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ስብከቶች፤

主題 10: 黙示録

[第2章-7] ニコライ派教義の信奉者 (黙示録 第 2 章 12-17 節)

ニコライ派教義の信奉者
(黙示録 第 2 章 12-17 節)
 
バラムの行ない
 
ここでは、アジアの七つの教会のうちペルガモの教会の会衆の中にニコライ派の教義を信奉する人々がいたとされています。この人々は世俗的な富や名声を築くことにのみ心を傾け、魂を救うことには関心をもちませんでした。とりわけ聖職者は、このバラムの教えに従うことにならないよう気をつけなければなりません。バラムは聖徒にこの世を礼拝させ、滅びへと導きました。
神は、打ち勝つ者には隠れたマナと白い石を与えると約束なさいました。言葉を変えて言えば、これはまた、世俗のことに執着する牧師はマナを失うことになるということです。ここでいう「マナ」とは、「神のこのうえないみことば」であり、この隠れたマナを失うことは、みことばに隠された神のみこころを失うことを意味します。
新たに生まれたしもべがこの世のことを追い求めると、みことばを見失います。これは恐ろしいことです。私は、そのようなことになるかもしれないと思うとぞっとしますし、みなさんもそのはずです。神は、勝利する者たちに隠れたマナと白い石とをお与えになりますが、世の中と妥協して敗れ、世俗的な名声や快楽の前に屈する者にはマナをお与えになりません。
聖書には、「また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかにはだれも知らない、新しい名が書かれている」とあります。神のみことばは過つことがありません。俗世を愛する者とは、イエス・キリストのバプテスマと十字架上の血とを信じることによって罪から救われていない人々です。この人々は、キリストがバプテスマによってすべての罪をお赦しになったという真理を知りません。
イエスへの信仰が理屈の次元のみにとどまっている人々がいます。彼らは、イエスが罪を取り除き、それによって自分たちは義となったのだと考えますが、これは空しい信仰です。その人たちの心に御霊が宿っていないからです。これは理屈のみの信仰です。ほんとうに贖いを受けたのなら、その人は世の中の物事──世俗的な名声、名誉、富、権力──と戦い、打ち勝つでしょう。世に打ち勝つとは、人が新たに生まれることを可能にした神のみことばを堅持し、この世の富と名誉を追い求める人々と戦い、心に御霊を宿し続けるということです。
神は、贖われてその心に御霊の住む人々の名を『いのちの書』に記すとおっしゃいました。聖書に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたのです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあるように、新たに生まれ、心に御霊の宿る人々は、自分がもはやかつての自分とは違うということを知っています。彼らには、水とイエス・キリストの血とを信じることによって古い自分が新しく造られたものとなったということがわかります。信仰によって、自分の名が『いのちの書』に記されていることを知っています。彼らはこのようにして神の隠れたマナを見、聖徒や神のしもべはこうして真理のみことば、神の比類ない声を聞くことができるのです。
イスラエル人が約束の地カナンに着く前、四十年間砂漠をさまよったとき、彼らにはマナが与えられました。聖書の記述によると、マナはコリアンダーの白い実のようで、丸く小さいものです。朝、イスラエル人が目を覚ますと、あたりの地面が夜間雪が降ったようにマナに覆われていたといいます。イスラエル人は朝、そのマナを集めて食べました。これが日ごとの糧でした。おそらくは揚げ、ゆで、あるいは焼いたかもしれません。いずれにしろ、四十年間の荒野放浪の間、これがイスラエル人の主食だったのです。
マナはコリアンダーの実のように小さかったので、一粒だけでは十分であるはずがありません。しかし、神は夜の間に十分なマナをお与えになり、一日分以上でも以下でもなく、イスラエル人の誰もがその日必要なだけをお与えになりました。マナは貯蔵できませんでした。しかし、六日目には二日分のマナをお与えになって、イスラエル人が安息日にマナを集めずにすむようになさいました。
 
 
いのちの糧
 
みことばは人類のマナ、いのちの糧です。みことばには魂のための糧、いのちの糧が見出されます。特定の章句に特大のパンが見つかるというのではなく、大いなる神のみこころが聖書全体に、最も些細な点の中にまで見出されるということなのです。
世の中と妥協しないしもべと聖徒には、神がいのちの糧をお与えになります。そして神は、肉体的・霊的必要の両方を満たす、この日々の糧をひとりひとりの人間に与え続けられます。
マナのおかげで、砂漠には何一つ食物となるものが育たなかったにもかかわらず、イスラエル人は四十年間の荒野放浪の間、一度も飢えたことがありませんでした。同様に、神はニコライ派の行ないを拒む人々に隠れたマナを食べさせようと約束なさいました。富や地位といった世俗的なものを追い求めないしもべに神は、水と御霊の福音によって新たに生まれることを可能にする比類ないみことば、いのちのみことばをお与えになります。
今日のキリスト教社会の主流をなしているニコライ派の行ないを憎み、拒まなければなりません。新たに生まれていない人々の信仰に従わず、世の中と妥協することを拒むのです。神の律法によって、人間の肉は肉のことを追い求め、霊は霊的なものを追い求めるように定められているのですが、それでもニコライ派の教えを拒み、世に妥協する行ないのすべてを憎み、神のお与えくださった真理のみことばを信じて神のマナを糧とするのです。自分が義となり、御霊が心の中に住んでいると知って、人はみな信仰に生きるのです。
新たに生まれた人は世と戦います。彼らはニコライ派と戦います。ご存知のとおり、現在の牧師のあまりに多くが富や名声を求め、身を飾り、世に迎合し、世俗的な意味で成功しようとしています。こうしたにせの預言者と戦わなければなりません。
信者もまた肉の身ですから、世俗的な利益を求める心があります。しかし、内に御霊の宿る人々は、心で世に従うことはできませんし、世の中のものを否定し、信仰によってのみ生きなければならないのです。心を世に従う人々と結びつけ、その人たちの信仰を認め、その人たちと同じように世の中の物事を求めるなら、その人はバラムの道に従い、究極的な滅びへと向かうことになります。これは肉と魂の滅びへの道です。世に従えば、信仰を失います。神は、そうした人々を口から吐き出すとおっしゃいました。その人たちはもはやマナを食べず、完全に信仰を失ってしまうでしょう。
神がペルガモの教会を非難なさったのは、その会衆がバラムの教えに従ったためです。神がペルガモの教会のしもべを非難なさったのは、その人が心に御霊の宿る新たに生まれたしもべでありながら、世の中で認められることを欲し、俗人のように教会の仕事を行なったからです。そればかりではなく、彼は会衆に同じ誤った信仰を教え、道を外れさせました。こうしたしもべは、新たに生まれていない世俗的な牧師と変わるところがありません。この部分で神は、世俗的な利益と教会の財源を豊かにすることにのみ心を用いるしもべに明確で厳しい警告を発されたのです。「悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」
 
 

