(ヨハネ 3:1-6)
「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』 イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』 ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。』 イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』」
聖書によると、新しく生まれることの意味とは何か
新しく生まれることは、身体の感情や変化に関連しているのか。
いいえ。新しく生まれることは霊的な変化。罪人が罪のない人として新しく生まれること。
この世には、ただイエスを信じて新しく生まれたいと願う人が大勢います。しかしながら、まず申し上げておきますが、新しく生まれることは私たち次第ではありません。言い換えれば、私たちの行ないだけによる結果として、もたらされないものです。
ほとんどのキリスト教徒は、これを誤解しています。彼らは、自分たちが必ず新しく生まれると信じています。彼らは、とりわけ次のような理由で、そう信じています。多くの新しい教会を建てることによって救いを受けようとする人もいれば、宣教師として遠く離れた場所で、神のみことばを知らない人々の間でキリストを説くことに献身する人もいます。また、結婚を拒んで、神の働きであると信じていることをするために、すべての能力を費やす人もいます。
それだけではありません。教会に多くのお金を寄付したり、毎日教会の床を掃除したりする人もいます。結局のところ、彼らは自分の時間と財産を教会にささげています。そして、これらすべての努力によって、自分たちにいのちの冠が与えられるのだと信じています。彼らは、神が自分たちの努力を認め、新しく生まれさせてくださると願っています。
問題は、新しく生まれたいと願う多くの献身的な人々がいるということです。彼らは、至る所にいます。いつか神が自分たちを祝福なさり、新しく生まれさせてくださることを願って、彼らは懸命に働きます。彼らは、多くの異なる種類の宗教施設、神学校、療養所にもいます。彼らが新しく生まれることについての真理を知らないのは、とても残念なことです。
彼らはみな、「これを完璧にすれば、私は新しく生まれるだろう」と、自分の行ないの観点から考えています。したがって、彼らはそうした働きに全力を注ぎ、新しく生まれるのに必要な土台を築いていると信じ、「私もいつか、ウエスリー牧師のように新しく生まれるのだ」と考えます。ヨハネの福音書 3:8 を読んで、この節を新しく生まれる祝福がどこから来て、どこに行くのか、誰にも分からないという意味に解釈してしまうのです。
したがって、彼らは、イエスがいつの日か自分たちを新しく生まれさせてくださると期待して、懸命に働くことしかできません。「もし私がこのように努力し続けるなら、イエスはいつの日か私を新しく生まれさせてくださるだろう。気づかないうちに新しく生まれているのだ。ある朝、ただ起きて、新しく生まれ、天国に運命づけられていることを知るだろう」と考える人が大勢います。そのような希望と信仰は、実に無益なことです。
私たちは、そのように新しく生まれることはできません。アルコールやタバコを避けたり、教会に熱心に出席したりしても、私たちは決して新しく生まれることはできません。イエスがおっしゃったように、私たちが神の御国に入るために「水と御霊によって新しく生まれる」ことが必要です。そして、水と御霊とは、新しく生まれるために、神の唯一の条件です。
人が水と御霊によって新しく生まれない限り、イエスの前に義人となるための努力は、すべて無駄になります。ささげ物や献金、献身で決して新しく生まれることはできません。神だけが新しく生まれた者が誰であるかをご存じなので、人は新しく生まれたかどうかを知ることができないと思うかもしれません。
このように考えるのは慰めになるかもしれませんが、新しく生まれることは、テーブルの下に隠れることはできません。人は自分でそれを確かに知っており、他の人もそれを感じるでしょう。
私たちは、おそらく肉体的にそれを感じないでしょうが、間違いなく霊的に非常によく感じるでしょう。ほんとうに新しく生まれた者とは、神のみことば、水と血と御霊のみことばを通して、新しく生まれた信者たちです。しかしながら、新しく生まれていない者は、ニコデモが理解できなかったのと同様に、新しく生まれることが何であるかを理解できません。
したがって、私たちは、イエスのバプテスマと血による贖いである真理のみことばに耳を傾けなければなりません。私たちが神のみことばを聞いて学ぶと、そこから真理を見つけることができます。したがって、心を開き、注意深く耳を傾けることが非常に重要です。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」 (ヨハネ 3:8)。
新しく生まれていない人がこの聖句を読むとき、「ああ、イエスは、私が新しく生まれた時がいつであるか分からないとおっしゃった。誰も知らないのだ。」 そして、その考えに慰められます。しかし、これは真実ではありません。私たちは、風がどこから来て、どこに行くのか知りませんが、神はすべてをご存じです。
新しく生まれた者の中でさえ、最初は新しく生まれたことに気づかない人がいます。これは、もっともなことです。しかし、そのような人の心の中には、福音、すなわちイエスのバプテスマと血による贖いのみことばがあります。
これは、新しく生まれたことに対するあかしです。福音を聞く者は、「ああ、私には罪がないのか。それで、私は救われ、新しく生まれている」と言って、新しく生まれていることを理解します。彼らが、心で水と御霊の福音を信じて保つとき、神の子どもである義人になります。
誰かが、「あなたは新しく生まれていますか」と尋ねられると、その人は、「まだです」と答えるでしょう。「それでは、あなたは救われましたか。」「はい、私は救われていると信じます。」 しかし、彼は矛盾した発言をしていますよね?人が新しく生まれるとき、肉体も変えられるはずだと考えているので、そのように発言するのです。
そのような人々は、新しく生まれることをライフスタイルの根本的な変化のようなものとして考えます。しかし、真実は、彼らが水と御霊によって新しく生まれる福音を理解していないということです。
新しく生まれることの意味を理解していない人が、非常に大勢います。まったく残念なことです。この妄想の下で活動しているのは、素人だけでなく、教会指導者のほとんどがそうなのです。新しく生まれた者の心は、そうした人々を嘆きます。
私たちがこのように感じるとき、私たちの神であるイエスは、天国でどれほどの痛みを感じておられるでしょう。私たち全員がイエスのバプテスマと十字架の血によって、新しく生まれる福音を信じて、新しく生まれましょう。
新しく生まれることと救われることは、同じことを意味します。しかしながら、この真理を知らない人が大勢います。新しく生まれるということは、水と御霊の福音への信仰を通して、心の罪が洗い流されたことを意味します。イエスのバプテスマと十字架でのいけにえへの信仰を通して、義人になることを意味します。
新しく生まれる前、人々は罪人ですが、後に、新しい人として新しく生まれ、文字通り完全に罪がない者になっています。彼らは、救済の福音を信じて、神の子どもになりました。
新しく生まれるということは、イエスのバプテスマの衣をまとうこと、イエスとともに十字架で死ぬこと、イエスとともに復活することを意味します。それは、イエスのバプテスマと十字架のみことばを通して、義人になっていることを意味します。
人が母親の子宮から生まれたとき、その人は罪人です。しかし、水と御霊によって新しく生まれる真の福音を聞いたとき、その人は新しく生まれ、義人になります。
外見上、そのような人は変わらないように見えますが、霊の内側で新しく生まれます。これが、新しく生まれることの意味です。しかし、この真理を知っている人はほとんどいません。一万人に一人もいないでしょう。新しく生まれることの真の意味を理解している人は、非常に少ないということをわかっていただけますか。
水と御霊の福音を信じて、新しく生まれた者は、ほんとうに新しく生まれた人を普通のキリスト教徒と区別することができます。
風を操るのはイエス
救われている者を知ることができるのは誰なのか。
新しく生まれた者だけ
