イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)とおっしゃった後でバプテスマを受けられます。
「バプテスマ」には「洗う」という意味もあります。これは、イエスがバプテスマを受けられた時に、世の罪をみな受け取られ、すべての罪の咎を洗い流されたという意味です。この真理を信じる人は、信仰によって罪をみな洗い流すことができます。つまり、バプテスマは罪が一つ残らずみなイエスに移されたことを意味し、誰でもこれを信じる者は、必ず罪をみな洗われるということなのです。罪はみな、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった時に移されているのですから、信じる者は誰でも罪をみな清められます。
このことは旧約ですでに予示されています。旧約は、イエス・キリストが来られ、今述べたような方法で人類の罪を全部被られることを明らかにしています。レビ記 1:14 には、「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである」とあります。ここは、罪を消すには犠牲の頭に両手を置くことが必要であったことを示しています。ささげ物が「彼の代わりに受け入れら」れたというのは、神がそれを受け入れられるということです。神のお認めになる犠牲は、まずイスラエル人が頭に手を置いて罪を移したものでなければなりませんでした。そうしてはじめて、神はそれを受け入れられたのです。
旧約で「手を置く」ということには、「移す」、「負わせる」、「埋める」という意味がありました(レビ記 1:1-4)。新約でのバプテスマも、まったく同じことを意味しています。イエスがヨハネから受けられたバプテスマは、人類の罪を全部負われるためのものでした。神は、旧約で救いの原則として、手を置くことを定められました。そこで、大祭司は毎年の第七の月の十日に、イスラエルの民の罪を全部移したのです。
アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。(レビ記 16:21-22)
大祭司アロンがイスラエルの民に代わって犠牲の頭に両手を置くと、罪がみな山羊の頭に移されました。そこで、犠牲が人々の身代わりとして殺されたのです。イスラエル人は同様の方法で自分の罪を贖うため、全焼のいけにえ用として傷のない山羊や羊、雄牛を連れて行き、動物の頭に両手を置いて罪を移しました。一日の罪はそれぞれの罪人が移しましたが、イスラエル人の一年分の罪は大祭司が代表して犠牲に移しました。これは、新約でイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたことの影でした。
イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマによって、人類の罪がみなイエス、すなわち神の小羊に移され、人類救済が達成されました。イエスは人類の代表であるバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、罪人のいけにえのささげ物、この世の罪を負ったささげ物になられました。人間は、イエスのバプテスマと十字架上の死の、この奥義を信じてイエスに罪を移し、信仰によってイエスと共によみがえりを受け、永遠のいのちを享受することになったのです。いけにえの制度は聖書でしばしば用いられている代表の原則を反映しています。アダムはすべての罪人の代表でしたが、大祭司アロンの子孫であるバプテスマのヨハネもまた、人類の代表としてイエスにバプテスマを授けたのです。
新約は、バプテスマのヨハネがアロンの家に生まれた祭司で、人類の代表であったとしています(ルカ 1:66-88)。バプテスマのヨハネは旧約で予言されています。彼は女の腹から生まれた者の中で最も偉大な者であり、人類の代表でした。
見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。(マラキ 4:5)
イエスご自身、やがて来るエリヤとはバプテスマのヨハネなのだとおっしゃり、旧約で予言されていたのがバプテスマのヨハネだとあかしなさいました。バプテスマのヨハネは人類の代表、旧約時代の最後の大祭司としてイエスにバプテスマを授け、それによって世の罪を移すという祭司の役目を果たしたのです。神は、バプテスマのヨハネの役目をそのように定められました。
歴代誌 I 24:10 でバプテスマのヨハネの家系を見ますと、祭司の数、つまり、アロンの子孫の数が増えていたという記述があります。そのためにダビデ王は、祭司が組ごとに働くよう定めたのです。「アビヤ」の組は八番目になっています。ルカ 1:9 ではヨハネの父ザカリヤについて、「祭司職の習慣によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった」とあります。これは、ヨハネの父ザカリヤが大祭司アビヤの家に生まれたことを示しています。ですから、バプテスマのヨハネがバプテスマによって世の罪をイエスに移す使命を帯びた、神のしもべであることがわかるのです。
イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪を被られたことは、聖書の様々な部分で示されています。また、いくつかの部分で使徒たちは、イエスがバプテスマによって罪を被られたことを告白しています。パウロはガラテヤ 3:27 で、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」と述べ、使徒ペテロはペテロ I 3:21 で「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです」と述べています。
使徒ヨハネもまた、ヨハネ I 5:5-8 であかししました。
世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と血と水です。この三つが一つとなるのです。
マタイもまた、マタイの福音書 3:13-17 で述べました。
さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
マタイ 3:13-17 は、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けて世の罪を全部移したことですべての正しいことが実行されたとしています。ここで、「すべての正しいこと」とは、すべての人の罪を取り除いた神の義を指します。イエスはバプテスマをお受けになったので、世の罪を被られ、罪を十字架まで運ぶことがおできだったのです。
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ 1:29)
まことに、父なる神自らが、これらをあかししておられます。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ 3:16-17)
イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪をただ一度ですべて負われると、それを十字架まで運ばれ、血を流して死なれ、三日後に死者の中からよみがえられました。今は神の右手の座に着いておられ、バプテスマによってキリストにつけられる信仰をもつ者みなに罪の赦しの恵みをお与えになり、彼らを神の義の福音を広める働き手として用いておられます。
世の罪すべてを被られたお方は救い主イエスであられることを御霊があかししているというのに、人々はイエスを正しく理解していません。霊的目が開かれていないので、主がバプテスマを受けられて世の罪を負われたことがわからないのです。バプテスマのヨハネによるバプテスマなしでも、イエスは一人で救済のみわざができたのであり、実際そうなさったのだと考えています。しかしながら、旧約では大祭司アロンが、神の定められたいけにえの制度にしたがって、いけにえの山羊に両手を置いて罪を移してから殺し、イスラエルの民を一年の罪から解放したのです。イエスは神の小羊としてこの世に来られたので、アロンの子孫で、人類を代表してこの世の罪を移す役目を負ったバプテスマのヨハネからバプテスマを受けることが絶対に必要でした。そこで、旧約のいけにえの制度にしたがって、バプテスマのヨハネと共に神の義を満たす救済のみわざを行われたのです。
旧約の犠牲は一定の期間の行いによる罪だけをその身に負って死にました。しかし、神の御子であられるイエス・キリストは、新約のいけにえのささげ物として来られ、バプテスマのヨハネから人類の罪を、時を超えてすべて受け取られ、そうして負われた罪を十字架上で贖われたのです。聖書に、バプテスマによってキリストにつけられた者がキリストと一緒に埋葬されたとあるのは、そのためです。
イエスのバプテスマの後、バプテスマのヨハネはイエスのことをあかしして言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29)
バプテスマのヨハネのあかしがなければ、イエス・キリストの成就された神の義を信じられません。それで、ヨハネ 1:7 にはバプテスマのヨハネについて、「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」とあるのです。
旧約最後の預言者バプテスマのヨハネは、イエスが世の罪をすべて取り除かれることをヨハネ 1:29 で次のようにあかししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったから、世の罪を取り除くことがおできになったのです。バプテスマによって世の罪を被っておられたからこそ、十字架上で死なれたのです。
バプテスマによってキリストにつけられたと言うとき、それは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に人類の罪をみな負われたと信じ、信仰によってイエスにつけられたということなのです。ここで私が「つく」と申しているのは、イエスがこの世でなさったみわざをすべて信じて、心を結ぶということです。ですから、イエス・キリストがこの世に来られた時に何をなさったかを知り、信じる必要があるのです。イエスはこの世に来られて何をなさったでしょう。三十歳の時にバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。弟子たちを指導され、三年間あかしなさいました。十字架につけられ、三日後に死者の中からよみがえられました。これをすべて信じることが、信仰によってキリストにつくということです。
「バプテスマによってキリストにつく」というのは、これらすべてを信じることなのです。これは、罪がみなイエスの上に移されたと信じることをいいます。よろしいですか、バプテスマによってイエス・キリストにつけるようにする真理を知らなければ、キリストへの信仰はすべて無益です。キリストにつくことを可能にするバプテスマのことを知らないで、どうしてイエスを知っているといえるでしょう。それなのに、現実はといえば、悲しいことに、キリスト教徒でさえ、この真理を知らずにいるのです。彼らはまことに無知です。世界中のキリスト教徒が、イエスがバプテスマを受けられたことの深い意味を知らずにいるのですから。
この真理は原始教会時代から現在まで隠されていました。しかしながら、神は人間を愛しておられるので、今のこの時代に明かしておられるのです。すると、なぜこの真理がこれほど長期間にわたって隠されていたのだろうかとお尋ねになる方がおられるでしょう。しかし、これは事実なのですから、こうとしか申しようがないのです。信仰をもって、バプテスマによってキリストにつけられた者は、キリストの体と一つになります。そして、死とよみがえり、新たないのちの恵みをも、キリストと共にします。
パウロはローマ書で、バプテスマによってキリストにつけられるというのがどういうことかを示しました。イエスの御名によってバプテスマを受けた時にする信仰告白は、イエスがバプテスマを受けられ、私たちのために十字架上で死なれ、救い主になられたというものです。
世のすべての人は、預言者バプテスマのヨハネを通じて、イエスについてのあかしを得ます。バプテスマのヨハネは、イエスがバプテスマという、最もふさわしく正しい形でこの世の罪をみな受け取られたことをあかししています。イエスがなさったことすべて、つまり、受肉してこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて罪人の罪をみな正しく被られ、十字架上で血を流して死なれ、死者の中からよみがえられたこと、これらはみな神の義の働きでした。私たちは旧約最後の預言者バプテスマのヨハネのあかしからイエスを知り、イエスのバプテスマと十字架上の血を信じて、すべての罪から救われたのです。イエスのバプテスマの真の意味と、十字架上で血を流された理由とを知り、イエスを救い主と信じるようになるのです。
 
