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Kazania

主題 10: 黙示録

[第7章-2] 戦う信仰をもつ (黙示録 第 7 章 1-17 節)

戦う信仰をもつ
(黙示録 第 7 章 1-17 節)
 
今日のキリスト教徒は聖書の真理を正しく知る必要があります。とりわけ、黙示のみことばによって聖徒の携挙について正しく理解し、ふさわしい信仰をもって生きなければなりません。
まず第一に、携挙は大艱難の中間、七年間のうちの前半三年半をわずかに過ぎた後で起こるのです。ですから、教会と聖徒とは、イエス・キリストのうちに人類を罪から救い永遠のいのちをお与えになろうとご計画になった神のみこころを成就するために、終わりの時に戦う信仰をもたなければなりません。
神は、みこころを全うするために反キリストの活動を許されました。反キリストが活動するのは、七年の大艱難の前半の三年半です。神はこの期間に反キリストが精力的に目的達成を追求するようになさいました。なぜでしょうか? 人類のためにご計画になった目的を成就するために、神はサタンを底なしの淵に閉じ込めなければなりません。そのためには、主ご自身が地上にお戻りになることが必要です。七年間の大艱難の前半三年半の間に反キリストが強力に活動することをお許しになるのは、そのためです。
神はすべての人々に罪からの救済と永遠のいのちのみことばをお与えになりました。このみことばを全うするために、大艱難をご計画になったのです。聖書には、「四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた」と記されています。神はまた、イスラエル人のうち144,000人を滅びからお救いになることをご計画になりました。アブラハムに彼とその子孫の神になろうと約束なさったからです。この約束を守るために、神はイスラエル人に救済の恵みをお与えになり、アブラハムの子孫のうち144,000人を終わりの時にお救いになるのです。
聖徒に千年王国と永遠の新たな天と地とをお与えになるために、神はこの地上に大艱難が起こるようになさいます。大艱難の間に反キリストの時代を現出させた後で、神はサタンを捕え、底なしの淵に閉ざされます。神が反キリストの出現と大艱難とをお許しになるのは、イスラエル人を救い、大艱難を経て白い衣を着せられる異邦人に永遠のいのちの恵みをお与えになるためなのです。
ですから、大艱難と反キリストの支配とは間違いなく通過しなければならない過程なのです。神がお許しになったこれらのことはすべて、人類全員をお救いになり、キリストの御国での永遠のいのちの恵みをまとわせようとのご計画の一部なのです。そこで、自分が今どの時代に生きているかをはっきりと見極め、自分はどのような信仰に生きなければならないのかと自らに問う必要があります。つまり、信仰は明確で堅いものでなければなりません。
信者は神のみことばを信じます。また、このみことばは物理的にも霊的にも全うされると信じます。現在の時代は、終わりの時に向かっている時代です。終わりの時に反キリストと多くの追随者が現われると、信者は信仰を守るために殉教し、命を捨ててまでも彼らと戦います。その時代が急速に近づいています。みことばを信じるなら、信者は大いなる敵、反キリストとそれに従う者たちと戦わなければなりません。これが戦闘的な信仰です。
戦闘とは、戦うということです。戦うとはいっても、ぶったり殴ったりして肉体的な暴力を振るうというのではありません。そうではなくて、ここでいう戦いとは、主がお与えになった救済の福音に対立して信者を迫害するサタンのしもべ、反キリストのもとに屈することなく信仰を守るという意味です。終わりの時に殉教する人々とは、イエスについてあかしし、神のみことばを守る人々です。彼らは水と御霊の福音によっておいでになったイエスについてあかしします。
戦うということは、水と御霊の福音への信仰を守るということです。福音を守るために、神のお与えになった水と御霊の福音を信じて新たに生まれた人々は、新生命教会で他の聖徒たちと団結するのです。他の人々に信仰を広め魂を救うために勇敢に戦いに臨むことを心に決めなければなりません。完全に戦闘に備えるとは、信仰を守るということであり、また他の聖徒を救うことでもあります。教会のこの信仰が神の喜ばれる勝利への道なのです。神のしもべと聖徒とは、いつでもこのような戦う信仰をもつのです。
戦闘に備えた心と信仰をもって生きなければならない現在の時代は、どうなっているでしょう? この時代は明らかに多くの変化を経つつあります。携挙とイエスの再臨に関する多くの「説」が現れては消え、それとともに人々の信仰もまた変化してきています。
1800 年代の初めに携挙について新たな説が唱えられる以前は、聖徒が大艱難のすべてを経験した後になってキリストが戻られるのであり、携挙とよみがえりとはキリストの再臨の際に起こるとする艱難後携挙の説を誰もが信じ、説いていました。しかし、1800年代初めに徐々に広まった大艱難前携挙説は、艱難後携挙説を完全に覆します。
大艱難前携挙説では、イエスの信者は七年間の大艱難期の始まる前に天に引き挙げられると考えます。この説は、当初は多くの人々に否定されましたが、今は事実上、ごく少数の例外を除いて誰もが大艱難前携挙説を信じるようになっています。しかし、大艱難前携挙説は神のみことばに全く沿っていないばかりか、神のみことばとご計画とを無意味なものとしてしまうのです。しかし、聖書について無知な人々の考えや心の中には、この大艱難前携挙説がすでにしっかりと根をおろしています。
昔の使徒たちは、神の時代を二つに分けました。第一の時代はイエス・キリストへの信仰による救済の時代であり、第二の時代は第一の時代の後に続く大艱難の時代です。現在の学者は、イエスへの信仰による救済の第一の時代については理解できるものの、第二の大艱難、キリストの再臨と聖徒の携挙の時代は理解しがたいものであるとしています。
時代について知らずに大艱難前携挙説を信じるたいていのキリスト教徒は、どうしても誤った信仰をもってしまいます。もっともらしくキリスト再臨の日時を自分で定めたり、あるいは大艱難の前に携挙されるだろうとぼんやり考えて信仰をたゆませたり、こうしたことはみな、大艱難前携挙説を信じた結果なのです。実に多くのキリスト教徒が霊的怠惰に陥っています。彼らは考えます。「世界中が苦しむことになったとしても、それが何だ。私は大艱難が始まるずっと前に携挙されるのだから、大丈夫なのさ。」こうした混乱はみな、携挙について聖書に基づいた正確な知識が欠けているために生じているのです。
スコフィールドが大艱難前携挙説を唱え、その結果、この説を信じた人々の心は、気が楽になる方へと移っていったのです。「地上に大艱難が来る前に携挙されるのだから、今はできるだけ快適に過ごすことにしよう。」彼らの信仰は、こうして怠惰なものになっていきます。
