イエス様のバプテスマを信じないなら、心の中に罪があるのは間違いありません。使徒ヨハネはこう言いました、「もし私たちが罪ないと言うなら、自分でだまされ、真理が私たちの中にいないでしょう。」(ヨハネ第一の手紙1:8)もしイエス様のバプテスマを信じていないために、実際には罪があるにもかかわらず、自分には罪がないと言うなら、それは自分の良心を欺く行為であり、真理が自分のうちにない証拠です。救いの確信は、イエス様のバプテスマと十字架の両方を信じることによって、罪が取り除かれて聖霊を賜物として受け取るときに、私たちの心に現れるのです。
使徒パウロはこう言いました。「キリストの恵みによってあなたを呼んでくださった方から、こんなに速やかに去って、別の福音を追うことに私が不思議に思う。別の福音はなく、ただ、ある種の人々があなたがたを混乱させて、キリストの福音を変えようとしているだけのことである。」(ガラテヤの手紙1:6-7)使徒たちがイエス様から受け取り、人々に宣べ伝えた水と聖霊の福音以外には、私たちをすべての罪から救うことはできません。もし私たちが使徒たちが説いた水と聖霊の福音を信じなければ、私たちの中には明らかに罪が残っているはずです。
私たちの中にまだ罪があるのに、どうして救いの確信を持って生きることができるでしょうか。まだ新しく生まれていないクリスチャンが主(God)の前で善い行いをするとき、彼らは完全な喜びと確信の中で自分の救いを確信しています。しかし、深刻な罪を犯したとき、心に罪の重荷があるため、確信を欠いて恐れています。それは主(God)からではなく、彼ら自身の考えや感情に基づいた偽の救いです。彼らは、漸進的に聖化され、簡単に揺さぶられる救いを維持するために、毎日悔い改めの祈りをささげる傾向があります。
この偽りの救いを信じる人々は、毎日主(God)に赦しを請い、行いをもって律法を守り、聖なる生活を維持すれば、いつかは完全に救われると考えています。とはいえ、イエス様のバプテスマへの信仰によって罪をイエス様に転嫁していないなら、彼らはまだ罪人なのです。
主(God)が成し遂げた救いは、イエス様がヨルダン川でヨハネによるバプテスマを受けることで世のすべての罪を背負い、十字架ですべての罪を抹消してくださった完全な救いです。
ですから、使徒ヨハネは「もし、私たちが私たちの罪を自白するならば、主(Lord)は信実であり、義なるかたであるから、私たちの罪をお取り除きになり、あらゆる不義から私たちを清めてくださるだろう。」(ヨハネ第一の手紙1:9)と言いました。もし私たちのすべての罪が水と聖霊の福音によって洗い流されていなかったら、主(Lord)の前に私たちはまだ罪人であり、私たちの罪のために地獄に行く運命にあることを主(Lord)の前で告白しなければなりません。これが真正の罪の告白です。水と聖霊の福音がなければ、どんなに小さな罪でも、洗い流されません。このように告白するとき、水と聖霊の福音は私たちのすべての罪をただ一度で洗い流し、私たちを義とします。
「今は恵みを受けるべき時なんだ。」(コリント第二の手紙6:2)イエス様のバプテスマと十字架の福音を聞き、信じる人は誰でも、すべての罪から救われ、義人となり、主(Lord)が来られたらいつでも天国に入ることができるという強い信仰を持つことができます。真の福音以外の教理や神学を信じても、私たちをすべての罪から救うことはできません。それらは、悪魔が人間の思考に入れた狡猾な計略にすぎません。私たちは水と聖霊の福音に立ち返り、罪からの真の救いを心に受けるべきです。それは主(Lord)と主(Lord)の仕事を愛することです。