 

一つになる信仰

 
<ローマ 6:4>わたしたちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
バプテスマによって世の罪と自分の罪をすべて移して罪の赦しを受けたのなら、自分がイエスと共に霊的に死んだという霊的真理をも知っていなければなりません。言葉を換えて言えば、イエスのバプテスマを信じて罪を移す信仰をもたなければならないのです。また、自分がイエスと共に十字架につけられて死んだと信じることも必要です。
イエスのバプテスマによって世の罪と自分の罪を全部キリストに移したなら、キリストと共に死んだことをも信じる必要があります。神の義を信じて新生した者でも、イエス・キリストに従おうとすると、世のさまざまなしがらみのため、多くの問題に臨むからです。
つまり、世は神の義を信じる者さえも引き留め、放そうとしないのです。人間の執着心に訴えるのです。バプテスマによってキリストにつき、共に十字架につけられて死んだという霊的信仰が必要なのは、そのためです。そうしてはじめて、新たないのちの内で神の義のために生きることができます。キリストと共によみがえるからです。これは正しい信仰の第三の要素です。
神の義を信じる者は、この三つを信じ、深く理解していなければなりません。これが、パウロがここで述べていることなのです。
 
 

主につく信仰をもて

 
心でイエスのバプテスマと死につく信仰をもたなければなりません。聖書には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ 3:27)とあります。そこで、ローマ 6:3 には「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」とあるのです。ここは、イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時、罪をみなただ一度で負われたことを信じるということです。聖書は、これがイエスにつく信仰だとしています。イエス・キリストがバプテスマを受けられた後で十字架上で死なれたのは、バプテスマによって人類の罪をみな被っておられたためであり、負われた罪を贖われるために十字架につけられたのだと信じなければなりません。これがイエスのバプテスマと死につく信仰です。そうした信仰は、水と御霊の福音の内でだけもてるのです。
人間は罪のために神の義に至れませんでした。しかし、およそ二千年前に主がこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、私たちの罪だけではなく、はるかに多くの罪をもただ一度で被られ、その代償として、十字架につけられ、血を流して死なれました。このようにして救ってくださった恵みがまことに偉大で強力なため、私たちはイエスを信じ、イエスについているのです。主が世の罪を消されたのは、ただ一度で罪を被っておられたためです。ですから、バプテスマと血によって罪がみな永遠に洗い流されたのです。
人間はひとたび生まれると、生涯罪を犯します。聖書に「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」とあるのは、そのためです。ここは、イエスのバプテスマと十字架上の血に基づいた信仰がキリストにつく信仰だという意味です。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて神の義を成就されたキリストのバプテスマが、人類の罪をすべて被られた救済のしるしであったことを信じて、はじめてキリストにつくことができるのです。父なる神のみこころに従ったお方は誰でしょう。ほかならぬイエス・キリストです。イエス・キリストはバプテスマによって世の罪と死とからお救いくださいました。みなさん、イエス・キリストにつく信仰をもつためには、バプテスマのヨハネから受けられたバプテスマは罪を移すためのものであり、キリストの死と共に自分の肉も死んだのだと信じていなければなりません。主は死に打ち勝たれ、よみがえられ、そうして信じる者すべての永遠の救い主になられたのですから、信仰によって主のよみがえりにつかなければなりません。
使徒パウロの信仰もまた、イエスがバプテスマを受けられ、十字架上で血を流されて罪人を罪から救われたと信じるものでした。イエスは救い主になられ、それを信じる者を義人になさいました。自分の行為を省みると、とても義人だとは言えないのですが、イエスがバプテスマと十字架上の血によって罪をみな消してくださったので、信仰によって罪のない者になるのです。私たちはイエスのもたらされた救済を信じて、すべての罪を贖われています。イエスはバプテスマを受けられて、ただ一度で世の罪を被られ、十字架上で死なれ、ただ一度で罪を贖われたのです。
使徒パウロがローマ書 6 でバプテスマによってキリストにつき、共に死ぬと述べているのは、そのためです。彼はまた、ガラテヤ 3 で「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」とも述べています。みなさん、真理を知る信仰をもって、はじめて主につくことができるのです。どのような信仰をもてばバプテスマによってキリストにつき、キリストの内で新たないのちを受けるかを知り、それを信じなければなりません。
パウロは、神が罪をみな消してくださったのだから、恵みが増すように罪を犯し続けるのがいいだろうかと問うていますが、答えは「いいえ」です。もちろん、実際には、死んで神の御前に立つ日まで誰もが罪を犯し続けます。しかし、罪を犯すのは弱いからであって、救済の恵みをより以上に受けようとするためではないのです。
 