人を滅びへと導く信仰

 
人が神に対して戦ったなら、どうなるのでしょう? 考えるまでもありません。それはまっすぐに滅びへと続く道です。「鋭い、両刃の剣を持つ方」とは、神のみことばが両刃の剣であることを意味します。これはその人が誰であるかには関係ありません。みことばに打たれたなら、確実に死ぬのです。神のみことばは、「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも」(ヘブル 4:12) 貫く力の剣です。そして、これは心の中のいろいろな考えごとやはかりごとを判別し、人々が水とキリスト・イエスの血によって与えられた贖いをまとえるようにするものです。
イエスを信じながらそれでも律法主義のわなに陥り、その結果、律法によって打ち殺されることになる人々が大勢います。このような惨めな結果を招かないよう、そうした世俗的な信仰に対して戦い、打ち勝たなければなりません。神の働き手は誤った教えに勝利し、また、会衆がそのような嘘に欺かれないようにするのです。世の中を愛してこの罠にはまる人々は、その信仰が消えるのを目の当たりにします。
今日の教会の多くは、教会というよりは事業といったほうがよいものです。これは悲しい、しかし、的をついた表現です。これらの教会は、なぜ事業とみなされることになったのでしょう。今日の教会は世俗のことを追い求め、世俗的な価値に従い崇めることに忙しいのです。もちろん、新たに生まれた人々に肉の欲望がまったくないというわけではありません。新たに生まれた信者であっても肉の欲情はありますが、この欲情は信仰によって抑えられています。彼らは、不信者がその心のすべてで肉の欲望を追い求めるようには肉のことを求めません。
新たに生まれていない人々は自分なりの基準を定め、その基準の範囲内で手に入るものは何でも楽しんで生活します。彼らにとって、偶像崇拝や不品行はごく自然なことです。それどころか、悪魔崇拝をする人々さえいます。新たに生まれた人にこのようなことができるでしょうか? もちろん、できません! 新たに生まれた者はそれらの行ないがいかに汚らわしく不浄であるかを知っていますから、絶対にそのようなことができません。新たに生まれた者たちは、この世の栄光と肉の欲望を求める人々とは根本的に異なっているのですから、世俗的な利益にとらわれて生きてはなりませんし、また、そのように生きることもできないのです。
ニコライ派の行ないに従う人々は、この世の富だけを求めます。もちろん、生計を立てようとしたり、金持ちになろうとさえしたとしても、それ自体は何も悪くありません。しかし、人生の唯一の目的が富の蓄積になり、偶像崇拝に陥り、貪欲さにまかせて行動するようになれば、その人の信仰は破壊されます。金のために聖職につき、世の富のために教会に行く人々はみな、ニコライ派の行ないに従っているのです。こうした人々は、結局世に破れます。神を信じると言っていても、その心はまだ完全に罪のすべてを贖われていないためです。
 
 
四種類の地面のたとえ
 
マタイの福音書には、イエスが話された、さまざまな地面に種を蒔く人のたとえ話が載っています。最初に種が落ちたのは、道ばたでした。第二は岩地に、第三はイバラの中、そして、第四はよい地に落ちました。それぞれについて考えてみましょう。
道ばたとは、かたくなになった心を象徴します。この人はみことばを聞きますが、すばやく心に受け入れないために、鳥にさらわれてしまいます。つまり、そうした人は水と御霊の福音によって新たに生まれることを可能にする救済のみことばを知的にのみ考えるため、小鳥 (サタン) が奪ってしまい、その信仰は芽を出すことさえできません。
では、岩地とは何のことでしょう? これは、みことばを喜びをもって受けながら、土が浅くて根をよく張っていないために、長くは耐え忍ばない人々を指します。それに対して、茨の中に種を受けた人々とは、この世のことに心を用い、はじめは喜び受けたみことばを富の誘惑がすっかり覆ってしまうものを言います。
最後に、種をよい地に受けた人々とは、みことばを完全に受け入れて従い、心に実を結ぶ人々です。
みなさんの心はこれらの地面のどれにあたるでしょう。心が道ばたのようであれば、それはみことばの種が育つ用意が少しもできていません。種は除かれるか小鳥に奪われ、みことばの恵みは全く無意味なものとなります。人間は罪の種なのですから、神のみことばなしでは、神にとって意味ある存在であることができません。一方、心が岩地のようであれば、みことばの種は根を張ることができず、嵐や風、旱を生き延びることができないでしょう。こうした人々は、心の地面を耕さなければなりません。最初にみことばを受けてどんなに喜んだにしろ、育つことができず、わずかな困難にしおれてしまうのでは、最初に受け入れたことが無駄になってしまいます。
また、イバラの生えた土地のような心にも打ち勝たなければなりません。いのちを脅かすイバラと戦い、切り裂くのです。放っておけば、あっという間にイバラに覆われ、日光を遮られます。日光を遮られ地面の養分を茨に奪われては、みことばの木は死んでしまいます。
人生において試練と艱難に臨んだなら、断固として艱難に打ち勝つのです。道を塞ぎ、顔を覆っているイバラと懸命に全力で戦うのです。この世の金が引き止めたり、名声が脅かしたときは、それらすべてと戦い、勝利するのです。世の煩いと貪欲は魂にとって致命的ですから、常に勝利しなければなりません。そうした勝利の霊的生活を生きるなら、体と魂は神から光と滋養を得て健やかになります。
新たに生まれた聖徒と神のしもべは、いつでも世と霊的戦いを戦うのです。ですから、ニコライ派に従ってはなりません。ニコライ派は公共奉仕に力を尽くしたとされています。しかし、世の人々に奉仕することは、教会の主要な役割ではありません。教会の主要な目的が公共奉仕であると考えることは、大きな誤りです。
 
 
断固として退けよ
 
神は、信者は地の塩であるとおっしゃいます。これは、どういう意味でしょう? 神が人間が地の塩であるとおっしゃったのは、この世で必要とされているという意味です。塩の役割は、水とキリストの血のみことばを罪人に説き、彼らが罪から救われて神の子どもとされ、天国に入れられるようにすることです。食物の味を引き出すために塩が必要なように、この世界には新たに生まれた義人が塩として必要なのです。つまり、新たに生まれた義人は水と御霊のみことばを説き、人々を贖いへと導くのです。魂が新たに生まれるためのこの塩の役割を私たちは果たします。罪人を義人へと変えるのです。
真の教会とは、何でしょう? 真の教会とは、人々が神を礼拝するために集う場所です。ここで人々は神をたたえます。また、ここで神に祈ります。神のしもべは、誘惑をおぼえても抵抗できなければなりません。聖徒もまた、サタンの送る世の誘惑に抵抗しなければなりません。悪魔はそそのかすでしょう。「信仰は忘れなさい。金持ちにしてやろう。新たに生まれた教会に行く必要はありません。私の教会の一つに来れば、長老にだってしてやりますよ。」しかし、サタンは常に義人をつまずかせ罠に誘い込もうとしているのですから、信者はいつでも最後まで信仰を守れるよう、戦い勝利する用意ができていなければなりません。
誤った信仰をもつ人々はしばしば、贖われた人々を物質的な物で誘惑しようとします。彼らは金や名声で誘惑します。サタンは世俗的な富を見せ、神への信仰を捨てよと言います。こうしたときには、主はすべての必要を満たしてくださるという信仰をもち、この信仰によって断固としてサタンの誘惑を退け、勝利するのです。
恵みの源は神の中にあります。人間に霊的にも肉体的にも恵みをお与えくださるのは神です。悪魔は人類を恵む存在ではないのですから、彼に対して戦うことができます。また、ときには自分自身の欲望と戦うこともあります。世の流れに心が流されるに任せて貪欲と欲情が浮かび上がろうとしたときには、自分自身と戦わなければなりません。言うまでもなく、信仰を損なおうとする世俗的な人々とも戦わなければなりません。つまり、信者は世俗的な力のすべてと戦う定めにあるのです。
なぜでしょうか? キリスト教徒が霊的な戦いを戦っていないということは、その人の信仰が事実上死んでいることを意味するからです。世界が終わり、義人と罪人の裁きの日が過ぎ去るまで、信仰を打ち砕こうとする計略は続くでしょう。絶えず霊的戦いを戦わなければならないのは、このためです。神に敵対し信仰を打ち砕こうとする者たちを放置すれば、いのちを含め、何もかも失うことになります。信仰以外の何物にも支配されることを許さないという強い決意なしには、すべての所有物を失うばかりか、神に見放されることにもなるのです。敵と戦い勝利するには、誰が自分たちの側にあり、誰が敵対しているのかをはっきり見分けることができなければなりません。仲間には互いに寛大でなければなりませんが、敵に対しては、手出ししようともしなくなるほど断固として対応する必要があります。
ニコライ派は敵です。彼らが敵だというのは、許容できず、ともに働くこともできない「サタンの会衆」であるからです。罪を赦された者たちは、偶像崇拝を行ない物質的利益のみを求めるニコライ派を許容せず、主とこの地上に神の国を建設する主の義であるみわざのために身をささげなければならないのです。
 
