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主題 27: コロナウイルスの時代において私たちへの神の手紙

[27-1] 私たちはこの世ではなく、天に属している ( 黙示録 4:1-11 )

( 黙示録 4:1-11 )
「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』 
たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。
御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
神であられる主、万物の支配者、
昔いまし、常にいまし、後に来られる方。』 
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
『主よ。われらの神よ。
あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、
あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』」
 

最近、私たちのウェブサイトを訪れた人たちが、二ヶ国語対応の電子ブックをたくさんダウンロードしていると聞きました。二ヶ国語対応の本を導入した当初は、せいぜい数名の方がダウンロードされる程度でしたが、昨日だけで14名の方がダウンロードされたとのことで、嬉しい限りです。世界各国には独自の言語がありますが、二つの言語の文章を見比べながら読めるように二ヶ国語対応の本を用意しました。これらの本は世界中の人に非常に人気があるので、今後も二ヶ国語対応の本を出していきたいと思います。世界には、二つ以上の言語を使う人がたくさんいます。また、同じ家族でも子どもと親が異なる言語を話す国も多いので、そのような家庭には私たちの二ヶ国語対応の電子ブックがとても役立つと思います。二ヶ国語対応の電子ブックが増えれば増えるほど、世界中の人々がダウンロードし、水と御霊の福音のみことばのおかげで魂が豊かになっていくことでしょう。すべてのケースを語ることはできませんが、中には何十冊もの電子ブックをダウンロードしている人もいますので、期待が高まります。その人たちは、私たちの電子ブックをダウンロードした後、何をするでしょうか。さらに多くの人と共有するでしょう。そして、その人たちの心にも変化が起こるでしょう。だからこそ、私たちは主の正しいみわざに感謝しつつ、より一層の努力をするのです。
ヨハネの黙示録 第4章の全体を読みました。少し前に、使徒ヨハネがアジアの七つの教会に向けて発したメッセージをお伝えする機会に恵まれました。黙示録を書いた使徒ヨハネは、イエスの弟子で、四つの福音書のうちの一つであるヨハネの福音書と、ヨハネの手紙第一、第二、第三も書いています。
イエスに最も愛された弟子であり、人生の最後にはローマ皇帝から迫害を受け、パトモス島に追放されたのです。使徒ヨハネの故郷であるイスラエルは、当時ローマに支配されていたため、ローマの支配に逆らった者は投獄され、苦しみに耐えることがよくありました。使徒ヨハネは、ローマに反抗して皇帝崇拝を拒否したため、ローマの役人からパトモス島に追放され、囚われの身となったのです。しかし、パトモス島に流された使徒ヨハネは、イエスと深い交わりを持つことができたので、この苦しみが祝福となり、ここで『黙示録』を書き上げたのです。この島で、神は使徒ヨハネにこれから起こることを示されました。このように、義人も時々は苦難に遭いますが、その苦難から祝福されるように、神はあらゆることを働かせてくださるのです。
使徒ヨハネに示された神の啓示が、現代の私たちに受け継がれているのは、神の摂理によるものです。使徒ヨハネが書いた啓示の手紙を、その背景を理解した上で読むと、神が私たちをどのように導いてくださるのか、安心して知ることができます。苦しみがあるからこそ、より一層、主に従うことができるのです。
 


