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တရားဟောချက်များ

主題 11: 幕屋

[11-17] 「贖いのふた」の上でささげられた罪の赦しのささげもの (出エジプト記 25:10-22)

「贖いのふた」の上でささげられた罪の赦しのささげもの
(出エジプト記 25:10-22)
「アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。わたしが与えるさとしをその箱に納める。また、純金の「贖いのふた」を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。槌で打って作った二つの金のケルビムを「贖いのふた」の両側に作る。一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを「贖いのふた」の一部としてそれの両端に作らなければならない。ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」を覆うようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が「贖いのふた」に向かうようにしなければならない。その「贖いのふた」を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることことごとくあなたに語ろう。」
 
 

「贖いのふた」

 
贖いのふた
キュビトとは、手先からひじまでの長さです。聖書のキュビトは、今日の単位では約 45 センチに当たります。「贖いのふた」の長さは二キュビト半なので、メートル法だと約 112.5 センチになります。幅は一キュビト半、約 67.5 センチありました。ここから、「贖いのふた」の大まかな大きさがわかります。
あかしの箱は、まずアカシヤ材で作られ、内側と外側に純金がかぶせてありました。箱の上に載せた「贖いのふた」は、純金だけで作られていました。そして、その両端にはケルビムが翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で箱、つまり「贖いのふた」を覆うように置かれていました。ケルビムは「贖いのふた」に向かうようにしてありました。「贖いのふた」は、信仰をもってやって来た者に神が恵みをお与えになった場所です。
箱の四隅には金の環が四つついていました。金の環は鋳造したもので、両側にそれぞれ二個ずつあり、箱を運べるように棒が通されていました。棒はアカシヤ材で作られ、金がかぶせてありました。両側の二つの環に棒を通すことで、神は、二人が箱を担って運ぶことができるようになさいました。そして、「わたしはそこであなたと会見しよう」と言われました。
神は、箱に棒を通すことによって、イスラエル人があかしの箱を「贖いのふた」とともに運ぶことができるようになさいました。これはつまり、福音を全世界に広めることを神はお望みだったのです。同じことが、香をたくための壇についても言えます。つまり、壇の両側にも環がつけられ、棒を環に通して二人の人が壇を運べるようにしたのです。これもまた、困難に出会ったときにはいつでも神の助けを求めるべきであり、また、どこへ行こうと、世界中に福音を広めるために祈るべきだということを告げているのです。
あかしの箱の中には三つの品が納められていました。マナの壷、アロンの芽を出した杖、契約の石版二枚です。これは、どういう意味なのでしょう? 第一に、マナの入った金の壷は、イエス・キリストが信じる者に新たないのちをお与えになることを意味します。主は、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ 6:35) と言われました。
アロンの芽を出した杖は、イエス・キリストがよみがえりの主であられ、人間に永遠のいのちをくださることを告げています。契約の石板は、人間が律法の前には避けがたく死に定められていることを告げています。しかしながら、神の慈悲は広大で、律法が呪った罪の罰のすべてを覆うほどなのです。「贖いのふた」は、律法の呪いが出てくることのないよう、箱の蓋として、ぴったりと合わさっていました。神は御子イエスの完全な犠牲によって、「贖いのふた」を完成なさいました。ですから、水と御霊の福音の信者はみな、堂々と恵みの座、「贖いのふた」のもとに行くことができるのです。
 
