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供えのパンの机

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· 供えのパンの机 (出エジプト記 37:10-16)

供えのパンの机
(出エジプト記 37:10-16)
「彼は、アカシヤ材で、一つの机を作った。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作った。その机のために、金の環四個を鋳造し、その四本の脚のところの四隅に、その環を取りつけた。その環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所とした。アカシヤ材で、机をかつぐ棒を作り、これを金でかぶせた。さらに、机の上の器、すなわち、注ぎのささげ物を注ぐための皿や、ひしゃく、水差しや、びんを純金で作った。」
 
 

心に枠を作ることによって、いのちのパンを食べる者となる

供えのパンの机
 
幕屋の中にある備品の一つ、供えのパンの机はアカシヤ材で作られ、純金をかぶせてありました。長さ二キュビト (90 センチ)、高さ一キュビト半 (67.5 センチ)、幅一キュビト (45 センチ) ありました。供えのパンの机には常にパン十二個が置かれ、このパンは祭司だけが食べることができました (レビ記 24:5-9)。
供えのパンの机はどのようなものかというと、回りに手幅の枠があり、その縁に金の飾り縁が作られています。四隅には四つの金の環があって、環には金をかぶせたアカシヤ材の棒が通してあり、これで机を運ぶことができるようになっていました。机の上の器具、すなわち、注ぎのささげ物を注ぐための皿や、ひしゃく、水差し、瓶もまた純金で作られていました。
出エジプト記第 37 章 11-12 節には、「これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作った」とあります。神の家の聖所にあった供えのパンの机には手幅の枠がついていて、枠には金の飾り縁がついていました。なぜ神はそのような枠をつけるようモーセに命じられたのでしょう この約 10 センチ突き出した手幅の枠は、机の上のパンが落ちるのを防ぐためにありました。
供えのパンの机に置かれたパンは祭司だけが食べることができたのですから、人はこのパンを霊的に食べることのできる者にならなければなりません。イエス・キリストのバプテスマと十字架上の血とを信じて罪から救われ、永遠のいのちを受けた者だけが、つまり、水と御霊の福音を自らの救済と信じる者だけがこのパンを食べることができます。
手幅の枠は幕屋の供えのパンの机の回りに作られていたのですから、これによって、パンが誤って落ちることのないようになっていたのです。安息日にはいつでも、熱い焼きたてのパンが机に置かれました。手幅の枠が供えのパンの机の回りに作られており、枠には金の飾り縁がついていたという点に、特に注意しましょう。
供えのパンの机の枠は、人は救済をもたらす真理のみことばを心にもって永遠のいのちを受けなければならないと教えているのです。このことから、イエス・キリストのバプテスマと十字架上の血とを信じてはじめて、人は幕屋に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の霊的信仰をもつことができるということがわかります。この啓示から、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表された真理を信じる者だけが神の子どもとなれるということがわかるのです。
このように信じなければ、人は主と無関係になるのですから、いのちのパンを求める者は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって表わされた水と御霊の福音を信じる信仰をもたなければなりません。水と御霊の福音だけが本物の救済の真理なのだと信じるのです。つまり、神は、救済のみことばが抜け落ちないように、心に信仰の枠を作れとおっしゃっているのです。
この水と御霊の福音は、原始教会の時代から伝えられてきました。原始教会の時代から今日まで、神はこの福音を信じる者の罪をきよめられてきました。今も昔も、神はこの水と御霊の福音の真理を信じる者の魂を救われるのです。聖徒は、幕屋の入り口に表わされた真理を信じて救われています。神は、人間が心に枠を作って霊的に生きることができるようにしてくださいました。
聖徒は、主がお与えくださった水と御霊の福音への信仰から永遠のいのちを受け、この真理の福音によって、命のパンを他の人々と分け合うことができるのです。聖徒はまた、神の正しいわざに仕えるようになりました。水と御霊の福音を信じていても、この福音の真理を堅持することができず、時が過ぎるにつれて失うなら、それは、いのちそのものを失うということなのです。ですから、常に信仰によって水と御霊の福音に思いをめぐらし、心に信仰の枠を作らなければなりません。
 
