贖いの前、自身の体が神の律法によって滅びる定めにあったことを振り返って、使徒パウロは、自分はイエス・キリストを信じることによって罪に対して死んだと信仰を告白しました。 神の義に出会う前、つまり、新たに生まれる前、キリストを信じる者は律法の支配との呪いの下で生きてきました。ですから、神の義をもたらされたイエス・キリストに出会い、罪を赦されていなければ、律法が人間を支配していたことでしょう。
パウロは生身の人間には容易に理解できない霊的な事柄を話しました。つまり、夫の死んだ女が夫に対する義務からすっかり解放されるように、罪に対して死んだ人々はもはや罪に支配されていないというのです。この部分は簡単に見えるでしょうが、これは霊的に重要な一節なのです。これはつまり、好むと好まざるとに関わらず、神の義に出会わなかった人々は実際、律法の呪いの下で生きなければならないということを意味しているのです。 その人たちはまだ罪の問題を解決していないからです。
ローマ人への手紙第 6 章 23 節に「罪から来る報酬は死です」とありますが、これは報酬が支払われてはじめて罪が消えるということです。人がイエスを信じても、イエスによって与えられた神の義を知らなければ、その人はまだ罪に生きていて、罪の報いを支払わなければならないのです。イエス・キリストによって神の義に出会わなければならないのは、このためです。神の義に出会うことによってのみ、人は罪に対して死に、律法から解放され、新たな伴侶、イエス・キリストと結ばれるのです。
人はイエス・キリストによって神の義を見いだすことはできますが、この神の義を信じることなく律法から解放されることは、誰にもできません。律法の呪いから自由になる唯一の道は、神の義を知り信じることなのです。みなさんはイエスによってこの神の義を見つけましたか? そうでなければ、今こそ自分自身の義を捨て、謙虚に神のみことばに戻りなさい。
罪に対して死んでキリストへ
パウロは、ローマの信徒たちに「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです」と言いました。「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」とはどういうことかをよく理解してください。キリストのからだによって罪に対して死なずにキリストのところに行ける人は誰もいません。つまり、私たちの罪が、イエス・キリストのからだと共に死ななければならないのです。これは、ヨハネによるイエス・キリストのバプテスマとイエスの十字架上の死とを信じることによってのみ可能なのです。
ヨハネによるイエスのバプテスマを信じることによって、キリストと共に罪に対して死ぬことができます。イエスが、ヨハネによるバプテスマで移された人類すべての罪を負って死んだために、これを信じたとき、私たちの罪もまた滅んだのです。世界の罪がすべて、ヨハネによるバプテスマでイエスの上に移されたのは真実です。この真実はただ知っているだけではなく、信仰として心にもち続けなければなりません。この信仰は神の国に入るまでもち続ける必要があるのです。パウロが、キリストのからだによって律法に対して死んだと言ったのはこのためです。ですから、この真実を信じる人々はイエスキリストのもとに行き、共に生き、神の義の実を結ぶことができるのです。
古い文字にはよらず、新しい御霊の真理を信じるのです。罪人は、実際、律法のためにより多くの罪を犯します。なぜならば、律法は内に隠れている罪を表すため、人々は自身の罪をよりよく知るようになり、それまで以上に罪を犯すことになってしまうからです。律法の役割の一つは、自分の罪に気づくようにさせることですが、これはまた、罪というものについてより多くを明らかにし、そのためにそれまで以上の罪を犯させることにもなるのです。神が与えられた律法がなければ、自分の中にそんなにもたくさんの罪が隠れていると知ることはなかったでしょう。しかし、神が律法を与えられると、この律法は罪をより罪深くしたのみならず、より多くの罪を犯すようにしたのです。
ですから、キリストのからだによって罪に対して死んだ私たちは、神の義を信じる信仰をもって主に仕えなければならないとパウロは言うのです。パウロは、みことばを文字通りに受け取って信仰するのではなく、聖霊と、心に深く抱いた信仰によって与えられた贖罪の贈り物との助けによって、主に仕えなさいと言います。聖書に「文字は殺し、御霊は生かす」とあるように、神の義である水と御霊の福音の真の意味に気づき、主に従うのです。つまり、神のみことばを信じるときには、書かれたみことばに隠された真の意味を知り、信じなければならないのです。
では、律法は罪なのですか? そんなことはありません!