 
「贖いのふた」の上に散らされた尊い血
 
まず、「贖いのふた」に隠された奥義とは何かを探りましょう。年に一度、大祭司はいけにえのささげ物の血を至聖所の中に持って行きました。それから「贖いのふた」の上にいけにえのささげ物の血をちょうど七回散らしました。神は、そのときにこの「贖いのふた」の上でイスラエル人に会おうとおっしゃいました。神は、大祭司と同じ信仰、つまり、いけにえの制度に明かされた罪の赦しへの信仰をもつ者には誰でも会われます。
いけにえの血が「贖いのふた」の上に散らされたことは、神による罪の裁きと人類への慈悲とを示しています。贖いの日、第七の月の十日、大祭司アロンは両手をいけにえのささげ物の上に置いてイスラエル人の一年の罪を移しました。それからのどを切って血を取り、その血を垂れ幕の中に運んで、「贖いのふた」の上に散らしました (レビ記 16:11-16)。
このようにして散らされた血によって、神はイスラエル人とお会いになり、罪の赦しの恵みをお与えになりました。いけにえの制度を設けられたのは、イスラエル人への神の恵みでした。いけにえの動物の上に手を置くことと血とによって、神は正しく罪を消し去られ、恵み、恩寵による罪の赦しを与えられました。
では、どうしたらこの恵みを受けることができるのでしょう? 神は、どのみことばによって人類の罪をただ一度で消されたのでしょう? 神は、神が人類にお与えくださった賜物を人間が受け取ることができるよう、いけにえの制度によって表わされた真理を知り、信じる信仰をもたなければならないと知ることができるようになさいました。神は、いけにえの頭に手を置くこととその血という二つの要素によって義が満たされるようになさいました。旧約のこのいけにえは、ほかならぬイエス・キリストが受けられたバプテスマと十字架上で流された血とを指しているのです。
人類の罪のために、御子イエス・キリストがヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を被られ、罪の贖いとして十字架上でいけにえのささげ物となられ、人類に代わって死なれ、人間を生きさせるために死者の中からよみがえられたのです イエス・キリストが受けられたバプテスマと十字架上で流された血とは、人類に罪の赦しをくださるためのものであり、それを信じる者が神とお会いすることができるようにする真の恵みなのです。この真理は、水と御霊の福音の影です。水と御霊の福音は、罪人が神から罪の赦しを受けることを可能にする、真の信仰の基となった真理です。イエス・キリストは、人類の罪のためのいけにえのささげ物となられました。人間が聖なる父、神のもとへ行くことを可能にする真理の橋となられました。
この真理の決定的な証拠を幕屋の入り口に用いられた四種の糸の色に見出すことができます。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布です。つまり、幕屋の入り口に用いられた四つの糸は、真の福音への鍵となっているのです。
第一の鍵は、幕屋の入り口に用いられた青い糸の奥義です。この奥義とは、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを授けられたということ、つまり、イエスが世の罪を被られたということです。つまり、主はヨハネがお渡しした人類の罪を受けられたのです。イエスが自分にバプテスマを施すようヨハネを促されたとき、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:15) とおっしゃったのは、このためです。
第二の鍵は、幕屋に用いられた紫の糸です。紫という色は、王の色です。イエス・キリストは、人類の救い主として人間を罪からお救いになるためにこの世に来られた、王の王です。人類の罪を消し去られるため、主は天の栄光を捨ててこの世に来られました。イエス・キリストは本質的に神ご自身です。しかし、人類をその罪のすべてからお救いになるために、父なる神のみこころに従ってこの世に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架につけられたのです。つまり、人類の罪をすべて消されるために、神が天の栄光の御座を捨てて処女マリアの体からこの世にお生まれになって、罪人をお救いになったのです。ですから、その七百年以上前に預言者イザヤになさったお約束によって、神ご自身が処女の体から生まれ、バプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されなければならなかったと信じるのです。
第三の鍵は緋の糸です。これはイエスの血を意味し、イエスが十字架場で血を流されて神の救済の使命を完了されたことを表わしています。イエスは十字架上で血を流されましたが、それは、あらゆる罪人の中で最も凶悪な者のための罰でした。イエスがバプテスマの際に負われた罪を罰することによって、人類の罪は裁かれました。十字架につけられて血を流されて世の罪の罰をすべてお受けになり、そうして人類を罪から救われたのです。バプテスマによってヨハネから人類の罪を受けられ、父なる神のみこころに従って死なれ、神はすべての罪人をその咎から救われたのです。