 
まず神の国を求める
 
イエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とおっしゃって、肉のわざの前に神のわざを行なうようにと注意なさいました。新たに生まれた者には霊的欲求があります。それは肉の欲望ではなく、霊の欲求です。このために、第一に神と神の国のわざに仕えることができるのです。神に仕えることを第一としますが、また肉のわざも行ないます。聖書にあるように、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです。つまり、人は肉によってのみ生きるのではなく、肉と霊の両方で生きるのです。この二つの釣り合いをとれなくてはなりません。大事なのはこの世での幸福であると考えてニコライ派の行ないに従うなら、滅びに臨むことになるでしょう。霊的欲求の充足をまず求めなければならないのは、このためです。
天国と地獄の話題になると、いささか攻撃的になる人々がいます。その人たちは、「地獄に行ったことがあるんですか? 自分の目で見たのですか?」と尋ねます。しかし、こうした質問はサタンの考えから出ているのです。普通の人がこうであるばかりでなく、何年も神学を学んだ牧師の大方も、天国への保証も新たに生まれる方法も知らずに会衆を世話しているのです。これは実に不幸で嘆かわしい状態です。そうした信条をもたず、自身新たに生まれてもいない聖職者は、神のことを何も知らない人々を新たに生まれるよう導くことができないからです。実に多くの魂がサタンの考えに囚われ、神と対立しているときに、天国を信じず、自身の救済にも確信をもたない牧師から何を学ぶことができるのでしょう? 
「そこにはサタンの王座がある」とは、サタンが今、全世界を支配しているという意味です。今の時代は、夜空にネオンサインの十字架を立て、事業を経営するかのように教会を運営するニコライ派が世界中にいる時代なのです。神は、そうした教会はご自分の教会ではなく「サタンの会衆」であるとおっしゃいました。今日の世界は、サタンの考えにとらわれ、世俗的な欲望の充足を求め、聖職をつとめるふりをし、あるいは教会に出席して主の名を呼ばわりながらその魂の新生と天国への希望はとうの昔に消えてしまった無数の人々で満ちています。信者はこのような世界に生き、主に仕えているのです。
 
 
新たに生まれていない人々に対する霊的戦い
 
人間は「サタンの王座がある」この地上に住んでいます。信者はいつも警戒し、挑まれれば断固として敵に臨み、信仰を守らなければなりません。主の再臨の日まで、水と血とによって新たに生まれることを可能にした福音を信じ、「白い石」、すなわち信仰を注意深く守り続けなければなりません。
信者はマナ、神のみことばを食べて生きます。そのためには、ニコライ派の行ないと戦い、勝利しなければなりません。退けるのです。金とこの世の名声だけを求める人々からは遠ざかっていましょう。彼らの弱さを許容することはできますが、真理に敵対し、金だけをしきりに求める人々と食事を共にすることはできませんし、まして神のわざをともに行なうことはできません。
水と御霊の福音を信じて新たに生まれた人々の名前は、どこに記されていますか? 『いのちの書』に記されています。では、この白い石に新しい名前が書かれているというのは、どういうことでしょう? これは、神の子どもになったということなのです。また、この新しい名前は「それを受ける者のほかは」だれも知らないとも記されています。これは、水と御霊の福音を信じて新たに生まれた人々以外にイエスの救済を知る者はないということを意味します。罪人はどうすれば義となれるかを知りません。つまり、イエスから新たな名を受けた者だけが、どのようにして自分の罪が消されたかを知っているのです。
ニコライ派に対して戦いましょう。ほかの誰でもなく、ニコライ派に対して。この部分の要点は、ニコライ派に対して戦い勝利しなければならないということです。彼らは神を信じ、みことばを知ってもいますが、それでも神のみことばに背き拒み、肉のために金や物質的利益、富、名声だけを求め続けるのです。
また、自分自身とも戦わなければなりません。虚栄や誇りのせいで神に従うことができないのなら、そのような心と戦わなければなりません。また、新たに生まれることなくイエスを信じていると主張する人々とも霊的戦いを戦うのです。
人類は神の栄光には遠く及ばないのにもかかわらず、主は水と血とでお救いくださいました。信者はこのみことばを信じて信仰を守り、神のしもべとして生き、与えられた完全な救済に感謝して生きるのです。まず神の国と神の義とを求めるのです。みな最後まで信仰をもって戦い、勝利する者になりましょう。
 