「必ず起こる事をあなたに示そう」


パトモス島で、神は使徒ヨハネに、この世界がどのように変化するかを示されました。追放されて疲れていた使徒ヨハネは、神に祈っていたところ、神の霊に導かれて、天の啓示を聞き、見ることができました。次のように書かれています。「この後、必ず起こる事をあなたに示そう」(黙示録 4:1)。
黙示録 第 4 章 1-11 節では、聖霊に動かされた使徒ヨハネがその目と心で見た天の支配について、神が語っておられます。そこでは、神の御座、金の冠を頭にかぶって座っていた二十四人の長老たち、そして、六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた四つの生き物を見ました。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けました。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
神であられる主、万物の支配者、
昔いまし、常にいまし、後に来られる方」(黙示録 4:8)。
ここで、聖書に「......後に来られる方」と書かれているのは、イエス・キリストのことです。水と御霊によって来られ、私たち人間すべてをこの世の罪から救ってくださった救い主のことを指しています。
全人類がこの世の罪に陥り、滅びる定めにあったとき、主はこの地上に来られ、水と血の福音によって人類を罪からただ一度で救ってくださいました。この主がイエス・キリストです。このすべてのみわざを終えたイエスは、死人の中からよみがえられた後、弟子たちの前に現れて、次のようにおっしゃいました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ 28:18)。主は天と地の支配者です。罪人の救い主であられるだけでなく、サタンや義人を支配する支配者でもあります。私たちは、イエスの統治をしっかりと理解し、主にお会いする日まで信仰によって生きることがとても大切です。
旧約聖書の時代には、祈りはヤハウェにのみ捧げられていましたが、新約聖書の時代には、神であられるイエス・キリストにも祈ることで、祈りが答えられることがわかっています。イエス・キリストは、水と血と御霊の福音を信じる私たちに、これらすべての祝福を与えているとおっしゃいました。
ヨハネの黙示録 第 4 章では、主が天の支配から地上の支配まで、すべてのものをどのように支配しておられるのかを示しています。すべての人間は、イエス・キリストの高貴さとその御力の前に頭を垂れて、主を賛美し、礼拝しなければなりません。私たちは神の愛を身にまとっているので、信仰によって神を礼拝することができます。
イエス・キリストは、実際、神のすべての造られたものと御使いから賛美されるにふさわしい方です。昔、神の啓示された名前は、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という意味のヤハウェや、「全能の神」という意味のエロヒム(אֱלהִים)など、いくつかありました。イエス・キリストは、天と地を創造され、すべての造られたものの上に君臨し、支配しておられる神ご自身です。これが、今日の聖句が私たち全員に示していることです。それは、水と御霊の福音を信じる私たちに、イエスが私たちの賛美と礼拝を受けるにふさわしい神ご自身であることを伝えています。イエスは、水と血の福音によって私たちを救ってくださり、その栄光と誉れは限りなく大きいからです。
主がこの地上に戻られるとき、この世に生きている義人をご自分の御国――つまり、天の御国――に連れて行かれる一方で、イエス・キリストが真の支配者であられることを信じず、逆らっている人たちをすべて裁かれます。こうした人々は、その行ないと不信仰のために相応の裁きを受けます。
イエス・キリストが私たちを天の御国に連れて行くことができるのは、イエス・キリストがみなさんと私をこの世のすべての罪からただ一度で救う力を持っておられるからです。イエス・キリストは、30歳のときにバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによってこの世の罪をただ一度で負われ、十字架で血を流して私たちの罪の代価をただ一度で支払ってくださったので、私たちを完全なものにすることがおできになります。そして、この真理を信じる地上のすべての人々をよみがえらせて、救いのみわざを完成されました。今、私たちの主イエス・キリストは、天の御座に着座して私たちを待っておられ、神のすべての民のために天の御国を用意しておられるのです。
イエスは天と地にあるすべてのものの支配者であり、天地の主であられます。イエス・キリストは、人類の救い主であるだけでなく、真の神ご自身であり、すべての信者から栄光と誉れを受けるべき方です。
私たちは、イエスが私たちの真の支配者であることを信じなければなりません。水と御霊の福音を信じる私たちを通して、イエス・キリストが栄光を受けるのは当然のことであり、イエス・キリストは私たちのためにこの地上で神の義のみわざを実行してくださったのです。この時代に、水と御霊の福音を信じる私たちはみな、神の民となり、神のしもべとなり、神の喜びとなりました。主はこの世に罪人を探しに来られ、水と御霊によって彼らを救われ、この真理を信じる私たち全員を愛され、祝福してくださっているのです。
 