しかし、聖書では大艱難と携挙についてどう語っているでしょう? 聖書は大艱難中期携挙について語っています。イエスがお与えになった水と御霊の福音を信じる異邦人とイスラエル人はいずれも、青ざめた馬の時代、大艱難の前半三年半の間、反キリストから迫害を受けるとしています。
大艱難前半の三年半が過ぎてから、反キリストは聖徒を殺します。すなわち聖徒が殉教します。また、殉教した者もそうでない者も、すべての聖徒は復活と同時に栄光の体によみがえらせられ、空中に携挙されます。大艱難の中間で聖徒が携挙されるとき、七つの鉢から災害が注がれ、この世界は終わります。すると、サタン、反キリストとそれに従う者たちを裁かれるために主がこの地上に戻られます。
黙示録第 13 章は、その名が『いのちの書』に記されていない人々はすべて反キリストとその偶像に屈するとしています。つまり、その名が『いのちの書』に記されている人々だけが反キリストとその追随者に屈しないのです。また、水と御霊の福音を心で信じることを拒んだためにその名が『いのちの書』に記されていない人々はサタンとその偶像を拝み、その前に屈することになるのです。
聖徒は大艱難のときはまだ地上にいて、大艱難の中間点をわずかに過ぎたところで空中に携挙されると聖書が語っているのは、このためです。また、七年間の大艱難の間にサタンに屈して反キリストの印を受けた者たちは火と硫黄の湖に投げ込まれるのですが、その名が『いのちの書』に記されている人々と偶像に屈しなかった人々は、大艱難の中間で携挙されます。
真の携挙は大艱難の中間、七年間のうちの前半三年半が過ぎた少し後で起こるのです。携挙の時期について聖書に基づいた詳細な検証は、続く本書の第二巻で行ないます。しかしながら、携挙をあまりに早い時期に起こると算出して大艱難前携挙を唱えたり、いいかげんな計算をして艱難後携挙を唱えたりする人々は大勢います。学者たちは、自身はその信憑性を信じていなくとも大艱難前携挙説を語り、礼拝出席者たちもまたこの説にすがり、信じるのです。中には自分の所有物をすべて教会に寄付したり、恣意的に決められたキリスト再臨の日を狂信的に待つ人々もいます。
しばらく前に、ある教派が特定の日を選んでその日にキリストが戻られると信じていました。そこで彼らは山に登り、体をロープで結び付け、真夜中まで携挙を待ちました。時が過ぎ、どんなに熱心に待ち受けてもイエスは戻られませんでした。そこでとうとう諦め、ロープを解いて恥じ入って山から下りてきました。不幸なことに、こうした愚行が今日のキリスト教社会には実によく見受けられるのです。こうした珍妙な出来事は、韓国だけではなくヨーロッパでも、アメリカでもアジアでも、世界中で頻繁に起こっています。
ですから、信仰をもつ聖徒でさえ大艱難を経験するように神が定められているということを肝に銘じておいてください。これが神のご計画なのです。聖徒が大艱難を経験するようにと神が定められたのは、すべての約束、すなわち、大艱難によってサタンを永遠の炎の中に投げ込み、千年間キリストの御国を設けることでこの地上を新たな世界に変え、イエスの信者に新たな天と地とを与えるということを全うなさるためなのです。これが、意図的に大艱難を起こされる神のみこころなのです。
七年間の大艱難はまだ始まっていません。これまでに起こった天災を消防夫が容易に消火できる通常の火災に相当するものとするなら、大艱難のときに世界に訪れる災害は想像を絶する規模であり、世界の森林の三分の一を焼き尽くすほどのものなのです。
そうした災害と疫病が世界を襲った時にくじけずに耐えるために、神のしもべと聖徒はみな、戦う信仰をもたなければなりません。聖徒は大艱難の中間点までこの地上にとどまるのですから、終わりの時に反キリストとその追随者に決して屈しないような信仰をもって生きるのです。堅い決意をもって戦闘に臨む兵士のように、いまひとつの魂を救うために、聖徒は水と御霊の福音を自分の家族を含め世界中に述べ広げるのです。
世界が常に平和であるとは限りません。しかし、たとえ世界が混乱状態に陥り、自分の身に苦難が降りかかろうとも、神は最後の日まで守ってくださると信じて常に忠実に生きるのです。世界の宗教とサタンはあらゆる甘言を弄して人々を欺き、盗み、ついにはその魂を地獄に落とします。
たった今も、無数の人々と大きな教派に属している人々がスコフィールドの大艱難前携挙説を信じ、その誤った信仰によってさらに大勢の人々に道を誤らせています。自分たちは大艱難の前に携挙されると信じている人々は、大艱難期を耐え忍ぶ信仰を備える必要を感じません。彼らは、自分はただ現在の生活において忠実であればよいのであり、また、主がお召しになったときにただ引き挙げられるのだと考えます。しかし、聖徒の携挙は大艱難の前半三年半が過ぎた時点で起こるのですから、キリストの再臨がいつになろうと、大艱難のために信仰を備えることが必要なのです。神は七年間の大艱難の間にイスラエル人と多くの異邦人をお救いになるのです。
第 14 節には、「彼らは大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊の血で洗って、白くしたのです」とあります。これは殉教を指しています。殉教とは、信仰によって義であるわざのために死ぬことを意味します。罪から救われた聖徒がもつべきもっとも正しい信仰は、主が人類の罪をすべて消されたという福音を信じ、この信仰をもち続けることです。しかし、サタンはいつでも聖徒の信仰を損なおうとします。ですから、サタンに対して信仰の戦いを挑まなければなりません。
この戦いでサタンに屈すれば、悪魔とそのしもべとともに地獄に投げ込まれます。しかし、命を捨てても戦って信仰を守ったならば、殉教者となり、殉教する信仰によって神の国に入るのです。信仰を守るために信仰の戦いを戦っているのですから、その死は義であり、栄光あるものです。
ですから、義であるわざのために戦う信仰をもつのです。自分は人々の魂を救うための戦闘に臨んでいるのであり、これらの魂を天国に送るために最後まで信仰を守ってこの戦いに勝利しなければならないのだと信じるのです。勝利の冠を受けるまで、主のみことばという剣によってサタンに対する戦いに勝利するのです。
人間はただ一度生まれ、ただ一度死にます。医学がどんなに進歩しようと、誰もがやがては死にます。十歳で死のうが八十歳で死のうが、人はみな神による罪の裁きに臨みます。この地上にいる間に主のお与えになった水と御霊の福音を信じることなく死んだ人々は、裁かれて永遠の炎の中に投じられることになります。人間の罪はすべてイエスの血によって洗い流されて雪のように白くなったのですが、この真理を信じないという罪が赦されていないために、こうした不信者は、生きてある間に神と人の前に犯したすべての罪のために裁かれて、その報いを受けるのです。