イエスが人類の身代わりとなって十字架につけられて神からの罰をお受けになり、罪の呪いのすべてを終わらせて、信者を神の子どもとなさったことがわかりますか? 人間がこの真理を信じて永遠のいのちを受けるようにと、神はこうしたことすべてをなさったのです。イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で罰をお受けになったということは、人類を罪から救ったということです。イエスが最後の息で「完了した 」(ヨハネ 19:30) と叫ばれたのは、このためです。イエスは深い喜びと安心から、ご自分が父なる神のみこころに従って人類をその罪から救済することを完了なさったことを宣言なさったのです。
最後に、撚り糸で織った亜麻布とは、イエスがみことばの神であられることを示しています。イエスは入念な正しいみことばで神のみこころを明かされます。旧約全体を通して、主はこの世に来られ、バプテスマと磔刑とによって全人類を救われることを予め告げられていました。それから、新約でお約束のすべてをそのとおりに全うなさいました。聖書に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ 1:1、14) とあるのは、このためです。
この真理によって、人間は罪のすべてを雪のように白く洗うことができるのです。イエスがお受けになったバプテスマとその流血とは、いけにえの制度における手を置くことと裁きの贖いにほかなりません。イエスは世の罪をすべてその身に負われたからこそ、十字架上で血を流されたのです。イエスが人類に代わって罪を負われるためにバプテスマをお受けになって十字架に行かれ、そこで血を流されたために、それが人類の罪を洗い流す贖いとなっているのです。
主がこの世に来られて人間としてお受けになったバプテスマと十字架上で流された血とが、青色・紫色・緋色の撚り糸が表わしている真理なのです。イエスは二千年前にこの世のお生まれになり、バプテスマをお受けになって世の罪を負われ、十字架上で死なれ、三日後に死者の中からよみがえられ、その後四十日間あかしをなさり、それから昇天して神の右手の座に着かれました。これが、青色・紫色・緋色の撚り糸が表わしている真理です。神は、人類の罪を消してすべての罪から救われたことを信じよとおっしゃいます。
この真理を信じると、神は、「さあ、あなたたちは私の子になりました。罪人ではありません。わたしの民であって、もはや罪人ではなありません。わたしは、あなたたちを罪と罰と呪いのすべてから救いました。わたしは無条件の愛によって救いました。とても愛しいので、どんな条件もなしに救ったのです。愛しているので、わたしが自分で救ったのです。ただ愛しているばかりではなく、そのようにして愛を証明したのです。わたしの犠牲の血を見なさい。これが愛のあかしです。わたしはこのあかしを示しました」とおっしゃいます。
霊的に貧しい者として主の前に来ると、主は青色・紫色・緋色の撚り糸によって救ってくださったことを示されました。主はこの世においでになり、バプテスマをお受けになり、憎まれ、罪に定められて十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、昇天なさいました。神は、信じる者は誰にでも救済の愛で応えられます。
神は信じる者に救済の恵みをお与えになります。救済によって、単なる被造物は神の子どもとなりました。神はおっしゃいます。「さあ、あなたたちは私の子どもになりました。わたしの息子と娘です。もはやサタンの子らではなく、わたしの子どもです。もはや被造物ではなく、わたしの民です。我が子イエスによって、あなたたちの罪を贖いました。あなたたちをわたしの民としました。あなたたちは、信仰によってわたしの民となりました。」 神は罪人を救われたばかりではなく、ご自分の子どもとする恵みをお与えになりました。
神は幕屋の中のあかしの箱のふたを「贖いのふた」と呼ばれました。それを見るようにして、二対のケルビムが置かれました。なぜ神は「贖いのふた」の上でイスラエル人と会見なさるとおっしゃったのでしょう? 神が、手を置くことによって人々の罪がすべて移されたいけにえの動物の血を受け入れられて、イスラエル人の罪を赦されたためです。
つまり、神がそうおっしゃったのは、イスラエル人に、いけにえのささげ物の頭に手を置いてその上に罪を移し、いけにえのささげ物が身代わりとして罪の贖いをさせるようになさって、賜物として罪の赦しをお与えになろうとなさったのです。すべてはご自分の民の咎を消し去るためでした。神は、贖いのささげ物を受けることなくして罪人にお会いになることができなかったので、このいけにえのささげ物によって罪を消し去り、会われたのです。
人は誰でもアダムの子孫として、罪をもってこの世に生まれて来ます。ですから、誰もが罪をもち、いけにえをささげることなしには誰ひとり神にお会いできません。神が、イスラエル人の罪を贖ったいけにえのささげ物を受け入れて「贖いのふた」の上で会見しようとおっしゃったのは、このためです。
神は、第七の月の十日を贖いの日とするように、イスラエル人にお命じになりました。神は、大祭司がイスラエル人の一年の罪をいけにえのささげ物の上に移してささげ物の血をささげるように定められました。その日、イスラエル人の一年分の罪が全部赦されましたが、これは、その日、大祭司が代表して罪のためのささげ物をささげたためです。
 
