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Kazania

主題 10: 黙示録

[第2章-4] 死に至るまで忠実であれ (黙示録 第 2 章 8-11 節)

死に至るまで忠実であれ
(黙示録 第 2 章 8-11 節)
 
原始教会の時代、多くのキリスト教徒はローマ政権の迫害の手を逃れられる安全な場所を求めて各地をさまよいました。ローマ帝国は、皇帝ネロの死後までも迫害政策を継続しました。キリスト教徒がそれに続く皇帝たちの権威に反抗したためです。初期の聖徒たちは、ローマ皇帝の世俗的な権威は認め受け入れましたが、信仰を捨てることを要求された時には従おうとしませんでした。彼らはローマの政権からのそうした要求に対立したために、原始教会の年代記は迫害と殉教に満ちています。
黙示のみことばは、現在の信者に何かしら関わりがあるのでしょうか? つまるところ、これは現在ではなく二千年近く前に、私たちではなくアジアの七つの教会に向けて書かれたものなのです。これが私たちにどんな関係があるのでしょう? 
これは将来何が起こるかの秘密を明かしている神のみことばであるために、現代人にとって意味があるのです。私たちは今、黙示録第6章に述べられている「四つの生き物」の時代のうち、第三の黒い馬の時代に生きています。白い馬と赤い馬の時代を過ぎ、今は黒い馬の時代の終わろうとしている時なのです。じきに全世界は物理的にも霊的にも大いなる飢えに襲われます。実際、この飢えの時代はすでに来ていると言ってもいいでしょう。この飢えの時代である黒い馬の時代が終わると、青ざめた馬の時代になります。
黙示録第 6 章で語られている七つの封印は、宇宙を創造なさったとき神がキリストの中にご計画になった計七つの時代を示しています。第一の時代、白い馬の時代とは、福音の時代です。第二の時代、赤い馬の時代はサタンの時代で、悪魔が世界に大いなる混乱をもたらし、戦争を起こし、神の教会を苦しめ続けます。これらの時代に続くのが黒い馬の時代、物理的霊的飢えが世界を荒廃させる時代なのです。この黒い馬の時代は、すでにだいぶ前に始まっています。 
この時代が終わると青ざめた馬の時代が始まり、反キリストが出現し、黙示録第 8 章に述べられている七つのラッパの災害もまた始まります。七つのラッパの最後のものが鳴らされると、聖徒は携挙され、その後に七つの鉢の災害が続きます。それから空中で携挙された聖徒のために子羊の結婚の祝宴があり、七つの鉢の災害がすべて終わると、主は信者とともに地上に戻られ、千年王国を始められます。千年王国の後には、最初のよみがえりによって千年王国に住んだ聖徒のうえに下る新たな天と地とが続きます。
こういうわけで、黙示録の「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、私はあなたにいのちの冠を与えよう」とか「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」といった章句は、現代人に直接関わりがあるのです。つまり、黙示のみことばは今日の世界に生きるキリスト教徒に重要な意味があるのです。黙示録が関わりのないものなら、神のみことばのすべては無意味だったでしょう。
黙示録に啓示されている七つの時代の計画は主キリストが実行し、完了なさいます。青ざめた馬の時代になると、反キリストが出現します。神のみことばから、そのときに主が何をご計画になっているのを知らなければなりません。神がどのような総合的ご計画を立てられ、どう成就なさるのか──どんな災厄が地に起こり、信者に何が起こり、どんな災厄が不信者を襲うかといったこと──を誰もが黙示のみことばから理解していることが絶対に必要なのです。預言のみことばが自分にとってどれだけ重大な意味をもっているかを認め信じるのです。
また、七年の大艱難やキリストの再臨といった、黙示録が述べていることを正しく理解していることが必要です。今日のキリスト教徒の多くは、1830年代に英国で説かれ、やがてムーディ聖書学院の教授C.I.スコフィールドによって広められた大艱難前携挙説を信じています。
この説では、聖徒の携挙は七年間の大艱難期間の始まる前に起こるとしています。異邦人が先に携挙され、それから神はイスラエル人のための救済のみわざをお始めになるのです。また、聖徒の携挙は反キリストの出現と七つの鉢の災害に先んずるともしています。
一般に、たいていのキリスト教徒は千年王国否定説か大艱難前携挙説を信じています。しかし、これらは聖書についての不確かな知識と不十分な理解によって作られた単なる説に過ぎません。こうした説は、黙示録について信者がもつ数多くの質問に答える代わりに、黙示のみことばについてそれまで以上の疑問と疑いを生じさせたため、益よりも害のほうが大きかったのです。