イエス・キリストには天においても、地においてもいっさいの権威が与えられている


終わりが近づくにつれ、みなさんと私は、真の支配者かつ神ご自身であられるイエス・キリストについて正しい知識を持ち、信仰によってイエスに頼り、イエスに従うことが絶対に必要です。そのためには、すべての人がこの神に祈らなければなりません。私たちは、自分のすべてを支配者であるイエス・キリストに委ねて、平和に生きるべきなのです。そして、終わりが近づいてきた今、私たちは生活の中で、支配者であるイエスとその義をさらに高めなければなりません。
黙示録は、主に救われた私たちが、これからどのようにして神とともに栄光のうちに生きるのかを示しています。イエス・キリストの義は、水と御霊の福音を信じる私たち全員にまことの救いをもたらし、イエス・キリストが私たちの神であるという信仰を持って生きることを祝福してくださっています。私たちは、この終わりの時に支配者がおられることがどれほど素晴らしいことかを悟らなければなりません。
ある人は、イエスを救い主として信じていると主張しますが、実際には、イエス・キリストが天地の支配者であることを認識していません。つまり、彼らの信仰は、実際には、自分の頭の中で信じているだけに過ぎないのです。自分の宗教心の問題としてのみイエスを信じている人たちは、父なる神は偉大な神だと思っていますが、イエス・キリストがすべての人から賛美と栄光と感謝と誉れを受けるにふさわしい神ご自身であられることを知りません。その結果、イエス・キリストのみわざとその支配を無視しているのです。これはとても残念なことです。彼らは、イエス・キリストが父なる神と同じ権威も力も持っていないと勝手に勘違いしているのです。私たちの誰もが、すべての支配者であるイエス・キリストを誤解し、誤って信じてはなりません。このような重大な過ちを犯してはならないのです。
ですから、水と御霊の福音によって私たちのもとに来られたイエス・キリストが、私たち全員にとっての真の支配者であり、私たちの王であり、大祭司であり、真の預言者であることを認識しなければなりません。聖書に書かれている「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ 11:36)の意味を把握することが必要です。天と地の万物を造られたこの神は、水と御霊の福音によって、みなさんと私をこの世のすべての罪からただ一度で救ってくださっただけでなく、私たち信者にとっても真の神であることを理解しなければなりません。つまり、イエス・キリストは天と地の支配者なのです。
支配者である神は、その権威を軽んじる者の罪を裁かれますが、その権威と真理に従う者には報いてくださいます。旧約聖書と新約聖書の両方では、神は宇宙の万物を造られた創造主として語りかけ、主が堕天使の罪を裁く裁き主であり、支配者であることを示されました。支配者は正義であり、公正であるがゆえに、神のあわれみを望まない人々の罪をも裁くことを示されました。このような正しい神が、卑しい被造物に過ぎない私たちを、世のすべての罪からただ一度で救ってくださったのは、神の大きなあわれみのおかげなのです。そういうわけで、今、神のあわれみに寄り添い、水と御霊の福音を信じている私たちは、この神を私たちの救い主、私たちの支配者と呼んでいるのです。
イエス・キリストは、私たち全員にとって真の支配者であり、神であられます。ですから、イエス・キリストは私たちからすべての栄光を受けることを望んでおられます。私たちは、その期待に応えなければなりません。イエス・キリストは、私たちを世の罪から救ってくださった神であられるために、私たちによって栄光を受けるにふさわしい神ご自身です。この神は、今の時代においても私たちの支配者であり続けます。私たちは、神の前に立つその日まで、神のあわれみを切望しているすべての罪人たちに、神のあわれみを現すためにたゆまぬ努力をしなければなりません。このように、支配者の正義を信じる者が自分の人生で神をたたえることができるのは、信仰によるのです。
私たちが信じている神は、神の義に立ち向かう相手をただ打ち負かすのではなく、あわれみ深い愛と正義をもって彼らに打ち勝つことを望んでおられます。神は、罪人がそのあわれみによって救われることを望んでおられるのです。
そのため、黙示録では、イエス・キリストが御使いたちや長老たちから拝まれるにふさわしい方であることを示しているのです。次のようにあります。「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから』」(黙示録 4:10-11)。
今、水と御霊の福音を信じている私たちはみな、主がどれほど高貴な方であるかを知っており、この理解に基づいて、私たちは従順に主に身をゆだねています。それは、いと高き方が私たちの真の救い主であられるだけでなく、真の支配者であられるからです。
 