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 イエスは、新しく生まれていない者について語っておられました。新しく生まれた者は、新しく生まれることについて知っていますが、ニコデモは知りませんでした。神は、誰が新しく生まれているかをご存じであり、新しく生まれた者もそれを知っています。
しかしながら、新しく生まれていない者は、風がどこから来てどこへ行くかを知らないのと同じように、人がどのように新しく生まれることができるのかを知りません。
みなさんは、このことを理解できますか。誰が風を動かすのでしょう。神が風を動かされます。誰が風を創られたのでしょう。天におられる神が風を創られました。地上の気候である風と水の動きを操るのは、誰でしょうか。また、誰がすべての生き物にいのちの息を吹き込むのでしょう。言い換えれば、誰がこの世界のすべてのいのちを創造し、増え広がるようにしたのでしょうか。それは、イエス・キリストにほかなりません。そして、イエスは神であられます。
私たちが水と血と御霊の福音のみことばを知らないとき、私たちは新しく生まれることも、霊的に他の人に教えることもできません。イエスは、人は水と御霊によって生まれなければ、新しく生まれることはできないとおっしゃいました。
私たちを新しく生まれさせる強力な福音、水と御霊の福音を信じなければなりません。御霊は、水と御霊の福音を信じるすべての者の心に入り、宿ります。
イエス・キリストは、人類の罪をすべて取り除くためにバプテスマを受け、そうした罪の代価を払うために十字架で血を流されました。イエスは、全人類の心に新しく生まれる救済を植えつけました。私たちがこの福音を信じるとき、御霊が私たちの魂に入ります。これが、新しく生まれる救済です。イエスのバプテスマとその血によるすべての罪の洗い清めを信じるとき、私たちはほんとうに新しく生まれます。
創世記 1:2 には、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」 と記されています。神の霊は水の上を動いていたと記されています。神の霊は、地表の外を動いていました。
それは、聖霊が罪人の心に入ることができないことを意味します。新しく生まれていない人の心は、混沌の中にあり、罪のやみで満たされています。したがって、神の霊は、そのような人の心の中に宿ることはできません。
神は、罪人の心を照らすために福音の光を送られました。神が「光よ。あれ」 (創世記 1:3) とおっしゃり、すると光ができました。それから、そうして初めて、神の霊はすべての人々の心に宿ることができたのです。
したがって、新しく生まれた者、すなわち水と御霊の福音を信じる者の心には、神の霊が宿っています。それが、「新しく生まれる」ことの意味です。彼らは、水と御霊による救済のみことばに耳を傾け、それを信じたので、心で新しく生まれているのです。
人は、どのようにして新しく生まれることができるのでしょう。イエスは、パリサイ人ニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」 とおっしゃり、新しく生まれることを説明なさいました。ニコデモは言いました。「私たちは、どのようにして水と御霊によって新しく生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」 明らかに、ニコデモはそのみことばを文字通りに受け止め、人がどのように新しく生まれることができるのかを理解できませんでした。
イエスはニコデモに、「あなたは教師でありながら、その意味することがわからないのですか」とおっしゃいました。イエスは、人が水と御霊によって新しく生まれなければ、天の御国に入ることも見ることもできないとおっしゃったのです。イエスはニコデモに、新しく生まれることの真理をおっしゃいました。
新しく生まれることなく、イエスを信じる者が大勢いるというのは、真実です。ニコデモのような、ほとんどのキリスト教徒は、ほんとうに新しく生まれてはいません。
ニコデモは、当時のイスラエルの霊的指導者であり、今日の教会の指導者と類似しています。現代でいうと、彼は国会議員に匹敵しました。宗教上の基準から、彼は教師であり、へブル人のラビであり、ユダヤ人の宗教指導者でした。彼は、熟練した学者でもありました。
当時のイスラエルには、今日の学校に匹敵する施設がなかったため、すべての人々は、「学者」の下で勉強するために神殿や会堂に行きました。学者が人々の教師でした。今日と同じように、当時も多くの偽教師がいました。そして、彼らは新しく生まれることなく、人々を教えていました。
今日、新しく生まれていない宗教指導者、教会の役人、教師、宣教師、長老、執事が非常に多くいます。ニコデモのように、彼らは新しく生まれることの真理を知りません。多くの人は、新しく生まれるために母の胎にもう一度入らなければならないと考えています。彼らは、自分たちが新しく生まれなければならないことを知っていますが、どのようにかは知りません。
そして彼らの無知のために、無益に自分の手だけで象に触れて知覚しようとする盲人のように、彼らの指導は、自分たちの感情や経験に基づいています。彼らは、教会で世俗的な価値について説きます。これにより、多くの忠実な人々が新しく生まれることを妨げられています。
新しく生まれることは、私たちの善行とは何の関係もありません。私たちは、神がお与えくださった水と血と御霊のみことばへの信仰を通して、新しく生まれます。私たちを罪人から義人に変えるのは、神の福音です。
イエスは、これらの言葉をおっしゃいました。「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう」 (ヨハネ 3:12)。確かに、イエスがバプテスマを通して、すべての罪の贖いが完了されたという真理を、人々におっしゃったとき、彼らは信じませんでした。彼らは何を信じなかったのでしょう。イエスのバプテスマと十字架の血を通して、贖いが可能になるとは信じませんでした。これは、イエスが人々におっしゃったとき、「天上のこと」を話しても、人々はご自分を信じなかっただろうという意味だったのです。
私たちの罪をすべて清めるために、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、十字架で死なれました。そして、罪人が新しく生まれる道を開くために、死者の中からよみがえられました。
したがって、イエスは旧約聖書を引用してニコデモに説明なさいました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」 (ヨハネ 3:13-15)。モーセが荒野で蛇を上げたように、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つために、人の子もまた上げられなければなりません。
イエスが、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」 (ヨハネ 3:14) とおっしゃったとき、何を意味していたのでしょう。イエスのバプテスマと血が人類のすべての罪に贖いをもたらす方法を説明するために、旧約聖書からこの一節を引用なさいました。
イエスが十字架で死ぬために、イエスが上げられるために、イエスはまずバプテスマのヨハネからバプテスマを受けることによって、世の罪を取り除く必要がありました。イエスには罪がなかったので、十字架につけられることはできませんでした。イエスが十字架で裁かれるためには、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、それによって世の罪をすべてご自身に負わなければなりませんでした。
私たちの罪を負い、イエスの血で私たちの罪の代価を払うことによってのみ、イエスはすべての罪人を罰から救うことができました。イエスは、水と御霊によって新しく生まれるという救済をお与えくださいました。
したがって、イエスを救い主として信じる者は、イエスのバプテスマの衣をまとい、イエスとともに死に、イエスとともに新しく生まれます。後に、ニコデモはこれを理解するようになりました。
蛇が上げられたように
イエスはなぜ十字架につけられたのか。
イエスがバプテスマを通してすべての罪を取り除いたから。
モーセが荒野で青銅の蛇をどのように上げたかについての話をご存じですか。その話は、民数記第 21 章に記されています。エジプトからの脱出後、イスラエル人の魂は非常に落胆し、神とモーセを非難するように話したとあります。
