Search

佈道

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 10-1] 第 10 章のはじめに

自分自身の義を追い求めていて水と聖霊の福音を信じなかった人がいるでしょうか? 聖書は、神の義を信じないで自分自身の義を追い求める人は神に背く人だとしています。この人々はどうするでしょう?
神はすべての人類をお救いになる神の義であるご計画を立てられ、イエスをイスラエルによってお遣わしになりましたか? もちろん、そうなさいました! イエスは、すべての罪人をその罪から救うことを強くお望みになったので、この地上においでになって十字架につけられ、死からよみがえらせられたのです。つまり、イエスは自分を信じる者すべてをお救いになるためにおいでになったのです。
父なる神は、イスラエル人を罪から救うためにイエス・キリストを遣わされましたが、イスラエル人はイエス、すなわち神の義を受けませんでした。その代わり、自分自身の義を追い求めることに夢中になっていました。そのうえ、彼らは、イエスを自分たちの救世主、魂の救い手として受け入れることができませんでした。
パウロは、神が遣わされた人々がいて、この人々によってすばらしい福音が聞かれるのだと言いました。神の遣わされたしもべから聞く福音は、神の義を明かす福音です。機会を逃してはなりません。神の義を知る神のしもべの説く水と聖霊の福音を聞くことによってのみ、人は神がその義によって罪の赦しをお与えになったのだと信じることができるのです。
水と聖霊の福音は世界最高の最もすばらしい知らせです。この良い知らせが罪人を罪から救ったのです。神による水と聖霊の福音は魂の真の食物なので、この知らせは人々の魂を満たします。
神のお与えになった贖いの福音にはすべての人の罪を赦す力があります。水と聖霊の福音には、罪の赦しによって心に安らぎを与える恵みの力があります。
イスラエル人は神の律法を重んじて、ひたすら自分自身の義を追い求めました。律法に従っているのだから、自分自身の義が十分にあると考えたため、イエスを救い主として受け入れませんでした。彼らはあまりに律法に従う行ないを追い求めることに熱心だったために、神の義さえ許容できなさったのです。そうして今でも主を救い主として受け入れることができず、自分自身の義を追い求めようとしています。
聖書は、イスラエル人は自分自身の義を打ち立てるために神の義に背いたといっていませんか? 律法にとらわれているイスラエル人のことを話したとき、パウロはその人たちの信仰を責めて言いました。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ 10:4)
自分自身の義を追い求める律法主義的な信仰は、神の前で正しい信仰ではありません。イスラエル人は、旧約聖書の律法に従うことにだけ専念していて、神の義であるイエスが自分たちの救い主であることに気づくことができず、かえって敵対したのです。神のみことばを与えられた選ばれた民であることを誇ることに熱心のあまり、イスラエル人は神の義に背いた民となってしまいました。
 
 

自分自身の義を打ち立てることにとらわれているか?