 
勝利を得る者にマナを与える
 
人類史上最大の消失事件は、やがて来る携挙でしょう。また、イエスの再臨にはキリストを信じる者すべてが深い関心を寄せています。中には、「聖徒が携挙されるときには大勢の人々が消失するだろう。パイロットから列車の車掌、タクシー運転手まで、あらゆる階層の人々が消えると、世界はさまざまな事故と災害に見舞われる。航空機が墜落し、列車は脱線し、高速道路には事故が多発するだろう」と考える人々もいます。こうした考えに基づいた『Rapture(携挙)』という本がかつてベストセラーになりました。人々は、聖徒が携挙されるときには消失するものと考えました。そこで、悔い改めて携挙の日のために信仰を備えたばかりでなく、中には学校や仕事をやめた人もいるのですから、笑い事では済まされません。
それほど古いことではありませんが、大艱難前携挙説を信奉する教派が会衆にその所有物を教会に差し出させ、ただ指導者が予言した携挙の日を待たせたことがあります。もちろん、人々が熱心に待ち望んだ日が来ていつもと同じように過ぎ去りました。すべては無駄でした。彼らが心から信じ待ち望んだことは嘘であることが証明されました。
しかし、中には懲りずに 1999 年のある日を携挙の日だと言って、ひたすら待ち続けた人々がいました。しかし、やはり前と同じように、嘘に欺かれていたわけです。彼らの指導者は実現しなかった予言で恥をかき、二度とキリストの再臨の時を定めないことにしました。こうしたことからして、大艱難前携挙説が神のみことばに全く沿っていないものであることがわかるのです。
黙示録で最も重要な点は、イエスの再臨と聖徒の携挙です。信仰深いキリスト教徒はみな、キリストがこの世に再臨されて信者を空中に携挙なさるときを最大の望みとして待っているのです。実際、キリスト教徒が信仰をもってキリストの戻られるのを切に待ち望むのは、もっともなことです。誰でも真にイエスを信じる者は、主の戻られる日を大いに期待して切に待つでしょう。
主の再臨と携挙とを待つ信仰をもつほうが、全く待たない信仰をもつよりもはるかによいのです。黙示録的な終末論者が正しい道を外れているのは、携挙に特定の日時を定めている点です。彼らの多くは計算の根拠として、ダニエル書第 9 章とザカリヤ書で預言された七十週を取り上げ、誤解して自分なりの日付を算出して予言しています。
パウロはテサロニケ人への手紙第一第 4 章で、キリストが地上に戻られるとき、聖徒は空中で主と会うために引き挙げられると述べています。ですから、真にイエスを信じる人々が携挙の日を待つのはもっともなことです。しかし、計算して特定の日を携挙の日と定めるのは、自らの驕りから神の知恵を無視した、ひどく間違った行ないです。聖書の預言を人工の数式によって解いて理解しようとすることは、はなはだしい誤りです。
では、ほんとうの携挙はいつ起こるのでしょう? 黙示録第 6 章は、聖徒の携挙について語っています。それによると、神の七つの時代の第四の時代、すなわち青ざめた馬の時代に聖徒が殉教し、その後の第五の時代に携挙が起こるとしています。聖徒の携挙は詳細に述べられています。それは時が来れば実現するでしょう。
神は人類のために七つの時代をご計画になりました。その第一は白い馬の時代です。これは、水と御霊の福音が始まり、勝利し続ける時代です。第二の時代は赤い馬の時代です。この時代はサタンの時代の始まりです。第三の時代は黒い馬の時代で、世界は物質的・霊的飢えに襲われます。第四の時代が青ざめた馬の時代です。反キリストが現れ、聖徒が殉教するのはこの時代です。第五の時代には、殉教の後で聖徒がよみがえらされ、携挙されます。第六の時代には第一の創造、すなわちこの世界が神によって完全に破壊されます。その後、第七の時代に神は聖徒とともに永遠に生きられるために千年王国と新たな天地を開かれます。神はこのように七つの時代をすべての人類のために定められました。イエスを信じる者が、神の定められた七つの時代を知り信じることは、正しいことです。
前世紀の終りに、韓国だけでも十万人以上の人々が特定の日時をイエスの再臨と携挙の日と定めて待ちました。韓国人のうち約1,200万人はキリスト教徒だとされています。そのうち十万人がイエスの再臨と携挙を待ちました。言葉を変えていえば、彼らは神のみことばを記されているままに信じて主の戻られるのを待った熱心な信者です。1200万のうちたった 10 万というのは、1%以下です。
しかしながら、神が定められた時代についての正しい理解を欠いていたのは問題です。原始教会のキリスト教徒の多くは、水と御霊の福音を正しく理解することなしに、時代についての誤った知識に基づいてキリストの再臨と聖徒の携挙の日を割り出そうとしました。そこで、使徒パウロは彼らに「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」 (テサロニケII 2:2) と注意しました。
歴史的にみると、多くの人々が神のご計画についての無知から次から次へと空しく誤った日を定めてきました。彼らの誤った信仰は正されなければならないでしょう。しかし、厳しく非難するつもりはありません。ただ、正したいのです。なぜでしょうか? それは、過ちが、神が人類のために定められた七つの時代に関する無知によるものだからです。彼らは聖書に記されている数字を人間的な見地からのみ見て誤解し、誤って適用し、イエスの再臨の日について誤った日付を定めたのです。
この過ちは韓国のキリスト教徒だけではなく、世界の他の国々でもよく見られることです。世界各地の教会指導者──中にはどちらかというと有名な人もいたのですが──も同じような誤りを犯してきました。イエスを信じ、自分で定めた携挙の日を待ったすべての人々に神のご計画をあかしし、その人たちが神のご計画について、誤ったものではない正しい理解をもてるようにしたいと、心から願っております。その人たちもまた神に携挙される恵みを与えられることだけを、私は願っています。
神による真の携挙は青ざめた馬の時代の後、聖徒が殉教した後で起こるのです。青ざめた馬の時代に七年間の大艱難が始まると、反キリストが世界の最も強力な指導者として現れ、支配します。
反キリストは大艱難が始まると聖徒の迫害を始め、大艱難前期、すなわち最初の三年半にますます迫害の度を強め、ついに七年間の中間点で最高に達します。このときに聖徒が信仰を守るために殉教するのです。そして、すぐ後に第六の時代、殉教した聖徒がよみがえらせられ、携挙される時代が続きます。
イエスを信じる人々は、時代についてよく理解しておいてください。大艱難前携挙説を信じるか大艱難中期携挙を信じるかによって、信仰生活は極めて異なったものとなるでしょう。信者が正しい信仰をもって賢明に携挙を待つか、心を自分の選んだ見当外れの日に定める過ちを犯すかはみな、その人が神のみことばに基づいて信仰しているかどうかにかかっています。
黙示のみことばの教えに落ち着いて接したならば、理にかなった見込みがどうであるかは見てとれるでしょうし、疑問をすべて正しく解決できるでしょう。しかし、携挙を正しく理解せず、正しく待つことができなければ、信仰は損なわれます。