その結果、主は民の中に燃える蛇を送られると、蛇は彼らのテントの中に入り、民にかみつき、多くを殺しました。彼らが噛まれた後、その身体は腫れ始め、多くが死にました。
人々が死に始めたとき、彼らの指導者モーセは神に祈りました。「主よ、私たちを救ってください。」 神はモーセに、燃える蛇を銅で作り、それを旗ざおの上につけるようにとおっしゃいました。神はモーセに、誰でもそれを仰ぎ見れば、生きるとおっしゃいました。モーセは仰せられたとおりにして、人々に神のみことばを宣言しました。
モーセの言葉を信じて青銅の蛇を仰ぎ見た者はだれでも、癒されました。同様に、私たちは悪魔の毒に刺されたものを癒さなければなりません。イスラエルの民は、モーセに耳を傾け、旗ざおの上の青銅の蛇を仰ぎ見たので、彼らは癒されました。
旗ざおの上の蛇の啓示は、全人類の罪がイエスのバプテスマと十字架の死を通して、イエス・キリストに移されたことでした。イエスは、世のすべての罪人の罪の罰を受けるために、ご自身に罪を背負われました。このようにして、イエスは私たちの罪に対する罰をすべて終わらせました。
イエス・キリストは、サタンの誘惑である「蛇の毒」から死ぬ運命にあるすべての人々を救うために、この世に来られました。私たちの罪の代価を払うには、イエスを信じた者を救うために、イエスが復活なさる前にバプテスマを受け、十字架で死ななければなりませんでした。
旧約聖書のイスラエル人が旗ざおの上の蛇を仰ぎ見たときに救われたように、今日、イエスを信じ、イエスのバプテスマと血を通して、イエスが私たちの罪の代価を支払ったという信仰を持つすべての者は、救われ、新しく生まれることができます。
イエスは、ヨルダン川でのバプテスマのヨハネによるバプテスマ、十字架での死、死からの復活を通して、世の罪の代価をすべて支払われました。今、イエスを信じるすべて者は、神のあわれみによる救済で祝福されています。
「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です」 (ヨハネ 3:13)。私たちの罪の代価として、イエスはバプテスマを受け、十字架で血を流され、私たちのために天国の門を開かれました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」 と、イエスはヨハネの福音書 14:6 でおっしゃいました。
イエスは、私たちのために天国の門を開くためにバプテスマを受けられ、十字架につけられたので、イエスを通して救済を信じるすべての人は、救われます。イエスは、すでに私たちの罪の代価を支払われているので、水と血と御霊の真理を信じる者は誰でも、天の御国に入ることができます。
イエスは、水と御霊の福音で私たちをお救いくださいました。新しく生まれることは、イエスのバプテスマと血と、イエスが神であられるという事実への信仰を持つことから来るのです。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」 (ヨハネ 3:14)。この節は、どういう意味でしょう。なぜイエスは十字架につけられなければならなかったのでしょう。イエスは、私たちのように罪を犯したのでしょうか。私たちと同じくらい弱かったのでしょうか。私たちと同じくらい不完全だったのでしょうか。いいえ、イエスはそのようではありませんでした。
それでは、なぜイエスは十字架につけられたのでしょうか。それは私たちを救い、すべての罪を贖うためでした。イエスは、すべての罪から私たち全員を救うために、バプテスマを受け、十字架につけられました。
これが、水と御霊によって新しく生まれるという救済の真理です。イエスは、バプテスマと、私たちの罪の贖いのためだった十字架の死を信じたすべての人々に、新たないのちをお与えになりました。
水と御霊の意味
水と御霊とは何を意味しているのか。
水とはイエスのバプテスマであり、御霊とは神ご自身である。
聖書は、私たちがイエスのバプテスマと十字架の血を信じるとき、新しく生まれると教えています。神の子どもになって新しく生まれることは、私たちの罪の贖いである水と血と御霊の福音である、記された神のみことばを通して成し遂げられます。
聖書によると、「水」とは、イエスのバプテスマを意味し(Ⅰペテロ 3:21)、「御霊」とは、イエスが神であられることを意味します。そして、イエスがバプテスマと血を通して罪の代価を支払うために、人類の肉において、この地上に来られたのは、新しく生まれるという真理です。
イエスは、バプテスマを通して私たちの罪をすべて取り除かれ、十字架で死ぬことによって、罪の報いを支払いました。バプテスマを受けて十字架で血を流されることによって、イエスを信じるすべての者をお救いになりました。
イエスのバプテスマと血とは、私たちを罪から救ったという点で、私たちの救いを表していることを認識しなければなりません。水と御霊によって新しく生まれた者だけが、天の御国を見ることができ、そこに入ることができるのです。イエスは、バプテスマの水と血と御霊で、私たちをお救いくださいました。みなさん、これを信じますか。
イエスは、世の罪の代価を支払うために、この世に来臨された天の大祭司です。彼は、バプテスマを受け、十字架で血を流され、よみがえられ、こうしてイエスを信じるすべての者の救い主となられました。
イエスは、ヨハネの福音書 10:7 で、「わたしは羊の門です」 とおっしゃいました。イエスは、天国の門に立っておられます。誰が私たちのために門を開くのでしょう。それはイエス・キリストです。
イエスは、救済の真理を知ることなしに、神を信じる者から顔をそむけます。イエスは、バプテスマと血と御霊を信じていない者が新しく生まれることをお許しになりません。神の記されたみことばを信じず、神の神聖さを受け入れることを拒み、イエスを神として認めない者から、イエスは顔をそむけます。
記された真理とは、イエスが肉において、この地上に来られ、バプテスマを受け、世のすべての罪を贖うために十字架で死なれたこと、十字架につけられてから三日目によみがえられたことです。この真理を信じることを拒む者は誰でも、イエスによって追い出され、滅びるでしょう。「罪から来る報酬は死です」 (ローマ 6:23) と記されているとおりです。
しかしながら、イエスのバプテスマと血による贖いの祝福を信じる者、心の中が聖くなった者は、天の御国に入ることを許されます。これが、新しく生まれる真の福音、水と血と御霊によって私たちにもたらされた福音です。水と御霊によって新しく生まれることは、天国の福音です。イエスのバプテスマと血を信じる者だけが、新しく生まれることができます。水と血と御霊の福音を信じる者には罪がありません。彼らは、ほんとうに新しく生まれている人たちです。
ニコデモが真理に気づかなかったように、今日、ほとんどの人は真の福音を知らずに、イエスを信じています。ニコデモは、社会的になんという立派な人物だったのでしょう。しかしながら、ニコデモは、イエスから真の福音を聞き、後にイエスが十字架につけられたときに、イエスのからだを葬るためにやって来た人でした。その頃までには、ニコデモは完全に信じるようになっていました。
今日、イエスの水と御霊についての真理を知らない人々が私たちの中にあまりに大勢います。さらに、真の福音を聞く機会があるのに、真理を受け入れない人々が非常に大勢います。まったく残念なことです。
イエスは、私たち全員が新しく生まれることを可能になさいました。何が私たちを新しく生まれさせるのでしょう。それは、水と血と御霊でした。イエスは、バプテスマを受けたときに私たちの罪を取り除かれました。イエスは十字架で死なれ、死からよみがえられました。
そして、イエスは、ご自分を信じる者に、新しく生まれる祝福をお与えになります。イエスは、ご自分を信じるすべての者が新しく生まれることを可能になさる救い主です。みなさんは、いつも天と地とその中にあるすべてのものを創造なさったイエスとともにいるように祈ってください。
ヨハネの福音書 3:16 には、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 とあります。私たちは、イエスを信じて永遠のいのちを得ました。私たちは、水と御霊を信じて新しく生まれました。イエスのバプテスマと血という救済の福音を信じ、イエスが救い主であり、神であられると信じるなら、私たちが救われるというのは、真理です。