 
イスラエル人の律法に対する熱心さの問題点は、情熱が自分自身の義を打ち立てることに向けられていたことにあります。自分自身の義のために、主がお立てになった神の義は完全に無視されました。
イスラエル人は律法主義的信仰の結果、神に背くことになりました。そうして、いまだにこれがいかに取り返しようもないひどい結果を招いてしまったか気づかずにいるのです。律法の仕事の追求は、彼らにどんな益をもたらしたでしょう? 神のみことばに従おうとする情熱は、ただ神の義を知り信じることの妨げとなってしまっただけでした。ここでもう一度確認しますが、律法を正しく理解していない人々の「熱意」は、結局は神の義に背くことにつながるだけなのです。
聖書ははっきりと、信じる者にはイエスが義のための律法の終わりになったと言っているのです。主はイスラエル人と異邦人の罪を洗い流すために、バプテスマによって世界の罪をすべてその身に被られ、十字架上で血を流して神の義を全うされたのです。ですから、水と聖霊の福音には律法ではなく神の義が示され、すべて罪人にとって砂漠のオアシスとなったのです。罪を消し去り真の赦しをお与えくださったのは、水と聖霊の福音なのです。水と聖霊の福音によってでなければ、どうして世界のすべての罪人は心に真の赦しを得ることができたでしょう?
ローマ人への手紙で、パウロは神の義を信じることなしに自分自身の義を打ち立てることは重大な罪であるとしています。どのような福音が私たち異邦人によってすばらしい福音であったでしょう? それは、主イエスがバプテスマによって世界の罪をすべて被られたとしている福音です。
この福音は、マタイの福音書第 3 章 13-17 節に記録されてイエスが世界の罪を被られたことをあかししているのです。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところにおいでになった。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」 このようにしてイエスはヨハネから受けたバプテスマによって世界の罪をすべてその身に被られたのす。
パウロは、「だれが天に上るだろうか」(それは、キリストを引き降ろすことです) と尋ねて、神の義を信じない律法主義者を非難しました。別の言い方をすれば、この質問は、「律法を信じるだけで誰が自分の罪から救われるだろうか」と尋ねているのです。パウロの質問の目的は、律法に従うことでは決して罪からの救済は得られないという点を強調するところにありました。つまり、罪を除くために人間にできることは何もない、と言っているのです。
パウロは、手紙の中でしばしば神の義について語りました。真の信仰について、パウロの答えはローマ人への手紙第10章 10 節にありますが、そこには「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。パウロの説いた福音は、主のバプテスマと十字架上の血とを信じることによって神の義を得ることができると告げる、神の義の啓示された福音でした。主は水と聖霊の福音をくださって、この福音を信じる者に心の平安をお与えになるのです。
 
 

真の信仰は、神のみことばを聞くことによって得られる

 
パウロは、真の信仰についてどう言っているでしょう? ローマ人への手紙第 10 章 17 節に「そのように信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とあります。神はしもべを通してお話しになります。そして、神のしもべがみことばを説くのを聞いたときに真の信仰は始まるのです。
真の信仰についての確信は、みことばを聞くことによって始まりますから、真の信仰の民であるためには、みことばを聞き信じることが必要です。みことばを聞くことによってのみ、信仰をもつことができ、これによってのみ信仰は深まります。神がご自分の義を説くしもべを遣わされたのは、このためです。
神が人類にお与えになった水と聖霊の福音を信じるとき、人は罪の赦しを得、心が安らぎます。罪からの救いは、神の義を信じることによってのみ可能であり、それにより心の安らぎを見出せるのです。
主の義が人間の涙を拭い、すべての悲しみや苦しみから救うと聞いたのではありませんか? もちろん、聞きました! 神がくださった水と聖霊の義を信じるとき、痛みは取りかれます。水と聖霊の福音は世界で最もすばらしい知らせであり、神の義を全うするものです。
神はご自分の義を全うする主をイスラエル人にお送りになりましたが、自分自身の義を追い求めていた彼らは、神に帰ることを拒みました。では、神はどうなさったでしょう? イスラエル人を嫉妬させるために、ご自分の義の成就である福音を異邦人が信じるようにとお与えになったのです。では、神は異邦人に水と聖霊の福音を信じる機会をお与えになったのですか? 実際、異邦人は求めも呼びもせず、イスラエル人ほども神を崇拝してはいなかったのに、神は異邦人に水と聖霊の福音を信じる機会をお与えになったのです。
異邦人が神の義の成就のすばらしい知らせを信じることによって神の子どもとなることができたのは、このためです。聖書に、神の義はイスラエルの外で明かされ栄光を得るであろうと書かれているのもまた、このためです。
いったい何人の人が、神の義を全うした水と聖霊の福音を与えられたことに実際に感謝しているでしょう? 主は、すばらしい水と聖霊の福音によって世界の罪をすべて取り除かれました。それなのに、あまりにも多くのキリスト教徒がこの真理を信じないでいるのです。では、人間の中には神の前に示せるような義が何かあるのでしょうか? いいえ、ありません。では、なぜ信じないのでしょう? それは、神の義を全うした福音が何かを知らないためですか? しかし、福音を知るのは、簡単です!
私たちもまた、イスラエル人がしたように、自分自身の義を追い求めるような民でしたが、神はすばらしい水と聖霊の福音をお与えになってすべての罪からお救いになりました。神の義を全うした水と聖霊の福音を信じるようにお与えくださった神に感謝します。
 