神の前に地獄の炎に定められることを避けるには、イエスがお与えになった、人類の罪のすべてを贖う水と御霊の福音を信じるのです。人類の罪をすべて贖う水と御霊の福音は、十字架上の血のみを信じる他の福音とは違います。私は、通常の時もそうでない時も、いつでも水と御霊の福音を説きます。水と御霊の福音を信じることによってのみ、人は御霊を受け、神の子どもとなる恵みを与えられるのです。イエスを信じるとき、十字架上の血のみに基づいた誤った福音からは遠ざかり、信じないようにしなければなりません。
旧約は手を置くことときよめとによる真の福音について述べています。新約の神のみことばでは、イエスのお受けになったバプテスマによって罪はすべて一度にイエスの上に移されたとしています。旧約におけるきよめと新約におけるバプテスマとは、いずれも人類の罪をすべてその上に移したイエスのバプテスマと十字架上の死とよみがえりによって人類をすべての罪から救った、同じ水と御霊の福音への信仰について語っています。水と御霊の福音によらずには、誰ひとり救われません。
信者は大艱難の中間点に至るまで、水と御霊の福音への信仰をもって生き続けるのです。この時代を見極め、神が望まれるように、残されたわずかな日々を神の国を宣べ広げ、すべての人々に福音をもたらして生きるのです。主は、大ぜいの人々がこの最後の日々にも救われるとおっしゃいます。
砂漠には水がないので植物はほとんど生きることができず、ただ砂と焼けるような陽射しがあるばかりです。しかし、暑く乾いた塵と砂の荒野にも雨が水をもたらすと、植物はたった一週間のうちに芽を出し、花を開き、実を結ぶことができるのです。砂漠にないのは水だけです。種は砂の下に埋もれています。まだ芽を出すことはできませんが死んではおらず、生きて雨を待っています。この乾いた種に湿気が届くと、種はただちに発芽します。種は一日でめばえ、翌日には成長し、花を開かせ、三日目には実を結ぶのです。そうして、その命の終わりに植物は種を地面に落とし、固い種は再び砂の下に隠れます。
たった一人の農民も草の芽も養うこともできないように見える砂漠の植物が、それでも水が与えられると生長できるように、終わりの時には、水と御霊の福音という水にごくわずかに触れただけでも砂漠のような世界で芽生え、花開き、実を結ぶ魂があるはずなのです。七つのラッパの災害が実際に起こると、それまでにみことばによって大艱難のことを知っていた人々は自らの内に根づいた福音に気づき、守り、殉教する信仰をすぐにもつようになるのです。
そうして、みなさんや私が信仰を守って殉教するとき、信仰をもつ大勢の人々が、乾いた土地でも即座に育つ砂漠の植物のように、印を受けることを拒んで殉教者の列に加わることでしょう。今宣べ広げている水と御霊の福音は、短時間のうちに多くの人々にその信仰を深めて殉教を受け入れさせ、戦い続ける神の働き手へと変えます。
子どもから老人まで、信者はみな、主の軍勢の兵士です。いつでも心を戦闘に備え、どんな嘘にもだまされず、キリストの民として正しい信仰をもって生きるのです。戦いに勝利する者に神は勝利の冠とたとえようもない報酬をお与えになります。ですから、サタンとその嘘のすべて、そして世のすべての悪と戦う信仰をもって、神の義であるわざに仕えて生きるのです。
 
 

艱難のとき、神は確固とした信仰をお与えになる

 
青ざめた馬の時代が来ると、神はそのしるしをお与えになります。第一節は、「この後、私は見た、四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた」とあります。ここで風とは、神が起こされる艱難の風です。黙示録第 7 章 1-8 節は、イスラエル人をお救いになるために神がしるしをおつけになり、それに必要なわずかの間、風をとどめられるとしています。しかし、時が来ると、つまり、神の七つの時代のうちの黒い馬の時代、飢えの時代が終わると、神は青ざめた馬の時代を開かれます。すると、大地の四つの風が放たれ、世界に艱難の風が吹くのです。
青ざめた馬の時代の始まるとき、恐ろしい艱難の風が吹き始め、多くのイスラエル人は殺され、信者を含めた異邦人もまた殺されます。青ざめた馬の時代が来ると、確実に艱難の時が訪れるのです。
今は黒い馬の時代ですから、飢えの風が世界中を吹きめぐっています。この時代が終わると、青ざめた馬の時代が始まり、艱難の風が吹くのです。艱難の風は、七年間の大艱難の時代が本格的に始まることを告げます。神が宇宙の創造と人類の歴史の開始以来はじめてこの世界に大艱難をもたらされるとき、つまり、青ざめた馬の時代の開始に伴って艱難の風が吹き始めるとき、すべては終わり、またすべては新たになって始まるのです。
よろしいですか、青ざめた馬の時代になると、艱難の時代もまた始まるのです。世界中の支配者たちが結束し、特定の政治家たちが絶対的な権力を握り、その命令と支配に従わない者たちは艱難と死に投じられます。青ざめた馬の時代に生きることは、たいへん困難です。七つのラッパの災害によって放たれた天災によって苦しむばかりでなく、またその時代の政治的状況もまた人々を圧迫し、苦しめるのです。しかし、こんな状況にあっても、神は人々の中でみわざを続けられ、無数の異邦人を救済へと導かれます。
青ざめた馬の時代に艱難の風が吹くと、希望は一つの場所にしかありません。みことばに「救いは、御座にある私たちの神にあり、子羊にある」とあるように、この唯一の希望は父なる神とイエス・キリストのうちに見出されます。恐ろしい艱難の風が吹き起こると、反キリストがこの地上に現われ、世界の政治舞台だけではなく、経済から文化、宗教まで社会生活の面においても世界的な統合を果たします。艱難とは、恐ろしい迫害を受けることを意味します。これが吹き起こる風です。そして、これらのことはみな、突然起こります。
経済的統合の風が、今この世界中を吹きめぐっています。自由貿易への強力な動きがあり、さまざまな貿易機構の加盟国間で関税が廃止されています。かつては、輸出する側でのもともとの価格がどんなに安くとも、輸出入の過程で課せられる関税のために価格が上がるため、保護貿易制度のもとで一国の製品が別の国でも競争力ある価格を維持することは困難でした。
しかし、そのような関税障壁は除かれつつあります。よい例が、関税が徐々に撤廃されてきたヨーロッパでしょう。例えば、欧州連合 (EU) 加盟国の中ではもう関税はありません。これは、やがて来るより広範な統合の始まりであり、政治的文化的統合の機運の高まりを示しています。これは驚くべき展開です。関税がなければ、一つの国の製品を他のどの国でも売ることができます。これは世界の経済環境における画期的な変化です。EUが経済的融合を成功裡に完了すれば、地球経済の統合もまた、これまで以上に加速します。