大艱難前携挙説が正しいのなら、黙示録は異邦人の信者にどんな関わりがあるのでしょう? 信者がみな事前に携挙されるのですから、黙示録で預言された大艱難と一連の出来事は、みな現在の人間には関わりのないこととなります。多くの人々が黙示のみことばを信仰よりは興味の対象として扱うことが多いのは、このためです。
しかし、黙示のみことばは、今日の世界に生きる者にきわめて重要な意味をもっているのです。そうですね。みなさんは、神のみことばを信じますか、それとも、学者の言葉を信じるのですか? 終りの時には千年王国否定説、千年王国後携挙、大艱難後携挙、大艱難前携挙、大艱難中期携挙など数多くの説が説かれます。これら学者の提案した説はただそれだけのものであり、仮説、仮定、憶測に過ぎません。
これらの説のどれを信じますか? 多くの人は、牧師からそのように教えられたために、大艱難前携挙説を信じると言います。しかし、ここで誤解の余地なくしておきましょう。みなさんや私は七つのラッパの災害を経験し、大艱難の只中に生きるのです。大艱難を経験するよう定められているのですから、待ち受ける試練と艱難に打ち勝つだけの強い確固とした信仰をもたなくてはなりません。
大艱難前携挙説を信じ、「私は大艱難の前に携挙される。気にすることはないさ」と考えて終わりの時のために信仰を備えなければ、どうなるのでしょう。神のみことばのとおりに七年間の大艱難の時が訪れたとき、信仰を艱難に備えていなかった人々はひどい苦境に陥り、おそらくは死に至るでしょう。つまり、イエスに対する信仰がすっかり揺らいでしまうのです。その多くは大艱難に打ち勝つことができず、信仰の戦いに敗れてしまいます。
大艱難前携挙説が現れる前、実際に多くのキリスト教徒は、信者は七年間の大艱難を経験し、それが終わってキリストが再臨されてはじめて携挙されると考えていました。七年間の期間のすべてを耐え忍ばなければならないと考えて、彼らは熱意と深い恐怖をもって信仰を備えました。災害のすべてを経験するという見込みは、誰にとってもそうでしょうが、ぞっとするようなことだったでしょう。しかし、そうした信条もまた理屈だけの説、神のみことばについての無知の産物に過ぎなかったのです。
また、千年王国否定説を信じる保守主義者がいます。こうした人々は、千年王国を象徴的なものと考えます。これはキリストの信者が救済によって得る平和の象徴的な表現だというのです。こうした学問的な理論がほんとうであれば、みな大艱難の始まる前に神によって携挙されるのですから、世界に何が起こるかについて全く気にする必要はありません。
しかし、彼らが誤っていたなら、どういうことになるでしょう? 信仰を備えることなく大艱難に臨むなら、恐怖に凍りつくでしょう。信仰を守ることができず試練と艱難の波の前に屈し、世界の他の人々と同じ波に流されてしまうことになるでしょう。しかし、神はその名が『いのちの書』に記されている者たち──すなわち、水と御霊によって新たに生まれた人々──は決して屈しないとおっしゃいました。
神は黙示のみことばの中で、新たに生まれた人々は大艱難の試練に信仰をもって勝利し、大艱難の只中でその者たちを空中携挙なさるとおっしゃっています。ですから、大艱難前携挙説は聖書に記された真理とは異なっており、この説は単に人が考えた説に過ぎないのです。つまり、嘘であって、真実ではありません。
それでも、今は世界中の多くの人々が大艱難前携挙説を受け入れています。スコフィールドの艱難前携挙の教えを信じる人々は、次のように考えます。
1. 七年間の大艱難は、終りの時に反キリストが出現した後で始まる。
2. 反キリストは七年間の大艱難の間、世界中を支配する。七年の前半、彼はよき支配者として統治するが、後半は邪悪な圧制者となる。
3. エルサレムの寺院は再建され、再びいけにえのささげ物がささげられるようになる。
4. 反キリストはイスラエルと七年間の契約を結ぶ。
5. 大艱難の最初の三年半の間に、反キリストはイスラエルとの契約を破る。
6. 後半三年半は、イスラエルにとって大艱難と迫害の時である。その期間には、恵みの福音ではなく、千年王国の福音が説かれる。
7. イスラエル人のうち144,000人が大艱難を生き延びる。
8. 大艱難はハルマゲドンの戦いで終了する。
上記のように大艱難を説明したスコフィールドは、大艱難の間に異邦人に何が起こるかには全く触れていません。つまり、スコフィールドは、キリストを信じる異邦人はみな大艱難の始まる前に携挙され、その後になってはじめて、神はイスラエル人の間でみわざをなさると考えたのです。神のみわざは 144,000 人のイスラエル人の救済によって完了し、それとともに救済のみわざを終えられます。それから千年王国が始まります。