 
「だれが天に上るのか」と言ってはいけない 
 
第 6 節は、「しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それは、キリストを死者の中から引き上げることです」とあります。 贖いも真の福音への奉仕も、自分たちの仕事ではなく水と聖霊の福音への信仰によって可能になるのです。神の義を全うした真理への信仰がなければ、人は自分自身の義を追い求める律法主義者の罪人でしかなく、神を煩わせるだけだったでしょう 
救済が神の義を信じることによって訪れたように、この義を信じることによってまた主のために生きることができるのです。人生を歩み続けていく力は、水と聖霊の福音への信仰によってこの義への知識が深まるにつれて、神の義への信仰から生まれます。
贖いの必要な者にとって、神の義への信仰以外の真理があるでしょうか? ありません。キリスト教の中心は信仰にあり、神の義がキリスト教の信仰のすべてなのだと言っても過言ではありません。義とされた人々はこの義への信仰によって生き、福音を説くことができます。では、神の義を信じる人々もまた困難に出会いますか? 出会います。しかし、神の義を信じ、神が問題をすべて解決してくださると信じ頼ることですべての困難を克服できます。こうした信仰は神の義への信仰から生まれます。
神の義を含まない他の信仰はどうでしょう? それらの信仰はみな、人間の行ないに基づいた誤った信仰なのでしょうか? 実際、そうなのです。神の義を信じないでイエスを信じている人々の信仰は、真の信仰ではありません。
まず神の義を信じることなしに罪を赦されることができるでしょうか? 神の義を信じることなしに神への信仰に生きられるでしょうか? どちらもできません。義である者が主に仕える力は、神の義を信じる者への贈り物として与えらた御霊の力から来ます。この世界で自分の力とこの世界の所有物とだけで生きられますか? これらのもので本当に心の平安を見出せますか?
神の義を信じることによって安らかに福音に仕えることができるのです。水と聖霊の福音に仕える者には信仰と勇気、力、平安があります。神の義を全うする水と聖霊の福音に仕えない独善的な人々には、平安も勇気もありません。義である人の心には平安が必要でしょうか? 必要です。水と聖霊の福音を広めるためだけではなく、人生を最大限に生きるためにも平安が必要なのです。
みなさんの心には平安がありますか? 自分のためだけに生きるのなら、心の中に平安が深まるべき理由はありません。肉で生きるのに肉の必要を満たすだけでいいときに、どうして平安や信仰が必要でしょう? しかし、神に仕えるのなら、心の中の平安も深まらなければなりません。神の義を全うした福音に仕えるのなら、信仰と平安もまた深まることが必要であり、そうなるのです。
神の義の福音を信じる人々には、世界中に平安を広める責任があります。これは単なる個人的な問題ではなく、イエス・キリストによって与えられた平安をすべての人に広める必要に関わることです。神の義の福音は世界中に広めなければなりません。神の平安は、私たち同様他の人たちにも必要です。この平安を他の人々に広めるには、神からの要請がさらに必要です。神の義を広めるために生きるとき、心の平安はより深まり、人生の明確で尊い目標が見いだされるのです。
神がお与えくださった真の平安を学びたいのなら、神の義を全うした福音を知り信じなさい。神が用意してくださった心の平安を自分で経験してください。