大艱難前携挙説は、アメリカの神学者スコフィールドによって唱えられました。彼はその著『スコフィールド引照聖書』の中で最初にこの教義を組織的に打ち立てました。この引照聖書は広く翻訳され、世界中で用いられました。スコフィールドの引照聖書の影響力のために、大艱難前携挙説が現在のように広まったのです。『スコフィールド引照聖書』は、大国の権威ある神学者が著したものであるために、多くの言語に翻訳され、大勢のキリスト教徒に読まれました。
スコフィールド自身は、自分の大艱難前携挙説がこのように世界中に広まるとは夢にも思いませんでした。しかし、結果は大艱難前携挙説が事実上世界のキリスト教徒の全員に認められることになったのです。しかし、スコフィールドの大艱難前携挙説が現れる前、キリスト教世界で支配的な考えであったのは艱難後携挙説でした。
艱難後携挙説では、キリストは七年間の大艱難期の後で戻られ、そのときに聖徒を携挙なさるとしています。そこで、多くの人々は、携挙と主の再臨の前の大艱難期をひどく恐れていました。信仰復興論者が説教壇からキリストの再臨について説くと、人々は争って罪を悔い、罪のために泣き苦しみ、ひっきりなしに祈りと悔い改めをするようになるのでした。そこで、最もよく泣く人が、最も恵まれた人を測る物差しとされるようになりました。こうした人々は、イエスを信じていながら、あまりにもたくさんの涙を流します。
しかし、人々は徐々に、かつての艱難後携挙説から大艱難前携挙説を信じるようになっていきました。なぜこのようなことが起こったのでしょう? 人々は大艱難後携挙から大艱難前携挙へと乗り換えるほうがずっと心が安らぐと思ったのです。この転換によって、そうでなければ経験しなければならないはずであった試練と艱難に臨む必要がなくなるのです。恐ろしい大艱難の苦難が訪れる前に空中に引き上げられる方を人々が好んだとしても、驚くにはあたらないでしょう。こうして、大艱難前携挙説は大艱難の苦難を経験する恐ろしい見込みよりはずっと受け入れやすい心地よい信仰を提供したために、野火のように広がりました。
人が無味や苦味よりも甘味を好むように、人々はまた、信仰においても楽な方を好むのです。彼らは、学者が作り出すさまざまな説のうちから、何でも最も好みに合うものを選びたがります。多くの人々があのように簡単に大艱難前携挙説を信じるようになったのは、このためです。大艱難前携挙という考えを支持した人々は、携挙されるためには心身を一点の汚れもなく聖く保たなければならないと考えました。そこで、実に敬虔な信仰生活を送ります。しかし、深刻な欠陥が大艱難前携挙説を空しくします。イエスへの信仰をもって主の再臨を待つのは立派なことですが、この人たちは二つの深刻な過ちを犯しています。
第一に、水と御霊の福音を信じないで、心に罪をもったまま主を待っていること。彼らはイエスの血にのみ頼っていますが、どんなに悔い改めても毎日犯す罪からの完全な赦しは得られないのです。それでも、彼らは日夜イエスの再臨を待ちます。罪を悔い改め、祈り歌い、一晩中たたえるために教会に集い、携挙を待つことで結ばれています。このように携挙を待ち望むこと自体は何も悪いことではありません。しかし、正しい信仰なしに待つという深刻な過ちを犯しています。つまり、神の前に子どもとして立つことができるようにする唯一の信仰である水と御霊の福音を信じていないのです。
第二の過ちは、神のご計画を正しく理解することなく、人工的に日を定めたことにあります。これは多くの信者を空しく待たせただけではなく、世界中でさまざまな混乱をもたらし、キリスト教について悪い印象を与え、不信者の間での評判を損ないました。
この二つの過ちのために、彼らがあんなにも熱心に待っている携挙は絶対に実現しません。これはただ、多くの人々に携挙のことを悪く思わせ、真理からより遠ざけることになるのです。そうして、キリストの再臨について話すべき時と再臨の近づいたときには、もはやこのことについて話す人はほとんどいないでしょう。みな、誤った少数の愚行のために。
今検討している部分は、神がヨハネを通してペルガモの教会にお書きになったものです。神はその教会のしもべと聖徒が殉教によって信仰を最後まで守っていることをおほめになりました。しかし、ペルガモの教会へのおほめには、会衆の中に世俗のことを追い求める人々がいることへの非難が伴っていました。神が教会に悔い改めるようおっしゃり、そうでなければ速やかにおいでになって罰するとおっしゃったのは、このためです。
神がヨハネを通してアジアの教会すべてに共通しておっしゃったことに注意を向けましょう。「耳のある者は、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」 これは、神が教会としもべを通して真理を聖徒と魂に語られることを確認なさったのです。神は、ペルガモの教会にこうおっしゃいました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」 
いいですか、「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える」ですよ。これは、真に主を待つ者は神の敵に勝利しなければならないということです。これは、世俗のことに従う者と戦い、世俗のことを愛する人々から遠ざかっていなければならないということなのです。バラムに従う人々とは、にせの預言者に従う人々です。神は、こうした人々は罪深い貪欲さによって世の富をのみ求めるのであり、バラムの教えに従う者だとおっしゃったのです。
すべての教会が神の教会ではありません。今日の教会指導者の多くは、イエスは神の御子であることを認めますが、神であるとは信じていません。イエス・キリストがこの世界を創造なさったことを信じない人々さえいます。
おまけに、多くの人々は物質的に恵まれるようにと教会に通います。教会にもっと金を出せば恵まれると会衆に言う教会指導者があまりに多いのです。こうした誤った教えに欺かれて、実際に多くの信者が、どれだけの献金をするかが信仰の反映であると考えています。ただ献金をし、教会に定期的に通うことだけで忠実な信者とほめられている人々がじつに大勢います。おまけに、中には、定期的に礼拝に出席するとか、教会への奉仕をし、献金として高額の小切手を切ることで執事や長老といった指導的な地位につけられる人々もいるのです。これらはみなバラムの行ないであり、信者が遠ざかっていなければならないことです。
このような信仰と戦うのです。ほんとうに隠れたマナを得たいと思うなら、まず自分の教会が真に神のみことばに従っているものかどうかを見極めることです。違っていたら、戦って勝利なさい。そうすることによってのみ、水と御霊の真理、神の真のみことばを得るのです。
水と御霊のみことば、すなわち隠れたマナを糧とすることによって、そして新たに生まれることによってのみ、人は神の与えられた真理のみことばを糧とし続けることができるのです。こうすることによって新たに生まれた者は、神のみ言葉とは何かを議論し、聞くこと、見ること、仲間と分かち合うことで糧とすることができるのです。
心から携挙されたいと願うなら、真に新たに生まれたいのなら、名前のみの教会に通い続けるのは愚かなことです。神のものではない教会に出席していては、百年、千年、それ以上にしろ、どんなに長く通おうと、真のいのちのみことばを糧とすることは決してできませんし、正しい救済の道につくこともできないのです。