しかし、この真理を信じなければ、永遠に地獄に投げ込まれます。そういうわけで、イエスがニコデモにおっしゃいました。「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」
神は、私たちのために何をなさったのでしょう。イエスによる救済が私たちを新しく生まれるようになさいました。イエスは、私たちを世、悪魔、世の罪からお救いくださいました。この世の罪人を罪の裁きから救うために、イエスはバプテスマを通して私たちの罪をすべて取り除かれ、十字架につけられ、そして死からよみがえられました。
この救いを信じるかどうかは、私たちの選択です。新しく生まれることによる救済は、イエスのバプテスマと血による救いへの信仰から来るのです。
神が私たちに授けてくださった祝福が二つあると言われています。一つは、太陽や空気など、自然のすべてのものが含まれる一般的な祝福です。これが一般的な祝福として知られているのは、罪人であろうと義人であろうと、すべての人に与えられるからです。
それでは、この特別な祝福とは何でしょう。特別な祝福とは、罪のためにすべての罪人を死から救う水と御霊によって新しく生まれることです。
特別な祝福
神の特別な祝福とは何か。
イエスのバプテスマと磔刑、復活によって新しく生まれること。
ヨハネの福音書 3:16 には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 と記されています。これは、神の特別な祝福を表わしています。イエスは、人の肉において、この世に来臨され、私たちのためにバプテスマを受け、裁かれることによって、私たちの罪をすべて洗い流されました。これが、私たちがすべての罪から救われているという真理、神の特別な祝福です。
イエスが私たちをお救いになり、罪人から義人に変えたという事実です。この真理を信じるだけで、みなさんは神の特別な祝福を受けることができます。みなさん、信じますか。
みなさんが人生を通してどれほど忠実に生きていようとも、この神の特別な祝福を拒むなら、みなさんの信仰はすべて無駄になります。
私はいつも説教をしていますが、イエスのバプテスマと十字架への確信が、新しく生まれる唯一の方法であると説くことを、決して忘れません。聖書のどの書も、イエスを通して新しく生まれる祝福は、私たちが話している「神の特別な祝福」であることを明らかにしています。イエスのバプテスマと磔刑による罪人の救済以上に、神の祝福を示すものは何もありません。
イエスのバプテスマと磔刑は、神の特別な祝福です。この世の偽りの伝道師は、これについて何も言うことはありません。こうした偽りの伝道師は、キリスト教と人間的な道徳で武装した光の御使いの衣のうちに現れます。そうです、これは本当です。彼らが行う奇蹟、病人の癒しは、神の特別な祝福とは何の関係もないのであれば、すべて邪悪なものです。
神が贖いの福音を私たち罪人にお与えになったのは、神の特別な祝福です。神の特別な祝福により、神は私たちを新しく生まれることをお許しになりました。神は、私たちをイエスのバプテスマと血と死と復活を通して、新しくなさいました。神は、私たち神の子どもを罪から解放なさいました。
みなさんは、これを信じますか。 ――はい。―― みなさんは、本当に祝福されていますか。 ――はい。―― イエスのバプテスマと血、死、そして復活は、神が水と御霊を通して私たちに与えてくださった特別な祝福です。これが、特別な祝福の福音です。神の特別な祝福を通して、私たちを救ってくださったために、主をたたえます。
今日の非常に多くの忠実なキリスト教徒が、神の特別な祝福、水と御霊によって新しく生まれることによるバプテスマと血の福音に気づいていないのは、とても残念です。彼らは、盲目的に自分の神学や宗教的道徳の道を見つけようとします。その人たちは、なんて無知なのでしょう。
キリスト教は、長い間私たちとともにありました。宗教改革から 500 年近くが経ちます。しかし、それでもなお、韓国と世界の国々には、新しく生まれるという真理と神の特別な祝福について知らない人が非常に大勢います。
しかしながら、私たちはこの世の終わりに近い時代にいるので、神が彼らに真理を知らせてくださると願い、信じています。
罪人は、義人となって天の御国に入るために、新しく生まれ、水と御霊の真理を受け入れなければなりません。多くのキリスト教徒は、懸命に新しく生まれようとしています。
しかしながら、彼らが新しく生まれることの真の意味を知らずにしようとすると、彼らの信仰は無益になります。彼らは、天の御国に入るために新しく生まれなければならないと言いますが、新しく生まれるという真理についての手がかりはありません。
彼らは、神を忠実に信じて、心に火のような感覚を感じるので、新しく生まれることができると考えています。しかし、個人的な感情や熱烈な宗教行為に基づいて、新しく生まれようとすることは、誤った信仰に繋がるだけです。
私たちをほんとうに新しく生まれるように導く神のみことば
信仰と宗教との違いは何か。
宗教とは、人の考えや行ないに頼ることだが、
信仰とは、イエスが私たちのためになさったことを信じること。
ヨハネの手紙第一 5:4-8 には、水と血と御霊を信じることによってのみ、新しく生まれることができると明確に記されています。私たちが新しく生まれるなら、記された神のみことば、真理のみことばを通してのみ、私たちが新しく生まれることができるということを心に留めておくべきです。幻覚、異言で話すこと、世間を騒がせる経験が、私たちを新しく生まれるように決して導くことができないと知っておくべきです。
イエスはヨハネの福音書第 3 章で、人は水と御霊によって生まれなければ、天の御国に入ることができないとおっしゃいました。人が新しく生まれるなら、一般的にイエスを二度信じなければなりません。最初は、宗教的な方法でイエスを信じ、神の律法を通して自分の罪を認めることがよくあります。誰かがイエスを初めて信じたとき、神の律法と、自分が本当に深刻な罪人であるという認識を通してなのです。
この世の多くの宗教の一つのように、イエスを信じてはいけません。キリスト教は、単なる宗教ではありません。信仰を通して、永遠のいのちを得る唯一の方法です。
宗教としてイエスを信じる者は誰でも、手ぶらで終えます。その人は、罪、混沌、空虚に満ちた心が残ります。これは、真理ではありませんか。聖書のパリサイ人のような偽善者にはなりたくないでしょう。
誰もが新しく生まれたキリスト教徒になりたいと願っています。しかしながら、キリスト教を宗教として信じるとき、その人は心に罪が満ちた偽善者になります。新しく生まれるという真理を知るようにならなければなりません。
新しく生まれることなしに、キリスト教を宗教として信じる人は誰でも、その心に混乱と空虚さを感じることでしょう。もし人がイエスを信じていても、新しく生まれていないなら、その人の信仰は間違っています。したがって、その人は偽善者のようになり、すべての人の前で聖く見えるように賢明に努力しますが、惨めに失敗してしまいます。
みなさんは、キリスト教を宗教として信じている限り、いつも罪人であり、偽善者であり、罪を嘆いて日々を過ごすでしょう。罪から解放されたいなら、記された真理、水と血と御霊の福音を信じなければなりません。
イエスのバプテスマによる贖いの秘密を発見すること
何が私たちを新しく生まれさせるのか。
イエスのバプテスマ、十字架での死、よみがえり
聖書は、決して変わらない神のみことばを通して、誰もが新しく生まれることができると教えています。さて、ペテロの手紙第一 3:21 で、使徒ペテロの言葉を見てみましょう。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」
聖書には、イエスのバプテスマが私たちを救う型であることが記録されています。イエスを信じるすべての者は、私たち自身のバプテスマではなく、イエスのバプテスマについて知っておくべきです。イエスのバプテスマは、罪人に新しいいのちを与えます。信じてください。そうすれば、みなさんは新しく生まれ、救済の祝福を得るでしょう。
イエスのバプテスマへの信仰を通して、救いが得られることを理解することによって、私たちは救われ、義人となり、永遠のいのちを得ることができます。言い換えれば、私たちが神のみことばを通して、救済の真理を信じるとき、私たちの罪は永久にきよめられます。