<ローマ 6:5>もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
パウロはここで、ガラテヤ 3:27 「バプテスマを受けてキリストにつくとされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」に明かされているのと同じ信仰を語っています。イエス・キリストは罪人をお救いになるためにこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪全部をただ一度で負われ、十字架まで運ばれ、死なれました。こうして古い人間を十字架につけられ、主は私たちが二度とこの世のために生きられないようになさったのです。主のバプテスマと十字架上で流された血とを信じる者は、主のよみがえりを信じ、共に永遠のいのちを享受するのです。キリストのバプテスマ、死、そしてよみがえりを信じて、キリストについた勝利者になるのです。
みなさんはイエス・キリストについておられますか。イエス・キリストについておられるなら、神の義と、それを広める働きのために共に迫害を受けられるでしょう。主と共にあって魂と体はよみがえりを受け、永遠のいのちと恵みとを享受するのです。
ほんとうに神の義を信じておられるなら、信仰によって主のバプテスマと死・よみがえりを共になさるはずです。よろしいですか、この信仰だけがほんとうに人を神に結びつけるのです。みなさんの心にキリストにつく信仰がありますように。ハレルヤ。
霊的信仰によって罪の赦しを受けられます。霊的信仰によって十字架上で死ぬことができます。そして、真の信仰によってよみがえりを受け、神の霊的子どもになれます。イエスがバプテスマを受けられた時、四つの霊的領域について語られました。第一に、人類の代表であるバプテスマのヨハネからイエスがバプテスマを受けられたのは、世の罪とみなさんの罪を被られたのです。イエスがバプテスマを受けられて水に身を浸されたことは、被られた罪のための罰を受ける、つまり、死ぬことを意味します。バプテスマを受けられて水、つまり死から出られたのは、よみがえりを示しています。これらすべてを信じる人は、神の子どもになる資格を得ます。イエスのバプテスマにより、以上のことが示唆されているのです。そして、これを信じるのが、真に結びつく信仰なのです。
信仰をもってバプテスマによってキリストにつく者とされた人は、キリストの死をも共にします。そして、これを信じられる人は、キリストにつきます。みなさんはイエスと結びついて神を信じておられますか。バプテスマによって主につき、主と共に罪に対して死に、新たないのちを受けなければなりません。バプテスマによって主の死につくというのは、どういう意味でしょう。これは、イエスがバプテスマを受けられた時にすべての義を満たされた、つまり、すべての人の罪を被られたということです。これを信じて、すべての罪を洗われているのです。
たとえば、ある人にかなりの借金があったとしましょう。気の毒に思った人が借金を返済してやろうと考えます。しかし、考えただけでは実際の借金は消えません。現実のものとするためには、考えたことを実際の行動に移し、支払いをしなければなりません。支払いを証明する領収書をもらう必要があります。そうすると、借金をしていた人は、それを現実のことと認めます。そうしてはじめて借金はなくなるのです。
人類の罪を消すために主がこの世に来られた時、主は同じようになさいました。主もまた世の罪のための支払いをすべて終えられたのです。主は人間の罪をみな取り除かれました。バプテスマと十字架上の血とで罪をすべて贖われました。主は人間の罪をすべて、みなさんと私が生まれた時から死ぬまでに犯す罪をみな、心の中のものも、行いによるものも、意図的なものも、意図しなかったものも、みな受け取られました。そうした罪全部を被られるためにイエスはバプテスマを受けられたのです。まことに、みなさんは罪の負債からすっかり解放されておられるのです。イエス・キリストが全部支払いを済ませておられるのですから。
イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流され、人類を罪のすべてからお救いくださいました イエスがバプテスマを受けられたのは、ふさわしいことでした。主はバプテスマのヨハネに「このようにして、すべての正しいことを実行するのはわたしたちにふさわしいのです」とおっしゃいました。主は世の罪をみな、一つ残らず被られました。
しかしながら、いまだにイエスのバプテスマと死を単なる神学の問題として扱い、漸進的聖化説に合わせようとする人が大勢います。漸進的聖化説に基づいた、そうした信仰は、イエス・キリストにつく信仰ではありません。イエスが罪をみな消してくださったと言ってはいても、自分がまだ罪を犯し続けるのを見て、漸進的聖化説に頼るようになります。しかしながら、罪はみな、イエスがたった一度でみな消してくださっているのです。これを信じるのがキリストにつく信仰です。
イエスはバプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうしてみなさんを完全にしてくださいました。主がバプテスマを受けられたのは、みなさんの罪を消されるためです。十字架上で死なれたのは、みなさんの罪を贖われるためです。死者の中からよみがえられたのは、みなさんに新たないのちをくださるためです。ですから、主に結びつくような信仰をもたなければなりません。私たちはみな、主につかなければなりません。漸進的聖化論を信じていたのを改め、水と御霊の福音を信じてイエスにつかなければなりません。漸進的聖化論は人間の作った教義でしかありません。
 
 
水と御霊の福音につかなければならない
 
みなさんも私も、水と御霊の福音に心をつけ、信じなければなりません。なぜでしょう。神がみなさんと私を罪からお救いくださったのですから、神の義に心を結び、信じなければならないのです。みなさん、キリストのしてくださった義のみわざに心を結びつけるのです。イエスが罪をみな取り除かれたと信じる者は誰でも、バプテスマによってキリストにつけられています。イエスがバプテスマを受けられた時に自分の罪がみな移されたと信じ、イエスにつく信仰をもたなければなりません。
果てしない罪から救ってくれるのは、ただお一方です。イエス・キリストのなさったことを誰もが知り、受け入れ、イエスにつく者とならなければなりません。そのように信じるのが正しい信仰です。みなさん、イエスがバプテスマを受けられ、死なれ、死者の中からよみがえられて世の罪をみな消してくださったと信じなければなりません。みことばに心をつけ、罪の赦しを受けなければなりません。自分の考えから拒むのではありません。
キリストの成就なさったバプテスマと死、よみがえりを受け入れなければなりません。そうしてはじめて、心に安らぎを得、その信仰を真の信仰と認められます。イエスのバプテスマと死についての、この真理が現在、世のすべての人に宣べ広められつつあります。ですから、この福音を多くの人々が受け入れ、真に救済に至って永遠のいのちを受けるという、救済のみわざが世界中で行われています。それでも、自分なりの考えで信仰している人は、真理に心をつなぐことができません。まったく信じられず、「私は弱いために、こんなにも多くの罪を犯しているというのに、どうして罪がないなどと言えるのです、言えません」と言います。
しかしながら、人間が弱いからこそ、神は多くの弱点からお救いくださっているのです。ひとり子を遣わされ、バプテスマを受けて罪をみな被らせ、十字架上で死なせ、死からよみがえらせたのです。
けっして赦されない罪があると考えている人たちがいます。その一つが姦淫です。他の罪はみな体の外で行われますが、姦淫は体の中で行われます。ですから、この罪は赦されないと信じているのです。しかしながら、姦淫の罪は取り除かなかったとイエスがおっしゃったことがあるでしょうか。姦淫の罪は世の罪ではないのでしょうか。神の義はすべての正しいことを実行することで罪をみな取り除いたのですが、この姦淫の罪もまた含まれていました。姦淫の現場で捕らえられた女性がイエスを信じて罪の赦しを受けられたのは、そのためです(ヨハネ 8:11)。
しかしながら、みなさん、神の赦されない罪が一つあります。それは御霊に対する冒瀆の罪です。これは、主のみわざを受け入れることを拒み、冒瀆し、敵対し、神の義を信じない罪です。御霊に対する冒瀆は罪の赦しを受けることの妨げとなる罪です。この罪を犯す者は、イエス・キリストにつく信仰をもつことができず、実際、神に敵対してしまいます。信心家は神であられるイエス・キリストにつく信仰をもてません。ですから地獄に行くのです。
 