 

青・紫・緋の撚り糸に秘められた福音を信じる信仰を心にもつ

 
この真理への信仰がなければ、人は罪から救われることができません。その人たちは、絶対に救われているのだと、自分の考えに固執するでしょう。しかし、今のところ、その心が青色・紫色・緋色の撚り糸によって表わされた水と御霊の福音を堅く信じていないために、そうした人の救済は不完全なものに過ぎないのです。
水と御霊の福音を真理として信じないことは、主を勝手に捨てるのと同じ罪です。いのちのパンはただ単にもたなければならないものであるばかりではなく、口に入れ、噛んで食べ、真に自分のものとするべきものです。神のみことばを信じて心にもち続けることをしないでいると、救済の真理はすぐさま心から消えます。
すでに罪から救われていながら、そのように貴重な救済を失うことがどうしてあり得るのかと思うでしょう。しかし、残念なことに、最初は喜んで真理を受け入れながら、神のみことばを堅持しない大勢の人々が、結局は死んでしまうのです。信仰が真の福音に根ざしていないためです。
この点について、イエスは「種が蒔かれた地面のたとえ」(マタイ 13:3-9、18-23) で四種類の地面について語っておられます。このたとえでは、神の真理の種が人間の心の四種類の地面に蒔かれています。第一の地面は道端で、第二は土の薄い岩地、第三が茨の中、第四がよい地でした。その中で、最初の三つの地面に落ちた種は実をつけることができず、第四の地面、よい地に落ちた種だけが実を結ぶことができたのです。これは、真の救済の福音である水と御霊の福音を聞いていったんは受け入れていても、大勢の人が中途で救済を失うという意味です。ですから、心の地がよくなければ、主がくださった救済を失うことがあり得るのです。
青色・紫色・緋色の撚り糸によって来た救済を心で信じるなら、心の土は良いのです。しかし中には、その信仰が神のみことばに深く根ざしていないために信仰を守ることができず、救済を失う人がいるのです。神の教会にとどまり、毎日いのちの糧を得て信仰において成長しなければならないのは、このためです。青色・紫色・緋色の撚り糸によって表わされた真理によって、神は毎日信仰が育つように糧を与えてくださいます。
聖徒は、受けた罪の赦しを毎日心で確認しなければなりません。心にあるべき真理は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされた水と御霊の福音の救済です。救済の真理は、罪の赦しを受けた者の心の中にあります。この水と御霊の真の福音への信仰を新たにすることによって、毎日神の子どもとして生きることができるのです。
ですから、水と御霊の福音を信じる者であっても、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の体現した神の義の福音に思いを致し、毎日信仰を確認しなければなりません。なぜでしょうか。常に水と御霊の福音を堅くもって確認しなければ、いつ失うかもしれないからです。ヘブル人への手紙の著者が他国に住むユダヤ人に向かって言った、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」(ヘブル 2:1) をいつも念頭に置かなければなりません。
今日、水と御霊の福音を知っている人々の中にさえ、時が過ぎるにつれて福音への信仰が薄れていく人を見ます。これは、すでに水と御霊の福音を信じてはいても、聖所でいのちのパンを食べ続けることをしなかったために、心が真の信仰によって純化されなかったからなのです。
この世にはサタンのしもべも数多くいて、種を入れたパン、すなわち肉の教えを食べさせて義人を殺そうとしています。にせの福音が神の教会に導入されれば、真理は嘘と混ぜ合わされ、信者を主に受け入れられない者にしてしまいます。そうした人々は、真理を知っていても、信仰の枠を作ることができないために信じません。そこで、もはや罪から完全に救われずに終わるのです。箴言第 22 章 28 節には、「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない」とあります。
ですから、信仰の地境を移さないことが肝要です。真の信仰の境界を明確に引き、主の再臨される日まで守るのです。そうしてはじめて、常にいのちのパンを食べることができ、そうしてはじめて、主は聖徒の心の中心に宿られ、そうしてはじめて、永遠のいのちを受けることができるのです。神がどんなにたくさんのパンをくださっても、その貴重さを認めず心に保つことができなければ、あるいは、心の枠を取り除いていのちのパンを机から落としてしまうならば、滅びの子どもとなってしまいます。
聖徒の中には、ごく最近罪の赦しを受けた人々もいれば、初めて水と御霊の福音を聞いて罪の赦しを受けてから何十年もたつ人々もいます。毎日聞くことは水と御霊の福音のみことばについてなのですから、中には水と御霊の福音の「水」ということばを聞くやいなや、うんざりしてしまう人々がいます。しかし、それでも、真の福音のパンを食べ続けるのです。どれだけの間、こうしていなければならないのでしょう? 主が戻られる日までです。
みなさんの中には、私がいつも水と御霊の福音を繰り返し説いていると文句を言う人がいるでしょうが、なぜ私がこのように説いているかを理解していただきたいのです。それは、神の働き手となるためには、水と御霊の福音について考えることによって、信仰をさらに強めていかなければならないためです。聖徒はこの時代にあって、誠実で信頼できる魂の夜警にならなければなりません。新たに生まれた魂にとっても、この水と御霊の真の福音はいのちのパンであり、真の信仰の糧なのです。ですから、毎日このパンを食べるのです。それだけではありません。つまり、自分のためばかりではなく、これを他の人々と毎日分け合って、その人たちもまた罪の赦しを受けるようにするのです。