最近、韓国と中国、日本は、1997 年にこの地域を襲ったような金融危機が将来アジアにおこった際には互いに緊急融資を行なうとの合意に達しました。1997 年のアジア危機の際は、米国が資金援助を提供しました。しかし、この協定によって加盟三国は、署名国が通貨または経済危機に瀕した場合、互いに資金援助をすることを誓っています。つまり、経済的同盟を結んだのです。ヨーロッパ諸国が関税を廃止して加盟諸国がより繁栄することをめざしてEUによる経済的統合を求めたように、極東の三カ国もまた、その資源を持ち寄っています。こうした国々の統合と組織的発展は、やがて政治的統合につながるでしょう。
関税撤廃による経済的統合は、国々が事実上、超国家的組織に統合されることを意味します。七つのラッパの天災が起こり、世界中が混沌とした状態に陥ると、そうした国際的組織・団体の代表者が集まって、絶対的指導者を選びます。つまり、彼らは世界を単一の政治組織にまとめ、絶対的権威をもつ支配者を戴くことで混沌とした世界に秩序をもたらそうとするのです。
この過程のさなかに艱難の風が吹きます。個人の権利を尊重するのではなく、より大勢の人々の利益のためには少数の権利は踏みにじることが許容されるばかりではなく、当然とみなされるようになるのです。青ざめた馬の時代が来ると、この風が吹きます。こうした出来事のための下地は黒い馬の時代に作られ、青ざめた馬の時代にそれが実現するのです。
1997 年に韓国が金融危機に陥って国際通貨基金 (IMF) の指導下に入ったとき、壊滅的な経済的惨状を呈しました。地価は暴落し、人々は一夜にして仕事を失い、中産階級は路頭に迷いました。こうした金融危機は世界中でごくあたりまえのこととなったので、どこかの国の金融危機のことを聞かずには一日も過ぎないようになっています。この風が飢えの風です。今は飢えの時代、お金がなければ人の命が何の意味ももたないような時代なのです。近い将来、飢えの風の後に大艱難の暴風が続きます。
神はしばし地の四隅の風を止められてイスラエル人のうち144,000人に印を押されます。彼らに何ひとつ危害が与えられないようになさったうえで、艱難の風を放たれるのです。この艱難の風が御使いの手を離れると、大艱難の風が吹きます。艱難の風は世界を一つにし、世界は反キリストの出現によって完全にサタンの領域となり、七つのラッパの災害による七年間の激しい自然災害を経ます。七つのラッパの災害の後に七つの鉢の災害が続きます。
この反キリストの専制支配と信仰の自由の消失の時代に、飢饉と飢餓は最悪となり、人々は政府の配給した食物によってのみ生をつなぐことになります。世界中の誰もがこの時代に臨みます。黙示のみことばの第 7 章は、こうした来るべきことの概観を示しています。
この時代、他には何が起こるでしょう。青ざめた馬の時代はまた、イスラエル人と異邦人の両方から無数の殉教者が出る時代です。大艱難が始まると、残るものは希望だけです。第 10 節には、「彼らは大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、子羊にある』」とあります。つまり、救済は御座にある神と子羊の中にのみあるのです。イエス・キリストのために御座が設けられたとしている第 4 章から見てとれるように、弱者としてではなく、神の御子、万物の支配者である神、すべての裁き手として御座に着かれているのはイエス・キリストです。父なる神はまだご自分の御座に着かれています。そこで、三位一体の神、父なる神、御子、聖霊というのは、みな同じなのです。ですから、実際の救済は神と子羊、つまりイエス・キリストによるのです。
恐ろしい艱難が訪れたとき、どこに希望があるのでしょう? 大艱難の時に反キリストが現れると、彼は自分の姿に似せた像を作り、その像を拝まない者、彼の名のしるしを手または額に受けない者をすべて殺すと脅します (黙示 13)。
環境のほうはといえば、天から火と雹が降り、地震が起こり、その他の災害が続いて自然の状態もまた最悪の状態に達します。地上のどこもこの災害から免れません。地震で大地が裂け、太陽、月、星が輝きを失い、海と川は災害によって死に、環境の状態が最悪になると、政治的状況もまた最悪になっています。反キリストは絶対的権力を手にし、世界の他の指導者をすべて自らの支配下に置くと、これ以上はない絶対的専制支配を行ないます。
 
 
なぜ反キリストが出現するのか 
 
サタンが最後の望みをかなえるために、つまり、人々から神と呼ばれ、真の神よりも崇められたいという望みをかなえるために、短期間自分の力を反キリストに与えるためです。しかし、サタンはこの願いがかなわないことを知っています。それでも、人類にたたえられようと最後の試みをし、従わない者をすべて殺すのです。こうしたことが聖徒に起こる最悪の苦しみなのです。このとき、聖徒は死ぬしかありません。彼らが信じ希望をつなげる唯一の方は救済の神、水と御霊の福音によって人類をお救いになった神であるイエス・キリストなのですから、この神しか頼れる方はなく、また、この神を信じることによってのみ、恐ろしい災害と艱難のただ中で死から救われることができるのです。
最後の日々に、唯一の希望は「御座にある私たちの神にあり、子羊にある」のです。神を信じることによって聖徒は殉教し、神への信仰によって彼らは恐ろしい災害と死とから救われます。黙示録第7章は、このように七年間の大艱難の間に起こることすべての概略を示しています。
さて、艱難の風がもたらす事態をさらに見ましょう。第 9-10節には、「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、誰にも数えきれぬほど大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と子羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、子羊にある』」とあります この白い衣を着て主をたたえている多数の部族と国語の人々は誰ですかという問いに、二十四人の長老の一人が答えます。「彼らは、大きな艱難から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊の血で洗って白くしたのです。」
このことから、すべての国々、部族、国語の人々の間から無数の殉教者が出る大艱難の最中に、数えきれないほどの人々が救われることがわかります。つまり、そのときの艱難と災害からの唯一の救い主は神であると信じる人々が大勢いるだろうということなのです。すなわち、救済は三位一体の神の中にのみあるのです。