 
信仰によって主の死につくにはどうすればいいか
 
<ローマ 6:6>私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
もはやこの世や好色な肉に仕えることがないよう、イエス・キリストにつく信仰をもたなければなりません。パウロはここで、自分はもはやこの世に対して死に、この世のものではなくなっているのだから、神の義の奴隷になれると述べています。みなさんはイエス・キリストのバプテスマと十字架を共にする信仰をおもちですか。この信仰をもつ者は、もはや罪の奴隷ではありませんし、この世のために生きもしません。神の御国のためにだけ生きるのです。
パウロの語る信仰は、イエス・キリストにつく信仰を要求します。パウロは、イエスのバプテスマと十字架上の血を信じて罪の赦しを受けただけで終わりとせず、霊的にイエス・キリストと共に十字架上で死に、共に働き、共に御国に入る信仰をもつよう促しています。これがキリストにつく信仰です。
信仰によってキリストについている者は、もはや罪の奴隷でもこの世の者でもなく、神の義の奴隷であり、教会と共に主のみわざのために働いて生きるのです。そのような生き方をなさりたいなら、キリストのバプテスマと死を共にするような信仰をもたなければなりません。そうすれば、神の救済、死の栄光、よみがえりの栄光さえも得られます。パウロの語る信仰とは、そのようなものです。
私たちの古い自己は、信仰によってイエス・キリストと共に十字架につけられました。この信仰は、心を神の義に結んではじめて得られます。私たちは信仰によって結ばれ、キリストと共に十字架につけられました。パウロは次のように述べました。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ 6:5-11)
つまり、パウロは、信仰によってキリストにつけと言っているのです。
イエスはバプテスマを受けられて世の罪を受け取られ、十字架につけられて血を流し、死なれました。主は自らこの世に来られ、罪をみな被られ、身代わりとして死なれました。これを知り、信じ、信仰によってこれにつかなければなりません。みことばについた者は、罪の中にあった古い自己が信仰によって死んでいます。私たちにはまだ肉体があり、これはそれほど変わっていません。しかし、実際のところ、イエスが十字架上で死なれた時に、私たちの肉も共に死んでいるのです。
古い自分は罪の奴隷でした。しかし、今は信仰により義のしもべになっています。使徒パウロは、罪がキリストと共に十字架上で死んだと「思いなさい」と告げています。ここで「思う」というのは、どう認識し、信じ、つくべきかを示しているのです。この信仰こそが真理へのまことの信仰です。
信仰が望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるためです。昔の人々は、この信仰によって称揚されました。(ヘブル 11:1-2)
神のお認めになる正しい信仰とは、イエスがこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪をみな被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして新たないのちをくださったと信じるものです。
イエスのバプテスマと血の内に示された神の義を信じるなら、主と一つになります。そうした信仰があれば、バプテスマのヨハネを介して罪をイエスに移し、イエスと共に十字架上で死に、イエスと共によみがえり、イエスと共に神の御国に入るのです。
ですから、使徒パウロは、主にお会いする前、つまり、信仰をもち、バプテスマによってキリストにつけられ、キリストと共に死に、キリストの内に新たないのちを受ける前の自分が罪の奴隷でしかなかったと述べているのです。パウロはそうした古い自己について語り、それがすでにキリストと共に死んだとも述べています。
主は罪の奴隷であった私たちをお救いくださいました。それを信じるなら、御霊の導きにより、神のみこころと義の働きに従うしもべになっています。しかしながら、神のしもべになった者でも、時には欠点や弱さが表に出ます。それでも、イエス・キリストのバプテスマと血についた信仰があるため、私たちには罪がまったくありません。
そうなのです。明らかに、古い自分は完全に罪の奴隷でした。しかし、今は罪の奴隷であることから完全に解放され、義の奴隷になっています。
誰もが罪を犯します。義人に向かって、「あなたには罪がないのですから、もう罪を犯すこともまったくないのでしょうね」と言う人がいます。しかし、聖書には、「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人は一人もいないから」(伝道者の書 7:20)とあります。私たちが義人になっているのは、イエス・キリストについているからです。まだ罪を犯していても、私たちには罪がありません。これは神の驚くべきみわざです。私たちはまだ罪を犯すことを免れないのに、神は罪のない者にしてくださったのです。これが神の全能の力と完全な救済です。神は完全な救済をくださいました。
かつては不従順なしもべとして死に至るはずでした。しかし、今は従順なしもべとして義に至っています。罪の赦しを受けた後でも肉はまだ不完全なままであり、罪を犯します。しかし、それでも信仰のおかげで義のしもべになり、正しいことをしているのです。つまり、今は罪の赦しを受け、少なくとも正しいことをする資格を得て、正しいことをするようになっているのです。まだ不完全な存在ではあっても、少しでも心を傾けるなら、今は正しいことができるのです。
ですから、体を不正のために用いず、正しいことのために生き、義の実を結ばなければなりません。主は義の実を豊かに結ばせてくださいます。聖書には「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあります。
イエス・キリストは王・祭司・預言者としてこの世に来られ、天の大祭司として人類の罪をみな被られ、その身をいけにえのささげ物になさいました。なだめの供え物となられたイエスは、私たちのためにバプテスマを受けられ、私たちのために十字架上で死なれ、そうしてみなさんと私をお救いくださったのです。イエス・キリストはみことばにより、いのちとは何か、人間とは何か、世の終わりと始めは何か、罪の始まりとその結果はどうなるかといったことに気付かせてくださいました。イエス・キリストは本来、創造の神、王の王、裁き主であられます。キリストの内には永遠のいのちという、神の賜物があります。
そうなのです。私たちは永遠のいのちを受け、義のしもべになっています。ですから、信仰によって結びつき、義のしもべとして生きなければなりません。罪の赦しを受けて義人になった者には、少なくとも、心でイエスのバプテスマにつき、主と共に死に、共によみがえりを受ける信仰があります。この信仰によって義人になった者は誰でも、少なくとも義のしもべであり、正しいことをして義人として生きるのです。つまり、私たちはイエス・キリストにつき、信じて、やがては永遠のいのちを受けるのです。しかしながら、心をイエスのしてくださったことにつけず、まだ罪をもっている者は、地獄に行くことになります。義人として新たに生まれない人は、罪の報いとして地獄の罰を受けるのです。
神の義を知らない信仰は、キリストにつく信仰ではありません。パウロは、神の賜物とはイエス・キリストの内の永遠のいのちだと述べました。イエス・キリストの内に罪の赦しと永遠のいのちがあります。私たちは義のしもべとして、正しいことを行えます。しかしながら、イエス・キリストがお救いくださったことを信じず、主に心をつけなければ、みな地獄に投げ込まれます。罪の報いは死だからです。使徒パウロが、義の器として我が身を神に捧げなければならないと言ったのは、このためです。
イエスのバプテスマと十字架上の血への信仰をもつことがまことに重要です。イエスのバプテスマを軽んじてはなりません。キリスト教徒がイエスのバプテスマを除外した信仰をもつなら、その心は罪によって縛られるのです。イエスを信じていると毎日告白しても、それでもずっと罪人のままです。
世界中のキリスト教徒は今、神の義ではなく漸進的聖化説を信じています。その結果、キリスト教徒であっても、無信仰の人と同じように罪に縛られています。そうした人はできるだけ早く神の義を信じ、すべての罪から解放されなければなりません。ご自分の義を信じる者を罪から救われ、義の器、しもべとして生きることができるようにしてくださったことを神に感謝しなければなりません。神はまた、罪から来る報酬は死であり、ごくわずかでも罪のある者は地獄に投げ込まれるとおっしゃいました。神は人間の罪を一つ残らず消されました。地獄に行くはずだったものを義人としてくださり、永遠のいのちをくださり、お救いくださったことを主に感謝しなければなりません。
人間の肉は不完全ですが、この福音を信じている私たちは義のしもべです。不完全さのために過ちを犯しても、心を改めて神の福音に仕えるなら、直ちに義のしもべとしての栄光の地位を回復します。イエスが罪をみな消してくださったのですから、いつでも義のしもべとして生きられます。私たちは義のしもべですから、義の働きをするときにはうれしく、それができない時には憂鬱になります。私たちの目的が神の目的に沿うものなら、そして、その目的に心を定めたなら、心楽しくなります。他方、欲情の充足を目的とするなら、悩み苦しみます。なぜでしょう。私たちは義のしもべだからです。主を信じ、主につかなければなりません。
神にはとても感謝しきれません。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
文字通りに言えば、罪からくる報酬、つまり、罪の代償は死です。罪があれば、その人は代償として死ななければなりません。霊的に言って、罪のある人は誰でも地獄に投げ込まれます。
「では、私は地獄に行く定めにあるのか。他人が私をどう見ようと関係ない。立派でよい信仰の持ち主と見られたところで、私は心に罪があるのだから、地獄に定められているのだ。」 このように、心にある罪のために地獄に行く定めにある自分をありのままに見るなら、水と御霊の福音を信じ、信仰によってすべての罪から救われます。
みなさん、人間ならば、人間の義を認めるでしょう。しかし、神はそれをお認めになりません。人間の義によって神にお会いすることはできませんし、キリストの内に入ることもできません。ですから、神の御前で自分をよく調べ、信心家の信仰を改め、神の義である水と御霊の福音を信じて、罪から完全に救われなければなりません。
みなさん、神の義を成すイエス・キリストのバプテスマ、十字架上の死、よみがえりに結びつき、神を信じなければなりません。みなさんの台所の戸棚には塩があると思います。しかし、それを料理に入れなければ、まったく塩味はしません。同様に、たとえ神が救済をすべて用意しておられても、それを人間が心に受け入れなければ、無益です。神のみことばを心に受け入れ、心の底から信じてはじめて、救済がその人のものになるのです。そうすると、御霊が心に来られ、その人は永遠のいのちを与えられ、義のしもべになります。信じて心に受け入れなければ、みことばはその人には何の関わりもない無益なものになります。
私はイエスのバプテスマと血とを信じ、イエスについたしもべになったことを、まことにありがたいと思っております。主につく前は、どんなに願っても義のしもべになることができませんでした。主を信じていると言っていながら、水と御霊の福音を信じていなかったからです。私はずっと罪の奴隷でした。
しかしながら、今は義のしもべになっています。みなさんもまた義のしもべになっておられますか。みなさんも私も不完全な存在ではありますが、水と御霊の福音を信じるなら、いつでも義のしもべなのです。天の御国の義を得て、私たちは今、いつでも神の義のしもべです。肉においては不完全であっても、神のみこころを知り、いつも正しいことのできる義のしもべになっています。私たちは神のみこころに心を合わせて生きています。神から託されたことを感謝の念をもって行い、いつでも義のしもべとして生きています。
みなさんも私も義のしもべです。罪の奴隷にはなれません。使徒パウロがローマ書で説明しているように、かつては罪の奴隷でしたが、今は義のしもべなのです。
キリストを信じ、主のバプテスマと血を共にし、私たちは義のしもべになっています。人格的には欠点があっても、それでも義のしもべです。私たちは怠惰ですが、それでも義のしもべです。至らぬところがあって、さまざまな過ちを犯しますが、それでも、いつも義のしもべです。この真理を信じているからです。天は二つに裂けるでしょう。大地はいくつにも裂けるでしょう。大海は隆起して陸地となり、この惑星自体、消滅するかもしれません。それでも、私たちは永遠に神の義のしもべです。私たちは義のしもべとして生き、神の用意してくださった永遠の御国に入ります。
みなさん、みなさんは、このあてにならない世界で義のしもべとして生きようと、もがいておられるのですか。では、神に助けを求めなさい。神は試練の中にも出口を用意してくださるとおっしゃいました。心配するのはやめ、神の助けを求めなさい。神はすでに何もかもご存じです。神はすでにご存じの者たちを召され、召された者を義とされ、義とした者に栄光をお与えになったのです。そして常に共におられます。神は私たちを義のしもべになさり、義の働きをおさせになり、真にご自分に結びつく信仰をおもたせになって、やがては御国に入れてくださいます。神に感謝と栄光をささげます。
 