義人のパンとは、水と御霊の福音のみことばを広めることによって人々を闇の力から救い、神の愛される御子の御国へと運ぶことなのです (ヨハネ 4:34、コロサイ 1:13)。水と御霊の福音のパンを食べることを怠れば、必ずや病気になって死ぬでしょう。時に、肉の弱さのために水と御霊の福音への信仰が弱まることがあるでしょう。しかし、困難な時にあって水と御霊の福音を堅持するなら、それは魂がより強くなるための好機となるのです。
この真理の福音を聞き、それについて考えるとき、聞けば聞くほど魂は強くなり、信仰がより深くなれば、さらに新たな力が心に湧くのです。聖徒は毎日水と御霊の福音を聞き、確認し、福音への信仰を新たにしなければなりません。神が「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる」(箴言 25:4) とおっしゃったように、信仰を精錬することが必要なのです。つまり、水と御霊の福音を聞き続け、それを心で確認し、何度もそれについて考えることが必要なのです。水と御霊の福音が人を生かすいのちのパンだからです。主の祈りでイエスは「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください 」とおっしゃいましたが、主はほんとうに水と御霊の福音のみことばをくださったのです。このように祈れとおっしゃったのは、このためなのです。
神がくださった罪の赦しの救済に関して言えば、罪から救われる以前、信仰がどのようであったかを明確にしなければなりません。「この真理を知る前、私は罪から救われていませんでした。」その当時、イエスを信じてはいても、罪から救われていなかったということをはっきり認めなければなりません。「当時は、罪から完全に救われていませんでしたが、この水と御霊の福音を聞き続けるうちに、やがて心で信じるようになりました。
それ以前もイエスを救い主と信じていましたが、救済はそれまで完全ではなかったのです。しかし、今は水と御霊の真の福音を聞いて、ほんとうに救われました。今はほんとうに水と御霊の福音を信じることができます。そして、心から信じています。」主がバプテスマと十字架の血とによって完全に罪から救ってくださったと知ってはじめて、真の救済の賜物が天からその人の心に下るのです。真理を信じるこの信仰が、人を救う真の信仰です。
聖書に明かされている水と御霊の福音は、それまでもっていた信仰とは異なっています。当時は、この完全な水と御霊の福音ではなく、十字架上の血だけの福音を信じていました。十字架のみへの信仰と水と御霊の福音への信仰は、一見同じように見えるでしょうが、この二つは結果が全く違います。水と御霊の福音を知るようになる以前、みなさんは十字架上の血だけを信じていたのではありませんか? その当時、みなさんの罪はすっかり赦されていましたか? もちろん、そうではありません。イエスの十字架上の血だけを信じているときには、まだ犯した罪が心にあります。これが、水と御霊の福音を信じる信仰と十字架だけを信じる信仰との違いなのです。
明確な相違点は、十字架上の血だけを信じている人々は救われていないのに対して、水と御霊の福音を信じる人々はすべての罪から救われているという点です。 ですから、魂がはっきりと違っています。 しかし、通常の人々はこのことに気づきません。 二つの福音は似ているようですが、二つの間にはとうてい越えられない信仰の淵があるのです。 イエスのバプテスマを信じるかどうかというちょっとした違いが永遠のいのちを受けるかどうかを決めるのなら、この二つの信仰には看過できない違いがあると認めざるを得ません。
どの信仰が救済と罪との境界をなしているのかを知っておくことが必要です。 罪から救われるには、水と御霊の福音を信じるのです。この水と御霊の福音が、罪の赦しの真理です。水と御霊の福音を信じる以前は救われていなかったけれど、今はこの真の福音を心から信じていると認めることによって、救済が確かにその人のものとなるのです。 
水と御霊の福音を心の底から信じるなら、水と御霊の福音を聞き信じることによって罪の赦しを受けたと神の前ではっきりと認めるのです。 今水と御霊の福音の真理を信じているのなら、その証拠を心の中に見出すことができるはずです。
神の前で自分の信仰を注意深く調べるのです。 自己の信仰を点検することは、少しも恥ずかしいことではありません。 イエスを信じるようになってから、水と御霊の福音を心の底から信じるようになるのに五年かかったとしても、それは少しも恥ずかしいことではありません。 救われるのに十年かかったとしても、恥ではありません。救われるのにたとえに二十年かかったとしても、それでもまったく恥ずかしいことではないのです。それどころか、それは恵みです。
しかしながら、現実は、罪から救われているふりをしている人が大勢いるのです。しかし、すべてを探る御霊はそうした人々の信仰を認めることができません。その人たちは救済について正直な一線を画していないためです。今でも、自己の救済の境界を定めることは賢明なことです。自分が救われた日を正確に知っていることではなく、ここで大切なことは、救われる前と後とを明確に区別すること、そして、完全な信仰をはっきりと告白することです。
 
