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শিক্ষা

主題 11: 幕屋

[11-11] 私たちは、罪のために恐れ退いて滅びる者ではない (ヨハネの福音書 13:1-11)

私たちは、罪のために恐れ退いて滅びる者ではない
(ヨハネの福音書 13:1-11)
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
 
 
まだ新たに生まれていない偽教師にとって、聖書のみことばはどれも謎です。そこで、人間の考えで自分なりに神のみことばを解釈しようとします。しかしながら、教えていることについて、自分でも確信をもてずにいるのです。そのために、イエスを信じる人々の間でも自身の救済に確信をもっている人は少ないのです。
なぜそのようなことになるのでしょう? それは、水と御霊の福音をはっきり知っていないのに、イエスを信じると言うためです。そうしたキリスト教徒は、自分はイエスを信じているのだから滅ぼされることはないだろうと考えます。しかし、そうした人々は、聖書の観点からすれば、水と御霊によって生まれなければ滅ぼされることが既定の事実であるということを知りません。
一般に、真理を知らなくとも、イエスを盲目的に信じているために、少なくとも滅ぼされることはないだろうと考えがちなのです。しかしながら、聖書のみことばを正しく理解していないのですから、正しく救われていません。みことばを読んでも、自分が実際は誤り信じているのだということに気づきません。
そこで、聖書のみことばを文字通りに解釈し、自分なりの考えに基づいて教義を作り上げます。すると、そうした人々は、たとえイエスを信じていても罪の赦しを受けることができず、ついには罪のために地獄に行くことになるのです。ですから、聖書は自分なりのやり方で解読するべきものではなく、神がその新たに生まれた聖徒を通して真理のみ言葉によって理解をもたらしてくださるのを待つべきなのです。また、神のみことばはすべて、水と御霊の福音の中で説明されていることも知っておきましょう。
イエスは、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(ヨハネ 3:5) とおっしゃいました。この部分を正しく知り信じる人々は、実際にすべての罪から解放され、天の御国に入ることができます。イエスは、水と御霊の福音を信じて心からすべての罪をきよめられた者だけが天国に入ることができるとおっしゃいました。しかし、主のお与えくださった水と御霊の福音、幕屋の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって表わされた真理を理解することなく信じる人々は、罪のために滅ぼされるのです。
イエスを信じていても罪のために滅ぼされることになったなら、どんなに失望することでしょう。この世界にはイエスを救い主であると信じる人が実に大勢いながら、その多くが、すべての罪から救われていると確信しているかと尋ねられたきに自信をもって答えることができないのは、実に悲しいことです。すべての罪人は、イエスを信じると言うかどうかにかかわらず、罪のために滅ぼされることになると言っても過言ではありません。いったいどれだけの人々が、イエスを信じていながら実際は滅ぼされるでしょう。
マタイの福音書第 7 章は、主を信じる人の多くは、自分たちは御名によって予言し、悪魔を払い、奇跡を行なったとイエスに言うだろうが、それでも見捨てられると告げています。
イエスは、そのような人々に「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け」(マタイ 7:23) と告げるとおっしゃいました。主は、ご自分の名を呼ぶ者がみな天国に入るのではないとおっしゃいました。このように、主は水と御霊の福音を誤解した者たちを非難なさいます。
それでも、主が深く悲しまれることには、イエスを誤解し、誤り信じていることに気づかないでいる人が大勢いるのです。主が実際は誤った信仰を非難なさっているということに気づかずに、滅びに向かっている人があまりに多いのです。
今日の名前だけのキリスト教徒のために聖徒が心を痛めているのは、このためなのです。そうした人々はイエスをぼんやりと信じ、聖書に記されている水と御霊の真の福音がどのようなものであるかを把握するに至りません。そうした人々全員に水と御霊の福音を宣べ広めることが緊急を要する重要な任務であるのは、このためです。
水と御霊の福音の真理を誰もが知り信じることが肝要です。では、どうしたら水と御霊の福音の真理を知ることができるのでしょう。もちろん、神のみことばに含まれている水と御霊の福音についての教えを聞くことによって、です。人は、真理の福音を知り信じ、神にその聖徒と呼ばれなければなりません。そうすることによって、信仰によって神の御国に入り、信仰によって罪の赦しを受け、信仰によって神の子供になることができるのです。
キリスト教が信仰によって受ける救済を重視するのは、このためです。世の宗教は、自らの行ないを尊しとします。しかし、本物の真理は、救済は人間の行ないではなく神の賜物なのだから誇ってはならないとしています (エペソ 2:8-9)。真のキリスト教は、ただ水と御霊の福音を知り、信じることによって罪から救われて天国に入る道を示します。
今日読むヨハネの福音書第13章の部分もまた、水と御霊の福音に関するものです。十字架上で死ぬべき時が訪れたことを知られたイエスは、弟子たちの足を洗おうとなさいました。これは、過越の祭りの直前でした。過越の祭りはユダヤ人にとって重要なものでした。イスラエル人がエジプトを逃れ、隷属状態から解放された日として、この日はユダヤ人の重要な祭日になっています。そこで、イスラエル人は旧約の過越の祭りを思い起こし、共に過越の儀式を行なって祝うのです。
食事の間に、イエスは弟子たちを集め、彼らにきわめて重要な意味のあることを告げようとなさいました。ご自分が十字架上で死ぬ前に弟子たちの足をお洗いになることによって、イエスは彼らの犯す罪を洗い流した真理を教えようとなさいました。過越の祭りの訪れによってイエスは、ご自分が過越の子羊として捕えられ、十字架につけられ、死に、死からよみがえることをお知りになりました。そこでイエスは、ご自分がいけにえの子羊として彼らが犯す罪までも洗い流したことを弟子たちにお教えになろうとなさいました。別の言い方をすれば、十字架上で死なれる前にきわめて重要なことをお教えになるために、弟子たちの足を洗われたのです。
 