<ローマ 6:7>死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
神の義を信じる者は、イエス・キリストと共に十字架につけられて霊的に死んだということを信じていなければなりません。そうしてはじめて、キリストと共に十字架につけられる信仰をもち、この世で神の義の働きに献身できるのです。キリストと共に十字架につけられる霊的信仰があるなら、パウロのように神の義のしもべとして生きられます。
かつて、私は神の働きのために生涯をささげることに困難を覚え、この世から自分を引き離すことができませんでした。私はしばし考えました。そして、イエス・キリストがバプテスマを受けられて罪を被ってくださったこと、主が十字架上で死なれた時に、私もまた死んだのだということに気づいたのです。イエス・キリストはバプテスマによって世の罪を被られて十字架上で死なれたのだから、主の死は私の死であったのだと悟ったのです。そこから明らかな結論に至りました。「イエス・キリストが十字架につけられたとき、私の罪を負われた状態で死なれたのだ。では、これは、私もまた十字架につけられたということではないのか。すでに磔刑に処された私が、どうしてまだ生きていると言えるだろう。」
私はその時に死んだので、もはや世の人々との関係に煩わされることなく、神の義の働きに全身全霊を捧げることができるのです。パウロがここで述べているのは、この信仰です。
 
 
主につけられて
 
<ローマ 6:8>もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
使徒パウロは、キリストを信じて共に死んだ者だけが共に生きると言いました。そうなのです。神の義の明かされた水と御霊の福音を信じる者は誰でも罪の赦しを受け、イエスと共に十字架につけられます。しかしながら、問題は、実際はキリストと共に十字架につけられて死んでいるのに、まだ生きていると思っていることにあります。キリストによって罪を贖われ、キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に生きるという希望をもたなければなりません。
神は、ご自分の義を信じる者を終わりの日に最初によみがえりを受けさせると決めておられるのですから、そうした希望が必要です。ですから、千年王国が来た時によみがえりを受け、神の子どもとして王として千年間支配できるようにする信仰をもたなければなりません。
また、千年王国が終わったなら天の永遠の御国に入り、そこで永遠に生きるのだと信じていなければなりません。イエス・キリストがバプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、御父の御国においでになったからです。ですから、神の義を信じる私たちは、主が死者の中からよみがえられて永遠に生きられるように、私たちもまた永遠に生きるのだと信じるのです。私たちは最初のよみがえりを信じていますから、再び生きるのは明らかです。みなさんにはそのような信仰がおありですか? 神は義人にそうした信仰と恵みをくださいます。
 
<ローマ 6:9>キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを私たちは知っています。
神の義を信じる者は、もはや死に支配されません。それは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたからです。もはや死に支配されない者になるということが、すなわち真のキリスト教徒になるということです。ですから、これがいかに大きな喜びであり、恵みであるかを改めて思うのです。死はもはや聖徒を支配しません。聖徒が永遠に生きるのは、そのためです。すると、考えます。「では聖徒は何をすればいいのだろうか。永遠のいのちで何を楽しむだろう。」 
神は、聖徒がご自分と共にすばらしい栄光の中で永遠に生きるとおっしゃいました。死なないのは悲惨なことだと思う方がおられるかもしれません。しかし、そういうことを考えるのは、まだ罪から解放されていない人だけです。神の義を信じて罪の赦しを受けた者は幸福です。悲しみや呪いがみな消え、永遠の喜びと恵みだけがあるのですから。義人は神の義を信じて永遠のいのちを得ている、まさにそのために、もはや死は義人を支配しないのです。死はもはや永遠に義人を支配できません。神がそのようになさったからです。
 
<ローマ 6:10>なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
イエスはバプテスマによって世の罪をすべてただ一度で被っておられたから、十字架上の死が効力をもち得たのです。イエス・キリストは全人類の罪を消すためにこの世に来られました。主は世の罪のために死なれました。その死はすべての人間のためのものでした。それなのに、主のバプテスマと死が自分たちにとっての恵みであったことを知る者は、ごく少ないのです。主のよみがえりは全人類を死からよみがえらせるためのものでした。しかしながら、この真理もまた、知る人はわずかです。
イエス・キリストは人類を死からお救いになるためにバプテスマを受けられただけではなく、死者の中からよみがえりもなさいました。イエスの死は、みなさんと私を救うために父なる神の御前で成就された永遠の愛の真実なのです。
 
<ローマ 6:11>このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。
ここで「思いなさい」というのは、これを信じ、考えなければならないという意味です。私たちは罪に対して死んだのであり、神に対してはキリストの内に生きています。つまり、私たちは世に対して死んでいるのですが、神の内ではよみがえりを受けているのです。使徒パウロが聖徒たちに、生ける信仰をもたなければならないと説いているのは、そのためです。
 