 

信仰の父たちもまた、現在の聖徒と同じ福音を信じた

 
紅海を渡ったイスラエル人がヨルダン川を渡ってカナンの地に入ろうとしたとき、神のあかしの箱を運んだ祭司の後に従ってはじめて無事に渡ることができました。「なるほど、そうすればヨルダン川を渡ることができるのか」と考えるだけで実際に渡らなければ、ただ対岸にとどまっていて、カナンの地に入ることができません。カナンの地に入るには、主への信仰をもって紅海とヨルダン川を渡らなければなりません。
霊的に言って、ヨルダン川は死とよみがえりの川です。聖徒を罪から救った信仰は、「私は地獄に投げ込まれなければならなかったが、主がこの世の来られ、バプテスマと十字架の血とによって救ってくださった」と信じる信仰です。人類を完全に救ってくださるために、主はヨルダン川でバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されました。このようにして、人類の罪を被られ、身代わりとしていのちを捨てられて罪を贖われたのです。ですから、この真理を信じ、信仰と救済の一線を心の中に画すのです。
神のみことばを説いていると、まだ救済の一線を心に明確に画しておらず、主に従うことができない人々が教会に大勢いるのがわかります。その人たちは、どうしたら救済の前と後に一線を画すことができるのだろうと考えます。その人たちは言い訳します。「かつてこの世にこの一線を画した人がいただろうか。使徒パウロはそうしたろうか? ペテロはどうだ? 誰もそんなことはしていない。」しかし、パウロやペテロのような信仰の使徒は、みな救済の一線を画しました。
パウロの場合、ダマスコに行く途中でその一線を画しました。そこで、しばしば「昔、かつて、以前」といったことばを「今」と対照的に用いました。ペテロはというと、同じことばを使いました (ペテロI 2:10、14, 25)。ペテロの告白を読むと、彼もまたこの一線を画していたことがわかります。「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ 16:16)、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(ペテロI 3:21) パウロもペテロも、救済の前と後に信仰の一線を明確に引いたのです。
ですから、水と御霊の福音を信じるかどうかは、他人の問題ではなく、その人の魂の問題なのです。聖書の神のしもべはみな罪の問題と取り組みました。これは、すべての人にきわめて重要な問題なので、自分で信仰によって解決しなければなりません。水と御霊の福音を信じ、それによって罪の問題を心の核心から解決してしまうと、神は大いに喜ばれます。神をお喜ばせしたいですか? それなら、自分の罪深さを認め、水と御霊の福音を信じてその問題を解決するのです。これまで救われずに来たのなら、「神様、私はまだ救われていません」と告白するのです。
イエスは、「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」(マタイ 16:19) とおっしゃいました。人間の方は、まず「神は水と御霊によってお救いくださいました。たった今、水と御霊の福音の真理を心から信じています。主が水と御霊の福音によって救ってくださったことには、まったく疑いの余地がありません」と告白するのです。
人はみな、水と御霊の福音を心に受け入れなければなりません。「この福音を信じます。これは真理なのであり、主が罪を十分以上に消してくださったので、私はこの福音を信じているのです。信仰によって救われているのではありません。」このように認識して主がお与えくださった福音を信じるなら、神は「あなたの信仰を認める」とおっしゃいます。
神がすでに人間を完全に救う水と御霊の真理をくださっているのに、人間が救済の一線を画さず。この真理を信じて救済を受け入れることをしなければ、神もまた、その人を救われた者とお認めになることができません。神は人間を原則的にではなく個々に扱われるので、水と御霊の福音を心の底から信じなければ、罪の赦しをお与えになることができないのです。つまり、水と御霊の福音を心で認めなければ、御霊はその人の心に宿ることができません。
水と御霊の福音の以外の福音をすべて偽物として退けますか? それとも、そうした偽の福音でも有用だから、放棄する必要はないと考えますか? 自分の心を点検し、どのように信じているかを調べましょう。たとえば、中古の電気器具の山にぶつかったとしましょう。さらに、そのうちのいくつかはまだ再利用できると考えて家に持ち帰ったけれど、後になってどれも動かず、役に立たないことがわかったとしましょう。では、それでもそれを持っていますか、捨てますか? どれも役に立たないとわかったなら、もちろん全部捨てなければならないでしょう。ある物がけっして役に立たないし、本物でもないという結論に達したなら、それをきっぱりと捨てる方法もわかっているでしょう。
世俗的なことでそのように行動するのなら、霊的なことではどのようにするべきでしょう。霊的なことにおいては、より決然と嘘を退けなければなりません。水と御霊の福音への信仰を十字架の血だけを信じるにせの信仰とはっきり区別しなければなりません。十字架の血だけを信じる信仰は、けっして救済をもたらしません。断固としてこの誤った教義を捨て去るのです。どれが聖書に基づいた福音ですか? それは、十字架上の血だけの福音ですか? それとも、水と御霊の福音ですか? 人が水と御霊の福音を信じる信仰をもち、それによって罪から救われることを神は喜ばれます。
つまり、キリスト教徒には二種類あるのです。水と御霊の福音を信じる人々と、信じない人々です。どちらも同じような信仰生活を送っているように見えるでしょうが、実態はというと、両者は全く異なっているのです。以前信じていた不完全な福音がまだ役に立つと考えているのですか? いつか役に立つことがあるかもしれないと思って、ずっとそれを守っているのですか? 
そのような信仰は誤った信仰で、人間の考えから生まれたものなのですから、過去の古い物はみな捨て去らなければなりません。誤ったものや嘘を捨てないでいるために心の底に問題があるのです。主のみことばを覚えておきなさい。「あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。」(レビ記 19:19)
 