こうした人々は、信仰によって新たに生まれることができないばかりではなく、第一の条件を満たすこともせず──つまり、新たに生まれることさえせず──に携挙を待つという愚かな過ちを犯してしまいます。このような信仰は誤っています。キリストの再臨をどんなに切に待とうと、ほんとうに心で主を愛そうと、あるいはイエスのためには命をも捨てるつもりであろうと、すべては無益です。こうした人々は主にお会いできません。彼らの神への愛は報われぬ恋として終わります。
神がアジアの七つの教会に「わたしは勝利する者に隠れたマナを与える」とおっしゃったのは、このためです。神は、闘争なしに真理のみことばを得ることができるとはおっしゃいません。嘘つきたちと戦い勝利しなければ、マナ、いのちのみことばを得ることは決してできないでしょう。どれだけまじめに教会に通っているかは問題ではありません。真理を知らないのなら、これまで聞かされてきたことはみなただの嘘です。真理を求めて戦い勝利して、こうした嘘から逃れなければなりません。神のみことばをあかしし、水と御霊の福音を説く教会を見つけ、この真理に出会ってはじめて、いのちのマナを得ることができるのです。
水と御霊の真理のみことばを心に受け入れることを妨げるものは何もありません。水と御霊のみことばを説き聞く人々の心は結ばれ、御霊がみなの心に住んでいます。
神は、勝利する者に隠れたマナをお与えになると約束なさいました。ですから、サタンに対する戦いに勝利し、嘘つきたちと戦い打ち勝つのです。永遠のいのちを望むなら、真に新たに生れるのです。携挙されたいのなら、正しい信仰をもつのです。キリスト教社会の内にいる嘘つきに加え、この世の多くの嘘つきとも戦い、勝利するのです。
信仰は、そのときの情勢によって一方から他方へと揺れ動き続ける優柔不断なものであってはなりません。みなさんの教会が神のみことばをありのままに説く教会ではないのなら、そのような教会に通うのはやめることです。心が真理を愛し求める人々にのみ、神はマナのみことば、水と御霊の真理のみことばによっておいでになるのです。
神学校で学んでいたとき、私はとてもよい生徒でした。一度も欠席せず、成績はみな優でした。勤勉にまじめに勉強しました。それでも、知らないことがあまりにたくさんあったのです。イエスに出会って信仰をもつ前は家族と同じ仏教徒だったので、当時、イエスについての知識はごく限られたものでした。みことばについての理解はもっと限られていたので、聖書を学ぶことを切に望みました。みことばについての知識に渇きました。聖書への渇きを満たされたいと願い、神学校の大勢の教授たちから学ぼうと、質問をたくさんしました。
しかし、誰ひとり明確に答えてはくれませんでした。聖書の知識で知られている教授たちに質問をすると、彼らは答える代わりにただ私の聖書知識をほめただけでした。神学校では、教授たちはみことばを説かず、自分たちの聖書「理論」を教えました。しかし、旧約聖書論から新約聖書論、組織神学、キリスト教史、カルビニズム、アルミニウス説、キリスト論、聖霊論、初級研究からより詳細な論考までのすべては、ただ人の考えたことに過ぎませんでした。彼らは学者の唱えるさまざまな説を教えるだけでした。大学での世俗的な学問分野でいろいろな理論的観点を学ぶのと、少しも変わりありません。
私は聖書について無知な人間でした。どんなに学問を積んでいようと、何人もの人から聖書についての広い知識をほめられようと、その知識をどう説教に生かしていようと、聖書と神学を学べば学ぶほど、進路についての疑問は深まるのでした。やがて、自分が全く無知な人間であり、基礎の基礎からやり直さなければならないのだと悟りました。そこで、当時は奇妙な、ふさわしからぬとみなされていた質問を教室で発するようになりました。その一つは、 「なぜイエスはバプテスマを受けたのか」でした。この質問には明瞭な答えを得たことがありません。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったのは、人類の罪をすべてご自分の肉の身に被られるためであるという正答を与えてくれた人は、一人もいませんでした。
私はまた、たった五個のパンと二匹の魚で五千人以上の人々の空腹を満たしたというような、イエスのなさった奇蹟についても疑問がありました。そこで、「イエスが五個のパンと二匹の魚を祝福なさったとき、それは一度で大量のパンと魚に変わったのですか、それとも、人々に配るにつれて増えていったのですか」と尋ねました。たいていは、そんな質問をしたために叱られ、非難されました。
こうして、私は思いました。「神学というのはこんなものなのか。ただフランス人のカルビンが学問的な理論や論文として組織立てたものを学んでいるだけだ。聖書については何も知らない。」 そこで、広くさまざまな宗派の出版物を集め、それらを聖書と比較する研究を始めました。それでも、何もわかりません。
それらはみな、人がイエスを信じると、悔い改めの祈りによってその罪が徐々に消えていき、死ぬときには完全に罪がなくなって天国に行くという、同じ結論に達していました。宗派による違いは関係ありません。いずれにも共通した根本的な結論は、キリスト教徒は悔い改めの祈りと漸進的聖化を目指すというもので、これは、みことばとは全く関わりがありません。これらの主張はいずれも、神のみことばの告げていることとは違っているのです。そこで、神の前にひざまずき、真理を願い求めました。
このときに、神が真の水と御霊の福音をお教えくださったのです。この真理に私は驚嘆しました。水と御霊の真理は聖書の六十六の書すべてに見出されることを知って、私の盲いていた目は開き、聖書のみことばがはっきりと理解できるようになったのです。旧約と新約がどのように照応するかを知り、この真理を見出したとき、御霊がおいでになって心に宿りました。この真理のみことばを見、知って後、それまで心を悩まして重くのしかかっていた無数の罪が、神の愛と恵みの大いなるすばらしいみわざによって、完全に消えました。
静かな湖に小石を投げ込むと波紋ができるように、穏やかな喜びと光が心に入りました。光というのは、みことばの真理が何であるのかを悟ったということです。悟った瞬間、御霊が心に入り、御霊のおかげで聖書のみことばがはっきりと理解できたのです。この瞬間から、私は一貫して水と御霊の福音を説いてきました。
今日まで、水と御霊の福音は私の心を支え、慰め、力を与え、いつも心を清く保ってきてくれました。こうして、私は神のみことばを糧とするようになったのです。みことばについて考えるとき、その意味とともにおだやかな恵みが心を満たし、そして、心は恵みの海を泳ぎ始めます。私の心がこうして恵みに満たされたように、人が新たに生まれる救済のみ言葉を信じるならば、神のみことばがその恵みと祝福とをもたらすのです。
聖書を開いてみことばについて考えると、心配事や不安は消え、心は喜びと平和に満たされます。聖書について尋ねられたときはいつでも、神がみことばによっておっしゃろうとなさったことを答えることができるようになりました。水と御霊の福音を知り信じることによってのみ、人はみことばを糧とすることができ、神のみことばを糧とすることによってのみ、人は新たに生まれることができるのです。新たに生まれた人の心にはもはや罪が残っていませんから、主がいつこの地上に戻られても、主がついに空中に引き挙げてくださるときにはみな、携挙の用意ができているのです。
 