真の支配者とは誰なのか


昔、ある御使いたちが神の権威に挑みましたが、神はその力でこの反逆者を滅ぼすことを望まれず、むしろ神の義とあわれみと正義で彼らに打ち勝つことを望まれました。そして、支配者である神のみこころは、神の義と愛を信じる私たちが真の祝福を受けることでした。人類の支配者は、御使いたちではなく、私たち人間にあわれみ深い愛を与えようとなさったのです。
私たちの支配者であられるイエス・キリストは、サタンの誘惑に負けて神に背いたアダムの子孫にご自分の義をお与えになり、この祝福を神の贈物である水と御霊の福音を通して喜んで啓示されました。水と御霊の福音を信じる者を、世のすべての罪から永遠に救うことを喜ばれたのです。神は、人間が神の公正な愛によって、すべての不従順の罪から救われることを望んでおられました。そういうわけで、神は造られたものの中でも、自分の罪を自覚し、神の義を信じる者を祝福なさって、神のまことの子どもとなさったのです。
昔、神に敵対した御使いたちのように、今でも多くの人々が神の義に敵対しています。そこで、主権者である神は、神のみこころに敵対した罪を犯した堕天使たちを罰しようとしました。しかしながら、神は人間をこの御使いたちとは違った形で扱われました。彼らを罰する代わりに、神は、真の救いの恵みを人間に啓示することを喜ばれました。この救いの恵みは、イエス・キリストが私たちに与えてくださった水と御霊の福音に啓示されています。神はこの福音のうちにご自分の正しい愛を現されたので、それを信じる者は神の栄光を見ることができるのです。
さて、それでは、私たちはみな、あわれみ深い神がその愛と義に基づいて私たちに与えてくださった救いを信じなければなりません。すべての造られたものは、イエス・キリストだけが、私たちを世の罪から解放してくださった救い主であることを信じ、告白しなければなりません。私たちの支配者であるイエス・キリストは、全人類をこの世の罪から解放してくださいました。もしそうしてくださらなかったら、私たちはみな、神の義に敵対する神の敵のままだったでしょう。
したがって、私たちは、私たちを義としてくださった支配者の愛を信じ、この信仰によって救いに到達しなければなりません。そして、この信仰によって、主に感謝しなければなりません。主権者である神は、私たちを罪のない者にしてくださいました。私たちのご主人であり、救い主である主が、堕天使に対処なさったように、私たちに対処なさらなかったことを感謝しなければなりません。ですから、私たちは生活を送るにあたり、真摯な信仰をもって神をたたえるのは、当然のことです。私たちは主権者である神のかたちに造られ、この主権者である神は、私たちをすべての罪からただ一度でお救いくださるためにこの地上に来られたのです。そういうわけで、私たちは生活の中で神の救いを信じ、神の支配を信頼しなければならないのです。結局、救い主が私たちを世の罪から解放してくださったという事実を考えれば、この神に支配されないわけがないのです。
ヨハネの黙示録でイエス・キリストが神の御座に着座しておられる姿が描かれているように、今、信仰によって救われている私たちもみな、イエスの御国に住むことになります。神がこの地上でなさったことを信じる者は全員、イエスと一緒に天国で暮らすという栄光も受けるのです。この栄光の祝福は、支配者のあわれみを信じる者に与えられる神の祝福です。私たちは、支配者とともに天の御座に座り、永遠に生きる祝福された者です。義人の支配者である神の公正な愛を信じる者は誰でも、神の御国で神とともに永遠に生きるのです。神がご自分の民に永遠の豊かさと栄光を享受するように祝福してくださっていることを決して忘れてはなりません。ですから、私たちの救い主であり、支配者である神に、すべての感謝と誉れと栄光をささげます。そして、そのためには、主のために信仰を生き抜かなければなりません。
使徒ヨハネは、天の支配者を通して、誰が天の祝福を受けるのかを示しました。また、イエス・キリストを信じて救われた私たちには、どのような祝福が待ち受けているのかを示してくれました。私たちは、主が水と御霊の福音によって、世の罪からただ一度で救ってくださったことに感謝しています。まだ、それだけではなく、天の御国で支配者と永遠にともに生きることができるのですから、感謝と栄光をささげずにはいられません。
イエス・キリストが私たちの神であることを信じることで、私たちはみな、自分の生活において神をたたえることができます。神は私たち全員に天の祝福を与えてくださったのですから、私たちは残りの生活を主権者である神に委ね、ささげるべきです。私たちは、神が意図された通りに、信仰と奉仕の生活を送るしかありません。
 