 

旧約で罪人をその咎から救ったいけにえの制度

 
レビ記第 1 章 4 節に「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである」とあるように、罪人の罪は全部、頭に手を置くことによっていけにえの山羊の上に移されました。神は、みことばを心から信じる信仰をもってささげられたささげ物を喜び受けられます。これが、神がご自分の民であるイスラエル人のために定められたいけにえの制度の肝要な第一段階でした。
次に、その人は動物の喉を切り、血を取って、それを祭司に渡しました。祭司はその血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、肉を祭壇の上で焼き、そうして罪人の罪のいけにえのささげ物をささげたのです。これが、神が罪人一人一人の罪をお赦しになるために定められた救済の律法でした。
しかしながら、贖いの日、第七の月の十日には、民が一年分の罪を贖うためのいけにえをささげることができるようになさいました。その日、大祭司がイスラエル人全員の代表として、二頭の山羊を用意しました。「アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。」(レビ記 16:8-9) 大祭司は、最初の山羊の頭に手を置き、イスラエル人の一年分の罪がいけにえの上に移るようにしました。それから山羊を殺して血を取り、至聖所に入って、血を指先につけて「贖いのふた」の東側、「贖いのふた」の前に七回散らしました。いけにえのささげ物の血を受け入れられて、神は人々の罪を洗い流され、ご自分の民と認められました。
その後、大祭司は幕屋から出て、もう一頭の山羊をイスラエル人の見ている前でささげました。実際に人々の罪を移すために、大祭司はいけにえのささげ物の頭に両手を置きました。それから、「民が過去一年に犯した罪のすべてをこのささげ物の上に移します」と告白しました。その後で、係りの者にささげ物を砂漠に連れて行かせました。
山羊は、不毛の荒野で死ぬべく連れ出されたのです (レビ記 16:20-22)。このことから、贖いの日にささげられた罪のためのささげ物によって、イスラエル人の罪がただ一度で赦されたことがわかります。
こうしたいけにえの山羊は、まさにイエスを予示しているのです。この罪のためのささげ物は、イエス・キリストがこの世のすべての人の罪を消し去るためにヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられて完了なさった救済の真理を表わしています。神は、大祭司が律法に則っていけにえをささげたときに、「贖いのふた」の上でイスラエル人に会おうとお約束なさいました。イスラエル人は、大祭司と「贖いのふた」とを尊いものとみなしました。毎年彼らに代わって罪のためのささげ物をささげたのが大祭司であり、咎が赦されたのが「贖いのふた」のところだったためです。
同様に、イエスはバプテスマと流血とによって人類の罪のためにご自分の身をささげられて人類と神を和解させられました。主イエスにいくら感謝してもしきれないこと、バプテスマを磔刑とともに信じなければならないのは、このためです。
 