 
聖所に入るには、入り口から入るしかない
 
幕屋の入り口は、どのような素材で作られていたでしょう? 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布でした。水と御霊によって新たに生まれた者は、幕屋のこの垂れ幕を通って聖所に入るのです。幕屋の入り口の柱の下には、青銅の台座が据えられていました。青銅の台座は、水と御霊の福音が救済の真理であると告げています。
台座は、人間は罪のために神の呪いを受けて死ぬしかないが、水と御霊の福音によって、水によって新たに生まれる恵みを受けて、神の民になったことを告げています。入り口に用いられた四つの色の糸のうち、緋の糸の体現するイエスのみわざだけを信じて救われることができるという誤った考えを捨ててはじめて、人は幕屋に入ることができるのです。
自己中心的な考えと信仰とを放棄しなければ、けっして青色・紫色・緋色の撚り糸に体現された救済を信じることはできません。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布に体現された真理は水と御霊の福音なのであると知り、以前十字架の血だけを信じていたときの自己中心的な考えの誤りを認めなければなりません。
神がそのおつもりなら、水と御霊の福音の真理へと導いてくださいます。水と御霊の福音の真理を信じる者だけがすべての罪を赦され、永遠のいのちを受けることができます。そうしてはじめて、この真理を心の底から信じて救済の扉を開き、聖所に入ることができるのです。
水と御霊の福音を知る以前の信仰の誤りを悟ることができなければ、救われることができないのですから、罪の罰を受けることになるでしょう。そうなれば、聖所に入っていのちのパンを得ることもできません。水と御霊の福音を信じて聖所に入ってはじめて、人は焼きたてのいのちのパンを食べることができるのです。
よろしいですか、主は青い糸、つまりバプテスマによって罪を洗い流され、緋色の糸、つまり十字架上で血を流されて罪の罰をお受けになって、人を神の子どもとなさったのです。また、水と御霊の福音は人間にとって絶対に必要な真理であると知り、信じていることが必要です。神が水と御霊の福音をくださったお方であると知り、この福音を信じてはじめて、神の教会に来て義人といのちのパンを分け合うことができるのです。
 
 