スコフィールドとその大艱難前携挙説の源は、ペンテコステ派指導者に会って後この教理を唱え始めたプリマス同胞教会の創立者ジョン・ネルソン・ダービーにあります。その指導者は、スコットランドのマーガレット・マクドナルドという名の十五歳の少女で、彼女は 1830 年、神からの啓示を得て、キリスト教徒が大艱難の直前に携挙されるのを見たと主張しました。この少女のもとを訪れて後、ダービーは大艱難前携挙説を教え始めたのです。
ダービーの教えはアメリカの神学者スコフィールドに継承されました。広く用いられている『スコフィールド引照聖書』編集に生涯を費やしたスコフィールドは、当時、携挙は艱難の前と後のどの時点で起こるのかという問題について考えていました。スコフィールドはダービーの大艱難前携挙説を知ってすっかり傾倒し、その説の正しさに確信をもち、この新しい教理を受け入れて『スコフィールド引照聖書』に含めました。こうしてスコフィールドは大艱難前携挙説を信じ擁護するようになり、今日数多くのキリスト教徒がそれに続くことになったのです。
ダービーやスコフィールドが大艱難前携挙説を唱える以前、ほとんどのキリスト教徒は大艱難後携挙を信じていました。しかし、米国のムーディ聖書学院の教授であったスコフィールドは、とりわけ『スコフィールド引照聖書』の存在により、教義の問題について大きな影響力をもっていました。スコフィールドとその影響力のために、大艱難前携挙説が世界中のキリスト教社会に広まりました。
その結果、不幸にして今日のキリスト教徒の多くは信仰の中でぐっすりと眠っています。彼らが眠っているのは、反キリストの出現は自分たちとは関わりがないと誤り信じているためです。彼らは大艱難の始まる前に携挙されると考えているので、その時代のために自分たちの信仰を備える必要を全く感じていません。しかし、主は、花婿がいつおいでになるかわからないのだからいつも目を覚ましているようにとおっしゃいました。それにもかかわらず、残念ながら、神のみことばを顧みず、代わりに大艱難前携挙の教えを信じる人々はぐっすりと眠り続けています。
しかし、今は目覚める時なのです。大艱難前携挙説という誤った考え方を捨て、真理のみことばを信じるべき時です。大艱難前携挙説も大艱難後携挙説も、聖書中にその根拠がありません。真のみことばに戻りましょう。黙示録第 6 章 8 節には、次のようにあります。「私は、見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」
ここでは青ざめた馬に乗っている者、すなわち反キリストの名は死であり、その後にハデスが従っているとしています。これは、反キリストが犠牲者を地獄へと導く殺人者であるという意味です。ここではまた、彼には地上の四分の一を剣と飢饉と死病と地上の獣によって殺す権威を与えられているとしています。つまり、反キリストはローマ皇帝と同じような残虐行為、それもより恐ろしいことを行ない、キリスト教徒を殺し、迫害し、信仰を破壊するというのです。
青ざめた馬の時代とは、反キリストの時代です。主は、「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか」(マタイ 16:3) とおっしゃいます。時のしるしを見分けることができないと、自分がどのような信仰をもっているかを知ることができず、種を蒔くことも果実を収穫することもできません。つまり、主のために働くことができません。現在、赤い馬の時代は終り、私たちは黒い馬の時代にいます。世界にはじきに大恐慌が起こり、七年間の飢饉が訪れます。激しい飢餓が世界中を襲います。これらすべてが起こったとき、多くの人々は苦しみ後悔します。その人たちの一人になってはなりません。信仰によって時のしるしを見分けることのできる人でありなさい。
今の時代は黒い馬の時代です。黒い馬の時代が終わると、青ざめた馬の時代が始まります。その時代に反キリストが現れ、無差別に聖徒を殺し、迫害するので、その時代は殉教の時代となります。
黙示録第 13 章 6-8 節には、次のように記されています。「そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」この「彼」とは、反キリストのことです。ここでは、世界の指導者の一人がサタンの力を与えられて神を冒瀆し、聖徒を迫害するとしています。これは、竜の力をもった、悪魔の子どもです。この力によって彼は聖徒と戦い「打ち勝」ちます。しかし、打ち勝つとは、ただ聖徒を殉教者にするということです。これは聖徒の肉体的死のみを指しているのです。反キリストは決して聖徒の信仰そのものを奪うことができません。