神は人類を罪から救った水と御霊の福音をお与えになり、信者はこの福音を信じているために、反キリストが現れて自分にひざまずき神と呼ぶように脅しをもって要求したとき、従いません。しかも、たとえ反キリストに屈する者がいたとしても、彼らが生き残る保証はありません。彼らは大規模な災害とサタンの最後の狂ったようなあがきを経験することになるからです。その時代には、確実なことは何もありません。
ですから、人類をお救いになった神を信じる以外の道はありません。信者は千年王国と新たな天と地とをくださる神を信じ、大胆に殉教を受け入れます。神は聖徒を死からよみがえらせ、携挙なさり、新たな天と地の栄光と恵みのすべてをくださるのです。子羊の血で衣を白く洗った人々がそんなにも大勢いるのは、このためです。
神への信仰のために死ぬ殉教者がほんとうに大勢出るでしょう。このときに殉教した世界中の国々の聖徒と人々は、神への信仰のためにいのちを捨てます。今私たちが宣べ広げている水と御霊の福音を信じる人々は神を信じ、恐ろしい艱難と災害のすべてから救ってくださると信じて殉教を受け入れます。神だけがこうした恐ろしい災害から人類をお救いになれるのです。
ここでお話しているのは、七年間の大艱難中に起こる重大な出来事です。艱難の風が世界に吹き起こると、地上にはもはや希望がありません。今私たちが知っているような世界はもはやなく、天と地は巻き物が巻かれるように消え失せるのです。
その後で、神はこの地上に新たな地をお創りになり、信仰に殉じた者たちに千年間支配させ、その千年が過ぎると、永遠の御国に彼らを移されるのです。人類を大艱難の死と破壊からお救いになり希望を与えることができるのは、人類を罪から救われた神だけです。殉教のときが訪れると、みなさんも私も、福音を聞いて信じた世界中の人々と同様に、神が人類をお救いになったと信じて勇敢に殉教するのです。私たちは、断固とした信仰と希望を持って、殉教を受け入れます。恐ろしい災害と艱難とから人類をお救いになるのは、御座に着かれている神です。
ですから、人類を罪からお救いになった神はまた、それらの恐ろしい災害からもお救いになると信じることなしには殉教できません。このとき殉教するのは、その名が子羊の『いのちの書』に記されている人々です。しかし、その名が『いのちの書』に記されていない人は誰も殉教できません。
この福音は世界中いたるところで説かれ、世界の誰もが聞き知るはずです。この福音をたゆまず広めているので、水と御霊の福音は世界中であかしされています。この世には、大艱難が訪れたときに子羊にのみ希望をかけ、命をかけても神を信じ、殉教を受け入れることのできる魂がたくさんいます。そして、信者の名が『いのちの書』に記されることを可能にする水と御霊の福音は、説かれ続けます。
水と御霊の福音を信じる人々は、終わりの時に殉教します。黙示録第 13 章 8 節には、「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる」とあります。その名が『いのちの書』に記されていない人々がみな例外なく獣に屈するのは、絶対的な真実です。
イエス・キリストと父なる神だけが、終わりの日々に人類を大艱難から救うことができるのです。御霊は今、聖徒の心に住んでいます。私は、人類は神に救われており、神のために殺されることになっても、神は再び死からよみがえらせ空中に携挙なさり、地上のすべてを新たになさり、千年王国に住まわせてくださると信じています。
艱難の風の吹き荒れるこの青ざめた馬の時代は急速に近づいています。黒い馬の時代は過ぎ去りつつあります。この時代が終了すると、青ざめた馬が現れます。それ以後、全世界は七年間の大艱難に襲われるのです。それ以上でも以下でもなく七年間続くこの大艱難の期間は、神のご計画なのですから、確実に実現します。
大艱難がほんとうに始まったと仮定しましょう。私たちの回りや世界中の木や草は燃え、空は煙に満ち、太陽は分厚いスモッグに覆われ、世界は昼間でも暗くなり、人々はいたるところで死に、追って来る人々の声さえ聞こえます。誰を信じればよいのでしょう? 人類をすべての罪からお救いになり、反キリストに屈しなかった殉教者を再び生きさせること、地上に戻られて信徒をよみがえらせ携挙なさること、新たな天と地にお連れになることを約束なさった神を信じますか、それとも信じませんか? もちろん、神を信頼します! 神だけが唯一の希望なのです。反キリストの偶像崇拝も自分自身を頼みとすることも、救いとはなりません。また、洞窟に隠れたり地球から出て宇宙ステーションに逃れたとしても、同じことです。何ひとつ、神を除いては何も人類を救うことはできないのです。
彗星が衝突すると、その燃え残りはすべて地上に落ち、全惑星を破壊します。神が最初にお創りになったものは、みな破壊されます。そのとき、真の希望が心に生まれます。そのような絶望的な状況で、誰を頼みとすればよいのでしょう? 人類が仰ぎ見て助けを求めることができるのは神だけです。神以外には人類を救える方はおられません。
聖徒は水と御霊の福音のみことばを信じて救われているので、この救済を神に感謝し、たたえます。しかし、大艱難が始まると、恐ろしい災害と死とから救われることをも、もてるすべてで神に感謝し、たたえます。神だけが反キリストの手から人類を救うことができるのです。神以外には誰もいません。この神に信仰と希望を託すのですから、また、神がよみがえらせ、千年王国と新たな天地で永遠に幸福に生きるようにさせてくださると信じ、希望としているのですから、聖徒はやがて来る艱難のすべてに耐え、勝利することができるのです。
反キリストが自分の像の前に聖徒を連行し、「この像の前で拝礼し、神と呼ぶのだ。イエスは神ではない。私が神であり、私だけがおまえたちを救うのだ」と言う日が来るでしょう。反キリストがこのように自分を拝むように要求したとき、聖徒はおびえはするでしょうが、新たに生まれた者は誰一人彼の像の前にひれ伏しはしないでしょう。なぜでしょうか? 彼の印を受けるように強制した後で、反キリストは聖徒を奴隷とし、人々を殺すために使い、最後には聖徒をも殺すだろうからです。
反キリストが自らを神と宣言する時がくるでしょう。反キリストが自分の巨大な像を建て、世界中の人々に自分を神と呼ぶようと要求し、自身への賛美を歌う合唱隊を作る日は、そう遠いことではありません。そのときが平和で、自然環境が健全で美しければ、人は新たな世界が始まったのだと考えもするでしょう。しかし、森林が焼かれ、太陽が姿を隠し、地球が闇に包まれ、人々が死の叫びを上げ、残骸と半ば焼け焦げた死体が通りに散らばっている中で、聖徒の誰ひとり、自分の像を拝み神と呼べとの反キリストの要求に従いはしないでしょう。このとき、新たに生まれた信者はみな、彼が神のみことばで預言された反キリストであることを知るでしょう。