<ローマ 6:10>なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。
パウロがここで「思いなさい」と言っているのは、義認説のことを話しているのではありません。神の義の中で義人になったことを信じよと告げているのです。つまり、パウロは、私たちが神の義を信じてよみがえりを受けていると言っているのです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。
さて、この真理を信じる私たちもまた、イエス・キリストがバプテスマを受けられた時に罪をみな被られ、私たちは十字架上でキリストと共に死に、キリストがよみがえりを受けた時、私たちもまた、神の子どもとして新たに生まれたと信じて、永遠のいのちを受けたのだと信じています。私たちは、これを心で信じて、すべての罪から救われているのです。
イエス・キリストがどのようにして罪からお救いくださったかを正確に知り、信じなければなりません。イエスはバプテスマによってみなさんの罪をみな受け取られ、十字架上で罪の罰を受けられて、お救いくださいました。ですから、みなさんは実際、イエス・キリストと共に死に、共によみがえりを受けておられるのです。「思いなさい」とあるのは、「古い自己が死に、イエス・キリストの内に新たないのちによみがえりを受けた」ことを信じなければならないという意味です。パウロは「思いなさい」と言って、その信仰をもつよう促しているのです。
神の義を信じて罪から救われている者は、もはや自分の肉のために生きていません。今は神の義のために生きています。神が私たちをこの世に生きさせておられるのは、私たち新生者を通じて御国を拡大なさるためです。イエスのバプテスマと血とを信じてほんとうに罪から新たに生まれているなら、正しい信仰をもっており、神がどのような目的で私たちをこの世に残しておられるかを理解し、みこころに従って生きていくはずです。これから先、私たち新生者は何のために生きていかなければならないのでしょう。水と御霊の福音を広めるために生きなければなりません。
人間の肉の考えは邪悪です。しかしながら、新たに生まれた者には御霊の導きがあります。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です(ローマ 8:6)。
義人は霊的な事がらを重んじることを知っています。義人は神の望まれることを知っていますから、正しい人生の方向を明確に定めなければなりません。そうしてはじめて、神の義のために生きることができ、罪に陥った魂を救えもするのです。
みなさん、ここでよく考えなければなりません。新たに生まれた後、どのように生きたらよいのか、最初はなかなかわかりません。しかし、みことばを聞き、御霊に導かれているうち、徐々に、霊的な事、神の正しい働きのことを考えるようになります。「このように生きたなら、どうなるだろう。人生の目的は何だろう。何のために生きればいいのだろう」と考えていると、やがて、神の義のために生きなければならないのだと、はっきりわかります。神が何をお望みかを知り、それを自分の目標とし、目標を見失うことなく走るのです。
私たち新生者は肉に従うことも御霊に従うこともできます。どちらも可能でしょう。舵のない帆船は風の向くままに流されるだけです。しかしながら、船に帆があり、船首に舵があるなら、風の力を受けていても、舵で方向を定められます。
同様に、考えと信仰を御霊の導きに任せてはじめて、正しい方向に進めるのです。神の働きについて考え、自分の肉の考えは無視しなければなりません。神のみこころを知り、信仰をもって、神の御国拡大のため、世の迷える魂に向かって大胆に進まなければなりません。そうしてはじめて、生涯、義のしもべとして信仰生活を送れるのです。
 
 
体を神の義の器としてささげよ
 
<ローマ 6:12-13>ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
聖徒の体と心は神の義を実行することができるようになっています。聖徒は神の義のために生きることができるのです。この部分は、聖徒がいかにすばらしい恵みを受けているかを示しています。
義人は神の義を行って生きることができるのですから、最も幸いな人間です。考えてみてください。人間は罪を犯すことを免れず、その抑圧の下で生きています。しかし、今は神の義を行う恵みを受けているのです。これがどんなにすばらしいことであるか、おわかりですか。神の義を信じる私たちは今、神の御前で義を行って生きる恵みを受けています。このことを神に感謝いたします。神に栄光をささげます。正しく生きる恵みをくださったことに心から感謝いたします。
使徒パウロは第 6 章で、イエスのバプテスマのみことばに照らして、義人がどのように生きるべきかを明らかにしています。私たちはイエスのバプテスマ、十字架上の血、よみがえりを信じて義人になっています。イエスのバプテスマと十字架上の血の福音が人間を罪から救うものであったことを知らずにイエスを信じていて、神の義を得られたでしょうか。イエス・キリストは私たちのためにバプテスマを受けられ、十字架上で死なれたのです。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に世の罪を被っておられなかったなら、十字架上の死も私たちの信仰も、すべて無益だったでしょう。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたので、それによって世の罪がイエスに移されたのだと信じて、はじめて神の義を得られるのです。神は、信じる者みなを確かにその義で包んでくださいます。
それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。(ローマ 6:1)
まだ肉の体をもつ私たちが神の義を受けて、神の恵みが増し加わるようにと、罪の中にとどまるわけにはいきません。
罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
みなさん、聖書は私たちがキリストの死にあずかるバプテスマを受けたことを明らかにしています。つまり、イエス・キリストがバプテスマを受けられ、磔刑に処されたので、それを信じる者は罪に対して死に、今は義に対して生きているのです。これは信仰によってのみ可能なことです。
主はバプテスマによって世の罪を負われ、罪人の身代わりとして十字架上で死なれました。主には本来、罪がありません。しかし、それでも罪人を罪からお救いくださるためにバプテスマを受けられて世の罪を負われ、負われた罪のために十字架上で罰を受けられ、血を流されました。みなさん、これを信じておられますか? 罪のない主がバプテスマを受けられ、みなさんの行いによる罪をも含めて世の罪を被られ、十字架上で身代わりとして罰を受けられたと信じておられますか? イエス・キリストがバプテスマを受けられ、罰を受けられたのは、私たちみなのためでした。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
キリストを救い主と信じる者は、バプテスマによってイエスにつけられ、共によみがえりを受けました。
使徒たちはイエスのバプテスマと十字架上の血とをことのほか重視していました。彼らはイエスのバプテスマと血とが罪の赦しであったと説きました。使徒たちがイエスのバプテスマを重要な教えとしたのは、聖書に根拠のないことではありません。旧約の罪のためのささげ物は頭に両手を置かれてイスラエル人の罪を移されました。イスラエル人は、そのようにして罪を贖ったのです。イエスもまた、バプテスマによって、いけにえと同じ形式で罪人みなの違反や罪をただ一度で被られ、身代わりとして死なれました。
イエスは世の罪をただ一度で贖われた「なだめの供え物」でした。全人類のためのいけにえとなられるためにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。イエスはヨハネから旧約のいけにえのささげ物と同じ形でバプテスマを受けられ、人類の罪をすべて負われました。イエスのバプテスマは私たちのバプテスマでした。イエスの死は信じる者の死でした。イエスを信じる私たちはバプテスマによってイエス・キリストにつき、共に十字架上で死にました。
しかしながら、バプテスマによってイエスについていない者、つまり、主のバプテスマを信じていない者は、完全に救われてはいません。そうした信仰のない人は、自己を否定することも、信仰によって世に勝つこともできません。イエスのバプテスマが救済に不可欠であったと信じる者だけが、自分はイエスのバプテスマの内で死んだと信じるのです。イエスのバプテスマを信じる者だけが、人類の罪がみなバプテスマによって主に移されたと信じるのであり、そうした者だけが信仰によってすべての罪から救われるのです。
罪を贖う救済の核心にあるのは、イエスの受けられたバプテスマへの信仰です。イエスが十字架上で死なれたとしても、事前にバプテスマによってこの世の罪人の罪をみな被っておられなければ、その死は無益だったでしょう。神の義の最も重要な点は、イエスのバプテスマと十字架上の血とにあります みなさん、私たちはみな、イエスがバプテスマを受けられた時に罪がみなその上に移されたと信じなければなりません。また、主が私たちの罪のために死なれたことをも信じなければなりません。
使徒パウロが「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです」と述べたのは、そのためです。バプテスマによってイエス・キリストにつけられた私たちは、信仰によって罪の赦しを受けを受け、主と共に死に、信仰によって、共によみがえりを受けました。みなさん、イエスが神の御子であられ、また神でもあられることを信じ、主のバプテスマと十字架上の血とを信じ、よみがえりを信じること、これが岩の上に築かれた信仰をもつということです。
パウロは述べました。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ 6:4-5)
では、みなさんはどうでしょう。みなさんも、これを信じておられますか。神につく信仰とは、イエスのバプテスマ、十字架上の死、よみがえりとを信じ、主のよみがえりの新たないのちを信じるものです。
今、イエス・キリストを信じて共に死に、共によみがえったと信じる者は誰でも、主のバプテスマを信じています。みなさん、新たに生まれた者は古い生き方に従いません。古い生き方を否定するのは、古い自分が死んでいるからです。使徒パウロは「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリントII 5:17)と述べました。私たちは神の義を信じて新たになったのです。主はヨルダン川でバプテスマを受けられて人類の罪を被られ、十字架上で血を流して死なれ、死者の中からよみがえられ、そうしてすべての罪からお救いくださいました。人生の悲劇や傷、罪からくる悲しみはみな消え、信仰によって新たないのちを受け、新しいいのちを生きるようになっているのです。救済は新たないのちの始まりです。救われて新たに生まれた私たちは、これから先、新しいいのちを生きなければなりません。
ひとたび罪の赦しを受けたなら、自己を否定する困難な仕事が必ず待ちうけています。その時に、自分がイエス・キリストと共に死に、共によみがえりを受けたと信じていなければなりません。パウロは言っています。「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ 6:10-11)
これがイエスについた信仰です。主のみわざの中でバプテスマと十字架、よみがえりを信じることで、主につくことができます。私たちは主の誕生・バプテスマ・死・よみがえり・昇天・再臨を信じています。これを信じるのがすべての罪から救う信仰であり、呪いから逃れる信仰、神の義を信じる信仰です。これがキリストにつく信仰なのです。
 