みなさんはこれまで主によく仕えてきましたが、他の人々がその平安を共にできるように、神の前に召される時までよく仕え続けてください。神の義への信仰によって平安に到達したとき、後に続いて贖いへの道を歩んでいる信者もまた、他の人々の平安のために生きることができるのです。
信仰を始めて間もない人々は、信仰においては新参者で、理解力が限られています。しかし、後に続く人々はやがて、前を行く人の信仰の後をたどりながら、贖われた人々がいかに平安の中で生きているかを理解するようになります。
みなさんは、後に続いている人々の信仰生活を導くのに困難がありますか? そうした教えの生活は、一夜にしては到達できません。実際、平安のうちに生きるのに必要な信仰に導くことができるようになるには、とても長い時が必要かもしれません。しかし、神の義を信じることによって贖われた人々はやがて、その前の信者が神に仕えて神から心の平安を得たように、前を行く人々から学ぶことによって、信仰の人として平安のうちに生きることを学ぶでしょう。
みなさんも私も、神の義への信仰によって生きましょう。義である者はみことばへの信仰によって生きるのです。現在と未来の生活は信仰によって定められます。聖書は、「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」と尋ねています。神の義を信じている者は、福音を世界に宣べ伝えなければならないのです。福音を広める際に出遭う困難のすべては信仰によって乗り越えることができます。
信仰によって生きない義である人の生活は、心の平安を失った人々の生活です。神の義を信じることで人々は心の平安を得られるようになります。すべてにおいて神のみことばと義とを信じるとき、平安が与えられます。
神の義を信じることによって平安と信仰の中にしっかり立ちましょう。主が神の義と平安の赦しによって生きるようにしてくださったのですから、神をもたたえましょう。みなさんが、平安をお与えくださった神への信仰をもち福音を説いて生きられますように。
ローマ人への手紙から神の義がどんなに完全であるかを学ぶことができましたか? ローマ人への手紙は神の義が何であるかを詳細に説明しています。ここでいう神の義とは、人間の考えた義ではなく、神だけのものなのです。
神の義は完全で、人類を罪のすべてからお救いになって余りあるのです。イエスはヨハネから受けたバプテスマによって世界の罪をすべてその身に被られて、人類の罪を完全に除いてくださいました。イエス・キリストを信じることができるのは、神の義は完全であるという事実のためです。この神の義がすべての罪から完全に救ってくださったのですから、神の義を全うした福音を信じることが絶対に必要です。
神の義を信じることによって、これを崇め、感謝し、たたえて生きられるのです。神の義を信じることによってのみ、人は神の聖性の中に住むことができます。この義を信じることによって、心が清められ、神をたたえることができ、神の栄光のために生きられるのです。
神の義が完全でなければ、罪から救われることはできなかったでしょう。原罪はイエスを信じることによって赦されたでしょうが、以後毎日犯した罪は毎日の悔い改めの祈りを必要としたでしょう 
しかし、水と聖霊の福音に明かされた神の義を信じることによって、神の義が絶対であることを知ることができました。神の義が信じるに値するものであり永遠に完全であるという事実を私がこの上なく感謝するようになったのは、このためです。人間が生涯にわたって犯すであろう罪のすべてから神の義が救ってくださったので、神の義を信じることで人は救われることができるのです。