 
「贖いのふた」は、あかしの箱に納められた十戒の石板二枚を封印し
 
シナイ山の頂で、神はモーセに、十戒を刻んだ二枚の石板をあかしの箱に納め、「贖いのふた」で封じるようにお命じになりました。神がそうなさったのは、律法を守ることのできなかったイスラエル人に恵みの愛をお与えになろうとなさったためです。つまり、神は、罪から来る報酬は死と定めた律法があるにも関らず毎日罪を犯すイスラエル人と関わることがおできにならなかったためです。これもまた、イスラエル人に罪の赦しをお与えになるためだったのです。
つまり、イスラエル人は行ないにおいて神の律法を守るには、あまりに不完全だったのです。そこで、神は律法とともにいけにえの制度をお与えになりました。これは、いけにえのささげ物によって人々の罪をすべてきよめるためでした。このことから、イスラエル人が罪を消し去るために頭に手を置いていけにえのささげ物の上に罪を移し、喉を切って身代わりとして殺すことを求められたことがわかります。神は、正しい怒りの律法とともに、救済の愛の律法をイスラエル人にお与えになりました。ですから、私たちもまた、救世主がヨハネから受けられたバプテスマと十字架上で流された血という、神の救済の二つの肝要な事実を信じる必要があるのです。
旧約の罪のためのささげ物の動物にあたるものは、新約では、救世主の体です。聖書で与えられているいけにえのささげ物は、人類の罪をすべて消し去った、神の恵みの愛です。今も昔同様、罪を赦されるためには、いけにえのささげ物が絶対に必要です。遠い昔から、人類の罪を消し去るためには、神の正義と恵みの愛とが必要でした。
神の正義は人が罪を犯したときには裁かなければなりませんから、人間は罪のためのささげ物の上に罪を移して洗い流さなければなりません。「罪を憎んで人を憎まず」ということわざにあるように、神は人間の罪は憎まれますが、魂は憎まれません。神が人類の魂から罪を消されるためには、人はいけにえのささげ物の上に手を置き、血を取ってささげなければなりません。旧約で神がイスラエル人の罪を贖われたというのは、いけにえのささげ物を受け入れて、罪を赦されたということです。
イスラエル人にとって、唯一の立法者は神です。イスラエル人の前に顕現されたヤハウェは、自ら存在する方です。私たちが神を唯一の立法者と認めるように、神は全人類の神であると認め、神が人類の罪を消すために定められたいけにえの制度を受け入れなければなりません。神が定められたいけにえの制度によって、人間は神がいかに人類を愛され、どんなに正しく人類を救われたかを知ることができるのです。また、神の律法によって、自分たちがいかに戒めを守ることができないかを知ることができます。人間は本質的に神の前に偶像崇拝者であり、ありとあらゆる罪を犯し、違反行為を行なっています。ですから、罪のためにいつ地獄へ送られてもしかたがないのだと認めざるを得ません。神ご自身が救い主として来られなければならなかったのは、そのためです。
イエス・キリストは、ご自分の体を永遠に世の罪のためのいけにえとなさいました。イエスは、旧約で罪のためのささげ物がささげられたのと全く同じ方法で、特に、いけにえの頭に手を置くことと血を流すこととによるという、贖いの日についての記述にあるのと同じ方法で、ご自分をささげられました。神はご自分の定められた正しい律法といのちの約束とを信じる者が新たないのちを受けることができるようになさったので、あかしの箱と「贖いのふた」に納められた二枚の石板は、イスラエル人が罪の赦しを受けるために絶対に必要なものでした。今日、神の正義を示す律法と、罪からの永遠の救済をもたらす真理のみことばは、イスラエル人ばかりではなく、すべての人間が神にお会いして永遠のいのちを受けることを可能にしています。
この時代に生きるみなさんと私は、神がどなたであり、何をおっしゃっているのか、何によって人が罪の赦しを受けるようになさっているのかを知り、信じなければなりません。旧約の幕屋の入り口に示された青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理によって、神はみなさんや私をお召しになり、受け入れられ、これを信じる信仰をお与えくださったのです。
 