新しく生まれることは、二度目の誕生のことです。私たちのほとんどは、通常、イエスを宗教として信じることから始めます。そして、真理を悟ると、信仰を通して新しく生まれた者になります。イエスという名は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」 (マタイ 1:21) という意味です。
私たちは、イエスを信じ、イエスが全人類のために何をなさったかを正確に知ると、私たちは罪から解放され、真新しい人々として新しく生まれます。最初に、イエスを宗教として信じ、それからイエスのバプテスマと血の福音を聞いて信じると、私たちは新しく生まれます。
私たちを新しく生まれさせる真理とは、何でしょう。まず、イエスのバプテスマ、それからイエスが十字架で流された血、そして最後に死からのイエスの復活です。新しく生まれるということは、イエスを私たちの神、救い主として信じるということです。旧約聖書の人々が、どのように新しく生まれたのかを見てみましょう。
旧約聖書における罪の贖い: 手を置くこと、血のささげ物
旧約聖書で新しく生まれる福音とは何でしょう。まず、レビ記第 1 章と、新しく生まれることについて何を告げているかを読みましょう。
レビ記 1:1-5 には、次のようにあります。「主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。』」
神はレビ記で、いけにえの制度を通してイスラエル人が、どのように神と結びつくことができるかを教えています。私たち全員が知り、理解しなければならないのは、真理です。したがって、これらの言葉を復習しましょう。
神はモーセを召され、会見の天幕からモーセにおっしゃいました。それは、イスラエル人の罪を贖うことについてでした。イスラエルの民が神の律法に従わない罪を犯したとき、神に傷のない家畜をささげることによって、罪を贖うことができました。
これらのいけにえの動物は、神によって指定されたものでなければならず、傷のないものでなければなりませんでした。また、これらは神によって定められた儀式にしたがって、ささげられなければなりませんでした。いけにえの方式は、次のとおりです。
人が旧約聖書の時代に罪を犯したなら、その人は罪の赦しのために、神の前でいけにえをささげなければなりませんでした。まず、いけにえは傷のないものでなければならず、それから罪人は自分の罪をいけにえの頭に移すために、手を置かなければなりませんでした。
殺された後、その血は祭壇の角につけられ、残りは地面に注がれました。これは、神が贖いの祝福として、ご自分の民にお与えになった聖なる幕屋の儀式でした。
神の律法と戒めは、「すべきこと」と「すべきではないこと」を定める 613 の条項から成り立っています。神は、イスラエルの民に律法と戒めをお与えになりました。人々は、神の律法と戒めが正しいことを知っていましたが、誰もがアダムから受け継がれた十二種類の罪を持って生まれたので、神の律法と戒めに従って行動することはできませんでした。
したがって、彼らは神の前で正しいことを行う能力を失いました。イスラエル人は義人になる能力を失いました。むしろ、彼らは罪から解放されるために、非常に懸命に努力しながらも、罪を犯し続けることしかできません。罪人として生まれ、死ぬことは、全人類の運命です。
しかし、神は、ご自分の測り知れないあわれみのうちに、ご自分の民に罪を贖うことができるいけにえの制度をお与えになりました。神は、イスラエルの民と世のすべての人が罪を贖われるように、聖なる幕屋の儀式をお与えになりました。神は、いけにえの制度を通して、全人類に対する神の正しい愛を明らかになさいました。神は、世に救済への道をお示しになったのです。
神は、人々にいけにえの制度をお与えになり、いけにえをささげるために、レビ族にお命じになりました。イスラエルの12部族のうち、レビ族だけが、イスラエルの民のために、いけにえをささげるように定められました。
モーセとアロンはレビ族でした。そして聖書は、聖なる幕屋のいけにえを定めている律法と戒め、すなわち按手による贖いの福音を記録しています。
したがって、レビ人のいけにえの儀式を本当に理解するとき、私たちは自分自身で新しく生まれることができます。そういうわけで、聖なる幕屋のいけにえに関する神のみことばを研究しなければなりません。これが旧約聖書の最も重要な部分です。最後に、私たちが新約聖書に来ると、新しく生まれる祝福があります。
旧約聖書における罪の贖い
神の本性とは何か。
公義と愛
神は、レビ族のモーセを会見の天幕に召され、兄アロンを大祭司としてお定めになりました。アロンは、人々の罪を罪のためのいけにえに移すことでした。
これは、レビ記 1:2 に記録されているように、神がモーセにおっしゃったことです。「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。」 神は、ここでいけにえのささげ物を定められています。民の一人が罪のために贖いを求めたなら、牛か羊をささげなければなりませんでした。
神はまた、彼らにおっしゃいました。「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない」 (レビ記 1:3)。
いけにえは、罪のために死ぬことになっている人の命の代わりに、神に受け入れられました。イスラエル人は、動物の頭に手を置くことによって、罪を移すことができました。いけにえの動物は、その人自身の自由意思でささげられなければなりませんでした。さて、第 4 節が告げていることを見てみましょう。
「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」 こうして、ささげ物は神に受け入れられます。罪人が全焼のいけにえの頭に手を置くと、その人の罪は動物の頭に移されました。したがって、罪人は神の前でささげ物の頭に手を置かなければなりませんでした。それで、神は受け入れられ、罪のために贖いをお与えになったでしょう。
ささげ物をした人は、動物を殺し、祭壇の角に血を塗り、残りを祭壇の前の地面に注ぎました。その人が罪の代価を払い、罪から自由になるためには、神によって定められた律法に従って、いけにえをささげなければなりませんでした。
レビ記 1:5 には、次のように記されています。「その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。」 幕屋の内側、入口のそばには、四隅の角がある全焼のいけにえの祭壇がありました。
罪を移すために全焼のいけにえの頭に手を置いた後、罪人はいけにえの動物を殺さなければなりませんでした。そして、祭司は角にその血を注ぎました。祭壇の角は、罪の裁きを指します。ですから、これらの角に血を塗ることは、罪人に代わって罪を贖うために、動物が血を流したということです。神が祭壇の角の血をご覧になると、罪人の罪を贖われたのです。
罪のためのいけにえは、なぜ血を流さなければならなかったのでしょう。なぜなら、「罪から来る報酬は死」 (ローマ 6:23) だからであり、肉のいのちは血の中にあるからです。したがって、へブル人への手紙には、次のように記されています。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」 (へブル 9:22)。このように、罪のためのいけにえの血を流すことは、罪から来る報酬は死であるという神の律法を成就しました。
すべての権利により、ささげられた血は罪人から来たはずでしたが、罪のためのいけにえはその人の代わりに贖いのために血を流しました。それから、祭司は罪から来る報酬が支払われたことを示すために、祭壇の角に血を塗りました。
新約聖書にある黙示録 20:11-15 を読むと、角とは「さばきの書」を意味していることがわかります。したがって、角に血を塗ることは、「さばきの書」に血を塗ることです。罪の裁きは、按手と罪のためのいけにえの血によって成就されたことが証拠となります。
罪は二つの場所に記録されている
神の前で人類の罪はすべて、二つの場所に記録されています。一つは心の板であり、もう一つは神の前に開かれた「さばきの書」です。
エレミヤ書 17:1 には、次のように記されています。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」