御霊もまたそう教えます。御霊は絶対に屈しない心を与えてくれます。御霊は、「殺したければ、殺すがいい。でも、死んだら主が私の死の仕返しをなさり、私をよみがえらせてくださるのです」と言える強い心を与えてくださいます。主が三日後に死者の中からよみがえられたように、聖徒もまた再びよみがえらせられると信じています。そして主は間違いなく携挙してくださるのです。
 
 
義人は決して反キリストに屈しない
 
神が最初の世界を破壊なさって、代わりに義人に千年間支配させるために千年王国を築かれるという約束のみことばを聞き、それを信じて新たに生まれた者は、御霊が心に住んでいてすべてを知っているのですから、決して反キリストに屈しません。しかし、御霊をもたない人々は、当初はまったく新しく見える世界の潮流に従うことを拒んで命を失うことを恐れ、命乞いをしてサタンに屈します。誰もがこのように死を恐れその奴隷になったとき、新たに生まれた者だけがこの死のおそれをもたず、昇る太陽のように輝かしい行ないによって大胆に殉教を受け入れるのです。
新たに生まれた人々がそうできるのは、新しい体によみがえらせられるという希望があるからです。御霊が宿っている人々に死を恐れる気持ちがなく、実際、反キリストに対立して御霊から流れ来る勇気あることばで打撃を与えるのはこのためです。彼らは今は弱々しくとも、水と御霊の福音を信じて御霊によってしるしがつけられた人々は、敵が全く答えることのできないことを御霊の助けによって言うのです。信者は、この神のみことばを信じます。
聖徒が次のように告げると、反キリストは動揺します。「よくも自分が神だなどと言えますね。あなたは天から追放され、じきに地上からも追われることでしょう。あなたの最期は近いのですよ。」少数者だけではなく、世界のすべての国々の無数の人々が反キリストに対して立ち上がり、対立します。すると、反キリストは彼らをみな殺します。このとき、聖徒は殺されようとも絶対に卑屈になりません。みことばに「救いは、御座にあるわたしたちの神にあり、子羊にある」とあります。この唯一の希望は父なる神とイエス・キリストの中に見出されます」とあるのですから、御霊から生じる希望と信仰への深い確信をもって死ぬのです。
使徒の働きがあかししているように、ステパノは石で打ち殺されたとき、天を仰ぎ、神の御座とその右手にイエスが自分を迎えようと立っておられるのとを見ました。死につつあっても、ステパノは、イエスが自分を十字架につけた人々への赦しを求められたのと同じように、自分を石で打っている人々への赦しを求めました。
ステパノと同じように、終わりの時に殉教した聖徒たちは御霊に満たされ、ゆるぎなく立つのです。卑小でその信仰は弱く見えようと、今このみことばを聞いた人々は、その時が来れば強い信仰をもつのです。
恐れてはいけません。恐れることは何もありません。黙示録第 6 章に記されているように、反キリストの出現から艱難の風にいたるまで、すべては神のお許しとご計画にしたがって起こることなのです。
殉教は人間の肉の強さによるものではありません。殉教が可能になるのは、ただ御霊の力と真理への信仰とによるのです。つまり、神、神の約束のみことば、万物の支配者である神が自分たちの神であるということを信じることによって殉教できるのです。
よろしいですか、ご計画にある七年の間に神がお許しになった殉教は、神の摂理なのです。人類のための神のご計画の一部である殉教を自分の心によるものであるとは考えず、神のみこころによるものだと心に信じるのです。殉教するべき時が来れば、それに臨むに十分以上の力をお与えくださるという、神のみことばを信じましょう。
どの世界にも絶対的な支配者がいます。新たに生まれた者は神に支配されますが、新たに生まれていない人々はサタンの霊に支配されています。終わりの時が来ると、神に支配されている新たに生まれた者は、すべての試練と迫害を耐えるだけの力を神から受けるのです。それに対して、サタンに支配されている人々は、その支配下にあるために、望もうと望むまいとサタンの意思に従うほかはありません。
しかし、誰の力がほんとうに大きいのでしょう? 人が恵まれるか呪われるかは、神とサタンのどちらの力がより強いかにかかっています。終わりの時に誰が最終的に救われるかは、誰を信じ従い、誰のことばを信じるかによるのです。神とそのみことばを信じた人々は、万物の支配者の力と権威によって守られ、恵まれ、永遠のいのちを与えられます。しかし、サタンのことばを聞きその前に屈した人々は、人を地獄から救う力をもたないサタンとともに地獄に投げ込まれます。神が黙示録第 1 章から 7 章のみことばをお与えになっているのは、このためです。
第 8 章以降、黙示録は青ざめた馬の時代に起こる事を詳細に記録しています。第一に、七つのラッパの災害が地上に起こります。この七つの災害のうち、まず第 7 節にある最初の災害について見ましょう。「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。」第一のラッパの災害によって血の混じった雹と火が地上に降ります。地上に火が降るのはこれが最初のことではありません。惑星地球はすでに何度も隕石の落下を経験しています。
これまでは、どの一つも全世界を荒廃させるような大規模な破壊をもたらしていませんが、青ざめた馬の時代になると、艱難の暴風が世界中で荒れ狂います。この風が竜巻となって植生を根こそぎはぎ取ると、火が地上に雨と注いで森林の三分の一と青草のすべてを焼き払い、人々は燃えさかる炎を消そうと駆けつけます。
神のみことばは、最初の災害によって世界の森林が焼けた後で、炎を上げて燃えさかる巨大な山が海に落ちるとしています。おそらくは巨大隕石です。これは第三の災害でさらに詳しく述べられています。「第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちてきて、川々の三分の一とその水源に落ちた。」つまり、小天体が地球と衝突するのです。第三の災害は、隕石が海に落ち、巨大な津波を起こす映画「ディープインパクト」のような災害を起こすのです。災害は映画のものほど破壊的なものではないでしょうが、隕石が地上の各地に落ち、惑星地球に大打撃を与えます。津波は海の生物の三分の一を殺し、船の三分の一を破壊します。
こうした艱難の風が吹き始めると、人類は青ざめた馬の時代の到来を知ります。将来、テレビの緊急報道で空から炎が振り、世界の森林の三分の一が燃え尽きたというニュースが流れた時、来るべきものがついに来たのだと知るのです。消火のために政府が子どもから老人まですべての人々を動員する時、終わりの時がたしかに訪れているのです。