神の義を人間の汚らわしさと比較しない人々は、神の義がどんなに大きいか知らないために、これを信じることができません。最も完全な人であっても、神の義と比べれば何でもなく、このために神の義を信じ、そうして神の聖性の中に宿ることを許されているのです。つまり、神の義を信じその中に住むことで神をたたえる者になったのです。
心の中で神の義を正しく理解しましょう。つまり、神の義は完全に罪から救ってくださったのだということを知っていなければなりません。人間は、生涯を通じて無数の罪を犯すのではありませんか? では、神はそのような無数の罪から救う義のみわざをどのように実行なさったのでしょう 神は人間の肉に似せた形でこの地上においでになり、ヨハネからバプテスマを受けられて罪をすべて被られ、十字架上で死んで死からよみがえられることで、つまり、神の義をすべて全うすることによってこれを実行なさいました。
若者も老人も、金持ちも貧しい者も、強い者も弱い者も罪を犯します。では、誰が人類を世界の罪のすべてからお救いくださったのでしょう? それは、イエス・キリストが神の義を全うされることによってすべての罪からお救いくださったのです。神の義そのものによって罪を完全に被りすっかり取り除くために、神はイエスを遣わされました。
これ以外には、すべての罪から救った神の義であるといえるものは何もありません。神の義は一度で人類をすべての罪からお救いになりました。神の義は完璧ではありませんか? 神がお与えくださった、ただこの人生だけではなく永遠に続くこの愛を神の義と呼びます。
イエスにバプテスマを施した翌日、バプテスマのヨハネはイエスを見て、言いました。「見よ、 世の罪を取り除く神の子羊。」 ヨハネがはじめ、イエスにバプテスマを施すことを拒んだとき、イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15 ) とおっしゃいました。この部分は、どういう意味でしょう? イエスのバプテスマと十字架上の死とが神の義そのものであるという真理にほかなりません。神の義は、人間が弱く、神の栄光に値しなくとも、お見捨てになりません。
人類を救い、神の義のうちに生きることをお赦しくださった豊かな愛のゆえに、ただ神をほめたたえばかりです。神の義を信じる人々は、残りの生涯を神の義のために生きるようになります。人間やこの世界を信じるよりは、神を信頼する方がはるかにましです。すばらしい人生とは、罪からの完全な救済を告げるこの福音を宣べ広める人生です。神の義を知り信じることが絶対に必要なのは、このためです。
罪の赦しを得た人々は、あかしします。「イエスは、ヨハネからバプテスマを受けることで私の罪をすべて取り除いてくださいました! そして、私に代わって世のすべての罪のために裁かれたのです!」神の義を信じるとき、こうした恵みにただ感謝するばかりです。
弱さのためにつまずき、肉のゆえに罪に堕し、あるいは、罪のために落胆し、困惑したとき、人間を完全になさった神の義の方を向きなさい。神の義はすべての人を義になさったのではありませんか? イエスはバプテスマによって罪をすべて除いてくださったのではありませんか? イエスの贖いは、未来に犯す罪も含めてすべての罪から人類を救ってくださったのではありませんか? 
イエス・キリストが完全に救ってくださったのだと信じるときはじめて、神の義を信じることになるのです。神の義を信じてはじめて、人は義とされます。神の義を信じる人々は神の義の道具となることができます。神の義は完璧です。神の義について知らずに自分自身の義を追い求める人々は、神に呪われるべく自身の滅びの上にいる愚か者に過ぎません。
 