主の肉はいのちのパン、罪の赦しである

 
ヨハネの福音書第 6 章 49-53 節を読みましょう。「『あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』すると、ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。』と言って、互いに議論し合った。イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』」イエスは、ご自分の肉を食べ血を飲む者は永遠のいのちを得るとおっしゃいました。ここは、人はみなイエスの肉を食べ、血を飲まなければならないと言っているのです。
では、どうしたらイエスの肉を食べ、血を飲むことができるのでしょう。水と御霊の福音を信じることによって、人はイエスの肉を食べ、血を飲むことができるのです。イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られたと信じて、人はイエスの肉を食べ、イエスが人類の罪を被られ、十字架上で身代わりとなって罰を受けられたと信じて、人はイエスの血を飲むことができるのです。
また、イエスが青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布が体現した救済のみわざによって、人類の罪を消し去って神の子どもとなさったのだということも信じるのです。水と御霊の福音を信じる前にどのように信じていたかとは関わりなく、その古い信仰は誤っていたのだと認め、イエスの肉と血を受けて信仰の枠を作り、みことばのパンを食べるのです。
ヨハネの福音書第 6 章 53 節には、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」とあります。今でも、この部分を全質変化の教義を主張するために利用している人々がいます。この教義は、信仰をもって儀式を行なうと、聖餐式に用いられるパンとワインが実際にイエスの血と肉に変質すると主張します。しかし、ヨハネの福音書第 6 章 23 節のこの句は、全質変化について述べたりしているのではまったくなく、実は、水と御霊の福音について述べているのです。
聖餐式の際、列に並んで待ち、司祭が一切れのパンを口に入れてくれると、このパンはイエスの体に変化するのでしょうか? しません。イエスがこの世に来られ、バプテスマをお受けになって世の罪を負われて洗い流され、罪を十字架に運ばれてその上で死なれて人類を死から救ってくださったのだと信じて、人はイエスの肉を食べ、血を飲むことができるのです。
信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲む者とは、イエスが青と緋の糸によって人類の罪を被られ、罪の罰をその身にお受けになって人類を罪から救われたという真理を信じる者です。人はイエス・キリストのバプテスマと血への信仰によって、イエスの肉を食べ、血を飲むのです。
人類の罪をその身に負われるために、イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。マタイの福音書第 3 章 15-17 節を読みましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
ヨハネからバプテスマを授けられたときに人類の罪をすべて被られ、十字架上で死なれることによって、イエスは神の義をすべて満たされたのです。ヨハネからバプテスマをお受けになったときに世の罪がすべてイエス・キリストの上に移されたという福音の真理を信じる信仰が、イエスの肉を食べ、血を飲むことを可能にする真の信仰なのです。
この真理を認めるなら、その人はすでに信仰によってイエスの肉を食べているのです。世の罪がイエス・キリストの上にただ一度で移されたのは真理なのですから、これを心の底から信じることが極めて重要なのです。この信仰が、イエスの肉を食べることを可能にする信仰なのです。みなさんの罪は、バプテスマによってイエスの上に移されましたか? これを信じてはじめて、人はイエスの肉を食べることができるのです。イエスにバプテスマを授けた後で、バプテスマのヨハネは叫びました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29) 