 
携挙につながる信仰
 
携挙とは、水と御霊の福音を知り信じて贖いを受けた後に待ち受けるものです。待つには、神の定められた時についてよく理解して待たなければなりません。神は七つの時代を定められましたが、その中で殉教が行なわれるのは、青ざめた馬の時代です。青ざめた馬の時代は、神の定められた七つの時代の四番目に当たります。ところで、今私たちが生きているのは第三の黒い馬の時代です。
高い山に登るときには地図を参照します。しかし、地図を用いて正確に安全に目的地に着くには、まず自分がどこにいるのかを知らなければなりません。どんなに地図を読むのが上手でも、またどんなに正確な地図であろうと、自分がどこにいるのかを知らなければ、役に立ちません。自分の位置がわかってはじめて、安全に目的地に着くことができるのです。
同様に、水と御霊の福音によって新たに生まれることによってのみ、人は自分がいつ携挙されるかを知ります。聖書に基づいた正確な携挙の時は、七年間の大艱難の中間点をわずかに過ぎた時点、つまり、大艱難が始まって三年半たった時点です。これが神がこの宇宙を創造なさったときにイエス・キリストの中にご計画になったことなのです。
ひとり子をこの地上に遣わされ、バプテスマを受けさせ、十字架上で死なされ、死からよみがえらせるという、イエス・キリストの中の救済のご計画は、神が定められた唯一のご計画ではありません。神はまた、宇宙のための時、創造から終りまでの時を七つの時代とともに定められました。人間も家を建てる前には設計図を描き、事業では事前に計画を立てます。それに、その日の予定を手帳に記入もします。では、神はこの宇宙と人間、みなさんや私を無計画にイエス・キリストの中に創られたのでしょうか? もちろん、違います! 神はご計画に従って創造なさいました。
このご計画は、黙示のみことばにはっきりと示されています。このみことばを開き、考えるなら、神のご計画がどのようなものであるかがわかります。このみことばが真理です。神のみことばは数千年前のものですが、それでも何一つ加えも引かれもしない、不変の真理なのです。これを知らず、水と御霊によって新たに生まれてもいない人々は、神のみことばによって示された真理をまだ知らずにいます。しかし、みことばについて考える人々は、聖書に示された真理のすべてを見出し、知ることができます。
勝利する者にマナを与えると神が約束なさった部分は、真理と偽りとを区別でき、真理のみことばによって嘘つきたちに打ち勝つことのできる者にのみ、神はみことばに光をあててくださるという意味です。嘘を逃れ、真理を見出した人々は、真理を説くことによって嘘に打ち勝つのです。神は、福音を信じる者にマナを糧とする恵みをお与えになると約束なさいました。「わたしは勝利する者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」 
ここで隠れたマナとは、神のみことばです。それに対して、白い石とは、その人の名前が『いのちの書』に記されていることを意味します。神がお与えくださった水と御霊の福音を信じると、心は変化します。心が御霊のみことばに満たされ、みことばを信じることによってすべての罪が心から消えたことを知ります。こうして水と御霊によって清めらると、名前が白い石に書かれます。
神は、これを受ける者以外には新しい名前を知る者はないとおっしゃいます。すべての罪を赦された人々は、その心にもはや罪が全く残っておらず、その名が『いのちの書』に記されていることを知ります。つまり、水と御霊の福音がすべての罪を心から取り除いたことがわかるのです。このように真の水と御霊のみことばを知って新たに生まれ贖いを受けた者だけが、主と真理とを知ることができます。新たに生まれていない人々は、自分が新たに生まれなければならないことを知りません。しかし、新たに生まれた者は容易にこうした人々を見分け、その人たちはまだ神のマナを得ておらず、その名が白い石に書かれていないとわかるのです。
みなさんは、ほんとうに携挙されたいですか? 携挙されたいのなら、マナを食べる資格を得なければなりません。マナを食べる資格を得るとは、水と御霊によって新たに生まれるということです。マナを食べるには、信仰によって嘘と戦い、勝利しなければなりません。誤った教えは罪人に贖いをもたらさず、魂と物質的な所有を搾り取ろうとするだけなのです。現在のキリスト教社会のこうした偽りの教会、にせ預言者、にせのしもべと戦い、勝利するのです。
聖書に基づいて、イエスがどのように人類の罪のすべてを取り除かれたのか、なぜバプテスマをお受けになったのか、なぜ世の罪を被られたのか、なぜ十字架上で死なれたのか、そして、なぜ再び死者の中からよみがえられたのかを正しく知っていなければなりません。イエスが地上に肉の形でおいでになり、そのみわざをなさった理由と、イエスが誰であるのかを正しく知ることが必要です。しかし、偽りの教会はこうした真理は教えずに、通ってくる者は誰でも勝手に「聖徒」と呼びます。彼らはただ「みなさんはイエスを信じますか」と尋ねます。答えが「はい、信じます」であれば、こうした偽りの教会は直ちにその人たちを聖徒と呼び、一年くらいで洗礼を授け、それから感謝の献金、特別献金、見た目の立派な新しい教会建設のための特別献金にいたるまで、あらゆる種類の寄付を引き出し始めます。このような、金とより大きく派手な教会を建てることにとらわれている教会は、偽りの教会です。
マナを食べるには、こうした偽りの教会や誤った教えを広める人々と戦わなければなりません。戦いに負けたなら、もはや神の聖徒ではなくなるばかりか、携挙されることもなくなるでしょう。聖徒でないということは、神の子どもではないということと同じです。キリストが百回再臨なさったとしても、携挙されません。
マタイの福音書第 25 節には、十人の花嫁のたとえ話があります。花嫁の五人は賢く、五人は愚かでした。さて、五人の花嫁は愚かにも油を入れずにランプを持ってきて、花婿の到着が告げられてから油を買いに行きました。人は事前に油を用意した賢い花嫁のようでなくてはなりません。油を用意するような信仰をもつとは、嘘つきに勝利し、水と御霊のみことばによって新たに生まれ、イエスの前でマナを食べる資格を得るということです。
説教を聞くときは、牧師が神のみことばを説いているかどうか考えましょう。また、教会がその金を神が望まれるように、つまりそれ自体のためではなく神のわざのために使っているかどうかを確かめる必要があります。つまり、そこが真の神の教会であるかどうかを見極めるのです。神のみことばと教えを説くのに、耳に快いことばかりを言う教会には注意なさい。
話すことや悔い改めがどんなに立派でも、行ないによってその姿勢がわかります──何よりも、より大きな教会を建てることの方に関心があるのかどうか、貧者の世話をするのか、金持ちだけを相手にするのか、そもそも魂を救うことに興味があるのかどうか。神は、人が自分で見て判断できるように目と耳をお与えになりました。教会が正しい教会ではないという結論に達したなら、ためらうことなくすぐさまそこを去るのです。そのような偽りの教会に通い続けることは、地獄に行こうとするようなものですから。命を捨てたほうがましというものです。
水と御霊の福音がどんなに良いものであるか、おわかりですか? この真理、水と御霊の福音を知り心に受け入れるなら、その人は全く新しい人になります。それまで地上のものであった人が天のものとなり、悪魔にさいなまれていた人々は解放されます。
悪魔は、心に罪があるために罪に縛りつけれらている人々の心に入り込んで苦しめます。しかし、主はこの地上においでになって、水と御霊の福音によって人類の罪のすべてを取り除いてくださいました。主が完全に罪を取り除かれたので、悪魔はもはや人間の魂を苦しめたり盗んだりできません。この福音を知り信じると悪魔が追い出されて人生が変わるのは、このためなのです。
つまり、この世のしもべであった人々が、隷属状態から自由になるのです。神は、罪人を義人となさり、地上のものを天のものに作り変えられ、すばらしいみわざをなさいました。そして、主が戻られるとき、信者は天の国に携挙されるのです。
地上の生がすべてではありません。神は人類をご自分の姿に似せてお創りになりましたが、ほんのつかのま生きるようこの地上に置かれたのではありません。肉のいのちは確かにごく短いものです。学校を出るころにはすでに二十代の半ばです。人生の基盤を築くために三十年間を費やし、その基礎ができ上がったときにはすでに四十代、五十代に達しています。そうして、やっと少しのんびり人生を楽しもうと思ったときには、人生はすでに過ぎ、終わりが見えています。花が朝開いて午後にはしおれるように、やっと人生の要領がわかったときにはすでに時は過ぎで、ただ命の終わりの迫っているのを知るだけなのです。