水と御霊の福音を信じている者にとって、こうした恐ろしい災害からの救済の希望は、万物の支配者である神にのみ見いだされます。反キリストが聖徒を殺すとき、彼に対抗するべき地上の権力は何もないのですから聖徒は殉教します。それでも大いなる喜びをもって殉教に赴くのです。万物の支配者である神は、恐ろしい大艱難のさなかに信仰をもって殉教に赴いた者をよみがえらせ、主は羊飼いとなって、彼らをいのちの水の流れるところに導かれるのです。
二度と再び火や渇き、太陽の炎熱に苦しむことのない御国を築かれた神は、聖徒をそこにお連れになります。みことばは、神はこの国でともに住まわれて、慰め、涙を拭ってくださり、二度と苦しまないように永遠に栄光の中で生きるようにしてくださるとしています。
 
 

約束のみことばを固く信じる

 
聖書を読んでいると、希望に心は御霊に満ち、ただ神だけが人類を恐ろしい災害から救うことがおできなのだとわかるのです。「主イエスよ、おいでください!」主を信じます。すべての罪から救ってくださったのと同じように、主は恐ろしい艱難からもお救いくださると信じています。主は仲間の聖徒をもお救いくださるでしょう。終わりの日の到来の前であっても、救済は御座に着かれている神と子羊のものであり、主の救済もまた神のうちに見出されると信じます。
大艱難が訪れると、世界は間もなく災害と破壊に見舞われるでしょう。しかし、世界がどんなに苦しむことになろうと、神はそのときの艱難と災害、敵からの迫害からお救いくださると信じています。神は人類をすべての罪からお救いになり、子どもとなる権利をお与えくださり、そうなさったからです。
新たに生まれていない人々は、聖徒よりはるかにみじめです。すべてが焼け、混乱が世界を支配するとき、絶対の信頼をおける神をもたないことは、どんなにみじめでしょうか。仏教徒でもイスラム教徒でも、必死に自分の宗教にすがろうとする人々も中にはいるでしょうが、そこにはまったく希望がありません。彼らにはただ絶望と焦燥とがあるのです。そうした絶望の中で死を迎える人々は大勢いるでしょう。聖徒もまた、そうした人々と同じ混沌と困難に臨みます。しかし、心は彼らのものとは違います。神が水と御霊の福音によって罪のない者となさったのですから、今信仰を準備している者たちは他の人々とは違います。
ヨハネの福音書第 1 章 12 節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。つまり、神はご自分の子どもとなる権利をくださり、「あなたたちはわたしの子どもです」とおっしゃって、印をおつけになったのです。神はこのすばらしい栄光の権利をくださいました。私たちは神の子どもです。水と御霊の福音を信じるとき、心にまだ罪が残っていますか? もちろん、残っていません! そもそも、私たちは神の子どもとなったのではありませんか? もちろん、そうです! 神の子どもが聖書の知識を欠き、多くの欠点があるとして、神は父として守ってくださらないのでしょうか? 守ってくださいますとも! ものを知らない子どもに両親がより多く注意を向け世話するように、神は弱い者たちにより多くの力と保護とをお与えになります。
反キリストの到来とともに混沌が支配するようになると、神は御霊によってご自分の子ども支えられ、信仰と希望と勇気とをお与えになります。神が勇気をくださるのですから、聖徒は何も恐れません。心に生じる恐怖以外には、恐れるべきものは何もありません。人は逃避によって周囲に起こっていることから逃れることはできますが、心の中の恐怖はどちらを向こうと振り払うことができません。寝室や地下室、防空壕、どこに隠れようと、心をつかんでいる恐怖から逃れることはできません。
ところが、聖徒の心には恐れはなく大胆さがあるだけです。彼らは勇気をもって殉教に臨むことができます。「来るべきものがついに来た。主が再臨される時が来たのだ。じきに私たちをお連れになるだろう。」このとき、携挙は起こるのです。今日のようなごく普通の日ではなく、世界の三分の一が焼かれたときなのです。しかし、艱難がそれ以上悪化する前に、神は聖徒を空中に携挙なさいます。
みなさんは、神が人間のために七つの時代を定められたと信じていますか? 黙示録第 6 章は、神がそうなさったとしています。神は定められたとおり、記されていることをすべて聖徒の上に起こされるでしょう。ですから、罪を赦された人々はたいへん恵まれているのですが、ためらい福音を信じなかった人々は、不運にも地獄に行くことになるのです。神は将来恐ろしい災害が起こリ、その災害がすべて終わった後で、新たに生まれていない人々は永遠の炎と硫黄の湖に投げ込まれるとおっしゃっています。神が今平和な世界をお与えになり、このような平和の時に福音を私たちに託されたのはこのためなのです。
神は二千年ほど前に人間の姿でこの地上においでになりました。人類のために、神はバプテスマをお受けになって人類の罪のすべてを被られ、十字架上で死なれ、世の罪のすべてからお救いになったのです。救い主として神は人類をお救いになりました。ご自分とその救済とを信じることによって救われる恵みを、神は人類にお与えになりました。これが神の恵みです。これが、神がただ一人の御子を遣わされ、すべての罪をその上に移され、御子を人類の身代わりとして裁かれて人類をすべての罪と裁きとから救った福音なのです。これを今信じることで、人は神の恵みをまとい、永遠のいのちを受けるのです。これを信じたために信者は神の子どもとなりました。そして、今は神の子どもとなったので、終わりの日の大艱難が最も激しくなったときに神は彼らをお召しになり、守られるのです。
このとき、神の子どもとサタンの子どもは互いにはっきり区別できます。間違えようのない差異は、はっきりと見てとれます。これは、後でより詳しく述べる中で説明します。今は、大艱難が訪れると聖徒は殉教し、復活させられ、神の前に引き挙げられるということを覚えておいてください。人がこれを信じるかどうかは問題ではありません。神は風を起こし、起こるべき事をすべて起こすとおっしゃったのですから、いずれにしろ起こるのです。
第一節には、「この後、私は見た、四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた」とあります。神は、今は風が吹かないよう押さえておられます。つまり、神がお許しになれば、これらの風が地の四隅から吹き起こるということなのです。神がお許しになると、御使いは風を解放し、青ざめた馬の時代を招来します。こうして大艱難の風が吹き始めて世界のいたるところに天災と戦争をもたらすと、人々はみな悲惨な状況の真っ只中に身を置くことになります。しかし、これまでのところ、神は風をしっかり押さえておいでです。
世界の国々は武器製造に力を注いでいます。大国がGNPの30%を軍事費に割かなければならない時が訪れるでしょう。今でも、膨大な資源が新たな、より破壊力のある兵器、大量破壊兵器のようなものを開発する努力のために軍事費に注ぎ込まれています。経済が回復するといつも、余剰金は軍備を拡大するために用いられます。