 

青い糸はイエスがお受けになったバプテスマそのものを示す

 
マタイの福音書第 3 章 13-17 節を読みましょう。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
旧約のいけにえの制度に則ってささげられたささげ物によって、父なる神は実際には、世の罪をすべてひとり子イエス・キリストの上に移されること示されたのです。バプテスマのヨハネは、実は、神の義をすべて全うするためにイエスにバプテスマを授けたのです。ヨハネからバプテスマを授けられたときに世の罪が実際にイエスの上に移されたために、これを信じる者は、心にある罪をすべて赦されることができるのです。
イエスが受けられたバプテスマは、通常、人がキリスト教徒になるときに受ける水のバプテスマとは全く意味が違っています。つまり、今日の人々が受ける水のバプテスマは、キリスト教という宗教への改宗を形として示すものに過ぎません。イエスは世の罪をすべて被られるために、ヨルダン川で、人類の代表であるバプテスマのヨハネから手を置く形でバプテスマをお受けになりました。イエスがお受けになったバプテスマは、神のお約束なさった永遠の救済、神がレビ記にあるいけにえの制度という形で設けられた罪の赦しを全うするバプテスマでした。イエスが自らバプテスマをお受けになって世の罪を被られ、罪の贖いとして十字架上で血を流して死なれたことは、神の人類に対する愛と完全な罪の赦しであったのです。
父なる神が、御子がヨハネからバプテスマを授けられるようになさったのは、人類を世の罪のすべてからお救いになるためでした。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ 3:15) ここで「このようにして」とは、イエスがバプテスマを授けられることで全人類の罪を被られることを意味しています。ヨハネがイエス・キリストにバプテスマを授けたので、人類の罪はイエスの上に移されました。イエス・キリストはバプテスマによって罪を被られたために、人類に代わって血を流して死なれたのです。イエスが受けられたバプテスマは、神の犠牲の愛であり、罪の赦しでした。移された人類の罪をすべて負われてから、イエスは水に身を浸されました。この浸水は死を意味します。イエスが水から上がられたのは、よみがえりを予め告げたものなのです。
 
 