 

主がペテロの足を洗われた理由

 
弟子たちの足を洗おうとして、ペテロがそれを拒んだときに、イエスが何とおっしゃったかを見ましょう。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ 13:8) このことばは、どんなに重要で恐ろしいものでしょう。しかしながら、イエスは、彼らの犯す罪をすべて洗い流すためにはどのような信仰が必要であるか、また、十字架上で死なれる前に弟子たちの足を洗うことが、彼らにとってもご自分にとってもいかに重要であるかをほんとうに弟子たちにお教えになりたかったのです。
そこでイエスは、食事の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれ、たらいに水を注ぐと、弟子たちの足を洗い始められたのです。シモン・ペテロの番がくると、ペテロは断ろうとしました。ペテロはイエスに言いました。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」ペテロは、イエスが自分の足を洗おうとなさったのに愕然としました。イエスを神の子と信じて仕えてきたのに、そのようなとんでもないことを受け入れることは、できない相談でした。なぜ主が自分の足を洗おうとするのかとペテロが尋ねたのは、このためです。誰かが足を洗うのなら、自分ペテロこそが主の足を洗うべきなのであり、主に自分の足を洗わせるなどということは、ふさわしいことでも礼にかなうことでもありませんでした。そこで、イエスの行ないに文字通り愕然したペテロは、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」と言って、足を洗われることを拒んだのです。
イエスは第 7 節で「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃいました。これは、「今はわたしがなぜこうしているのかわからないでしょう。しかし、わたしが十字架上で死に、よみがえり、天に昇ったとき、あなたの足を洗った理由がわかるでしょう」という意味です。それからイエスは、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と強い調子でおっしゃいました。イエスがペテロの足を洗わなければ、ペテロとイエスは互いに何の関係もないでしょう。イエスと何の関係もないということは、全く関わりがないということですから、ペテロはイエスの前に足を差し出すしかありませんでした。そこでイエスはペテロの足をたらいに入れ、洗い、それから手ぬぐいで拭かれました。
イエスがペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とおっしゃると、ペテロは驚いて言いました。「では、関係があるように、洗ってください。手も頭も、全身を洗ってください」と言いました。これを聞いたイエスは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」とおっしゃいました。
イエスはしばしば、人々を一瞬とまどわせたり混乱させたりするようなことをおっしゃいました。イエスのおっしゃることを理解できないで、人々は誤解し、誤り信じ、何かしら奇妙なことをしてしまいがちです。水と御霊の福音を信じないために罪の赦しを受けていない人々は、ここでイエスがペテロにおっしゃったことを正しく理解することができません。なぜでしょうか? 御霊をもたない者は、神のみことばの意味するところを正しく理解することができないためです。
たとえ世俗的な意味で天才的な知能に恵まれた人であっても、誰もが聖書に示された真理を理解することができるわけではありません。そうした人々は、聖書のみことばを文字通りに理解するのですが、水と御霊の真理を知っていなければ、どんなにがんばっても謎を解明し、どのような信仰があれば罪を洗い流すことができるかを見出すことができないのです。
主は、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」(ヨハネ 13:10) とおっしゃいました。ここは、今日のキリスト教徒の多くにとって極めて理解しにくい部分です。自分がすでに罪のすべてを赦されているのかどうかに確信がもてないためです。実際、この部分は、いわゆるキリスト教の正統の教義のひとつである祈りと悔い改めの教義の根拠とされています。
それによると、この部分は次のように解釈されています。「いったんイエスを救い主と信じたなら、原罪も含めてすべての罪を赦されているのです。しかし、人間は不完全で毎日罪を犯し、そのためにまた罪人となるのですから、実際に犯す罪の赦しを神に求めなければなりません。そうすれば、すべての罪をきよめられ、また神との関係を回復できるのです。」
たわごとです。悔い改めの祈りをささげることによって、ほんとうに罪をきよめることができるのですか? うっかり赦しを求めなかった罪はどうなります? どうしたら、そういう罪を赦されるのです?
神の体である教会は、実際は主のお与えくださった水と御霊の福音を信じる人々の集まりです。イエスが、体は完全にきよいが弟子がみなきよいわけではないとおっしゃったのは、ご自分を信じていなかったユダのことを指しておられたのです。ユダがご自分を信じていないことをご存じだったので、「みながそうではありません」とおっしゃったのです。
主が水と御霊の福音によって人類の罪を一度で永遠に洗い流されたという聖書の重要な真理を信じましょう。みことばの重要な点を見落とし、神のみことばを自分なりに理解しようとしたなら、はなはだしい過ちを犯すことになります。今でも多くの人々が、はなはだしい過ちを犯し、イエスを正しく信じることなく所有物をすべて放棄し、殉教さえしているのですが、結局、最後には罪のために滅ぼされることになるのです。
 
 