例えば、合衆国はいわゆる「スターウォーズ計画」というミサイル防衛システムの開発を推し進めています。このシステムの開発が完了すると、戦争は地上だけではなく、宇宙でも戦われることになり、飛行中の弾道ミサイルを武装衛星が大気圏外でミサイルを使って打ち落とすのです。そうなると、「空中戦」は全く新しい意味をもつようになります。そこで、今問題になっているのは、どこが最初に大気圏外用兵器を開発して宇宙の軍事利用を支配するかです。
こうした展開を見ると、神が許されれば、恐ろしい災害が地上に降りかかったとき、預言にある絶対的な権力をもつ支配者はすぐに出現することでしょう。
しかしながら、これらのことはみな、神がそれをお許しになったときにのみ起こるのです。この世界がどんなに住みづらいところになろうと、信徒は神が羊飼いとなられていのちの水の泉に導かれ、涙をすっかり目から拭ってくださると信じます。救われた者が大いに恵まれているのは、このためです。
イエスを信じるときは、自分の好きなように信じるわけにはいきません。真の信仰は、神のみことばを信じるものです。
黙示録第 7 章 14 節には、次のように記されています。「そこで、私は、『主よ、あなたこそ、ご存じです。』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出てきた者たちで、その衣を子羊の血で洗って、白くしたのです。』」「その衣を子羊の血で洗って、白くした」とは、彼らが主への信仰のために殉教したことを意味しています。この部分の解釈には注意してください。これは、十字架上の血だけを信じて救われていることを指しているのではありません。
そうではなくて、心に御霊が住んでいない者は神の子供ではなく、水と御霊の福音を信じない者は福音を全く信じない者なのです。水と御霊の福音を信じる者だけが殉教を受け入れ、艱難を乗り越え、そうして主に大いなる栄光をささげるのです。
信者は神を信じるので、たいへんな困難と苦しみの時が訪れても信仰を失わず、サタンに屈せず、神から受けた力によって大胆に殉教を受け入れるのです。それから主によって復活させられ、守られます。子羊は羊飼いとなり、目から涙を拭ってくださり、聖徒は二度と飢えも渇きも暑熱に焼かれることもなく、その他の何にも苦しめられることがないのです。なぜでしょうか? すでに大艱難を経験した聖徒から神が苦しみを永遠に除かれるためです。天国と呼ばれる神の世界は、このようにすばらしいのです。そこはそのようにすばらしいところなので、人々はすべてのよいものの典型として、天のパラダイスと呼びます。
パラダイスとは、尽きることなき喜びの場所です。仏教では、極楽は神、仏陀となった者だけの場所です。しかし、ほんとうに仏陀となれる人、神となれる人がいるのでしょうか? もちろん、いません! シッダルタ自身が死の床で、「神となるのだ。神となることによってのみ、人は世の恐怖のすべてから逃れることができるのだ」と言いました。しかし、人が自分の力で罪から逃れ、そのすさまじい恐怖を克服することは、とうてい不可能です。シッダルタ自身、逃れることができませんでしたし、他の誰もできません。みことばに「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないのです」(使徒4:12) とあるとおりです。人類の救済は、ただ宇宙と人間とを創られた神、イエス・キリストによってのみ与えられるのです。イエス・キリストが救い主であり、恐ろしい災害からもまたお救いくださるというこの真理が、神が御霊によって告げられていることなのです。
天国は最もすばらしいところです。誉れと栄光の中で永遠に生きたいですか? 尊いものとされて永遠に幸福に暮らしたいですか? 全き豊饒の中で何不自由なく生きたいですか? 神が聖徒を住まわせるために召される所は、そのような場所なのです。そこは天国です。何ひとつ欠けることなく、永遠に不足がありません。二度と再び病気にならず、暑熱に苦しむことも、涙を流すこともありません。
イエスが十字架につけられたとき、隣で十字架につけられていた犯罪人におっしゃいました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」「パラダイス」とは、文字通りには「喜びの園」を意味します。そこは、人があらゆる喜びと幸福を楽しめる場所です。この地上で人間を幸福にし喜ばせるものは、神がそこに住まわせためにお召しになる場所にあふれるほどにあります。これを信じ、この天国、パラダイス、神の国を得なさい。神の国は完全で善いのです。地上の王国の不完全さは全くそこに見出されません。
神は万物の支配者なのであり、聖徒にこの国をくださいます。主は万物の支配者である神なのですから、ご自分の民をお救いになり、二度と再び涙を流したり苦しんだりしないようになさいます。主は、いのちの水の泉に聖徒を導かれます。主は聖徒が永遠の命、永遠の幸福、永遠の喜びの中で生きるようになさいます。こうしたことがすべて可能なのは、主が万物の支配者としての力をお持ちだからです。
人類をお救いになった神に力がなければ、人間もまた力弱いでしょう。しかし、人類をお救いになった神には、絶対的な万物の支配者としての力があるのです。神はその絶対的な力によって人間を罪のないものとなさり、そうしてその人間を聖徒と呼ばれます。
その人がこの地上でどのように生きたかは、関係がありません。聖徒は神の子どもであり、王の中の王の力があるのです。たとえ今は新たに生まれていない人々よりも貧しい暮らしをしていても、青ざめた馬の時代になって再臨されたとき、主は聖徒をお召しになり、パラダイスで生活させてくださいます。聖徒は、御使いさえもしもべとし、何ひとつ不自由なく、絶対的な権威をもって支配するのです。聖徒はすべての権威と栄光の中で永遠に生きます。
聖徒は二度と死ぬことがありません。永遠の生、支配、そして天国に入ること──これはすべての宗教が夢に見ることです。神はこの恵みをただ私にだけではなく、みなさんにも同等にお与えになるのです。
私は、こう信じています。時が来れば、神は艱難の風を起こされ、この艱難の風が吹くと、聖徒に悪魔に対抗するための力をくださり、最後には連れ去ってくださるのです。また、神は永遠に幸福に生きられるようにしてくださいます。
神はこうしたことをみな約束なさいませんでしたか? もちろん、約束なさいました! 神は、おっしゃいました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ 14:1-3) 主は、このように約束なさいました。黙示録第 20 章から 22 章のみことばはみな、約束のみことばです。
ハレルヤ! 神に心から感謝いたします。