イエスは創造主で救い主

 
人間の間に来られたイエス・キリストが宇宙とその中のものすべてを創られた神そのものであられるというのは、事実です。創世記 第 1 章 1 節には、「初めに、神が天と地を創造した」とあり、第 3 節には「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」とあります。また、ヨハネの福音書第 1 章 3 節は、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」としています。イエス・キリストは、実際に父なる神と聖霊とともに全世界を創られたのです。
ピリピ人への手紙第 2 章 5-8 節には、次のようにあります。「あなた方の間ではそのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」 イエスはこの世界を造り、人類を創られた、まことの創造主なのです。人類を罪からお救いになるために主自ら人間として来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を被られ、バプテスマのゆえに血を流され、そうして人類をすべての罪から救われたのです。
救世主は実際に、イスラエル人に幕屋の入り口をすべて青色・紫色・緋色の撚り糸と、白い撚り糸で織った亜麻布で作るようにお命じになりました。幕屋の入り口に青色・紫色・緋色の撚り糸を使わせることは、イエスがヨハネから授けられるバプテスマによって世の罪を被られ、十字架上でその贖いをなさってすべての人間を罪から救おうというご意向を示しています。
旧約では、罪人はいけにえのささげ物を幕屋に連れて来て、全焼のいけにえの祭壇の前で手を頭に置いて、罪をその上に移しました。次に、その人は動物の喉を切って血を取り、それを祭司に渡しました。祭司は血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りを地面に注いで、神にささげ物をささげたのです。
贖いの日、大祭司はいけにえのささげ物の頭に手を置いてから血を取ると、その血を持って至聖所に入り、「贖いのふた」の上に散らしました。神はこのいけにえのささげ物の血を民の身代わりの裁きとして受け入れられました。なぜ犠牲の動物は殺されなければならなかったのでしょう? 大祭司が、その頭に手を置いてイスラエル人の罪をすべてその上に移していたためです。つまり、その血は、この手を置くことの結果であったのです。このように、神はいけにえの動物の血を受け入れられ、肉が祭壇で焼かれる香ばしい香をかがれ、それによってイスラエル人の罪をすべて赦されたのです。
新約の時代にもまた、イエスが全くこれと同じことをなさるために来られました。人類の罪を被って罪の罰をお受けになるために、主は処女マリアの体を通ってこの世に来られなければなりませんでした。そして、ヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で血を流して救済を完了なさいました。青色・紫色・緋色の撚り糸は、実際は、神であられるイエスがバプテスマを授けられて十字架につけられるという真理を表わしている福音なのです。
イエスはバプテスマによって人類の罪を被られたために十字架につけられ、血を流され、死なれ、三日後に死者の中からよみがえられ、そうして信じる者の救い主となられ、神の右手の座に着いておられるのです。イエス・キリストは、実際に救い主と信じる者の罪をすべて父なる神の前でただ一度で贖われて、彼らが神をアバ、父と呼ぶことができるようになさいました。これが、青色・紫色・緋色の撚り糸に隠された真理の奥義なのです。
バプテスマと十字架上の血とによって、救世主は人類の罪をきよめ、身代わりとなって罪の罰を受けられたのです。こうして、主は世の救い主となられました。ですから、旧約の幕屋の入り口は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布に織り込んで作られたと信じるのです。また、新約では救世主、救い主が実際にこの世に来られ、バプテスマによって世の罪を被られ、十字架上で人類の罪の罰をすべて受けられたと信じるのです。そうして、罪の赦しを受けるのです。
 
 
キリスト教徒として、みことばにどれだけ心を払っているか
 
出エジプト記第 25 章 22 節には、「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう」とあります。では、みなさんはどれだけ水と御霊の福音、贖いの福音に近いところにいるでしょう? 主は、どこからイエスを救い主と信じる者に話されるとおっしゃったでしょう? 出エジプト記第 25 章 22 節で、主はあかしの箱のふたの上から戒めを告げられるとおっしゃっています。旧約のイスラエル人に神は、何でも「贖いのふた」から話されるとおっしゃいました。
よろしいですか、律法にかなったいけにえのささげ物によって罪を赦してご自分の民となさった後でその生を導くというのは、神のお約束です。神は、キリスト教を信じる者がどんなに主に導かれようとしても、水と御霊の福音の真理を知らないままにイエスを信じるなら、その人を導くことはできないとおっしゃっています。ですから、ほんとうに主に導かれたいのなら、まず、一度で罪を贖った罪の赦しの真理を知らなければなりません。それからお導きを待つのです。
一つだけ申し上げておきたいことがあります。それは、神の子どもとなりたいのなら、そして、教会の一員となりたいのなら、まず水と御霊の福音、青色・紫色・緋色の撚り糸の奥義を信じて罪の赦しを受けなければならないということです。そうしてはじめて、あかしの箱の上から告げられた主の戒めを受けることができるのです。
人が罪の赦しを受けることを可能にした水と御霊の福音への信仰をもつとき、主はいつでもお命じになってその生を導いてこられたということを念頭に置き、信じるのです。みなさんは今、「贖いのふた」の上から与えられた主の戒めを受けていますか? それとも、自分の感覚に基づいて主に従っているのですか? 
自分の感覚や感情では信仰を築くことができず、混乱するばかりです。「あかしの箱」の上から告げられた神のご命令に従いたいのなら、幕屋に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織られた亜麻布が神が人類にくださった罪の赦しについて語っているということを知り、信じるのです。
ハレルヤ。主のバプテスマ、十字架上の血、人類を世の罪のすべてから救ってくださった力と愛を、神に感謝いたします。