イエスが足をお洗いにならなければならなかった理由

 
イエスに足を洗われてはじめて、ペテロが主と関わりをもてたというのは、なぜでしょう。生涯にペテロの犯す罪を全部消し去っててはじめて、イエスはペテロの真の救い主になることがおできになったためです。イエスはこの世に来られ、ヨハネから授けられたバプテスマによって人類の罪をすべてその身に被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによってペテロの罪と弟子たちの罪のすべてをただ一度で洗い流されたのです。イエスはこの真理を弟子たちの心に刻み込もうとなさいました。しかし、弟子たちはイエスが足をお洗いになるのを倫理的な問題としてのみ考えたので、なぜイエスが自分たちの足を洗われるのかがわかりませんでした。
彼らは、現在の罪ばかりでなく、後で犯す未来の罪もまた自分たちを霊的に殺すことになるのであるということに気づいていませんでした。そこで、将来犯す罪までも信仰によってすでにイエスの上に移されているということを知らずにいたのです。それが行なわれなければイエスと無関係ということになるので、ペテロはイエスが他の弟子たちの足同様、自分の足をも洗われるという教えを会得しなければなりませんでした。イエスは、ご自分がバプテスマをお受けになることによって、ペテロが不完全さと弱さから犯す罪をことごとく洗い流されたのだという真理をお教えにならなければなりませんでした。イエスがペテロの足を洗わなければならず、ペテロが足をイエスに洗ってもらわなければならなかったのは、このためでした。弱さと不完全さのために生涯にわたって犯す罪のすべてもまた、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったときにただ一度で洗い流されたことを信じてはじめて、ペテロはイエスと関わりをもつことができました。
水と御霊の真理は、神のみことばを聞くことによって理解できます。人間は水と御霊の福音のみことばを知り信じて罪をすべて赦されるのであり、また犯す罪のすべてをきよめられることができるのです。イエスは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません」とおっしゃいました。イエスはすでに人類の罪をすべて洗い流してきよめてくださったのですから、これを信じる者は、すべての罪を赦されているのです。
イエス・キリストは、ほんとうにヨルダン川でバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて被られ、そうして罪をすべて洗い流されたのです。十字架に行かれ、十字架につけられ、血を流され、死なれ、よみがえられることによって、イエスは人類の永遠の救い主となられました。主は授けられたバプテスマと十字架上の血とによって、人類の完全な救い主となられました。同様に、主は水と御霊の福音によって、信じる者すべてが信仰によってその罪を一度で永遠に洗い流されるようになさいました。
この真理を知り信じる者は、犯す罪のすべてもまた完全に赦されることができます。神の視点からすれば、イエスの正しい行ないによって全人類がすべての罪を洗い流されているということになるのです。人間はただ、水と御霊の福音への信仰をもってこの恵みを価なく受けるだけでいいのです。そうではありませんか? もちろん、そうです。この真理を信じる信仰によって、聖徒はすでに洗われた者となったのです。
このように洗われた者は、たとえ毎日罪を犯しても、イエスがバプテスマをお受けになったときにすでにすべての罪を被られて人類を完全にお救いになっているのですから、足を洗うだけでいいと主はおっしゃるのです。バプテスマをお受けになることによって、イエスは人間が全生涯に犯す罪をすべて洗い流されました。そして、これを毎日肯定することによって、人は犯す罪をすべて消し去ることができるのです。
これがこの部分の意味するところです。実際のところ、水と御霊の福音、つまり、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによって罪のすべてを受けられ、世の罪を被られて十字架上で死なれ、死からよみがえられたということを信じて罪の赦しを受けた者であっても、肉の体をもつのですから、罪を犯しながら生きるのです。しかしながら、神はすでに人間がイエスを信じるようになった後で日々に犯す罪のすべてまでも被られているのです。神は全能であられるからです。
時を超え、永遠から永遠へと、神はただ一度でこの、人類の罪のすべてを消し去ったみわざを全うされました このように、イエスはバプテスマをお受けになり、ヨハネから人間が生涯に犯す罪のすべてを受けられ、そのままで十字架上で死なれ、死からよみがえられ、そうして人類の罪のすべてを洗い流されたのです。それなのに、人々はどのように信じているでしょう。この真理を信じてはいても、それでも、生きているうちに犯す罪と不完全さに毎日悩まされるのです。
信仰によって、人間がこの地上で生きている間に生涯犯す罪のすべてをイエスが被られたということを毎日確認しなければならないのは、このためです。バプテスマをお受けになることによって、イエスは世の罪のすべてをただ一度で洗い流されましたが、人はこの真理を信仰によって日々何度も確認しなければなりません。
ペテロが、信仰によってイエスと結ばれているためには、イエスが足を洗ってくださったことを覚えていなければならなかったように、主の救済の中にとどまるためには、聖徒もまた毎日、イエスがバプテスマと十字架上の血とによって罪のすべてを消し去ってくださったという真理を確認しなければならないのです。しかし、この真理を信じない人々は、罪を洗い流すことが永遠にできません。水と御霊の福音を信じないために罪をすべて洗い流されていない人々は、イエスとは関係がないのです。そうした人々は、毎日やむことなく罪を洗い流そうとしますが、罪は洗われません。悔い改めの祈りによってきよめようとしている罪は、そのような軽い罪ではないからです。どの罪も神の恐ろしい裁きを受けなければなりません。
ですから、水と御霊の福音を信じてきよめる代わりに自分なりの悔い改めの祈りによって罪を洗い流そうとする人々は、罪のかけらも洗い流されていないことを知ることになります。毎日そのような悔い改めの祈りをささげることで罪を洗い流すことができますか? 自分では悔い改めの祈りによって罪を洗い流したと信じたとしても、実際には、罪はそっくり残っています。
水と御霊の福音を信じることによって全身をきよめられた者だけが、生きている間に足を洗う資格があるのです。そして、そうした者だけが、信仰によって毎日罪を洗い流すことを可能にする恵みに包まれて永遠にきよいままであることができるのです。
バプテスマをお受けになることで、イエスは人類の罪のすべてを一度で負われました。ですから聖徒は、イエスがバプテスマによって、人間が生きていくうえで不完全さから犯す罪のすべてを被られ、またその呪いのすべてを受けられたと信じています。つまり、イエスは、人間がその弱さのために躓いたり死んだりするというようなことはあり得ないとおっしゃったのです。
イエスが弟子たちの足をお洗いになった後は、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、天に昇ることだけが残っていました。イエスはもはや弟子たちのそばにはおいでになりません。記されたみことばにあるように、父なる神の右手の座に着いておいでなのです。そして、イエスは再びおいでになります。
しかし、イエスが弟子たちにこのことをお教えになることなく十字架上で死なれたなら、どうして彼らはこの地上に残って水と御霊の福音を広めることができたでしょう。イエスの弟子たちは、罪を犯しながら生きたでしょう。彼らは弱く不完全で、嫉妬・貪欲・憎しみといった罪を犯したときにどうすればよいのかを知らず、信仰によって生きることができなかったでしょう。それでどうして福音を人々に広めることができたでしょう。できなかったでしょう。イエスが弟子たちに、ご自分がそうした罪までもすでに洗い流したということをおっしゃらなければならなかったのは、そして彼らの足をお洗いにならなければならなかったのは、このためです。
 