主はこの地上に戻って来られる


神が黙示録の中で使徒ヨハネにこの肖像をお見せになったのは、ヨハネをはじめとする多くのキリスト教徒が神の敵から激しい迫害を受けるようになっていたからです。つまり、原始教会の時代にも、主の弟子たちは主の再臨を待ち望んでいたのです。21世紀を生きる私たちも、主の再臨を待っていることを覚えておくべきです。
今は2021年ですが、2035年には化石燃料を使った内燃機関がすべて禁止されると言われています。では、自動車の動力源は何になるのでしょうか。電気や水素など、環境にやさしい代替エネルギーで動くようになります。最終的には、ドローンのように空を飛べる乗り物も実用化されるでしょう。2055年までには、1リットルの水素が山のような石炭や石油の代わりになるほどの技術進歩があるとされています。
すべてのものがますます物質的になっていきます。人間の尊厳が失われ、コンピュータやインターネット、人工知能(AI)がすべてを支配する新しい時代がやってくるのです。その時、人間の命は無慈悲に切り捨てられ、AIが高められるようになります。AIを支配する者が他を支配し、ますます多くの人々が神の義を信じる者たちに敵対し、そして支配者である主が来られ、私たち信者を連れ去ってくださるでしょう。
主権者である主がこの地上に戻って来られます。主が私をすべての罪から救ってくださったことに限りなく感謝していますが、それでも心の平安を保つのに苦労することがあるので、神が用意してくださった天の支配を待ち望んでいます。私は、イエス・キリストが天と地の万物を創造なさり、それらすべてを支配なさり、すべてに命令を下しておられることを心から信じています。
 


今、神に属している者は未来に希望を持っている


ヨハネの福音書 第 18 章 36 節には、次のように書かれています。「わたしの国はこの世のものではありません。」 ここでイエスが、わたしの国はこの世のものではないとおっしゃったのは、主がこの世のものではないという意味です。これは、私たちもこの世に属していないことを意味します。では、私たちは誰に属しているのでしょうか。神の正しい愛を信じる私たちは、支配者であるイエス・キリストに属しているのであって、敵であるサタンに属しているのではありません。
「主の祈り」にあるように、主権者である主に匹敵するものは、天にも地にも、いや、全宇宙にもありません。
「天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように
地でも行なわれますように」(マタイ 6:9-10)。
つまり、神はすべての造られたものの上におられ、彼らを支配しておられるということです。私たちも同じで、主は、次のようにおっしゃいました。「あなたがたはこの世の者ではないから、世はあなたがたを憎むのです。わたしがこの世のものでないように、あなたがたもこの世のものではありません。」
また、主は私たちに、「あなたがたが天に属する霊的な存在であることを知って、この地上で神に逆らう者たちに対して、霊的な立場で対抗しなさい。」とおっしゃいました。主は私たちに、ご自分が連れ去りに来る支配者であることを信じなさいとおっしゃいました。この地上で生きている間、私たちはみな、地上の労働に耐え忍ばなければなりません。どのくらいの期間、地上で働かなければならないのでしょうか。世界中の人々に水と御霊の福音を広めるまでです。
水と御霊の福音を信じる私たちは、この世のものではありません。主に属する者は、罪がないので、主のおられるところに住むのです。主が再び死人の中からよみがえられたように、私たちも再び死人の中からよみがえり、主が尊ばれているように、私たちも主とともに尊ばれるのです。結局のところ、水と御霊の福音を信じている私たちは、御使いたちに仕えられるのです。神の子どもだからこそ、そのような祝福を受けることができるのです。
今、この瞬間にも、みなさんの心の中には、主権者である主への信仰がなければなりません。私たちはこの世に生きていても、神のものであって、サタンのものではないからです。いまだにサタンに属している人たちには、まったく希望がありません。この世が滅びるとき、神に逆らう者たちもこの世とともに滅びます。
一方、私たちはこの世のものではなく、支配者であるイエス・キリストに属しているので、天の御国に入って生活するという希望を持っています。ですから、みなさんには、私たちが本当は何者であるかを自覚し、神のみことばへの信仰によって生き、支配者であるイエス・キリストが戻って来られたときに神の御国に入れることを信じていただきたいと思います。新約聖書に書かれているように、私たちは神の前に出て行き、立つのです。
私たち義人はこの世界に生きていますが、時の終わりが来て、私たちに艱難が訪れるとき、私たちが日常生活の中で読み、聞いてきた真理のみことばが私たちの力となり、霊的な敵と戦い、勝利する力を与えてくれます。水と御霊の福音を信じるすべての人の心の中に支配者のみことばが働いているので、いざ霊的な戦いをするときには、すべての敵を打ち負かすことができます。この勝利は、拳で戦うことによって得られるものではありません。むしろ、水と御霊の福音を信じる正しい信者である私たちが、神のみことばへの信仰によって、サタンとそれに属するすべての人々に立ち向かい、勝利するのです。もし私たちが霊的な敵によって殉教したとしても、主は私たちを天の御国に連れて行ってくださいます。なぜなら私たちは支配者のものだからです。主権者である主に信頼することによってのみ、私たちは未来への希望を得ることができるのです。
主は必ず支配者としてこの世界に戻って来られます。来られる方、イエス・キリストは、王の王です。その方は今、白い御座に着座しておられます。ヨハネの黙示録第 20 章を見ると、大きな白い御座の審判を行うのは主であることがわかります。父なる神は、その御子を義の裁き主としてお立てになりました。罪人の裁きを御子に委ねられたのです。これは、神であるイエス・キリストが、この世のすべてのものを支配しておられるということです。そして、裁きの日が来れば、神の義を信じる私たちは、天の御国で主とともに永遠に休むことができるのです。
ですから、私たちは、主がどのような方であるかを明確に理解して、信仰生活を送ることが絶対に必要です。もちろん、主は私たちを罪から解放してくださった救い主ですが、それだけの理解では、これからの悪魔との戦いで信仰によって戦うことができません。私たち全員が、イエス・キリストの権威と力を十分に理解してこそ、サタンに立ち向かうことができるのです。イエス・キリストがサタンに立ち向かうために私たちを立ち上がらせてくださったのですから、私たちはイエス・キリストを支配者として信頼し、信仰によって従い、勝利を得なければなりません。神の民がこのようにサタンに立ち向かうとき、神は栄光を受けます。
 