 
パウロの言葉に注意なさい。「彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」
 
神の義を知らないで、どうして信仰の生活をし、贖われ、神の民となることができるでしょう? 律法に従う者は、自分の罪が滅びに導くものだと知り、神の義が完全にお救いくださったことを感謝するべきです。イエスが救い主となり、私たちが神を信じ、ほめたたえるのは、神の義を知り信じているからです。神の義を信じることによってのみ、人は神の子どもとなり、罪がなくなり、永遠のいのちを受けるのです。イエスを信じると告白して信仰的な生活をしながら神の義を知らずにいる人々は、呪われます。
パウロはローマ人への手紙でイスラエル人は神の義を知らないで自分自身の義を打ちたてようとして、そうすることで神の義に逆らったのだとあかししています。イスラエル人も神の義を信じなければなりません。
神が人類を世の罪から救ってくださったことを信じましょう。人類の罪はすべて世の罪に含まれています。それがみな、神の義が全うされるのと同時に消えました。この真理を信じていますか?
 
 
「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められる」 
 
神の義は律法の終わりです。イエスがバプテスマによって世界の罪をすべてその身に被られて磔刑を受けたことで律法の要求をすべて満たされたからです。
罪の結果は確かに死ですが、しかし、神の義は律法の終わりだと書かれています。なぜでしょうか。それは、人類の罪をすべて負うためにバプテスマを受け、十字架上で死に、死からよみがえらせられるよう、父なる神がただひとりの御子を地上に遣わされて完全に救ってくださったからです。
神の義を心から信じることと律法の義に従うこととは別物です。みなさんは、行ないによって罪の赦しを受けましたか? 自分のよい行ないによって救済を受けましたか? 世界の他の宗教はみな、自分の罪を始末するのはよい行ないによるのだと教えています。例えば、仏教では罪について、現世でよい行ないをすることによって過去世の罪を贖うことができるとしています。これは、筋が通っていますか? 
人はただ一度だけ生まれ、ただ一度死に、その後で裁きが来るのです。人はみなこの世界にただ一度だけ生まれその後で神のもとに戻るのですから、誰ひとり、別の生を生きるために地上に戻ることはできません。人々がこの地上で神の義によって贖われなければいけないのは、このためです。仏教の業の教えはなんというたわごとでしょう?
自分の罪を赦されたと信じることは、神の義を信じることです。神の義を信じることは神の義のみを信じることであり、自分の行ないによるのではありません。では、信仰における神の義はどのように言うでしょう? ローマ人への手紙にあるように、それはこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」 これは、神の義は肉体的な強さによるのではなく、自分の心で信じることによって見いだされるからです。
人は、神の義を信じることによって神の子ども、永遠のいのちを受ける罪のない者となることができるのです。どんなに良い行ないを重ねても、自分で罪を解消することはできないのですから、自分の努力は神の前にさらに罪を重ねることになるのです。神の義を追い求めて自分自身を信じることはやめ、神の義を信じるべきだというのはこのためなのです。「神の義は知らなくとも、イエスを信じるだけで救われるのではないですか? 主の御名を呼ぶ者は救われると書かれているのではありませんか?」と尋ねる人はいるでしょう。しかし、救済はイエスの御名を呼ぶだけではなく、神の義を知り完全に信じることによって訪れるのです。
 