 

幕屋に示された罪の赦しのように

 
幕屋の門を開いて庭に入ると、まず全焼のいけにえの祭壇と青銅の洗盤が目に入ります。幕屋が示す信仰生活のための教えの第一は、神の前に罪を犯したなら、罪の呪いが降りかかることになるということです。信仰生活は、全焼のいけにえの祭壇も示すように、基本的に罪の罰と死とによって始まります。人間は罪のために神に裁かれる定めにあるのですが、主が人類の罪を被られるためにこの地上においでになりました。
旧約のいけにえのささげ物は、手を置かれることによって罪人の咎を負って血を流して死に、その肉は全焼のいけにえの祭壇の上で火で焼かれました。そのようにして、身代わりとして罪人の咎の罰である火の裁きを受けたのです。それと同じようにして、イエスは人類の身代わりとなられたのです。人間が死ぬ代わりに、イエスがヨハネから手を置く儀式を受けられ、十字架上で血を流して死なれ、ご自分の死によって罪を贖われたのです。
人間は毎日罪を犯します。死ぬまで罪を犯し続けます。みなさんも私も、罪のために死ぬしかない存在なのです。しかし、そんな者たちを罪と呪いとからお救いになるために、主は天の栄光の御座をなげうってこの地上においでになり、ヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をその身に被られ、十字架上で身をささげて磔刑をお受けになり、尊い血を流され、死者の中からよみがえられ、それによって人類の真の救い主となられたのです。死の律法、つまり、人間は罪のために呪われて死ななければならないということを認識することが信仰の出発点です。
罪のために死ななければならないということを知り、信じる者だけが、罪を洗うきよめを受け、信仰によって罪をすべてイエスの上に移して罪の赦しを受けることができるのです。真の信仰は、そのように信じることによって始まるのです。そして、このように信じることによって始めた者は、人類が日々に犯す罪をイエス・キリストがすべて消し去ってくださり、将来犯す罪までも洗い流してくださったという信仰によって、完全になるのです。
幕屋に入ることを許されていた大祭司とその息子たちでさえ、朝夕ごとに全焼のいけにえをささげました。彼らは定期的にいけにえのささげ物を連れてきて、その頭に手を置き、血を取り、それを神にささげました。幕屋に椅子がなかったのは、このためです。つまり、彼らはいつでもいけにえをささげ続けていたために、座って休む暇がなかったのです。このように、人間はやむことなく罪を犯す存在であり、そうした罪のために神の裁きを免れることができません。しかし、イエス・キリストは、授けられたバプテスマと血を流されることとによって、人類を罪のすべてからお救いくださったのです。
人間は罪のために死ぬしかないのだと信じることから信仰は始まります。このような存在である人間のためにイエスはこの世においでになり、バプテスマをお受けになって人類の罪をただ一度で負われました。バプテスマによって人類の罪を負われたイエス・キリストは、罪のすべてを十字架に運ばれ、命をお捨てになり、血を流して罪の報いを支払われたのです。そして、死者の中からよみがえられることによって、永遠の救い主となられました。
ローマ人への手紙第 6 章 23 節には、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあります。人間は本来、罪のために死ぬ定めにある存在なのですが、イエス・キリストが完全にお救いくださったのです。つまり、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられることによって、主は罪の赦しと永遠のいのちをお与えくださったのです。これを信じていますか? 信仰は、ここから始まるのです。
もしかしたら、「私はあまりにも不完全だから、もうイエスに従うことができない」と考えてはいませんか? 自分はあまりに下品で世俗的だから、水と御霊の福音を信じてはいても前進するのは難し過ぎると思っているのではありませんか? それは、滅びへと引き戻す信仰です。
ヘブル人への手紙第 10 章 36-39 節を読みましょう。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」 私たちは恐れ退いて滅びる者ではない、とあります。この真理を信じる者は激しく弾圧され、憎まれ、数多くの困難に直面します。しかし、永遠に衰えることのない天の相続財産が私たちを待っているのです。天国にある物はすべて、持ち主である私たちを待っています。
ヘブル人への手紙第 10 章 34-35 節には、次のようにあります。「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産をもっていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」そのとおりなのです。水と御霊の福音を信じているみなさんと私には、天の永遠の財産が待っているのです。神は、罪の赦しを受けた者に贈り物として天を相続させてくださいます。
主のお約束への確信を投げ捨ててはならないとおっしゃるのは、そのためです。信仰の大きな報酬を受けることになることを知っているのですから、聖徒は恐れ退いて滅びに向かってはなりません。信仰をより固くもつのです。確信を失ってはなりません。水と御霊の福音、本物の真理を信じ、最後まで霊的戦いを戦って魂を救い、勝利するのです。