イエスはバプテスマによって世の罪を受けられたので、罪をすべてその身に負われ、十字架につけられ、血を流して死なれたのです。このように十字架につけられ、両手両足に釘を打たれ、血を流されて、イエスは死の間際に「完了した」と叫ばれました。それから三日後に死者の中からよみがえられ、四十日間あかしなさり、そのままのお姿で昇天なさり、今は父なる神の右手の座に着いておいでです。そして、主は昇天なさったときと同じように戻られると約束なさいました。みなさんは、この真理を心の底から信じていますか? この真理を信じることによって、人はイエスの肉を食べ、血を飲むことができるのです。ほんとうに心の底から信じることによって、イエスの肉を食べ、血を飲むことができるのです。この信仰によって、聖所のパンを食べることができるのです。
主は、集まるときは常にご自分の肉と血とを思い起こすようにとお命じになりました (コリントI 11:26)。ですから、聖徒が集まるときにはいつでも、イエスの肉と血とを祝うのです。聖徒が集まるときにはいつでも、信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲むことになっているのですから、どうして聖餐式だけを公式の儀式とみなすことができるでしょう。
イエスがそれによって人類の罪を被られたバプテスマと十字架上の犠牲の血とを信じているのですから、信仰によって、毎日イエスの血と肉を思い起こすのです。聖徒は水と御霊の真理を信じているので、毎日イエスの肉を食べ、血を飲むのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(ヨハネ 6:54) とおっしゃいました。主は、ご自分の肉を食べ血を飲んだ者を終わりの日によみがえらせます。
よろしいですか、信仰によってイエスの肉を食べ血を飲むことができないのなら、それは誤った信仰なのです。主は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ 6:54-57) とおっしゃいました。
信仰によって主の肉を食べ、血を飲む者は、誰でも主のおかげで生きるのです。それに対して、主の肉を食べず、血を飲まない者は死にます。信じなかったためです。信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲むのは難しいことではありません。
ここで、神の御国に入るために救済試験を受けなければならないとしましょう。問題の一つは、「何によってイエスの肉を食べ、血を飲むことが可能になりますか」です。この問にどう答えますか? イエスの血と肉とが真理をなすときに、どうして血を飲んだだけなのに肉を食べたと言えるでしょう。イエスのバプテスマと十字架の両方を解答欄に記入しなければなりません。イエスの肉を食べ、血を飲んではじめて、人は天の御国に入ることができるのです。たとえ以前は誤り信じ、誤解していたとしても、心を改めてイエスの肉を食べ、血を飲むなら、試験に合格できます。たった今、この瞬間にイエスの肉と血とを信じるなら、十分に試験を通ることができるのです。
人々は外見を見ます。しかし、神は心の底をご覧になるのです。ですから、イエスのバプテスマと十字架上の血との両方を信じたとき、イエスの肉を食べ、血を飲んでいるのです。神は、人間の心底にほんとうにイエスの血と肉への心からの信仰があるかどうかをご覧になります。ですから、イエスの肉と血とを心の底から信じないのなら、その人は罪から救われていないのです。以前はどのように信じていたにしろ、今イエスの肉と血の両方を信じる信仰があるのなら、その人は天の御国に入ることができます。
この世界の多くの信心家は、本質変化の教義が真実であるかどうかについて、果てしなく議論しています。実際は、ほんとうに必要なのは、イエスの肉を食べ、血を飲むことを可能にする信仰なのです。それは、水と御霊の福音を心で信じてはじめて可能になるのです。水と御霊の福音によってイエスを心の底から信じることが、真のパンを食べ、真の飲み物を飲むことなのです。
 