スコフィールドは、聖徒は大艱難を全く経験しないと主張しました。しかし、七年の大艱難なくして聖徒のための千年王国はあり得ません。聖徒は大艱難の中で殉教者となるのです。この聖書の預言はすべて、世の初めからキリスト・イエスの中に計画されていました。キリストのみわざが成就すると、世界の歴史はすべて終わります。
神が定められた七つの時代を識別できるようになってください。第一の時代は白い馬の時代で、神のみことばがはたらき始めます。第二の時代は赤い馬の時代で、これは悪魔の時代です。第三の時代、黒い馬の時代は物理的・霊的飢えの時代です。第四の青ざめた馬の時代は、反キリストが出現する時代です。これは七つのラッパの時代であり、殉教の時代です。この青ざめた馬の時代を識別できないために、多くの人々がひどく混乱しています。
この時代を知ることなくしては、新たに生まれたキリスト教徒として正しく生きることができません。何が待ち受けているかを知らなければ、どうして未来に備えることができるでしょう。事業を経営する人々でも、成功するためには事前に時代がどこ向かっているかを知らなければなりません。何が待ち受けているかを知らなければ、キリストの信者は再臨に備えることができません。
備えるためには、大艱難についてよく理解していることが必要です。聖徒は大艱難の最初の三年半を経験するのであり、このときに彼らは殉教します。彼らは七年間の大艱難のすべてではなく前期だけを経験し、それから殉教し、復活させられ、携挙されるのです。聖徒が携挙されてもキリストが地上においでになるわけではありません。主は子羊の結婚の祝宴のために彼らを空中携挙なさるのです。
その間、この地上は七つの鉢の災害に襲われます。災害の後にキリストとともに地上に戻る人々は、神のお与えになった水と御霊の福音を信じて罪を雪のように白く赦された人々だけです。この時代を理解して信仰を備えなければならず、それが重要な意味をもっているというのは、このためです。
主はスミルナの教会の御使いにおっしゃいました。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかし、あなたは実際は富んでいる。──またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」この部分から、スミルナの教会がユダヤ人から厳しい迫害を受けていたことがわかります。しかし、主はこれらのユダヤ人はほんとうのユダヤ人ではなく、サタンの会衆であるとおっしゃいます。神はこれをスミルナの教会だけではなく、アジアの七つの教会すべてに告げられました。
スミルナには大きなユダヤ人の共同体があり、ユダヤ人はキリスト教徒と同じ神を礼拝していながら、それでもローマ人がそうしたように、スミルナの教会の聖徒たちを迫害したのです。この迫害に臨んだ聖徒に神は、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、私はあなたにいのちの冠を与えよう」、「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」とおっしゃいました。神は聖徒に、勝利せよとおっしゃいました。同様に、私たちもまた最後まで反キリストと戦い、信仰の戦いにおいて勝利しなければなりません。そうすると、主はいのちの冠をくださいます。すなわち、千年王国と新たな天と地とを与え、そこで生きるよう恵まれるのです。
みなさんは、殉教する勇気がありますか? 今こそ殉教する信仰を備えてください。そうするには、主の前に立つことができるようにする贖いの信仰、ためらいなく殉教を受け入れることのできる信仰をもたなければなりません。
今、この信仰を用意するのです。主はすべての人々に、水と御霊の福音を信じることなしには、誰一人神の国に入ることはおろか、見ることすらできないとおっしゃいました。この福音への信仰が終りの時の殉教の信仰であるとおっしゃいます。
心に罪をもちながら、どうして殉教できるでしょう。殉教するどころか、そうした人々は他の人たちを獣の印へと導く類の人間です。水と御霊の福音以外には何をもってしても人類の罪を清めることはできません。毎日儀式的に行なう悔い改めの祈りによってさえ、罪をすっかり清めることはできません。悔い改めの祈りによって罪を清めようとするのは、ただ時間と労力の無駄にすぎません。