レビ記 17:11 には、「肉のいのちは血の中にあるからである」 とあります。血は肉のいのちであり、私たちの罪はこの血でのみ支払われるのです。したがって、祭壇の角に血が塗られました。律法によれば、すべてのものは血によってきよめられ、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはありません (へブル 9:22)。
「また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である」 (レビ記 1:6-9)。
それから祭司は、全焼のいけにえを部分に切り分け、祭壇の火の上にそれを置きました。この儀式は、人々が神の前で罪を犯したとき、彼らはそのように死ななければならず、血を流して地獄の炎に投げ込まれなければならなかったことを意味します。しかしながら、人々が罪を贖うことができるように、罪のためのいけにえを通して、裁きが行われました。
全焼のいけにえのささげ物は、神の公正な律法の裁きの儀式でした。神は、全人類のための贖いの儀式に、義の律法と愛の律法との両方を取り入れました。
神は義であられるため、罪人を裁き、死を判決しなければなりませんでした。しかし、神はまた、ご自分の民を愛しておられたので、彼らに罪を罪のためのいけにえに移すことをお許しになりました。新約聖書では、主が私たちを愛してくださったので、私たち罪人に対して罪のためのいけにえとなるために、バプテスマを受けられ、十字架につけられました。イエスのバプテスマと十字架での死が、世の罪をすべて消し去りました。
旧約聖書における日ごとの罪の贖い
旧約聖書の傷のない 「罪のためのいけにえ」 とは誰を象徴しているのか。
イエス・キリスト
レビ記 4:27 から読みましょう。「また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行なって、あやまって罪を犯し、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は主へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される」 (レビ記 4:27-31)。
アダムの子孫、イスラエルの民、そして世のすべての人々は、罪で満ちたこの世界に生まれました。したがって、私たちの心は罪で満たされています。人の心の中には、あらゆる種類の罪があります。悪い考え、不品行、姦淫、殺人、盗み、貪欲、愚かさです。
罪人が一日の罪を贖いたかったとき、その人は聖なる幕屋に傷のない動物を連れて来なければなりませんでした。その人は、それから罪を移すために動物の頭に手を置いて、いけにえを殺し、神の前でささげられるために、祭司にその血を渡さなければなりませんでした。祭司は、それから罪人が罪を赦されるように、残りのいけにえをささげます。
神の律法と戒めがなければ、人々は自分が罪を犯したかどうかを知らなかったでしょう。神の戒めと律法を通して自分を見るとき、私たちは自分の罪を認識します。私たちの罪は、私たちの基準ではなく、神の律法と戒めによって裁かれます。
普通のイスラエルの民が罪を犯したのは、彼らがそうしたかったからではなく、心にすべての種類の罪を持って生まれたからです。人が自分の弱さのために犯した罪は、そむきと呼ばれます。罪には、人類のすべてのそむきと咎が含まれています。
すべての人は不完全な存在です。イスラエルの民も不完全だったように、彼らは罪人であって罪を犯しました。私たちのすべてのそむきと咎は、次のように分類されます。私たちの心に悪い考えがあるとき、それは罪と呼ばれ、私たちがそれを行動するとき、それは罪過と呼ばれます。世の罪には両方の種類が含まれます。
旧約聖書では、罪は、手を置くことによって罪のためのいけにえの頭に移されました。その後、罪人は罪がなかったので、罪のために死ぬ必要はありませんでした。ですから、いけにえの制度は、神の公正な裁きと愛の影なのです。
神は、私たちを地から創造なさったので、私たちは初め、ただのちりでした。血を祭壇の角につけて、残りを祭壇の土台に注ぐことは、イスラエル人が罪を贖い、心の板からすべての罪を消したことを意味しました。
祭司は、主へのなだめのかおりとして、脂肪を祭壇の上で焼いて煙にします (レビ記 4:31)。聖書にある「脂肪」とは、聖霊を意味します。したがって、私たちの罪を贖うために、私たちは神がお命じになった方法で行わなければなりません。私たちはまた、神がふさわしいとお考えになった方法で、罪の贖いを心の中に留めておかなければなりません。
神はイスラエルの民に、罪のためのいけにえは子羊、やぎ、または子牛でなければならないとおっしゃいました。旧約聖書での罪のためのいけにえが選ばれたのです。子牛は、きよい動物です。罪のためのいけにえが傷のないものでなければならない理由は、聖霊に宿られたイエス・キリストが、全人類に対する罪のためのいけにえになるように啓示されていたからです。
旧約聖書の人々は、傷のない罪のためのいけにえの頭に、手を置くことによって、罪を移しました。祭司は、自分の罪を贖うために、いけにえをささげました。これがイスラエルの民が罪を贖った方法でした。
贖いの日の儀式
イスラエルの民はなぜ贖いの日にいけにえをささげる必要があったのか。
彼らは死ぬまで罪を犯し続けたから。毎日、罪のためのいけにえは、神の前で彼らを聖別することができなかった。
しかしながら、イスラエル人が罪を犯すたびにいけにえをささげなければならなかったように、罪を贖うために必要だったすべてのいけにえを供給することは、不可能でした。ですから、彼らは徐々に怠慢になりました。毎日自分たちの罪を贖うことは、終わりのない務めのように見え、彼らはこの儀式を完全に廃止することができるのではないかと感じるようになりました。
どれほど懸命に努力しても、すべての罪のために十分ないけにえをささげることは決してできません。したがって、私たちの罪に対する真の贖いは、神が私たちのために備えてくださった救済の律法への確信を通して与えられなければなりません。
私たちの弱さのため、神の律法によって生きようとどれだけ頑張ろうとしても、私たちがどれだけ不完全で弱いかをより意識するようになります。したがって、神は、イスラエルの民に年ごとの罪を一度で贖う方法をお与えになりました (レビ記 16:17-22)。
「以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである」 (レビ記 16:29-31)。
このように、イスラエルの民は年に一度、大祭司がその年に人々が犯したすべての罪のために、第七の月の十日に贖いのいけにえをささげたとき、心の平和を持ちました。彼らの罪が洗い流されたので、その日、彼らの心は平和でした。
第七の月の十日に、大祭司アロンは、全イスラエルの代表として、贖いのいけにえをささげなければなりませんでした。この当時、他の祭司たちは聖なる幕屋に入ることができませんでした。まず第一に、アロンは自分と自分の家族も罪を犯したので、イスラエルの残りの民のためにいけにえをささげる前に、自分と自分の家族のために贖いのいけにえをささげなければなりませんでした。
「二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである」 (レビ記 16:7-10)。
アロンが自分と自分の家族のために、贖いの儀式を行なった後、アロンは「二頭のやぎのためにくじを引きました。」 一つは主のため、もう一つは、「アザゼル」 のためのやぎでした。
まず、二頭のやぎのうち、一頭が主にささげられました。ここで、人々が一年に犯した罪を移すために人々に代わって、大祭司がやぎの頭に両手を置きました。血は、至聖所にある「贖いのふた」につけられ、そして七たび振りかけました。イスラエルの民は、過去一年の罪をすべて赦されました。イスラエルの民が自分の罪のために死ぬ代わりに、大祭司アロンは罪のためのいけにえの頭に罪を移し、彼らの代わりに裁きを下させました。それからアロンは、神の前で他の生きているやぎをいけにえにしました。それが、人々のために行われた「いけにえ」でした。
人々のために
すべての人々の前で、アロンは二つ目のやぎに両手を置いて、神の前で告白しました。「主よ、イスラエルの民は殺人、姦淫、盗み、貪欲、欺きを犯しました......そして、彼らは偶像の前で拝みました。彼らは、安息日を聖なるものとせず、あなたの御名をみだりに唱え、あなたの律法と戒めのすべての条項を破りました。」 それから彼は両手をやぎから離しました。これにより、人々の年ごとの罪はすべて罪のためのいけにえに移されました。