私たち聖徒は、水と御霊の福音を信じる信仰を確固としてもたなければなりません。人間は、この世に生きてある限りは毎日罪を犯さずにはいられないほど不完全であっても、主がヨハネからバプテスマをお受けになり、人類に代わって十字架上で血を流されることによってお救いくださったという、この信仰をもたなければなりません。この信仰によって、確信をもって世の終わりまで正しく生きることができるのです。信仰によって神の前に行き、この真の福音によって信仰の競走に臨み、福音を広め、福音に仕えて生きるのです。聖書に「あなた方が神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル 10:36)、「『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(ヘブル 10:38-39) とあるのは、このためです。水と御霊の福音への信仰をもって生きる者は、他の人々をも罪のすべてから救うことができるのです。ですから、人々を罪のすべてから救うことのできる信仰をもっていながら、どうして恐れ退いて滅びることができるでしょう。水と御霊の福音を仰ぎ続けなければ信仰は衰え、死の沼地に落ちて滅びることになるでしょう。罪の赦しを受けた聖徒の任務は、神のみこころに従って信仰をもって走り続けることであり、自分の弱さに負けてその場にとどまり、死んでしまうことではありません。
水と御霊の福音を信じる者は、恐れ退いて滅びる者ではありません。聖徒は他の人々の魂をも救うことのできる信仰をもっているのです。そのような存在でありながら、どうして自らの弱さのために屈して死ぬことができるでしょう。そのようなことは、絶対にできません。水と御霊の福音を信じる者は、けっして恐れ退いて滅びることがありません。どんなに不完全で弱くとも、聖徒は水と御霊の福音を深く信じて信仰に生きる義人なのです。
みなさんと私は、信仰がどこに始まるかについて考え、滅びから抜け出して信仰に生きるのです。基本的に、私たちは罪のために滅びるしかない存在でした。しかし、主がすべての罪からお救いくださった水と御霊の福音を信じることによって、永遠の救済を受けているのです。
つまり、自分の弱さ、不完全さ、無能さ、邪悪さを全部完全に認めることによって信仰を始めているのですから、罪の赦しを受け、罪を犯しながらこの世に生きていて、水と御霊の福音を信じてイエス・キリストの上に罪をすべて移し、バプテスマへの信仰によって洗い流さなければ、勝利することはできないでしょう。恐れ退いて滅びる者ではないと認識し、真に信仰によって生きなければならないのは、このためです。
時に、置かれた環境や状況のためにさまざまな試練や困難に臨むでしょう。人間は弱いのですから、信仰生活は崩壊し、進み続けることができないこともあるでしょう。しかし、死ぬことはありません。これをペテロにお教えになるために、イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とおっしゃったのです。イエスはペテロの罪を全部消し去られました。主がバプテスマをお受けになって、ペテロが生涯に犯す罪を全部負われ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによって彼をお救いになったのと同じように、主はまた、みなさんや私を罪と罰のすべてからお救いくださったのです。
主がそうなさらなければ、どうしてみなさんや私がイエスと関わりをもてるでしょう。水と御霊の福音がなければ、どうして罪のすべてから救われ、また、他ほかの人々も救われるように導くことができたでしょう。水と御霊の福音がなければ、どちらもできなかったでしょう。イエスがペテロにお教えになろうとしたのは、この真理でした。
みなさんと私は、この教えを聞き、理解しました。では、実際はどうなのでしょう。自分たちの不完全さのせいでよく落ち込んでいるのではありませんか。それに、弱さに負けているのではありませんか。自分がそんなにも不完全で弱いとわかっているために、容易に自己卑下に陥るのではありませんか? 「どうして最後までイエスに従えるんだ。たった今、従うのをやめたほうがいいんだ。主もまた教会を止めたほうがためになるとお思いだろう」とまで思い込むでしょう。ですから、イエスがお受けになったバプテスマの福音がなければ、永遠の滅びに向かったことでしょう。
みなさんや私は根本的に罪のために死ぬしかないのに、それでも主はすでに罪と罰とからお救いくださっているという真理を信じなさい。赦しを受けた後でも肉はあまりに弱くて再び罪を犯さずにいられないとしても、それでも、イエスのお受けになったバプテスマとその流された血とで完了された、完全で永遠の救済を認めなければなりません。
たとえ明日もいたらない点があったとしても、水と御霊の福音の中でイエスがお受けになったバプテスマを信じることによって、いつでも弱さを捨て去ることができるのです。信仰によって、弱さのために生じる霊的死と呪いを捨て去るのです。
次のように信仰を告白しましょう。「そもそも、私は罪のために死ぬしかない。それは正しいことです。しかし、主は私のためにこの世においでになり、バプテスマをお受けになって罪のすべてを負われたのではありませんか。イエスはバプテスマによって移された私の罪をすべて受け入れられたのではありませんか。そして、十字架上で死なれたのではありませんか。イエスは死者の中からよみがえられませんでしたか、それに、今生きておいでなのではないですか。私の罪はイエス・キリストの上に移されたのですから、どんなに不完全で、どんなに不完全さが露呈されようとも、それでも私には罪がないのです。ですから、私は恐れて退いて滅び、死ぬ者ではありません。」 このように信じることによって、弱さを捨て去るのです。
この真理について、できるだけ頻繁に考えるのです。「主は救ってくださった。罪はみな主の上に移されたのだから、私にはまだ罪があるのだろうか、どうだろうか。もちろん、罪はありません。」 このように信じることによって、弱さと罪とを捨て去り、水と御霊の福音を再度確認し、信仰によって完全に救われたことを確かめることができるのです。このようにすれば、毎日神に向かって駆けることができるのです。
 