 
体を義の器としてささげよ
 
<ローマ 6:14>というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
神の義を信じる者は、どんな罪にも支配されません。それは、神の義を信じる者が、もはや律法の下にいないからです。神の律法の怒りの下にいないというのは、神の義の救済の律法の下にいるからです。水と御霊の福音のみことばを信じる者を罪は支配できません。私たちがいつも神の義の内で実践していけるのは、そのためです。
この世で神の義を実践して生きられるのは、それを信じる義人だけです。ですから、聖徒はこの世で最も高貴な人間なのです。それは神の義の福音のみことばへの信仰をもっているからです。聖徒こそが千年王国で王となる者であり、神と共に永遠の御国で暮らす者なのです。
この世に生きる者に義をくださった神に感謝いたします。以後、聖徒は永遠に義を行って生きます。こうした正しい生をお与えくださったことを主に感謝いたします。
第 14 節には「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」とあります。これは、どんな欠点のある人間であっても、二度と罪に支配されないということです。私たちはまだ肉体の中にいますから、この世で生きている間には数多くの弱点が表に出ます。しかし、神の義を信じて恵みを受けている者は、心に罪が一つもないのです。主のバプテスマと十字架上の血の罰のおかげで、私たちは二度と罪人に戻ることがありません。
私たちはみな、まだ不完全です。罪を犯します。しかし、罪に支配されることは二度とありません。どんな不完全な人間であっても、もはや罪に支配されないようにと、主がバプテスマを受けられて世の罪をみな被られ、血を流され、ただ一度で罪をみなきよめてくださいました。それにより、罪のない者としてくださったのです。イエスはバプテスマと十字架上の血とによって罪をみな贖ってくださいました。主がすでにバプテスマと十字架上の血とによって罪を贖ってくださっているのですから、それを信じる者みなに罪がないのは明らかです。
罪の赦しを受けた聖徒でも、不完全さのため毎日罪を犯すことを免れません。しかしながら、信仰の内にあっては、罪はその人を支配できませんし、そのうえ、主の目からすると、そうした人の心には罪が一つもないのです。ですから、いつでもいのちにあって新たに生きることができるのです。主は、義人が毎日新たに生きるよう恵んでくださいます。
恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。
 
<ローマ 6:15> では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
パウロはここで、神の義を行うことができる者であっても、まだ罪を犯すまいという心構えは必要だと言っているのです。神は義人が義を行えるようにしてくださいましたが、それでも、義人はそうしようと思えば罪を犯せるのです。ですから、義を行って生きる恵みを受けた者であっても、自分を抑制する必要があるわけです。
 
<ローマ 6:16>あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
ひとたび義人になれば、その人は永遠に義人です。ですから、水と御霊の福音を信じる者は、神の義を信じる者であるといえます。この福音を信じる者はみな、すべての罪から救われています。しかしながら、これだけが霊的生というわけではありません。信仰によって義人になり、神の義を広めるために働くなら、その人は義の奴隷になります。しかし、そうしなければ、罪の奴隷になります。人は義のしもべにも罪の奴隷にもなり得ます。神のみこころに従うかどうかによって、義のしもべとして生きるか、それができないかが決まるのです。つまり、人間は生のあらゆる瞬間に、時には罪の奴隷であり、また別の時には義のしもべであるのです。ここは、そういう意味です。
 
<ローマ 6:17-18>神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
神の義を信じる者は、本質的には罪の奴隷として生きてきました。しかし、ひとたび水と御霊の福音のみことばを信じると、義人とされ、罪から解放されたのです。自力で世の罪から解放されるのは、実際のところ、空の星を集めるより困難です。しかし、人々は努力すれば空の星をも集められると考え、宗教生活に敬虔に身をささげて罪を消そうと、懸命に努力しているのです。
しかしながら、この世のどんな宗教も、けっして世の罪は消せません。キリスト教でさえ、多くの人は、世に数多くある宗教の一つとして信仰しています。しかし、そうした信仰では、キリスト教徒でさえまったく罪を消せません。神の義を示す水と御霊の福音のみことばだけが、ほんとうに世の罪を消せます。そして、神の義を信じる者だけが、その義に仕える資格をもって仕えることができるのです。これは神の義により信者に与えられた賜物です。義人にされた者は、神の義に仕えるしもべになっています。望みさえすれば、生涯義のしもべとして生きるという特権を与えられているのです。ですから、神に感謝するのです。
神に感謝すべきことには、あなたがたは、元は罪の奴隷でしたが……。
私たちも、本来は罪の奴隷でした。罪の赦しを受ける前、私たちはみなあらゆる罪を犯すに巧みでした。
神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、
まことに、信仰によって義人になった私たちは、完全に罪から解放され、義を行うことができるようになっている自由な人間なのです。私たちは義人として、神の義を行う、義の奴隷になっています。
 
<ローマ 6:19>あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
体を捧げるかどうかによって義の奴隷になるか罪の奴隷になるかが決まります。ですから、神の義に身をささげ、生涯聖く生きなければなりません。自分の手足を何にささげるのでしょう。神の義の働きでしょうか、それとも、穢れと不法でしょうか。これは神の義を信じる者一人一人が自分で決めるべきことです。ですから、パウロは賢明に選べと注意しているのです。
神の御前で生涯正しいしもべとして生きたいですか? では、そうなさい。まだ心が決まっていませんか? では、罪の奴隷になってしまいます。みなさんに神の義の安らぎがありますように。
 
<ローマ 6:20 >罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
ここは、罪の奴隷として生きている義人には神の義に仕える自由があるけれど、自らを罪にささげているため、罪の奴隷になっているというのです。ここでは「自由」という語に注意しましょう。義人は何をするのも自由で、誰にでも好きに仕えることができます。しかし、神の義に仕えるのが正しいことなのです。神の義の働きについていない聖徒や神のしもべは堕落した生活に陥り、罪の奴隷になりがちです。ですから、正しいことをする自由があるのですから、この自由を無にしてはなりません。正しいことに身をささげ、生涯義の奴隷でいるべきです。パウロはここで、そういうことを述べているのです。
 
<ローマ 6:21>その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
罪は良いものを何も生み出しません。パウロはここで、新たに生まれる前の生き方を完全に捨て、神の義の働きに縛られて生きよと言っているのです。義人は神の義の働きに縛られて生きなければなりません。義人が義の縛めを逃れようとするのは、罪に仕えようとするようなものです。
 