 
イエスのバプテスマと血とを罪の赦しと信じる
 
主は、「わたしの血はまことの飲み物」(ヨハネ 6:55) とおっしゃいました。主は十字架上で罪の罰を受けられました。イエスがバプテスマをお受けになって人類の罪を負われ、十字架上で血を流されたと信じる信仰が、イエスの血を飲むことを可能にする信仰です。ヨハネからお受けになったバプテスマによって、イエスはみなさんの子どもや両親、人間一人一人の罪をすべて被られ、十字架上で血を流されて、そうした罪すべての罰をお受けになったのです。バプテスマと血とによって、イエスは人類の罪の問題をすべて、全世界のすべての人のために完全に解決なさいました。イエスがこのようにバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架の血によって人類の罪の罰をお受けになったと信じることが、信仰によってイエスの血を飲むということなのです。
今日の世界には、口先だけで水と御霊の福音を信じるという人が大勢います。しかし、その人たちは、イエスの血と肉とを完全に信じてはいません。イエスの血と肉を信じる完全な信仰をもたない人は、誰も罪を赦されることができません。以前は十字架の血が唯一の真理だと信じていたかもしれませんが、今は真理を見出したのですから、イエスの肉と血とを信じる信仰をもっているはずです。そうしてはじめて、神はその人を救われた者とみなされます。しかし、この問題について──つまり、イエスの肉と血とを心の底から信じる信仰によって受ける罪の赦しについて──明確な一線を画さないのなら、その人は神に認められる信仰をもってはいないのです。
主は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」(ヨハネ 6:56) とおっしゃいました。信仰によってイエスの肉を食べ血を飲まなければ、人は神の御前に進むことができません。そして、イエスの血と肉とを信じる信仰をもたない者は、誰も主の内にとどまることができません。教会の聖徒・働き手・しもべの誰ひとりもイエスの肉と血とを信じるこの信仰から離れることのないよう、心から願っております。
ソドムとゴモラが炎で破壊されたとき、ロトの婿たちは、神がロトに告げられたいのちのみことばをただの冗談だと思いました。神のみことばをまじめに受け取らない者には、記されているように神の裁きが下されます。信じない者は、不信の罪のために罰を受けます。その人たちは、罪のために滅ぼされます。これはクスクス笑っておしまいにできるような、笑い事ではありません。
水と御霊の福音は、イエスの肉と血への信仰に帰すのです。この真理を信じることによって聖徒は罪を赦され、永遠のいのちを受けているのです。聖徒の信じているイエスの血と肉への信仰は、真の福音、本物の真理なのですから、この信仰を心にもち続けるのです。初めに心に信仰の枠を高く作ることによって、神のみことばのすべてを堅持するのです。決してこぼすようなことがあってはなりません。心で信じて、神がイエスの肉と血とによって罪人の咎のすべてを消されたという真理を受け入れるのです。
みなさんが、主の全うされた水と御霊の福音を信じ、人を罪から救う救済のパンを食べ、永遠のいのちを受けられるよう願い、祈っております。