パウロは神の律法をその役割に注目して説明しました。このことから、律法の役割について正しく理解していることが重要であることが分かります。パウロははじめ、自分の罪を自分の見方で見ていたために自身の罪に気がつきませんでした。しかし、神の律法によって自分の中のむさぼりの心に気づくことができたのです。
今日のイエスの信者もまた、パウロのように律法を理解できるようになってほしいものです。あまりにも多くの人々が、律法についての真実を知らないまま律法に従って生きようと努力を重ねています。その人たちは、もう少しがんばれば律法をすべて守れるようになるだろうと考えて教会に通います。しかし、実際は、そうした人々は神の義を全く見つけることができないのです。
その人たちは神の与えられた律法の深い意味に気がつかず、律法主義者になるのです。彼らは盲目の偽善者で、自分自身の心さえ見ることができず、キリスト教社会にあって自分たちが神の義と対立しているのだということに気がつきません。今日のキリスト教世界にはそのような人々が多いのです。神の義を本当には知らず、律法主義的な信仰でイエスを名目だけの救い主として受け入れている人々は、永遠の死という罰から逃れることができません。
パウロは、神の戒めによって自分の心の中にあるむさぼりに気がついたと言っています。戒めによって自身の罪に気がついたとき、パウロはまだ律法主義者で、神の律法は守らなければいけないのだと考えていました。神の戒めはパウロの心の中のむさぼりを明らかにし、パウロの罪をそれまで以上に罪深くしました。このことからパウロは、自分がたいへんな罪人であることに気がつくのです。
人間の心には 12 種類の罪があります。パウロは律法の本当の役割を知らなかったとき、自分を立派な人間だと思っていて、本当はどんなに罪深い者であるかに気がついていませんでした。しかし、神の戒めに従って生きようと努力してみて、戒めを守ることはとうていできず、戒めはかえって罪をこれまで以上に明らかにしているということに気がついたのです。
人がイエスを信じているときは、どうでしょう? みなさんは初めてイエスを信じるようになったとき、信仰心にあふれていたことでしょう。でも、時がたつにつれ、罪の多くは生まれながらに自分たちの中にあるのだということに気がついたでしょう。何によってそうした罪を知りましたか? 書かれた律法と戒めとによって、自分たちの心の中がいかに 12 種類の罪で満ちているかを知ったのです。そうして、律法の前で罪深い自分を見まいとしました。これは、律法によって、自分が本当はたいへんな罪人であることを知ったためなのです。
このために、気休めとして義認説が作り出されたのです。この説によると、たとえ心の中に罪があっても、イエスを信じてさえいれば、神は正しい者であると見てくれるはずだとしています。これは人の考えた説に過ぎません。人々は、自分たちの罪を隠し、その説をよりどころとして自己満足して生きようとして、そうした説を作り信じたのです。しかしそれでも、律法の前では罪人であることが明らかになるのですから、罪はより重く心にのしかかります。すべての罪から自由になるには、神の義を伝える福音を信じるしか道はないのです。これがすべての罪から救われる唯一の道なのです。
パウロはかつて、神は従うために戒めを与えられたのだと考えていたため、できる限り従おうとするのが当然だと考えていました。ところが、実際はそれらの戒めは、かえって罪のために魂を死に至らしめるものだということに気がつきます。パウロは結局、神の戒めを誤解し、間違った考え方をしていたのだと知ります。
誰の心にも、マルコの福音書第 7 章 21-23 節にある 12 種の罪があります。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。」
パウロも他の人々もみな、結局は神の戒めによって自らの罪に気がつくようになったのです。律法によって自らの罪に気づき、死につき、それからイエス・キリストによって神の義を見いだし、それを信じたのです。みなさんは、神の義についてどうお考えですか? まだ全部守ることができると考えて戒めをすべて守ろうとしているのですか? 神は、人類が罪に気づいて神の下に戻るように──神の義を信じることによって罪から救われるようにと、律法をお与えになったのです。神が戒めをお与えになった本当の理由を理解し、それを正しく信じるのです。この真理に気がついたなら、水と聖霊の福音の尊さが分かるでしょう。
神の戒めを信じる人々は、神の前で自分がどんなにひどい罪人であるかに気がつきます。戒めの役割を知らず、神の義を信じない人々は、宗教生活でたいへんな困難に出会い、ついには自ら破滅に向かってしまうのです。これは、罪に満ちた世界に生きながら罪を避けていることが不可能だからです。人里離れた山中に隠棲して禁欲的な生活をしようとする人々がいるのは、このためです。こうした人々は、深い山中に住み、世の中の罪から離れて暮らすことで罪を犯さずにすむと考えるのですが、そうではないのです。
たしかにこの世の誰もが罪を犯し心の中に罪をもっているのですが、こうした罪すべての赦しは、神の義を知り信じることによって得られるものなのです。たとえ世の罪を避けるために交わりを絶っても、心の中の罪から逃れることはできません。罪は私たちの心の中にあるからなのです。本当に罪から自由になるには、水と霊の福音を信じるのです。神の律法と戒めとは人間の罪をより罪深くします。自分の罪の深刻さを知る人々は、水と聖霊の福音によって啓示された神の義を知り信じるのです。
「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」(ローマ 7:10-11) 律法は正しく理解しなければなりません。律法を正しく理解していない人々は、一生を律法主義に溺れて過ごし、最後の日まで律法から逃れようとして生きるでしょう。律法の真の役割を知っている人々だけが、イエスの全うした神の義を愛し信じるのです。では、みなさんは、この神の義を知っていますか?
使徒パウロは、かつて新たに生まれる前には肉に属し、売られて罪の下にあったと述べています。また、神の律法に従って生きようとしたけれど、したくないことをした、すなわち罪を犯してしまった、と告白しています。これはパウロが神の義を知らず、内に聖霊が宿っていなかったためです。それからパウロは、心にもなく罪を犯してしまったのは、そのときはまだ神の義を知らず、罪が心の中にあったからだと認めています。
それでもパウロはひとつの原理、罪の原理を学びます。すなわち、心の中に罪をもつ人は罪を犯すことを避けられないのだという真理を体得したのです。パウロはまた、内なる存在が常に神の律法に従って生きることを欲しているということにも気づきました。しかし、罪の木が罪の実を結ぶように、自分は罪人であり、罪の中に生きることしかできなかったとパウロは告白します。まだイエス・キリストに出会っておらず、罪の赦しを受けていなかったからです つまり、パウロが罪のために殺されることは正しいことでした。
だからこそ、自分はみじめな人間だと告白し、「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24) と嘆いたのです。 これはパウロが罪人であったときのことを振り返っての言葉です。パウロのこの告白を自分に当てはめてごらんなさい。みなさんはまだ、律法を守ることのできない死ぬべきからだに囚われているのですか? 神の義を信じましょう。水と聖霊の福音に神の義が隠されており、この福音を信じることによって人は神の義にあずかることができるのです。
パウロはイエスのバプテスマと十字架上の死とを信じることによって、惨めさから解放されることができたのです。