<ローマ 6:22>しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
義の働きに縛られて生きる義人は、神のしもべとしての称号と名誉を与えられ、永遠のいのちをもっています。義人は神の義の働きに縛られて生きなければなりません。義の働きに縛られて生きるなら、その人は聖なる生を送る恵みを得ています。この幸いな生を拒んではなりません。義のために縛られていることに感謝するべきです。パウロはそのように願っているのです。みなさんは神の義の働きに進んで仕えられますか。
みなさん、ひとたび罪の赦しを受けたなら、手足を何に使えばよいのでしょう。手足はどういう状態でしょう。心には罪がありません。しかし、肉体は基本的に弱いのですから、しばしば罪に陥ります。ですから、神の正しい働きに身をささげてはじめて、罪の中に留まることを免れるのです。
みなさん、神の義を信じて救われた後、「体はこんなに弱いのに、私にはほんとうに罪がないのだろうか」と思われることがおありでしょう。しかしながら、主のバプテスマと十字架・よみがえり・再臨・裁きを信じる人に罪がないことには疑問の余地がないのです。神の義を信じる者には罪がありません。
神の義を信じて罪の赦しを受けたなら、義の器として身をささげなければなりません。心は正しいことをしたいと願います。しかし、体があまりに弱いため、実行が難しいこともまた、事実です。ですから、「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(テモテ I 4:7)とあるように、自分を鍛錬しなければなりません。
一度で成し遂げることが難しいからこそ、福音を広める努力を続けなければなりません。「福音のパンフレットを配らなければならないのだろうか。誰か知ってる人に会ったら、恥ずかしいな」と思われるかもしれません。最初は恥ずかしいでしょう。でも、勇気を出すのです。何度かやっているうちに、「私はもう死んでいるのだから、何でもないことだ」と思うようになります。そうすると、「福音パンフレットをどうぞ。福音を信じて罪の赦しを受けてください」と大胆に言えるようになります。みなさん、少しずつ義の働きに身をささげていけば、やがてはすべてを神の働きにささげるようになるのです。
パウロがローマ書第 6 章で、義の奴隷になって聖潔に至れと告げているように、私たちは義の器として、できるだけ頻繁に鍛錬しなければならないのです。義の働きをしていて肉において失敗することがあっても、躓いたり絶望したりせず、働きを続けていくべきです。教会に出席することも同様です。実際に何度も教会に来ていれば、みことばを聞く霊的喜びを見出すでしょう。心だけが教会にあって、体は家に座っていたのでは、何も成し遂げられません。たとえ自分は霊的働きに向いていないと思っても、肉を義の働きにささげ、続けていれば、やがては心の中で信仰が強くなるのがわかるはずです。みなさん、義の奴隷として手足をささげなければなりません。もう、このことがおわかりですか。心はキリストにつくことを願っても、体がよそにあったなら、その気がないのに神に敵対することになるのです。
神の義を信じる者は体を鍛錬しなければなりません。使徒パウロが神の義に従えと告げているのは、そのためです。神の義に導かれ、支配されている時、義の器として用いられているのです。罪の赦しを受けた義人であっても、義の支配の下で暮らさなければ、肉を自分のものとし、肉の欲情に従うようになります。手足を神の義の器として主にささげよと聖書にあるのは、そのためです。
信仰によって救われるのは、一瞬の決断によります。しかし、神の義に従うのは生涯の仕事です。手足を何に用いるかによって人生は変わります。手足を義の働きにささげるなら、心と体はいつも清いでしょう。罪から救われた直後は、どう生きるべきか、わかりません。聖徒は神の義に仕える教会を中心として生きなければなりません。
聖書は教会を宿と呼んでいます(ルカ 10:34)。教会は聖徒たちが霊的水を飲み、霊的糧を食べ、交わりをもつ霊的宿です。世の人々は宿で酒を飲みながら話し、交流しますが、教会も同じです。私たちが交わりを持ち、友好を深め、心を分かち合うのは教会ですから、教会に集まる必要があります。教会に頻繁に通えば、その人は霊的な人になります。教会にあまり頻繁に通わない人は、どんなに良い信仰をもち、どれほどの恵みを受けていても、義の働き手になることができません。できるだけ頻繁に教会に行く人は、どんなに欠点だらけの人間であっても、義の働き手になれます。みことばの力が共にあるからです。罪の赦しを受けた後は、そうした霊的生活を送らなければなりません。
神の義を信じるようになった後、何をするにもみことばについて考え、みことばに従わなければなりません。集まるのをやめず、聖徒の集まりを主体とした生活をするのです。そうすれば、信仰生活がだめになることなく、順調に進みます。主はそうした人を貴重な器として用いられ、恵みをお与えになります。体を義の器として主にささげなさい。
 
 
罪の報いと神の賜物
 
<ローマ 6:23>罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
使徒パウロはここで、「罪から来る報酬は死です」と述べていますが、これは神の律法と裁きの要点でもあります。神の御前で罪のある者は、その代償を支払わなければなりません。代償とは地獄、すなわち霊的死です。ですから、神の義を成す水と御霊の真のみことばを信じて、すべての罪の贖いを受けなければならないのです。また、誰もが御霊の賜物、すなわち神の御霊を受けなければなりません。水と御霊の福音を信じるなら、罪をみな贖われ、御霊の賜物を受けます。ですから、水と御霊の福音のみことばを信じて、イエスのくださる罪の赦しと新たないのちを受けるのです。パウロはこのことについて告げているのです。これはまた神のみこころです。また、私はみなさんがそうなられるよう、心から願っております。
パウロは「罪から来る報酬は死」という簡潔な句によって、どんなものであれ、ごくわずかでも罪があるなら、その人は地獄に定められているということを明らかにしています。パウロは最後に、神の賜物はイエス・キリストの内の永遠のいのちだと述べています。簡単に言うと、パウロはイエスのバプテスマと十字架上の血とを信じるなら、罪をみな贖われ、神の子どもになり、永遠のいのちを受けると告げているのです。
みなさんが今イエスを信じておられるかどうかは問題ではありません。問題は、今、神の御前で罪があるだろうか、ということです。イエスを信じていても罪があるのなら、その人は罪人です。罪人はみな霊的死である地獄に投げ込まれるのですから、心を改め、水と御霊の福音のみことばを信じて罪全部の贖いを受けなければなりません。それによって神の義を得るのです。罪をみな贖われた者だけが神の義を得られます。
みなさんは、ほんとうに水と御霊の福音をご存じですか。神の御前でほんとうにこの福音を信じておられますか。そうでないのなら、今学び、信じなさい。そうすれば、神の義を得られます。
 
 
罪から来る報酬は死
 
使徒パウロがここで述べているように「死」と「永遠の死」とを対照させると、死後の魂について考えるようになります。みなさん、誰もが罪を犯しますが、いずれもその報いは死です。ですから、ここで、ほんとうに魂に罪があるかどうかをよく考える必要があります。魂に塵ほどでも罪があれば、地獄に投げ込まれます。イエスを信じようと信じまいと、信仰が深かろうと浅かろうと、罪があれば必ず地獄に定められています。これは人間が言っていることではありません。神の律法による裁きであり、事実なのです。
私はかつてカルヴァン主義の長老派教会に属していました。カルヴァン主義がみことばに忠実に則ったものであると考えていました。キリスト教徒になって十年が過ぎた時、私は神学校にいました。当時の私は、自分の信仰について深刻な疑問をもっていました。ある日、神の御前で自分の信仰について考えました。「私は神の目には罪人だろうか。それとも義人なのだろうか。」私の心には罪がありました。罪があるということは、大きな驚きでした。心に残っていたその罪は、どんなに懸命に悔い改めの祈りをささげても消えませんでした。
私の罪はイエスの尊い血によってみな贖われたものと思っていました。しかし、心にあるごくわずかな罪も耐え難く心を蝕み、息をするのも苦しいほどでした。罪はけっして消えず、どこへでもついて来ました。祈ろうとしても、罪が神と私を隔てたので、私は祈りによって神と交わることができませんでした。後に、「罪から来る報酬は死」というみことばが不変の真理であることを知りました。当時、私はようやく、心にある罪が私を地獄に導くのだということに気づきました。やがて、水と御霊の福音を信じたとき、ついにすべての罪から解放されたのです。
イエスのバプテスマと十字架上の血を信じることが、水と御霊の福音を受けることです。みなさん、水と御霊の福音を知り、信じるなら、必ず神の永遠のいのちの泉を知ることができるでしょう。
パウロはローマ書第 6 章で、ほんとうにイエス・キリストによって罪から救われ、神の賜物を受けたのなら、義の器として手足をささげなければならないと述べています。ほんとうにバプテスマによってキリストにつき、ほんとうに神の義を信じているなら、そうするのが正しいことなのです。