水と御霊の福音を信じる私たちは、コロナウイルスのパンデミックの時に何をすべきか


罪人は、イエス・キリストがこの地上に戻って来られることを知りません。しかし、私たち義人は、そのことを現代のしるしからよく知っています。世界は目まぐるしく変化しています。しかしながら、敵が世界を完全に支配するようになるのは、まだ先のことです。そのためには、この世のほとんどすべての法律がひっくり返らなければなりません。世界中のすべての人がコロナウイルスの予防接種を受けられるようになるのでしょうか。韓国では、晩秋までに接種が完了する見込みです。カナダでは、9月までに全国民にワクチンを接種すると言われています。アメリカもワクチン接種を急ピッチで進めています。
このような異常な時代にあって、水と御霊の福音を信じる者は、このパンデミックにどのように対処すべきでしょうか。私たちは、当然、マスクを着用して、病気に対してあらゆる予防措置をとるべきです。ウイルスはあちこちに広がっています。ウイルスが人の体に入ると、三日間は非常に活発に活動します。他の人では、ウイルスは明らかに不活性のままです。ですから、私たち信者も十分に注意しなければなりません。困難に耐えることは容易ではありませんが、このような時にはさらに冷静になり、マスクの着用、こまめな手洗い、必要に応じた消毒剤の使用など、あらゆる予防策を講じる必要があります。手を清潔に保つことは非常に重要です。私たちは普段、気づかないうちに鼻や唇を触っています。消毒液を使っていれば問題ありませんが、手にウイルスが付着すると、すぐに感染してしまいます。また、マスクを真面目に着用することも非常に重要です。時々言われることですが、予防接種を受けるまでの間、コロナウイルスに対する次善の策はマスクの着用です。家の中で家族と一緒にいるときにはマスクは必要ありませんが、家の外で誰かと一緒にいるときには必ずマスクを着用してください。用心に越したことはありません。
この時代に生きる私たちは、イエス・キリストとその約束のみことばを信じなければなりません。この恐ろしいコロナウイルスのパンデミックが終わっても、また別の病気が発生する可能性があります。税金も大幅に上がります。企業への規制も厳しくなるでしょう。それでも、絶望してはいけません。水と御霊の福音を全世界に広めるために人生をささげ続けることができるように、あらゆる予防措置を真剣に講じましょう。自分が感染するだけでなく、仲間にも感染させてしまうような油断は禁物です。私たちがコロナウイルスに警戒しているのは、自分自身を守るためだけではなく、周りの人たちを守るためでもあります。この病気は感染力が強く、自分が感染したらそれだけでは終わらず、周りの多くの人が感染してしまう可能性があります。
ある大学病院の職員がこのウイルスに感染したことで、彼の家族や病院の患者のほぼ全員にウイルスが広がってしまったのです。その結果、病院全体がひっくり返ってしまったのです。パンデミックが一年以上続いていることもあり、多くの人が油断しています。しかし、私たちはこの苦難を辛抱強く耐えなければなりません。私たちは、水と御霊の福音を世界中に広めなければなりません。福音が届いていない場所はまだまだたくさんあります。もっと時間が必要です。