 

イエスがバプテスマをお受けになったとき、罪はすべて消えた

 
みなさん、イエスがペテロと他の弟子たちにおっしゃったみことばは、どれほど重要でしたか? イエスは、ご自分の死後も弟子たちが、とりわけ弱さに負けたときに、水と御霊の福音に堅く立つようにと彼らの足を洗われました。イエスがペテロをはじめとする弟子たちの足を洗われなければ、イエスが十字架上で死なれ、三日後に死者の中からよみがえられ、神の御国に昇られた後、弟子たちはどうなったことでしょう。弟子たちは、弱さが表面に出たときに、どのようにしてそれを克服したでしょう。イエスがお受けになったバプテスマを信じる信仰によって、解決しなければなりませんでした。それを信じていなければ、自らの弱さを克服することは難しかったでしょう。
弱さと犯す罪の問題を、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表された真理、イエスのみわざを信じて解決するのです。イエスがご自分のお受けになったバプテスマの力を弟子たちにお教えにならなければ、弟子たちもまた絶望し、霊的に死んだことでしょう。彼らには、生涯を福音にささげ、他人の魂を救うために生き、ついには殉教するほどの信仰をもつだけの強さがなかったでしょうし、結局は信仰を守ることができず、絶望したでしょう。
しかし、イエスの十二使徒はみな福音を説き、全員が殉教したと伝えられています。十二使徒のうち、もっとも疑い深かったのはトマスです。しかし、トマスでさえインドに行き、そこで殉教しました。
では、イエスの弟子全員が殉教できるほどの信仰は、どこにあったのでしょう。イエスがバプテスマをお受けになることによって生涯の罪のすべてを被られ、罪がすっかりイエスの上に移されたために自分たちは完全にきよくなった、自分たちは完全に神の子供となって天の御国を相続するのだという確信に満ちたこの信仰、この信仰があったからこそ、この世で水と御霊の福音を宣べ広め、召されて神のもとに行くことができたのです。つまり、この信仰によって、聖徒はみな、神が望まれるときに殉教することができるのです。
ペテロはピラトの屋敷の外で三回、イエスを否定しました。その時になって彼は、イエスが「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とおっしゃった意味を痛切に悟ったのです。イエスが昇天なさった後、ペテロ他のイエスの弟子たちは、イエスが自分たちの足を洗われたわけを理解し、深い確信をもって水と御霊の福音を説きました。
今日のキリスト教徒は、イエスのバプテスマの中にあるこの真理を知らなければ、信仰に生きることに困難を覚え、やがては主を信じることをやめてしまうでしょう。自らの弱さに縛られるなら、良心はこの問題を解決できないために腐敗し、腐敗した良心のために、もはや教会に行くことができなくなるでしょう。これは教会のメンバー一人一人、聖徒の子供たちについてさえも言えることなのです。
みなさん、罪に縛られているのなら、神を礼拝することができますか? 今日、新たに生まれていない人々でさえ教会に行き、罪のために悔い改めの祈りをささげ、神を礼拝しますが、これは宗教的な意味でイエスを信じているためなのです。
水と御霊の福音を信じる者以外の人々は、弱さのために魂に罪があり、それに縛られていると感じると、神の前に来て礼拝することができません。このような時には、イエスがお受けになったバプテスマの力を信じ、イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて負われたと信じて、魂をきよめなければなりません。
水と御霊の福音の真理について何も知らない名前だけのキリスト教徒は、信仰の道も知らず、盲目的に悔い改めの祈りによって罪の赦しを受けようとします。世の常の宗教を信じる人々のように、盲目的にその神々に仕え、祈ります。「お願いです、どうか罪を赦して私と家族に祝福をお与えください。何でもします。もっとささげ物を差し上げます。よい行ないをします。どうか罪をお赦しください。」こうした名目のみのキリスト教徒は、単に人間の作った宗教を信奉しているだけなのです。
イエスはペテロに、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とおっしゃいました。イエスの弟子たちがこの後になってもこのみことばに隠された真実に気づかなければ、イエスのお与えになった水と御霊の福音によって新たに生まれることはできなかったでしょうし、他の人々をも罪から救った働きを行なうことは、できなかったでしょう。ペテロの足をお洗いになりながら、イエスがご自分の受けられたバプテスマの力による完全な救済の確信を植え付けることがなかったならば、ペテロは殉教も教会の指導者としての役割を果たすこともできなかったでしょう。
水と御霊の福音の真理がなければ、罪のために、人間が犯し続ける罪のために、神の前に来て信仰を持って拝むこともできなかったでしょう。水と御霊の福音を信じて罪をきれいに赦された者は、教会に行くことができます。そして、その人々は、どこにいても罪を洗い流すことができるのです。体がきれいな人々は足を洗うだけでよいと主がおっしゃったように、弱さから罪を犯したときは、いつでもそのような罪もまたバプテスマの際にイエスの上に移されていることを思い出して信じるのです。
人間の罪は、イエスがバプテスマをお受けになったときにその上に移されました (マタイ 3:15)。心にある罪がイエスの上に移されたのなら、私たちの中には罪がありますか、ありませんか? 罪はありません。罪はバプテスマによってただ一度でイエスの上に移されたのですから、聖徒はその罪を信仰によって消し去られてきよくなったのです。きよいのですから、どんなに不完全な人間であろうと、それでも神の前に祭司なのです。水と御霊の真理の福音を信じる者が速やかに弱さを克服し、信仰をもって神のもとに行き、信仰によってわざを行ない、与えられた救済に感謝し、神をたたえて栄光をささげ、水と御霊の福音を広めることができるのは、このためです。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 初めて罪の赦しを受けたとき、この真理を知っていましたか? ご存じではなかったでしょう。しかしながら、みなこの教えを聞き、知るようになりました。みなさんも私も毎日罪を犯し、不完全さが露呈されるのですが、イエスがペテロの足をお洗いになったように、主は私たちの足もまた毎日洗ってくださるのです。