レビ記 16:21 を読みましょう。「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。」 アザゼルは荒野をさまよい、イスラエルの民の罪を頭に負って死んだことでしょう。ヘブライ語のやぎ 「アザゼル」 とは、「消え去ること」を意味します。それは、罪のためのいけにえが、イスラエルのすべての民の身代わりに、主の前に追い出されたことを意味します。
したがって、イスラエルの罪は、アロンの手を置くことを通して、アザゼルに移されました。このようにして、イスラエル人は罪を赦されました。彼らは、大祭司がやぎに両手を置くのを見て、そして荒野に放たれたのを見たとき、贖いの儀式を信じていたイスラエルのすべての民は、罪の贖いを確信していました。旧約聖書のすべての儀式は、新約聖書の「新しく生まれる福音」の影でした。
旧約聖書では、按手といけにえの血は、罪からの救済の福音でした。新約聖書でも基本的に同じままでした。
新約聖書における贖いの福音
新約聖書では、人々のすべての罪はどのように贖われたのでしょう。
マタイの福音書 1:21-25 には、次のように記されています。「『マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』 (訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
私たちの主イエスは、全人類を罪からお救いくださるために、インマヌエルの名でこの世に来臨されました。したがって、彼の名はイエスとつけられました。イエスは、世のすべての罪を取り除くために来られました。彼は、人類の救い主となられるために、人間の肉において来られました。イエスは私たちの救済を成就なさり、私たちを永遠に罪から解放なさいました。
新しく生まれる福音
そして、イエスはどのようにして私たちをすべての罪から解放なさったのでしょう。イエスは、バプテスマを通して私たちを解放なさいました。マタイの福音書 3:13-17 を見てみましょう。
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」 (マタイ 3:13-17)。
新約聖書では、イエスが 30 歳になられたとき、ヨルダンにいるバプテスマのヨハネのところに来られました。イエスは彼からバプテスマを受け、すべての罪人の罪を取り除かれました。そうなさることによって、イエスは神の義を成就なさったのです。
イエスがヨルダンでバプテスマを受けた理由
福音のうちには何が啓示されているのか。
神の義
では、天の大祭司が人類の最後の大祭司と出会った場面を見てみましょう。ここで、世のすべての罪の贖いを引き受けたバプテスマを通して神の義がわかります。
イエスにバプテスマを授けた人であるバプテスマのヨハネは、女から生まれた者の中で最も優れた人でした。イエスは、マタイの福音書 11:11 で、次のようにあかしなさいました。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」 贖いの日に、大祭司アロンが罪のためのいけにえの頭に両手を置いたとき、人々のすべての罪が贖われたように、新約聖書では、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、世の罪がすべて贖われました。
新しく生まれる福音は、私たちの過去、現在、未来のすべての罪を完全に贖う福音です。したがって、イエスのバプテスマによる贖いの福音は、神が世のすべての人々をお救いになった神の義の成就のために定められた福音だったのです。イエスは、世の罪を贖うために最もふさわしい方法で、バプテスマを受けました。
「すべての正しいこと」を実行するというのは、どういう意味でしょう。それは神が世の罪を最もふさわしい方法で洗い流されたことを意味します。イエスは、人類の罪をすべて洗い流すために、バプテスマを受けました。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」 (ローマ 1:17)。
神の義は、バプテスマのヨハネによるバプテスマと十字架での死を通して、世のすべての罪を洗い流すために、自分の息子イエスをこの世に遣わすという神のご決定に示されました。
新約聖書では、神の義はイエスのバプテスマと血を通して表現されました。イエスが約 2000 年前にヨルダンで人類の罪をすべて取り除いたので、私たちは義人になりました。私たちが心の中で神の救いを受け入れるとき、神の義はほんとうに成就されるのです。
「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」 (マタイ 3:15-17)。
この聖句は、神ご自身が御子のバプテスマが救済のすべての義を成就なさったという事実をあかしなさったことを啓示しています。神が、「バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたイエスは、今はほんとうにわたしの子である」と私たちに教えておられます。神は、御子が全人類の贖いのためにバプテスマを受けたとあかしなさいました。御子イエスの聖なるみわざが無駄にならないように、神はそのようになさったのです。
イエスは神の御子であり、世の罪人の救い主でもあります。「わたしはこれを喜ぶ」 と、神はおっしゃいました。イエスがバプテスマを通して父のみこころに従い、人類の罪をすべて取り除かれたのは、真理です。
バプテスマという言葉は、「洗われること、渡されること、葬られること」を意味します。イエスがバプテスマを受けたとき、私たちの罪はすべてイエスに渡されたので、私たちがしなければならないことは、世のすべての罪から救われるために、福音を信じることです。
旧約聖書の救済のすべての預言の成就は、新約聖書のイエスのバプテスマによって成し遂げられました。したがって、旧約聖書の預言について、最終的に新約聖書の対応するものを見つけることができます。イスラエルの民が、旧約聖書で年に一度罪を贖っていたように、新約聖書で人々の罪はイエスに移され、永遠に贖われました。
レビ記 16:29 は、マタイの福音書 3:15 の対型です。イエスは、世の罪をすべて負うためにバプテスマを受けました。イエスのバプテスマのおかげで、神の永遠の罪の赦しを信じる者はみな救われます。彼らの罪はすべて心の板から消されました。
イエスのバプテスマと十字架での死の真理を心で認めず、信じていないなら、みなさんがどれほど立派な人生を送っていても、決して罪をきよめることはできません。イエスのバプテスマを通してのみ、神のみことばは成就され、私たちの罪は消されたのです。真の救済は、すべての罪の贖いを通して、言い換えれば、イエスのバプテスマを通して成し遂げられるのです。
これを念頭に置いて、みなさんは何をなさいますか。この救済をみなさんの心に受け入れますか。それとも、受け入れませんか。これは人の言葉ではなく、神ご自身のみことばです。イエスは、バプテスマを通してみなさんの罪をすべて取り除かれたので、十字架で死なれました。イエスの磔刑は、イエスのバプテスマの結果であることに同意なさいませんか。
ローマ人への手紙 8:4 には、次のようにあります。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
肉の弱さのために、私たちは弱い存在として神の律法と戒めを守ることができないので、イエスは肉の罪をすべてご自身に負われて取り除かれたのです。これがイエスのバプテスマの真理です。イエスのバプテスマは、十字架での死をあらかじめ定められました。これは、神の原福音の知恵です。
十字架でのイエスの死だけを信じていたなら、今引き返して、イエスのバプテスマによる救済の福音を心の中に受け入れてください。それから、そうしてはじめて、みなさんはほんとうに神の子どもになることができるのです。
原福音
原福音とは何か。
水と御霊の福音
原福音とは、罪の贖いの福音です。これは、神が私たちに啓示なさったイエスのバプテスマ、死、よみがえりの福音です。イエス・キリストは、ヨルダンでバプテスマを受けることによって、一度で罪を洗い流し、これを通して、この真理を信じるすべての者に、救済をお与えになりました。私たちの信仰のため、未来の罪もすべて洗い流されています。