私たちはスーパーヒーローではありませんから、この仕事を一度に終わらせることは物理的に不可能です。今日まで文字宣教を続けてこられたのは、驚くべき奇跡です。ミヌ姉妹は最近、疲労のために体調を崩しています。私もその経験があります。出版は簡単な仕事ではなく、自分を追い込むには限界があります。限界が来たら、休まなければなりません。私たちは文字宣教を一生懸命やるべきですが、健康にも気を配り、疲れたら休むようにしなければなりません。神のわざはやることがたくさんあるので、全部やり終えるまで休むのを先延ばしにすると、健康を害してしまいます。これは、神のわざをたくさんしてきた人にしかわからないことです。仕事に追われていると感じたら、仕事量を適切に調整する必要があります。十分な休息を取らない限り、どんな素晴らしい薬を飲んでも過労を解消することはできません。それ以外はすべて効果がありません。私は自分の体調に気を配り、ストレスが溜まったら少し休むようにしています。白血球は、感染症から体を守る免疫系の細胞で、健康な白血球は丸い形をしています。しかし、疲れがたまると、体内の白血球は丸い形を失い、ギザギザになってしまいます。また、血液の粘性が高くなり、血液が循環しにくくなります。血液の粘性が高くなりすぎると、死に至ることもあります。脳に血栓ができて脳梗塞になったり、心臓に負担がかかったりします。ですから、私たちは仕事量を適切に管理することが大切です。世界中で水と御霊の福音を宣べ伝え、これからもずっと長い間、人の命を救い続けることができるように、みなさんも健康に気をつけましょう。水と御霊の福音を全世界に広めるには、まだまだ遠い道のりです。
この終わりの時に、人々の心は非常にかたくなになっており、水と御霊の福音を受け入れようとしません。そういうわけで、私たちの文字宣教は欠かせないのです。自分の霊的な死を考える人はほとんどいません。心がかたくなになっている人は、手遅れになる前に、本当の困難に直面する必要があります。それによって彼らの心が主の前に砕かれ、私たちが文字宣教を通して宣べ伝えている水と御霊の福音を信じて救いに至るのであれば、それは素晴らしい祝福となるでしょう。
コロナウイルスのパンデミックが続く中、私たちは水と御霊の福音を忠実に宣べ伝えることがさらに重要になっています。電子ブック、印刷された本、二ヶ国語対応の本、オーディオブックなど、あらゆる手段を用いて、可能な限り広く普及させるべきです。このような方法で世界の隅々まで福音が行き渡ることがあるのだろうかと思うかもしれませんが、これを疑うのは間違っています。何しろ、神が私たちの仕事を応援してくださっています。私たちは支配者への信仰を持つべきです。全能の主は、水と御霊の福音によって私たちを救ってくださったのですから、私たちは主を支配者として信頼すべきです。
神が私たちを祝福なさり、守ってくださっていることを信じなければなりません。私はこのことをとても感謝しています。私は一生懸命に働き、人生のすべてを教会にささげ、教会の経済的な将来を確保するためにできる限りのことをしてきました。時々、「なぜ私はこのような仕事をしているのだろうか。最後にはすべてを捨てて神のもとに行くのに、誰のためにこんなに働いているのだろうか。」と思うことがあります。しかし、そんな考えは一瞬です。私は、私がいなくなった後も、教会がしっかりとした経済的基盤を持ち、世の終わりまでみなさんのニーズに応えられるようにしなければなりません。建物が必要です。私たちの使役のためにどれだけのスペースが必要か考えてみてください。現在使用している建物を購入した当初は、古ぼけて老朽化しているように見えましたが、今では私たちにとってなくてはならないものとなっています。この建物がなかったら、どうなっていたでしょうか。こんな風に現場を整備していなかったら、どうなっていたでしょうか。作物を育てなかったら、どうなっていたでしょうか。私たちは、私たちのやり方で準備しなければなりません。
私たちが信じている主は、今、裁き主であり、救い主であり、支配者であり、司令官として天の御座に着座しておられます。このことを理解し、信じて、私たちは主にお会いする日まで、この信仰によって主に仕えましょう。以上で本日の説教を終わります。また次回お会いできることを楽しみにしています。