最初、心の中の罪はずっと以前のも最近犯したのもみなイエスの上に移されたと知って喜びますが、自分の不完全さが明らかになり、赦しを受けた後になっても弱さに縛られているのに気がつきます。そうしたとき、イエスがバプテスマによってそのような罪までも負われたのだと知り、信じることによって、将来犯す罪までも実際にイエスの上に移すことができるのです。
では、このために義人は好きなだけ罪を犯すのでしょうか? けっしてそのようなことはしません。ローマ人への手紙第 1 章 17 節には、「義人は信仰によって生きる」とあります。「善を現わすために、悪をしようではないか」(ローマ 3:8) などとばかげたことを言って水と御霊の福音に敵対した人々がいました。新たに生まれた者が罪の赦しを受けた後、これまで以上に自由に罪を犯すことができるでしょうか? 絶対にできません。
水と御霊の福音を信じて考えるとき、みなさん、みなさんには罪がありますか、ありませんか? もちろん、罪はありません。また、たとえ不完全なところがあったとしても、信仰によって不完全ですか、完全ですか? 完全です。全身がきよいのだとイエスがおっしゃったのは、バプテスマと血とよみがえりとによって人類を完全にきよくなさったという意味だったのです。
私たちも、イエスを信じるようになった後で水と御霊の福音の力を知りました。ですから、水と御霊の福音の力を毎日の生活に生かすのです。この信仰を毎日実践していると、いつかは、いつまでこれを続けなければならないのだろうと思ってうんざりするかもしれません。しかし、たった今、どこに再び戻らなければならないのでしょう? 人間は基本的に罪のために死ぬしかない存在なのだけれど、主はバプテスマによって人類の罪を被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられることによってお救いくださったのだと信じて、主のもとに戻るのです。
よろしいですか、祭司は毎日幕屋の庭で全焼のささげ物をささげ、そばを通るたびに手足を青銅の洗盤で洗わなければならなかったのですよ。彼らと同じように、信仰をもって主の初めの愛のことを考え、内省するのです。人間は基本的に死ぬしかないのですが、主は罪を被られ、洗い流され、人類の罪の身代わりとなって十字架上で罰を受けられ、罪からくる滅びを終わりになさいました。このように、バプテスマと血によって、主は人類を罪のすべてと滅びとからお救いになったのです。
毎日、死ぬしかない人類を完全に救ったこの愛を心に刻み、これを信じる信仰によって神の前に行くのです。人間は死ぬしかないのです。しかし、主のおかげで完全に救われ、神の完全に義である子供になったのです。主がこのような信仰をくださったのですから、いつでもこの信仰をもつべきなのではありませんか?
人間は、ほんの少しの間この世に住み、それから立ち去る巡礼者です。「巡礼」とは、旅人を意味します。旅人とは、一つの所から別の所へ移動する者を指します。人間は、一つ所にほんの短い間とどまり、それからそこでするべきことを終えたときには別の所へと去る旅人です。人間は、この世にほんの短期間とどまった後で天の御国へと帰る巡礼者です。巡礼としてこの世を通って天の御国へ行くべく生きていて、もうやめて地面にどさっと腰をおろしたいと思うことがあります。みなさんもまた、肉体的にも霊的にも腰をおろしたいと思うことがあるでしょう。こうした時が訪れるのは、その人が全き人間として生きていても、置かれた状況が理想的なものではない、あるいは、状況は良くても、肉の邪な考えが次から次へと生じるためです。
このような存在に、主はその必要とするみことばをくださいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 はい、今ならよくわかります。巡礼として生きているうち、数多くの不完全さが露呈されるたびに、弱さに縛られ、状況に捕われるたびに、そうしたものまでも拭い去ってくださったイエスのバプテスマと十字架上の血とを信じて罪の完全な赦しを受けているのだということを思い出すのです。水と御霊の福音を信じることによって、聖徒は完全な罪の赦しを受けました。
幕屋を見ると、それがいかによく考えられたものであるかがわかります。全焼のいけにえの祭壇にも示されているように、罪から来る報酬は死です。人間は毎日罪を犯すのですから、毎日自身の罪のために滅びに定められ、死ななければなりませんでした。全焼のいけにえの祭壇には、イエス・キリストがいけにえの子羊としておいでになり、手を置かれ、人類に代わって死なれたという真理が具現されています。全焼のいけにえの祭壇を過ぎると、青銅の洗盤があります。そこで水と御霊の福音について考え、毎日犯す罪をきよめるのです。水と御霊の福音は、人間を原罪と犯す罪とから救った、完全な真理です。
主イエス・キリストの内にある神の賜物とは、何でしょう。それは、罪の赦しと永遠のいのちではありませんか? 主は人類を完全に救ってくださいました。主は、いつでも罪のために死ぬ定めにある人類を、完全にお救いくださいました。人間が生涯を通して犯す罪は全部、水と血への信仰と、主が足までも洗ってくださったというみことばとによって、きよめられました。バプテスマをお受けになったとき、主は人類の罪をすべて被られました。人間が全生涯に犯す罪がイエスの上に移されたのです。イエス・キリストは人類の罪を負われたために、そうして負われた罪のために十字架上で裁かれて死なれ、死者の中からよみがえられ、完全な救い主となられたのです。イエス・キリストを完全に信じたとき、人は完全になるのです。また、人間の肉は不完全なものであっても、完全な信仰をもっているために、霊的に祝福された生を生き、神の永遠の御国に入るのです。
 