今、イエスのバプテスマと十字架での血を信じる者は誰でも、世のすべての罪から永遠に救われます。信じますか。みなさんの答えが、「はい、信じます」であるなら、みなさんはほんとうに義人になります。
イエスがバプテスマを受けた後に起こった出来事を簡単に要約しましょう。ヨハネの福音書 1:29 には、次のように記されています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
バプテスマのヨハネは、イエスが世の罪を取り除いた神の小羊であるとあかししました。バプテスマのヨハネは、ヨルダンでイエスにバプテスマを授けたとき、世の罪をすべてイエスに移しました。さらに、バプテスマのヨハネ自身がイエスにバプテスマを授けたので、ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 とあかしすることができました。イエスはバプテスマを受け、世の罪を取り除かれました。そして、これが新しく生まれる福音です。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨハネ 1:29)。イエスは、バプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれました。
誕生から 10 歳の誕生日までに犯した罪は、世の罪に含まれています。これらの罪がイエスに移されたと信じますか。 ――はい、信じます。―― 11歳から20歳までのそむきについては、どうでしょう。それらの罪もイエスに移されたと信じますか。 ――はい、信じます。――
みなさんが将来犯す罪は、世の罪の中にあるでしょうか。――そうです。それらも含まれています。―― では、それらはイエスに移されたでしょうか。――はい、移されました。―― みなさんの罪は、すべてイエスに移されたとほんとうに信じていますか。――はい、信じています。―― 世のすべての罪がイエスのバプテスマを通して、イエスに移されたと信じていますか。 ――はい、信じています。――
みなさんは、ほんとうに世の罪から救われたいですか。もしそうなら、イエスのバプテスマと十字架での血の福音を信じてください。信じると、みなさんは救われます。これを信じますか。これが、新しく生まれる真の救済です。イエスのバプテスマと血は、新しく生まれる原福音です。それは、世のすべての罪人にとって神からの祝福です。
イエスのバプテスマと十字架での血を通して新しく生まれる救済を信じるために、イエスの愛を仰ぐことは、真の信仰を持ち、ほんとうに新しく生まれることです。新しく生まれるしるしは、イエスの水と血です。みなさんは、聖書に記された真理のみことばを受け入れることだけです。
宗教と信仰
新しく生まれた者の心には何のあかしがあるのか。
イエスがバプテスマと血ですべての罪を消されたこと
宗教の意味は、自分の考えに従ってイエスを信じ、神の純粋なみことばを拒否することです。しかしながら、罪からの救いは、自分の考えとはかけ離れています。信仰は、自分の考えを否定して、旧約聖書と新約聖書のすべてのみことばを信じることです。聖書に書かれているとおりに、みことばを取り、水と血、イエスのバプテスマと十字架での死による救済を受け入れることです。人は、原福音の知恵を心に抱くことによって救われるのです。
イエスのバプテスマがなければ、私たちの罪を移すことはありません。そして血を流さなければ、罪の赦しはありません。私たちの罪はすべて、イエスが十字架につけられて血を流される前にイエスに移されたのです。イエスのバプテスマと十字架での血を信じるとき、福音を通して新しく生まれることにおいて、私たちは世のすべての罪から解放されます。
真の信仰とは、イエス・キリストがバプテスマを受けたときに、私たちの罪をすべて完全にきよめられたと信じることです。それは、イエスが十字架で私たちのすべての罪のために、裁かれたと信じることです。神の公正な救いを信じなければなりません。イエスのバプテスマと十字架を通して、私たちを救ってくださったのは、神が私たち全員を深く愛しておられたからです。この福音を信じるとき、私たちはすべての罪から救われ、裁きから解放され、神の前で義人となります。
「主よ、私は信じています。私は救いに値しませんが、それでもイエスのバプテスマと磔刑と復活の福音を信じています。」 新しく生まれる福音の祝福を主に感謝するしかありません。新しく生まれる原福音を信じることは、真の信仰です。
新しく生まれる真理は、これです。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」 (ローマ 10:17)。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」 (ヨハネ 8:32)。私たちは、真理を正確に知らなければならず、それをあかしする水と血と御霊を信じなければなりません (Ⅰヨハネ 5:5-8)。
「真理はあなたがたを自由にします。」 これらは、水と血についてのイエスのみことばです。みなさんは、解放されましたか。私たちは宗教者ですか、それとも忠実な者ですか。イエスは、水と御霊によって新しく生まれる福音への信仰を持つ者だけを望んでおられます。
イエスのバプテスマとその血の福音を信じるなら、みなさんの心には罪がありません。しかしながら、イエスを単に宗教の一つとして信じているなら、その人はイエスによる救済に完全な信仰を持っていないので、まだ罪の中で生きています。宗教の人々は、悔い改めの祈りをするたびに、罪の贖いを得ようとします。
こうして、そのような人々は決して罪から完全に救われることがありません。たとえ彼らが一生を通して悔い改めたとしても、イエスのバプテスマと十字架での死による罪の完全な赦しに取って代わることは、決してできません。世の罪、未来の罪さえ、すべて洗い流したイエスの福音を信じて救われましょう。
もう一度申し上げます。毎日悔い改めることは、新しく生まれる福音に決して代わることはできません。すべてのキリスト教徒は今、新しく生まれる福音を通して罪の赦しを信じるべきです。
私たちは、罪を完全に悔い改めることはできません。偽りの悔い改めは、人を神に導くことができず、魂を慰めることしかできません。偽りの悔い改めとは、神のみこころを決して考慮しない一方的な告白です。これは、神が私たちに望んでおられることではありません。
真の悔い改めとは何でしょう。神に立ち返ることです。イエスの救済のみことばに立ち返り、そのみことばが記されたとおりに信じることです。私たちを救う福音とは、イエスのバプテスマ、イエスの磔刑、復活の福音です。この福音を完全に信じると、私たちは救われ、永遠のいのちを得ます。
これは、新しく生まれる福音の知恵です。私たちを新しく生まれるようにするのは、イエスのバプテスマと血と、神の御国の福音を信じることです。
イエスは、私たちが水と御霊によって新しく生まれるべきだとおっしゃったとき、イエスのバプテスマと十字架の血を信じることによって、新しく生まれるべきであるという意味だったのです。そうすれば、私たちは神の御国に入り、住むことができます。私たちは、神のみことばを信じなければなりません。罪の赦しをあかしする二つのこと、イエスのバプテスマと十字架での血とは、私たちが新しく生まれることを可能にする、みことばです。
みなさんは今、新しく生まれる福音と罪の赦しの福音を信じておられますか。イエスのバプテスマと十字架での血への信仰が、私たちを世のすべての罪から救います。私たちは、この信仰によって新しく生まれることができます。聖書は、イエスが世にいるすべての罪人の罪を洗い流されたと教えているので、信じて新しく生まれませんか。
イエスのバプテスマと磔刑という、私たちが新しく生まれるあかしとなる二つのことを信じる者は、ほんとうに新しく生まれます。そして、神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています(Ⅰヨハネ 5:3-10)。みなさんがイエスを信じるとき、水と血と御霊の福音を捨てるべきではありません。
将軍ナアマンが、らい病から完全にきよめられるために、ヨルダン川に七たび洗ったように(Ⅱ列王記 第 5 章)、イエスがヨルダン川で世の罪をただ一度で洗い流し、その結果として永遠の救済をくださったと信じるべきです。
イエスは私たちを愛しておられたので、罪の赦しの福音を信じることによって、世のすべての罪から救われ、永遠のいのちを持つことができます。新しく生まれる福音を信じて、神の救済を手に入れましょう。