短い命とは、このようなものです。しかし、もっと不幸なことは、人生のこのはかなさに気づきさえしない人々が大勢いることなのです。それでも肉の命の終わりは人間の終りではありません。それは魂の霊的ないのちの始まりだからです。なぜでしょうか? 神が、人間の地上の生の短さを補うため、千年王国ばかりではなく、そこで永遠に生きるよう新たな天と地とをご用意なさったからです。これは、水と御霊のみことばを信じて新たに生まれた者のためだけに神がお与えになる、永遠のいのちの恵みです。
隠れたマナを食べ、その名が白い石に書かれてはじめて人は携挙されます。神は、マナを得る者だけが大艱難の間にサタンに勝利することができ、そうして打ち勝った者の名だけが白い石に書かれるとおっしゃいます。ですから、勝利しない者は携挙されることも新たに生まれることも望めません。
貴重なものを得るには大きな犠牲が必要です。そのよい例が金です。金を見つけ採掘するには、たいへんな努力と時間、危険が伴います。多くの人々がたった一個の金塊も見つけないうちに金鉱で死にました。砂金を採るのにも相当な労力が必要です。大量の土を一日中ふるっても、ほんの少量の金しか取れません。おまけに、これはどこの川ででもできることではなく、まず砂金のある川を見つけなければなりません。つまり、金を見つけるにはかなりの努力が必要で、ときには命がけなのです。では、なぜ人々はそんなにまでして金を見つけようとするのでしょう? 金が高価で、命をかけるだけの値打ちがあると考えるからです。
しかしながら、金や銀よりはるかに貴重なのは、人間が神の子どもになれるということです。金は肉に一時的な幸福感をもたらすでしょうが、神の子どもになることは、果てることのない永遠の幸福をもたらすのです。終わりの時に携挙され千年王国と新たな天地の富と繁栄と名誉を享受し、その中で永遠に生きるには、水と御霊の福音を信じてこの地上のすべての嘘つきと戦い、信仰を守って勝利を得なければなりません。
この世には実に多くの嘘があって、心を盗み信仰を失わせようと機会を窺っています。水と御霊の福音を信じ心に真理をもつ人々は、自分の信仰がいかに貴重なものであるかを知っています。信仰の貴重さを知っていますから、それを奪おうとするすべての誤った教えと戦うのです。どれだけ多くの人々がこの信仰をもつことを願い、得ることができずにいるかを知るならば、そしてまた、この信仰だけが子羊の婚姻の祝宴に招かれることを可能にし、永遠のいのちの恵みを与えるものであることを知るならば、これを堅持し、決して奪われないようにするでしょう。これは戦い、勝利する信仰です。
私は、黙示のみことばについて正しい知識と理解を広め、人々が尊い水と御霊の福音を守ることができるようにする必要があることを確信しています。多くのにせ教師が黙示のみことばを、一般の人ばかりではなく、新たに生まれた聖徒をも欺くために利用しようとすることがわかっているからです。人々が終わりの時に信仰生活を正しい知識と信仰をもって生きられるよう、説教や著書で黙示のみことばを説いているのは、このためです。
黙示録はきわめて重要なことを啓示しています。しかし、神の隠れたマナを食べることのできない、心に御霊をもたない人々に、黙示のみことばは何一つ明かしません。終りの時のしるしから、すべてのキリスト教徒の希望である携挙、新たな天と地まで、驚くべきご計画が黙示のみことばの中に記されています。しかし、神の知恵はその秘密を誰にでも明かすものではないために、啓示はすべての人が理解できるわけではない難しい文書となっています。水と御霊によって神のマナを食べ、その名が白い石に書かれ、嘘に打ち勝った者でなければ、誰も黙示のみことばを理解できません。
このために、新たに生まれていない人々は無知から大艱難前携挙や大艱難後携挙を唱え、千年王国は象徴的なものに過ぎないとまで言う人々がいるのです。神のみことばは真理です。そして、みことばは、携挙は大艱難抜きには起こらないとはっきり告げています。七年間の大艱難の中間点をわずかに過ぎた時点で聖徒が殉教し、そのよみがえりと同時に携挙は起こるとしているのです。
普通の日常生活をしているときに携挙される──世界中でパイロットが突然消失する、母親が食卓から消える──ということは、残念ながら起こりません。そうではなくて、携挙は世界に大災害が起こり、地震が世界を破壊し、天から星々が落ち、大地が大きく口を開けるときに起こるのです。つまり、携挙は平和なときに明るい陽射しの中では起こりません。
星々はまだ落ちていませんし、世界の三分の一はまだ焼けていません。また、海はまだ血に変じていません。これは、どういうことでしょう? 今はまだ携挙の起こる時期ではないということなのです。神は、携挙が行なわれる前には誰もがわかるしるしを示されるとおっしゃいます。そのしるしとは、海と川の三分の一は血に変わり、森林の三分の一は焼かれ、星々が落ち、水は飲めなくなるその他、この世界に起こる災害です。
このように世界が大災害に見舞われるときに反キリストが現れ、秩序をもたらします。彼は、初めは世界のすばらしい指導者として現れますが、やがて専制君主となり、絶対的な権力で世界を支配します。聖書は、反キリストの専制的世界支配が打ち立てられたときに主が聖徒を連れ去るために地上に戻られるとしています。携挙は、大災害が起こらず、反キリストが出現していないうちは起こりません。
つまり、神が約束なさったしるしが実際まだ起こっていないのに、じきに携挙されると考えて仕事をやめたり学校に行くのをやめたりして生活活動をすっかり止めてしまうのは誤りなのです。このように欺かれてはなりません。それは、サタンの嘘の罠にはまることです。
こうした誤った教えの仕掛けた罠と戦い、勝利しなければなりません。誤った教えに勝利できる唯一の信仰は、水と御霊の福音への信仰です。すべての罪を取り除いたイエスのバプテスマを信じる人々だけが、こうした罪の鎖から完全に解放されているのです。イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、ご自分の血で罪を清めて贖われたのですから、主が人類のためになさったことをすべて信じた者は、信仰によって、信仰のみによって完全な救済にあずかっています。このみことばを信じる人々は神の子供となり、神が定められたご計画のすべてにおいて勝利するでしょう。
その一方、イエスを信じると言いながら心に罪のある嘘つきたち、自らの貪欲さを満たすために主に仕える者たちは、サタンとともに罰される定めにあります。水と御霊の福音が極めて尊いのは、このためです。これを知り、本物と偽物の福音を見分けることのできる人々だけが神の隠れたマナを得、ついにすべての嘘に勝利し、千年王国と新たな天と地に入ることができるのです。みことばを読み、人を救い、希望を与え、永遠の恵みをもたらす真理とは何であるかを見極めなさい。知り、信じなさい。これが勝利の信仰です。
霊的戦いにおける勝利がきわめて重要なのは、この戦いに敗れることが単に敗れることだけではなく、地獄に行くことをも意味するからです。ほかの戦いであれば、敗れても立ち直れますが、この信仰の戦いには、復活の機会はありません。ですから、何が真理で何が自分の考えや肉の欲情、偽りの教師の嘘であるかを見分け、みことばの光によって時代について正しい知識を得、終わりの時のために信仰を備えてください。
神は七つのラッパと七つの鉢の災害を用意なさり、大艱難が起こるようになさいました。世界を大災害が襲うとき──大火が燃えさかり、星々が落ち、海や川、泉が血と変じ──反キリストが現れます。これらが七年間の大艱難の始まりを告げるしるしなのです。聖徒の殉教・よみがえり・携挙は七つのラッパの災害の終わり、最後のラッパが鳴ったとき、七つの鉢の災害が地の上に注がれる前に起こります。
神の第四の封印が開かれたとき、反キリストは聖徒に棄教を迫ります。このとき、『いのちの書』に名前が記されている人々、すなわち、マナを食べてその名が白い石に書かれた新たに生まれた聖徒は勇ましく殉教します。これは、主にすべての栄光をささげる、最後の偉大な信仰です。これは、水と御霊の福音を信じ従って生きる人々の勇気ある信仰です。つまり、これが霊的戦いにおいて勝利することのできる信仰なのです。
どんな犠牲を払っても敵に勝利するのです。新たに生まれた後、嘘つきたちと戦い、勝利し続けるのです。そのためには、神のマナを食べ、最後まで主のみことばを宣べ広げる生活をするのです。勝利する者に神は栄光と恵みとを約束なさいました。神に空中に引き挙げられるに値する信仰、信者の最大の希望、千年王国と新たな天と地への確信──これらすべては、神の隠れたマナを受け、神のみことばへの信仰によって嘘のすべてに勝利した者にのみ与えられるのです。
何が真に尊いかを知る人々は、それを得るためにはすべてを売り、守るために大変な犠牲を払うでしょう。こうした犠牲は苦痛としてではなく大いなる喜びであり、これは最後にすべてを得ることを可能にする真の無上の宝なのですから、守るためには自分のすべてをささげる価値があるのです。
みなさんが千年王国と新たな天と地とを望み続け、その希望によってすべての困難を乗り越え、最後に大いなる喜びと幸福の勝者となられることを願っております。