 
みなさんは、ペテロのようではありませんか?
 
ペテロの足を洗われたように、イエスはみなさんの足も洗われたのではありませんか? イエスがみなの足を洗われるのは、正しいことです。イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、そうして負われた罪のために人類に代わって十字架上で死なれたのは、このためです。そして、イエスは三日後に死者の中からよみがえられました。このように、バプテスマと十字架上の血、よみがえりとによって、イエスは人類の完全な救い主となられました。聖徒は、このイエス・キリストを完全に信じます。
信仰によって神を心から礼拝するのであり、信仰によって神のわざを完全に行なうのです。人間の行ないは完全ではあり得ません。人間を完全にするのは信仰です。水と御霊の福音を信じてイエスの弟子として生きなければならないのは、このためです。聖徒は、引き退いて信仰の滅びに向かう者ではありません。不完全ではあっても信仰によって走ることはできますし、実際、信仰によってもっと走らなければならないのです。「義人は信仰によって生きる。」「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」 信仰によって正しい者、すなわち他の人々の魂を救う者となったのですから、人々を救うという、神のお与えくださった使命に献身しなければ、滅びと絶望の沼地にはまり、罪のために死ぬことになるでしょう。
罪のない者は、正しいわざを行なって喜びます。人々の魂を救う神の福音を広めながら喜びます。しかし、罪深い者たちは、正しいことを行なうことを喜びません。罪の赦しを受けた者にとって、正しいことを行なうことが霊的糧となります。全世界に福音を広めることは、人々の魂を救う正しい行ないです。同時にこれはまた、聖徒には、いのちの糧でもあるのです。正しいことを行なうことによって心は御霊に満たされ、内に新たな力がわいてくるのです。霊が成長し成熟すると、人はより勇敢になります。アブラハムのように生きるために、神に祝福されてその恵みを他の人々と分かち合うために、義を愛し、正しいことを愛し、福音を広めることを愛するのです。弱い存在ではあっても、こうした正しい行ないを続けなければ魂は死にます。正しい者たちは、神の正しい使命のために働くことをやめれば必ずや霊的に死んでしまうでしょう。イエスが「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」(マタイ 5:6) とおっしゃったのは、このためです。
イエスはまた、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ 5:8) ともおっしゃいました。罪の赦しを受け、主が完全に罪を洗い流してくださったと信じる者は、神に会います。そして、神を信じ、従い、天の恵みを全世界に広めるようになります。
聖徒は、信仰によって完全になりました。罪のために死ぬことを免れなかったのですが、主はこの世においでになり、バプテスマをお受けになり、人類に代わって十字架上で死なれ、そうして完全にお救いくださったのです。これが真理であり、天の御国への道なのです。これを知ることが信仰の道を知ることなのです。これのほかに道はありません。人間は、よい行ないによっては天国に入ることができません。主が人類のためになさったことを知り、信じることによってのみ、人は天国に入ることができるのです。
一般的に言って、人間を二種類に分けるとするなら、正しいことに慣れている者と邪なことに慣れている者とに分けることができます。邪なことに慣れている者たちは、罪の赦しを正しく受けてはいません。主が人類のためになさったことを信じることによって、聖徒は義のために働く者となりましたが、罪の赦しを受けていない人々は、その意思に関わらず悪魔の手先のままでいるしかないのです。
今この時、私は神が完全な救済、完全な信仰、完全な罪の赦しをお与えくださったのだと、確信をもって言うことができます。みなさんの行ないは、この福音を信じていても不十分ですか? また、もしや、みなさんの心は、このために引き退いていますか? そのような状態である必要はありません。義人は信仰によって生きるのですから。主は、人間の不完全さと弱さとについてご存じないはずはないのですから、すでにバプテスマによってそうしたものを全部、負われたのではないのですか。
人間がいかに不十分な存在であるか、わかりやすい例を挙げてみましょう。私たちはときどきサッカーをします。ボールがチームのゴールポストに向かって高く飛んでくる危険な状態のとき、私はただ、弾き飛ばすか両手で捕えるかしました。私はゴールキーパーでしょうか? もちろん、違います。ただ勝ちたかったのです。そうした場合、聖職者も聖徒も働き手も、誰もが同様に、勝つためには手段を選びません。気楽にやることを忘れます。勝つために、あらゆる違反行為をします。試合があまりに白熱しているために、誰もがただ勝つために何でもします。ですから、サッカーほど赤裸々な基本的人間行動を映し出すものはありません。チームが難局にあるときには、あえて違反行為をし、だまし、自分たちに有利なようにしようと主張することをためらいません。
こうしたことはみな、自分たちには許容されることと考えますが、相手チームが違反行為をしたなら、ファウルだと叫び、イエローカードを出せと審判に要求します。しかし、審判の判定でさえ全く無意味なものになっています。人間とは、本来このようなものなのです。いつでも自分たち、自分のチーム、自身にとって都合のいいことを求めます。そして、得になることだけを欲します。しかし、神はそうした存在である人類を救われました。聖徒はいまだに欠陥だらけで、不法ばかり行なっているのに、信仰の点から言えば、新たに生まれた傷のない者になっているのです。
主はすべての罪から完全に人類を救われました。主を救済の神と呼び、救済の神を主と呼ぶのは、このためです。主は救済の神です。ペテロは、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ 16:16) と告白しました。そして主は、ペテロの幸いな信仰を神与のものと認められました。ここで「キリスト」とは、人類の罪をその身に負われてすべて消し去られた方という意味です。イエス・キリストは、生ける神の御子です。神の御子でありまた救い主として、イエスは人類を完全に救われました。ですから、福音に仕えるには自分はあまりに不適格で弱いと感じたとしても、それでも勇敢でありなさい。
魂・心・体は、引き退いて縮まっていてはいけません。信仰によってすっくと伸ばし、大胆になり、神のお与えくださった信仰を遠く広く伝える義の人となるのです。私をごらんなさい。私には、肉体的には何一つ見るべき点がありません。しかし、世界中に福音を広めているのではありませんか? みなさんもまた、同じなのではありませんか? 一見欠けたところのないように見える人々が、ほんとうに全く欠点がないなどとは考えてはいけません。罪人は、ただの偽善者です。偽善者もまた、みなさんと同じ人間です。それでどうしてその肉がそんなによく、威厳があって、きよいことがあり得るでしょう。いつでも不十分なのが人間の肉なのです。よろしいですか、自分の徳高いことを誇示する人々は、とりわけキリスト教社会では、単に偽善的・欺瞞的な性質をひけらかしているだけなのです。
神は人類を完全に救われました。ですから、人間を完全にした信仰によって、この神の完全な義によって力を与える水と御霊の福音に仕えることができるのです。世界が創られる以前にすでにご計画になっていた救済の真理により、信仰によって救われたことを、神に感謝いたします。みなさんの罪はみな、イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されたときにすでに洗い流されています。この真理を信じられることを願っています。