そういうことをする人々は、神のみことばが実際にどうおっしゃっているかよりは、神学者の言ったことの方を信じているのです。あんなにも多くのキリスト教徒が信頼している学者たちが千年王国否定説を唱え信じている事実は、これらの聖書の専門家がいかに聖書について無知であるかを示しているのではありませんか? 千年王国否定説は、千年王国も大艱難時の聖徒の殉教もないとしています。大艱難前携挙説や千年王国否定説を信じる人々にとって、黙示録は何の意味ももたないのです。
黙示のみことばは神のみことばです。これは、弟子の中で最もキリストに愛された使徒ヨハネが記した神のみことばです。誰一人これを否定できません。
私は、意味もなく従来の神学者の説や教理を批判しているのではありません。みなさんの信仰を、死に至るまで忠実に主に仕えられるよう備えるために、こうしているのです。聖書のみことばをよく知り、大艱難時の迫害の中で殉教を受け入れる堅固な備えをして耐えるようにするためなのです。
そのためには、水と御霊の福音によって信仰を備えてください。そうしない、水と御霊の福音を信じない人々は、サタンの前に屈し、神の敵となってしまいます。その名が『いのちの書』に記されていない人々はサタンを拝むからです。神のみことばがそう教えています。
神は聖徒を大艱難のさなかに殉教おさせになります。大艱難の最初の三年半が過ぎると、水と御霊の福音を信じる人々は殉教します。殉教後間もなく、よみがえりと携挙が起こります。これが黙示録全体の要旨で、その要点について説明してきたのはこのことを知っていただくためでした。
反キリストの時代が訪れると、水と御霊の福音を信じて殉教して間もなく復活させられ、同時に携挙される人々が大勢出るでしょう。青ざめた馬の時代には、殉教によって信仰の花が咲くのです。時が来ると真の信仰は実を結び、美しい花を咲かせます。
砂漠には、ほんの一週間の間に芽を出し、花を咲かせ、実をつける植物があります。これは、雨がめったに降らない砂漠の状態に適応したためです。ごくわずかの水はあっという間になくなりますから、大急ぎで芽を出し、花を咲かせ、実を結ばなければなりません。
七年間の大艱難期間に水と御霊の福音を信じるようになった人々の信仰は、こうした植物のようなものです。その人たちにとって、私たちとともに信じ、従い、この福音のために殉教するのにはごく短い期間で十分なのです。反キリストの狂気は大艱難の中間、始まってから三年半の時点で頂点に達します。
このときに聖徒の殉教が起こります。すでに水と御霊の福音を聞いてまだ心に受け入れていない人々でさえ、大艱難の間に福音を信じるようになれば、期間は短くとも真の信仰をもって聖徒とともに殉教することができます。私たちが福音を宣べ広げ、世界中のキリスト教徒をその眠りから覚まそうとしているのは、このためです。私たちは世の終わりに殉教するその時まで水と御霊の福音を説き続けます。殉教が起こらないのなら、今広めているこの福音に仕えることが何の役に立つでしょう。水と御霊の福音を信じる人々は、終わりの時に殉教できます。そのために今、信仰を備えるのです。
水と御霊の福音を守るために殉教を受け入れる信仰を今、神の前に安らいでいる時に備えなければ、後になって後悔することになります。終りの時になれば、あまりに忙しすぎるでしょう。「主よ、今はとても忙しいのです。あとほんの少しだけ待ってください。今悔い改めていますから。」こんな信仰を終りの時にまでもっているのなら、主はおっしゃるでしょう。「勝手に炎の湖に飛び込めばいいだろうに。あなたにはそれが似合いだ!」今罪のある人々は、結局このようになるのです。神が「耳のある者は、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とおっしゃったのは、このためです。
聖徒が殉教するころには、世界の自然環境は完全に破壊されているでしょう。森林は焼かれ、海や川、泉さえ腐った血に変わり、太陽と月、星は光を失い、世界は闇に包まれます。そこに住む者は邪悪な霊に支配されて正気を失い、野蛮で狂暴になり、その唯一の目的は、神の子をすべて見つけ出し殺すことになります。黙示のみことばを理解し信じなければいけないのは、このためです。
今日の諸教会は、より高く大きな教会を建設することにのみとらわれています。彼らは何百万ドルも費やして教会を建設しながら、心にはイエスのために殉教を受け入れることのできる信仰はなく、罪しかありません。これらの人々は、まず心から罪を清められなければなりません。
世界はじきに艱難の時代、青ざめた馬の時代に入ります。みなさんが殉教を受け入れることのできるような信仰をもち、死に至るまでキリストに忠実であられますように。ベレヤの人々のように真剣に黙示のみことばを調べ、そうして信じましょう。