 
神の義を信じる者には恥がない
 
第 11 節は、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」とあります。これはどういう意味でしょう? 神を信じる者は、神の義を信じているために、失望させられることがないのです。「彼に信頼する者」とは、神の義を信じる者を指します。
では、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」という部分はどうなのでしょう? これは、水と聖霊の福音を知り信じる者は、イエスを救い主の神であると信じているので呼び求めるという意味です。神の義によって救済を受けたのですから、この真理を信じることによって救いが与えられたのです。
つまり、この信仰なしには、どんなにイエスの名を呼び求めても無駄で、罪から救われることはないのです。聖書全体はイエスの内にある神の義のことを話しているのですから、イエスの名のみを呼び求めることでは贖いを受けられないのです。
聖書は、その初めから、神の義について語っています。創世記にあるように、神はいのちの木と善悪の知識の木とをエデンの園に植えられ、アダムとイブに知識の木の実を食べてはいけないとおっしゃいました。神は、みことばに忠実であることを要求なさったのです。つまり、神は、永遠のいのちを得るためにいのちの木の実を食べるようにとおっしゃったのです。
みことばは、「義人は信仰によって生きる」とあります。私たちも、最初に神に救われることを信じ、救済を受け、最後に、神の国に着くときまで、生涯神の義への信仰によって生きます。
キリスト教徒の多くは罪からの救済はイエスを信じることによって得られるのだと言うでしょうが、実際は、あまりにも多くの人は神の義を知らないままでいるために罪から救われていないのです。神の義を知らないでイエスを信じている人々は、どうなるのでしょう? そうした人々は一見したところでは、礼拝と祈りによって熱心な信者であるように見えます。しかし、神の義を知らないために、ただの宗教の実践者、罪から救われていない者にとどまるのです。
キリスト教社会とイスラエル人の多くが神の義を知らないままでいて、その結果、神の義に従っていません。イエスは信じても神の義を信じない人々は、この義自体を踏みつけにしているのです。イエスを信じる人々が神の義を知らずにいる限りは、よい行ないをし、高額の献金をするなど神の前で自分なりのよい行ないしてもこの義を受けることはできません。
神の義を信じる人々は、どんな境遇にあってもこれを信じ、神の栄光をたたえ感謝して生きます。神の義を信じる者にとって、自らの欠点が明らかになるほど、その魂の前に神の義はまばゆく輝くのです。みなさんもこのような目覚めを得ますように。
何かしら肉に正しさがあるからといって神の義を受けられますか? もちろん、できません! 私たちの中には神の義をおいて正しいものは何もありません。神はご自分の義によって完全に罪からお救いくださったのですから、この義を信じてたたえます。神の義は罪から完全に救ってくださったのです。
人生において暗い局面にあっても、行ないに基づいた信仰に陥ってはいけません。どんな状況にあっても、いつでも神の義を信じていなさい。神の義は永遠に完全です。この世界の人はみな、神の義を知り、そうして水と聖霊の福音に従うことによって神の義を信じなければなりません。イエスを信じると言いながら律法の義によってのみ生きている人々が大勢いるので、その人たちに神の義を知らせることが必要です。
パウロは、神の福音は神の義を全うすると述べて結びます。神の真の福音を知ることなしには誰ひとり神の義が何であるか説明できません。神の義とは何か話し合いたいと言われると、そうした人は、「イエスは十字架上で死に、死からよみがえり、私を罪から救ってくださった救い主です」と言います。しかし、その人たちは毎日の罪のために悔い改めの祈りを捧げなければならず、完全になるためには徐々に聖化されなければならないと加えます。
神の義を知るには、まず自分自身を知らなければなりません。自分自身と神の義とを知っていれば、神の義を信じるしかないでしょう。なぜなら、自分と比べたとき神の義がいかに高く、大きく、広大であるかに気がつくはずだからです。しかし、神の義を知らなければ、自分自身の義を追い求めることにとらわれるでしょう。自分自身の義にとらわれている人々は、自分なりの義認だけを求めるので、神の義に従いません。
信じることができるようになる前に神の義を知り、それに感謝しなければなりません。神の義を知れば、イエスがバプテスマで世の罪のすべてを身に被り十字架上で死ぬことで取り除かれたということを信じることができます。自分自身のよい行ないによって義とされることができるなら、神の義による救済は必要ないでしょう。しかし、それが不可能であることに気づいたとき、よい行ないによって生きることのできない人類を救ってくださった神の義をよりありがたく思うのです。
みなさんの考えと行ないは、すべてよいものですか? もちろん、違います。神が義によってお救いくださったのは、人間に多くの欠点があるためです。神の義を信じることによって救われたのですから、世界のこれを知らないすべての人々に神の義を宣べ広げたいのです。
自分自身を知らない人は他人の欠点を見つけ、悪口を言います。神の義を信じるなら、その人は誇らかにこの義を告げるべきですが、自分自身の義を誇ってはなりません。一方、神の義を信じない人々は、神の義をけなすという罪を犯します。神はそうした人々をその罪のために裁かれます。
神は御子を地上に遣わされて人々に神の義をお与えになったのです。最後の日が近づいているのですから、誰の律法の義がよりすぐれているか劣っているかで互いに争っていてはいけません。神の義を信じる人々は肉のことに関わらず、ただ神の義を信じることによって神に感謝しているべきです。
義によって完全にお救いくださった神に感謝しましょう。神の義が罪をすべてお赦しくださったのですから、自分自身の義を追い求めて神に背く人々のようになってはいけません。